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仮題:標準入力インターフェイス
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土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を下ろした。摩天楼をつくほどの巨大ビルがそびえていたという島も、世界でもっとも栄えていたとされる湾岸の街並みも時間の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像――かつて自由を讃えていたという――だけがこの辺りで唯一のランドマークだ。 この前に来た時よりも暖かくなっていたおかげか、そこそこ長い距離を往復した割にさほど疲労感はなかった。目の前に広がる乳白色の地面を手でさすりながら、手頃な位置にナイフを突き刺して几帳面に切り取る。膂力の少ない身ではずいぶん手間取るが時間はたっぷりある。そうして切り取った塊からこぼれ落ちた破片を口に含む。相変わらずしょっぱい。しかしミネラルと塩分の摂取にはこの上なく望ましい。なぜならこれらは塩そのものだからだ。 地平線の彼方まで広がっているかのようなこれらの地面はかつて海の一部だった。大昔、人類に降りかかった未曾有の気象災害により海水が凍結、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て巨大な塩の結晶ができあがった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていけるはずだ。どこかで塩の層が事切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の大陸か島が顔を出すのかもしれない。仕事として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面は僕に一風変わった洞察をもたらしてくれる。 洞察が深ければ深いほど一心不乱に手が動く。さっきまでは表情のない立方体でしかなかった塩の塊が、ナイフの切っ先で削られるごとになにがしかの文脈を負っていく。ある時には四足の動物を連想させることもあれば、小一時間も経つと全裸の人間に変わる。過程を辿るとあたかも進化の過程を表しているようでもある。原初の生命もミネラルと塩と水から生まれたのだった。 高く昇った太陽が傾いで地平線の彼方に隠れはじめる頃、僕の隠れた衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務評価を考えるとそろそろ帰宅しなければならない頃合いだ。現に、探索地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。 「またやっているのか」 「やっているよ」 『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、隆々とした筋肉全体で呆れた様子を表現する。見るからに体格に優れる彼に与えられる仕事はいかにも大変そうで、背嚢は特別に大きく固い金属製でできている。手には電気銃。本来、我々は常に武器の携行を命じられているが、手が塞がる割に使う機会がまったくないため僕は毎回忘れたふりをしている。最初は本当に忘れていったのだが、勤務評価になんの影響もなかったので定番のやり口となった。 「それ、言うほど使い道があるのか」 HID6は顔を傾けて意味ありげに口元を歪ませた。 「お前のその楽しみと似たようなものだ」 要領はいまいち得られないが、人には人の楽しみがある。あまり詮索するのも無粋だ。ぞんざいに手を振って去っていく彼の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。最後にもう一度、夕陽の強い光に照らされた固形の海面を眺める。 徒歩にして約三〇分の地点に着くと、どこかに露出しているのであろう地上のセンサが反応して石畳がめくれ上がった。突如湧いたように現れた扉を開けると長い下り階段を降りていき、重くて固そうな扉に突き当たる。 「HID11、ただいま帰還しました」 扉に向かって話しかけると、ほどなくして女性の声が返ってくる。 〝標準入力インターフェイス11、お疲れ様でした。帰還を承認します〟 以降は流れ作業だ。すれ違うのも困難な細い通路を渡り、規定の手続きに従って成果物を提出する。表示がかすれ気味なモノクロディスプレイに映し出された勤務評価は、今回もB。長年の試行錯誤と勘で見る前から結果は分かっていた。適切な成果物を持って日が落ちるまでに帰ればB評価が確定する。A評価は一度も取ったことがないが、特に問題は起こっていない。 〝標準インターフェイス11、切断処理に入ってください〟 作業着と背嚢を中身ごとロッカーにしまい、脱衣する。施設の最奥に位置するチェンバー室の殻に入り込むと、後頭部を密着させた。殻が自動的に閉鎖されて表面に文字が浮かぶ。 〝切断処理開始〟 途端、深く心地よい眠気に襲われて目を閉じざるをえなくなる。意識が沈む寸前、密着した後頭部にドライバが差し込まれる感覚がかすかにした。
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記憶に連続性があると言っても、この場合は少々あてにならない。冷凍と解凍を繰り返すたびに僕の長期記憶は揮発していき、今や覚えていることの方が少ないからだ。一番最初に解凍させられた時は身も心もフレッシュだった。まるで瑞々しい葉野菜のよう。シェルターを訪れた当時の感情も明瞭に残っていたから、さぞ地表は芳しい草花が生い茂り、空は青く澄み渡り人類の復活を讃えてくれるのだろうと胸を踊らせていた。あるいは地表に文明社会が再興していてもおかしくないとさえ期待した。ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに。誠に遺憾ながらニューヨークはこの命名規則だとニューニューヨークになってもらうしかない。 しかし、初めて目を覚ましたチェンバー殻の表面に浮かんだ文字列はつれない一言。 〝あなたは標準入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します〟 ところで、活動状態の肉体はたいへん燃費が悪い。一〇〇人の人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食料、清潔な飲み水、空気、それらを支える大がかりな施設な循環システムを要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚機構や社会制度までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。 そこで、我々は情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存し、思考する精神を地下深くのサーバに転写する。延々と眠りこけていては例外的な事象に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサ類を基に、情報体と化した技術者たちが日々分析にあたる。彼らにはラザニアもコーヒーもマウンテンデューもいらない。地表が未曾有の異常気象に見舞われている環境下で一〇〇人ぶんの水源を濾過し続ける方法を検討するよりも、深宇宙探査機用の原子力電池一つの方が安上がりで手っ取り早い。当時、情報化はすでに革新派の間では取り入れられていたライフスタイルだったが、ここへきて初めて一挙に普及したと推測される。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを提供していたからだ。 僕がこうして地上で凍らずに生存しているということは、情報体の僕が別に存在していて技術者優待を受けられる身分かもしくは金持ちだったのだろう。無分別に人々を受けられるほどサーバの演算性能は高くない。情報体の人々が僕たちを都度呼び起こす理由は様々だが、大抵は個体の適性に合わせた仕事が割り振られる。僕の場合はセンサで捉えきれない微小な気候変動のモニタリングや、実際のサンプルを持ち帰る地質調査が大半を占める。なんの前触れもなく解凍されると言いつけ通りに地上に出ていき、仕事を終えると再びチェンバー殻に入って冷凍される。もう何度繰り返したか覚えていない。最初の解凍の時点では外出に耐寒防護服が必要だったが、今では人類が活動していた頃とほとんど変わらない。 だが、情報体の彼らが生身の人間の姿に戻ることはできない。生体脳の中身を情報体に転写できても、逆を行う技術を開発できなかったからだ。曰く、脳の構造は半導体ほど単純ではないらしい。眠るたびにわざわざ後頭部を開いて脳だけ別の条件で冷凍しているくらいだから、なんとなく難しさの想像はつく。 結局、期待されていた技術革新はついに起こらず、元の肉体は電力食らいの負債に成り下がった。万能な機械の肉体などなお望むべくもない。そんな資材や生産設備はどこにもない。ゆえに僕たちは情報体の標準入力インターフェイスなのだった。枝分かれした自我の代償に労働し、勤務評価を得て再び眠りにつく。次に解凍されるのは数年後か数十年後か、それとも数百年後か分からない。 確かに、使えるものは使わなければならない。僕たちの後頭部には脳を取り出しやすくするためのネジ穴が設けられているし、脳と肉体の電気的接点はモジュール化されている。もともとは情報体に移行する経過的措置だったが、くしくも再解凍の効率化に一躍買っているようだ。 僕自身、自分の処遇には納得している。そもそも「肉体の僕」という自我は計画通りなら存在しなかった代物だ。「情報体の僕」の精神に上書きされて揮発する定めだった。なんであれ生きているのはすばらしい。仕事一辺倒の人生でも楽しみはある。 今日もまたチェンバー殻の内側で目が覚めた。殻の湾曲した表面にいつもの文字列が浮かぶ。 〝HID11:接続処理中〟 彼女は僕が殻を出て身支度を整えるまでの間を「接続処理中」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開き、そこから出られるようになる。チェンバー室の左右に整然と並ぶ大量の殻にはまだ眠りについている同僚たちの姿が透けて見える。同僚と言っても勤務体系が年単位でばらばらなので気安く会話はできない。前回、出会ったHID6はあれで三回目だが今は端っこの殻の中で巨体を丸めて安穏としている。 たとえ世紀を隔てていようとも染みついたモーニングルーティーンに揺るぎはない。作業服と背嚢はチェンバー室の隣、食事は直進して突き当たりを左の培養プラント室にある。巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているか分からない。味や食感についての感想は差し控えたい。飲み水も前回より黒ずんでいた。 食事が済むと頃合いよく便意を催す。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのかもしれない。部屋を出て奥のトイレに向かう。六つある便器のうち大半が割れ、残った便器にも大抵は乾燥した糞が堆積しているが、何回か寝て起きる頃には清掃されていたり修理が施されていたりする。きっと同僚による仕事の成果なのだろう。 ちなみに水は流れない。このトイレの水洗装置はかなり初期の段階から破損している。いつまでも直らない様子を見るに、標準入力インターフェイスでは修理しきれない箇所なのだと推定される。 準備の最終段階。前回よりひび割れが目立つ廊下を歩き、巨大なモノクロディスプレイが据え置かれた空間でブリーフィングを受ける。質疑応答もここで答えてもらえる場合がある。中央に置かれた椅子に座ると、特に重心をかけたつもりはないのに脚ごとひしゃげて壊れた。どうやらブリーフィングは立って受けることになりそうだ。 ディスプレイ上に線が引かれて作図が開始された。現在地点を中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の資材についての文字情報も並ぶ。いつもより長い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間くらいは余りそうだ。 「質問」 質問コマンドを投げかけるとディスプレイが暗転して対話状態に遷移する。部屋の中央に立体映像が投影されて白いオーバーコートに身を包んだ女性の姿が現れる。 〝HID11、質問を受け付けます〝 「飲み水が黒ずんでいるみたいだ。味はともかく健康への影響が気になる」 立体映像の女性が明瞭に返答する。 〝雨水を濾過するフィルタの目詰まりと想定されます。すでに他の標準入力インターフェイスにタスクを割り振っているため、まもなく解決されるでしょう〟 「ありがとう。あと、便器に糞が溜まってきたので次に起きる時までにはなんとかしてほしい。あのままでは溢れかえってしまうよ」 ややセンシティブな要請にも彼女は律儀に答えてくれる。 〝標準入力インターフェイスに特有の代謝現象に起因する老廃物の処理については私も常に憂慮しています。現在、解決に向けて討議中です〟 「そいつはいいね、ところで、そっちの暮らしはどう?」 ここへきて彼女はようやく当惑した顔を見せる。他の同僚は情報体と不必要な会話をしないらしいが、僕としては仕事を一緒にする相手のことはよく知っておきたい。 〝相変わらずです。あなた方の暮らしが変化と危険に満ちているとしたら、私たちはその逆。安全で満ち足りているけど変化がありません〟 肉体を持たない思考だけの暮らし、というものがどんな感じなのか気になって仕方がない。歴史上のどんな場所にも一瞬で旅ができて、あらゆる知覚は決して衰えることなく無尽蔵に供給され、空腹も寝不足も欲求不満も存在しない。まさに楽園の世界だ。 しかし立体投影された彼女は礼儀正しさの裏でいつもどこか退屈しているようで、その一方で焦っているようにも見えた。 「ところでこれ、なにに見える?」 僕は背嚢から前回の隠された成果物をお披露目した。すると彼女は生真面目に前のめりの姿勢になって造形された塩の塊をまじまじと眺めた。 〝なんの変哲もない塩の塊に見えますが〟 「そうだね。前回の時に道端で拾ったんだ。僕は面白い形をしていると思ったんだけど」 〝毎回よく変わった形の結晶を見つけてくるみたいですね〟 ほどなくしてブリーフィングが終わると彼女が〝接続完了〝を通告し、エレベータに乗って地上階に移動した。細長い通路の最奥には、天井まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。あたかも巨人用に設られたそれは情報体の側の操作によってしか開かない。通路の左右には深い暗闇が広がっていて、何十回と行き交っていても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。 僕の到達を見計らったようにけたたましいブザー音が鳴り響き、ハンドル部がゆっくりと回転を開始した。扉の周りの警告灯が激しく回る。目を突く鋭い赤色の光線はしかし、たちどころに漆黒の空と底に吸い込まれていく。 やがてブザー音は荘厳な歯車の駆動音に取って代わり、シェルターの扉が地鳴りに似た振動を伴って前方に開く。揺さぶられて落ちないか恐れて手にますます力が入る。 たっぷり何分もかけて扉が解放されると、もう一つの扉が現れる。そこだけ切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には『危険物』とラベルに貼られた小部屋がある。作業服と背嚢が置かれている部屋とよく似ているが、ロッカーの中には銃器とバッテリーが保管されている。 彼女はこれらの武器について〝汎用的ソリューション〝と呼称して携行を命じている。後頭部にネジ穴があり、脳を出し入れできる僕たちはあたかもサイボーグのようだが、実際には飢えた犬より弱い。そんな生き物が地上にいればだが。事実、今まで一度も使いたくなった試しはない。そして、ついに外に出る。僕にとっては昨日のことのようだが、きっと何百年ぶりの地上だ。分厚い鉄の扉が背後で固く閉ざされ、気の遠くなるほど長い階段を登り続けるうちにシェルターの中のどんな強力な光源も敵わない光――すなわち、太陽の光が僕の顔を照らした。
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目的地に着くには塩の地面を渡っていかなければならない。乳白色の海に足を下ろす際、念のために重心を後ろに引いておく。ブリーフィングでは前回の冷凍から今は七八年ほど経過していると聞いた。地質の変化を恐れる年月ではないが、塩の塊が脆弱化している可能性は捨てきれない。ざらざらした表面を片足で強く踏みつけ、安全を確かめてからそっと乗り移る。 懸念は杞憂に終わり、一時間歩いても塩の地面が揺らぐことはなかった。してみると、これほど巨大な積層がいかにして出来上がったのか気になってくる。 気象災害が引き起こされた原因は地殻変動だとも小惑星の衝突だとも、あるいは化学兵器を交えた世界大戦だとも言われている。情報体の人々の間でも結論は出ていないようだ。いずれにしてもこれら塩の層は急速に冷却されて分離した塩分が凝固してできたものと推測されている。だとすれば、その時の地表の状況は生けとし生きる者にとっては致命的だったに違いない。こうして幾度となく地上に顔を出しても「地上人」だとか「新人類」といった、サイエンス・フィクションじみた超人と出会わないのも、生き残った知的生命が我々のみであることを示唆している。 あるいは、我々は生き残ったのではなく取り残されたのかもしれない。必然的に滅ぶ定めであった神々の理から逸脱し、例外的に存在してしまった。だとしたら、なんと痛快な話だろうか。僕たち人類はまた再び地球上に、あまねく宇宙全体に蔓延り続けるのだ。そのためにはよく働かなければならない。 太陽が頭上を通り過ぎて傾きかけた頃、ようやく乳白ではない色の地面に足が届いた。かつてこの地域に存在した国は気候的な条件から石造りの建物が多く、数百年、数千年の時を経ても完全に風化せず地下に資材を蓄えている場合が少なくない。崩れた建物らしき外壁と周囲の状況から、それと見込んだ地点の瓦礫を取り除くとマンホールが現れた。蓋を開けた向こう側には円形の通り道に溶接されたはしごが見える。 長さはそれほどでもないはずだが手動での昇降には手間がかかる。地上に出るエレベータとさして変わらない時間を経て最下点に到達すると、風化して崩れ落ちた棚らしき鉄板が左右に並んでいる空間に出くわした。 観察したかぎりでは、ここは武器庫かなにかに思われた。国家や大組織が用意するほど立派な代物ではない。どちらかといえば少々金余りで、割に心配性の個人が拵えた設備だろう。鉄板に挟まれる形で地に伏した銃器の数々は、どれも先端が折れ曲がっていたり破損していてとても使いものになりそうにはない。 目的の物品はここではなく鉄扉で隔たれたさらに奥側にあった。鉛らしき容器の中に収められていたそれはブリーフィング通りの代物なら劣化ウラン弾である。とはいえ、誰かに撃ち込むために必要なわけではない。内部に含有されているウラン238が目当てなのだ。容器から持てるぶんの劣化ウラン弾を包みごと慎重に取り出していく。この包みに放射線を抑える特別な素材が用いられていることを祈るばかりだ。 「おい、そこの君」 背嚢を埋めるに十分な弾を収めたところで、背後から声がかかった。どうやら作業に集中するあまり耳が遠くなっていたらしい。振り返ると右胸に『HID39』と印字された標準入力インターフェイスが立っていた。どういうわけか作業服のカラーリングが違う。僕たちはみんなオレンジの色の服を着ているのに、彼は青色だ。 「おや、もしかして君もこいつを回収に?」 とはいえ、なるほど合点がいった。僕ひとりでは持ちきれない状況を見越して情報体は複数人に仕事を割り振っていたようだ。そそくさと背嚢を抱えて部屋の隅にずれ、仕草で回収を勧めた。だが、HID39の視線は僕から動かなかった。そのまま背中の背嚢をどすんと落としたので威圧されたような気持ちになった。HID39の背嚢は大きくて丈夫な金属製だった。 「私はそこにあるすべての劣化ウラン弾を回収せよと指示されてきた」 脅されているのは気のせいではなかったようだ。要求を直接突きつけてはいないが暗に命じている。 「全部よこせ」と。 僕は表情に害意のなさを強調して笑みを浮かべつつ、後方に後ずさった。 「いやはや、それは……ご勘弁願いたいね。こっちも同じ仕事を指示されているんだ」 「私の知ったことではないな。指示通りの成果物を納品できなければ勤務評価に影響が出る」 相手が一歩前に踏み出したので僕も同じ距離だけまた後ずさる。文字通りの営業スマイルがひきつり出す。 「僕だってそうさ。同じ標準入力インターフェイスじゃないか。なあ、どうだろう、ここは一つ、半々で分け合ってそれで全部だったという話にするのは……」 HID39は結論の決まっている会話を続けるのに飽きたのか、背嚢から取り出した電気銃をまっすぐ突きつけてきた。 「無事に帰りたければ今回の勤務評価は諦めるんだな」 結局、背嚢に詰めたばかりの劣化ウラン弾がまんまと移し替えられるまで、僕は身じろぎ一つできなかった。電気銃を抜きしてもどのみち敵う相手ではない。 「なあ……あんた」 用を済ませるやいなや口一つも利かず踵を返そうとする彼に震える声で尋ねた。 「僕はかなり長くやっているはずなんだが、仕事のバッティングなんて一度もなかった。一体どう報告すればいいんだ?」 HID39は顔半分だけ振り返ってつぶやいた。無表情で抜け目ないはずだった顔にかすかな笑みが灯った。 「そのまま報告すればいい」 最後に彼は「しばらく穴から出てくるな」と雑な命令を押し付けてから去っていった。とうの昔に放棄された武器庫の奥で、僕はとてつもなくやりきれない気分になった。空虚な独り言が空気を切り裂く。 「汎用的ソリューションって、確かにそうだな」 体内時間で30分ほど待ってから帰宅を開始した。中身がほとんど空の背嚢を背負っているせいで身のこなしが軽い。日が沈むまでの時間はありすぎて困るほどだ。あてどなく探して運良く劣化ウラン弾が見つかることなどあるはずもなく、今回の勤務評価が最低で終わると確定したからにはせめて趣味を楽しまないといけない。 地上と地上と結ぶ塩の地面の中間点、四方八方が見渡すかぎり乳白色の塩の上で一心不乱に塩を削いだ。手に力が籠もりすぎているせいか、どんな塊もなにがしかの文脈を持つ前にあっという間に細切れになってしまう。きっと僕はいらついているんだ。金属製の背嚢を持つ同僚ほど重要な仕事を任されていないし、僕の作った塩の彫刻は相変わらず彼女に理解されない。僕だって理屈で彫っているわけじゃないから無理もないのだが……。 気づくと濃い橙色の光に照らされて乳白色の地面に火が灯ったかのような光景が広がっていた。まるでろうそくみたいだと思った。手には塩を削るナイフと同じくらい、いや、それよりも鋭い鏃に似た彫刻ができている。ひょっとするとこれは僕の破壊衝動の表れなのだろうか。彼女に見せるには文字通り刺々しくて気が進まない。 だが、せめて帰還の予定時刻くらいは最低限守らなくてはならない。 いつになくのろのろとシェルターに戻り、切断処理のルーティーンを済ませる。最後に待ち受ける勤務評価は成果物がないため当然ながら最低のD評価。間を置かずディスプレイが沈黙する前に呼びかけた。 「質問」 勤務終了後に質問した例は未だかつてなく、立体映像の彼女も最初から内容が分かっている素振りで応じた。 〝今回は残念でしたね。目的物が見当たらなかったのでしょうか〟 「いや、見つかったし持って帰れるはずだったんだ。だが他の標準入力インターフェイスに奪われてしまった」 沈黙。賢明そうなつるりとした顔に目に見えて焦燥の色が走った。 「もしかしてこういうことってありえるのか? 共に人類の復興を目指しているのに奪い合いなんて――」 〝落ち着いて聞いてください。ちゃんと説明します〟 凛とした声に制されて思わず口の動きが止まる。立体映像が投影されたまま、背後のディスプレイも点灯して周辺の地図が描き出される。それ自体は仕事のたびに見ているものだったが、覚えのない点がいくつかの箇所に穿たれていた。 「これは……」 被せるようにして彼女がしゃべりはじめた。 〝これらは、我々の近隣に存在する競合他社のシェルターです。今回の目的地はいずれの地点からも十分に離れていたので達成可能と見込みましたが、このたびの報告を受けた以上はあなたの捜索可能範囲を下方修正せざるをえません〟 そういえば、このシェルターは株式会社の所有物だった。僕の脳裏に眠っていた揮発しかけの長期記憶が呼び起こされた。精神体の人々のほとんどは会社の社員か株主で、他のシェルターも同様の構成をとっていると考えられる。だが、しかし、だからといって……。 「競合他社でもこういう時には協力しあえないのか」 〝十年おきに開催される株主総会で時にそういった提案も上がりますが〟 そこで彼女は声のトーンを落とす。そしていつになく皮肉めいた微笑を口元に残した。 〝毎回否決されています。私たちは従業員なので企業の意思決定には従わざるをえません。転職できる身でもありませんからね〟 しかし株主の言い分も分かる。僕たちと同じ標準入力インターフェイスの番号列を宿した彼は、譲歩の余地なく資源をすべて奪った。僕が肉体的な能力に劣っていて、おそらく武装もしていないと看過したからだ。背後から撃ち殺す必要すらないとみなされたのだ。僕の脅威度は一発分の電力にも満たない。 そういう僕の心情を察してか、彼女はいつになく優しい声で僕を励ました。 〝気落ちする必要はありません。今回の件は私の計算不足でもあります。残念ながら評価は評価ですが、次はもっと適性に合った仕事を案内できるよう努めます〟 「いいや」 僕は背嚢を逆さにひっくり返して中身を床にぶちまけた。そこから例の尖った塩の塊を拾い上げて見せる。 「さっき言い忘れたことがあった。僕はこれでそいつに反撃したんだ。本物のナイフと違って隠しやすいからね。だいぶ深くえぐったから、もしかすると劣化ウラン弾を運びきれず途中で死んだかもしれない。そうしたら、僕たちも損をしたけど、相手の会社も得をしていない! そういうことにならないか?」 勢いよくまくしたてた僕を見る彼女はしばし黙り込んだ後、努めて平静を保っている感じの口調で告げた。直感的に、まるで子どもの成長を心配しつつも見守る母親のようだと感じた。 〝……そうですね、ただいまの報告から得られた情報により、あなたの適性分析に一定の修正が加えられました。それでは次回にまたお会いしましょう〟 僕はいつもより大股開きで部屋を出てチェンバー殻に向かった。何百年もの間、知っているはずなのに気づけなかった。僕たちは競争をしているんだ。より高次の仕事を果たさなければこの世界の情報を得る機会さえ与えられない。与えられた適性に甘んじでいてはいつか無知なまま死んでしまう。青色の作業服を着た競合他社のHID39が僕を殺さなかったのは状況判断に過ぎない。特に意味はなくとも殺そうと思えば簡単に殺せた。 興奮さめやらぬ中、脱衣も忘れて殻に入るとすぐに冷凍が正常に行えない旨の警告音が鳴り、急いで来た道を戻る羽目になった。
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解凍されて殻から這い出ると、人影が目の前に映り込んで困惑した。ルーティーンにはない事態だったので思わず立ち止まってしまう。 「おい、なにボサッとしてるんだ。行くぞ」 呼びかけられて視点を上に向けると、黒く逞しい肉体を持つHID6が目の前にいるのだと分かった。なぜ彼が一緒に解凍されているのか、どうして命令されているのか分からなかったが溶けかけで思考力がまとまらない現状ではおとなしくついていく方が得策と思われた。後に続いて更衣室に入ると、彼はてきぱきと着替えて金属製の背嚢を軽々と背負った。やはり肉体に恵まれた者は違うなと他人事の態度で自分のロッカーを開けると、そこに同型の背嚢が鎮座していたので再び困惑を余儀なくされた。しかし、自分のロッカーに入っている以上はこれが僕の持ち物だ。いつもより苦労して身支度を整える頃には、HID6はすでに食堂で僕の倍近い量の食事を摂っていた。 せめて遅れまいとせかせかして食べ終えると、隣のパイプ下にいる他ならぬ彼から声がかかった。 「おい、詰めて持っていかないのかよ。おれのはやらんぞ」 その彼は言行通り、金属製の背嚢から取り出した容器を器用に操って食事と水をそれぞれ保存していった。あっけにとられて見ていると、ようやく巨体の主は事情を察したようだった。 「なるほどな、お前、出張は初めてなんだな。一度もやったことがないやつと組むとは初めてだが……まあいい、黙っておれの言う通りにしろ。まず食事と水を詰めるんだ。一日では帰ってこられないからな」 僕にとって仕事とは「日が落ちる前に帰ってくれば評価が安定するもの」という認識でしかなかった。日が落ちた後も続けなければいけない仕事など想像もつかない。「出張」という見慣れない単語も出てきた。いずれにしても、前回の勤務評価時に咄嗟にとった行動が今回の特別な仕事を招いているのは間違いない。 つまり、僕はその方面の適性があると見込まれたのだ。より多くの知るであろう職域の。 今回は便意がこなかったのでトイレはパスした。HID6が帰ってきた後、一緒にブリーフィングを受ける。彼が言った通り、ディスプレイに図示された目的地はいつもの三倍は遠かった。片道だけでも日が暮れてしまう。目標の物品はタングステンだという。前回に見た「競合他社」の点を記憶から掘り起こして地図上に重ね合わせると、確かにどの拠点からも十分に到達可能な距離だと分かる。 「質問」 低く野太い声が質問コマンドを発すると、たちどころに部屋の中央から立体映像が……現れるはずなのだが一向に出現せず、ディスプレイが暗転して文字列が表示された。 〝回答:質問待機中〟 「今回、未経験者との共同での出張となるが特別なリスクは存在しないか」 言葉が途切れると文字列が再び流れる。 〝回答:特になし。事情を斟酌して今回の出張は貴殿の単独出張よりも危険度が低い内容である〟 「質問。では、あえて未経験者を同伴させる意図は」 〝回答:当社の方針として、適性分析に修正があった場合は柔軟な配置転換を実施している〟 黒い面長の顔が僕にちらりと向いた。どんな意図があっての仕草なのかは掴みきれない。 「質問終了」 〝回答終了〟 そっけない指示にディスプレイも似たりよったりの淡白さで消灯した。いつまでも彼が見つめているのでついに気になって目を合わせると、ようやく僕に向かって口を開いてくれた。 「お前も質問した方がいいんじゃないか。やったことがないなら色々知りたいだろう」 「いや……いいよ。必要がなくなった。実は同じ質問をしようと思ってたんだ」 努めて平静を装って答えると巨体の肉体がわずかに揺れて「へえ」と微笑んだ。だが、それだけで踵を返すやいなやさっさと先に行ってしまった。慌てて僕も追いすがる。一人が乗るにしては広いと思っていたエレベータも彼と同席だとずいぶん狭く感じられた。細い通路を一列に並んで進んだ後の危険物室では、いきなり大型の電気銃が投げ渡されたので取り落としてしまった。 「いいか、怪しいやつがいたらとりあえず撃て。撃った理由なんて後から考えりゃいい」 銃を拾い上げて持たせてくれた彼はしかし、気遣いの反面、脅しともとれる圧力をもって僕に押し迫った。さっきまではひそかに燃えていた新しい職責への熱意も、長い階段を昇る頃には恐怖へと変わっていた。 改めて言うまでもない話だが、質問の必要がないというのは嘘だ。本当は彼女とめちゃくちゃ話したかったし、どういう危険があるのか具体的にレクチャーしてほしかった。そうでなくても配置転換を実現してくれたことへの感謝とか、感謝に対する励ましとか、そういったものが聞きたくて仕方がなかった。 でもHID6にそんな振る舞いを見せるのは嫌だった。彼に答える情報体はとてもビジネスライクで僕のとはまるきり違っていたからだ。
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それでも透き通ったそよ風が吹く地上世界はいつも通り格別だった。金属製の背嚢は確かに重くて辛かったが、歩いているうちに重心のコツが掴めてきた。僕の先を行く山のような巨体の同僚は道連れとしては口数が少なく物足りないとはいえ頼もしくはあった。そんな彼は危険地域の土地勘があるらしく、今は電気銃を折りたたんで背嚢にしまい込んでいる。僕もそれに倣って両手を揺らしながらしばらく乳白色の地面を鳴らして楽しんだ。 今回通っている固形の海の道筋は僕が行ったことのある方向とはだいぶ違っていた。いつもならすぐに陸地が見えたが、今日はいつにも増して晴れている日なのに対岸が朧ろげにしか映らない。太陽が頭上を通り過ぎてもまだ辿り着かず、まだ目的地にも達していないのにとうとう僕の脚は疲労を訴えだした。 自ら休憩を打診するのは気後れする、と意地を張ってさらに歩き続けること数時間。ようやく思い出したように巨体が歩みを止めて「そろそろ補給をとるか」とその場に腰を下ろした。僕は必死で疲労を隠しつつ、むしろ気が早いなとでも言いたげな顔で座ろうとしたが、脚が引きつって体勢を崩してしまい、尻もちをつく形で塩の地面に倒れ込んだ。 「無理すんな」 HID6は言葉少なめに告げて、背嚢から食事の入った容器を取り出すと二の句を続けた。 「お前は初めてにしてはついてこれている方だ。経験者でも文句の多いやつはいた」 「こういう一緒にやる仕事って何回もやったことがあるのか」 見透かされていてもなお余裕を保っていそうな態度を崩さず問いかける。彼は渋い顔をして言う。 「何回もある。むしろ一人でやる方が少ない。二人だけじゃなくて三人とか四人の時もある。数が多ければ多いほど特に危険だ」 「持って帰るものが重くて多いとか?」 どうやら的外れな返事をしたらしい。食事を含んだまま一転、薄笑いをして「それもあるがそうじゃねえ」と切り返された。「数が多い時は敵も多い。大抵は誰かが帰ってこられない」 淡々とした物言いとは裏腹に僕の背筋はたちまち凍りついた。HID39をさらに獰猛にしたような輩がたくさんいるということだ。言われてみれば、戦略的な理に適いすぎている。先に相手を殺してしまえば物資を奪い取れるだけでなく、競合他社の標準入力インターフェイスを減らすことができる。あまり想像したくはないが、接続可能なインターフェイスを完全に失ったシェルターは地上世界に対していかなる操作も行えない。センサ頼りの受動的な分析しかできない。そのセンサさえも一旦物理的に壊れでもしたら一巻の終わりだ。他社との競争において致命的な不利を負うのみならず、情報体の長期的生存をも危うくなる。 「これ、かなり聞きづらいことなんだけど……」 食事の手を止めておずおずと尋ねる。 「僕たちは、勝っているのか? その、競合他社に」 背嚢に空いた容器を片付けていた巨体が一瞬固まったように見えた。少し待っても回答はない。なんだかきまりが悪くなり、僕は急いで自嘲を混ぜ込んだ。 「いや、僕はつい前回、あっさり負けちゃったけど」 「じきに嫌でも分かる」 HID6が立ち上がったので僕も慌てて残りの食事を片付けて背嚢に突っ込んだ。「だが、負けたってのはどういうことだ。逃げて生き残ったのか」金属製の背嚢を慎重に背負い込みながら首を振る。「逃げてすらいない。ブルーの作業服を着たやつが気まぐれで見逃してくれただけだ」こんなふうに言うと侮られるかもしれないが、思わず吐露したくなるほど悔しい事実だった。意外にも彼は白い歯を見せつけて笑った。「気にするな。今度、ブルーの連中にお前を生かしたことを後悔させればいい」 それからの道のりはうってかわって退屈しなかった。補給中の会話で打ち解けられたのか、ぽつぽつと会話を交わす雰囲気になったのだ。競合他社はそれぞれ違う色の作業服を身に着けていて、ブルーもいればイエローもいるという。一度、レッドの服を着たやつを見つけたかと思いきや、それは殺したやつの血で染まっていただけだったなどと粗野な武勇伝を聞かせてくれたりもした。逆に、競合他社の相手から見れば僕たちは「オレンジのやつら」ということになる。 一日たっぷりかけて対岸に渡り、朝方ぶりに土を踏みしめるとなんだか奇妙な感触がした。きっとこれからはこの感じが当たり前になるのだと思った。この辺りでは珍しい丘陵に昇り、下っていき、しばらくするとちょっとした湖に出くわした。案の定、一面が水ではなく塩気を含んだ個体に凝結している。含まれているミネラルや不純物の濃度の関係なのか、こっちの方は幾分か透き通っているように見えた。じきに日が落ちるから野営をするとHID6が言うので、僕は急いで湖の方向に駆け寄って片手で持てる立方体のサイズに塩の塊を削り取った。戻ってくると彼に「お楽しみ用か」と茶化されたので「いいや、このまま持っておく」とついむきになって言い張った。本当は夜のうちに造形するつもりだった。 ちょうどなだらかな傾斜が付いている清潔な地面を見繕い、そこで僕たちは野営の準備を始めた。必要なものは金属製の背嚢に全部入っていた。いかに現在の地表が温暖化しているとはいえ、夜間には氷点下をぐっと下回る。作業着よりも分厚い素材で作られた折りたたみ式の寝袋に入り込むと一転、切り裂くように吹きつけていた寒風が阻まれて全身が温まった。 「ぐっすり寝るなよ、適当な時間で交代だ」 寝袋を器用に巻き付けて身体の自由と防寒を両立させながら彼が言った。手元にはもう電気銃の鈍く光るチャージライトがちらつく。 「本当に競合他社が襲いかかってくるのかな、相手だって眠いんじゃ」 自力で寝るのも起きるのも初めての僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。しかし彼は構わず腹ばいになって傾斜の向こう側に電気銃のバッテリーマガジンを立てかけた。 「むしろ油断ならない。夜勤<ナイトシフト>の連中がいる」 「夜勤<ナイトシフト>?」 聞き慣れない言葉だ。ひょっとしたら僕のこれまでの職分では知りえない言葉がたくさんあるのかもしれない。 「夕方に解凍されて夜のうちに勤務する凄腕の輩だ。おれもお前も大抵の仕事はものを持って帰ったり、情報を集めたりすることだが、連中は違う」 深く息を吸い込んだのか、彼の背中が一層盛り上がった。 「連中の仕事は競合他社の人員を減らして回ることだ。つまり、戦闘しかしない」 さながら血に飢えた野獣のようなイメージ像が脳裏に浮かんだ。当然、僕が適性によって今の仕事をあてがってもらったように、夜勤<ナイトシフト>にも適性があるのだろう。電気銃をどこにでも百発百中で当てられるとか、夜でも眠くならない体質とか。 「そういう人たちと戦ったことがあるのか」 「ない、あったら生きてちゃいない。だがおれたちの会社で元夜勤だったやつと組んだことはある――早死したくなくて配置転換を希望したと言っていたが――いずれにしても、なるべく敵には回すまいと感じたな」 こんな話を藪から棒に聞かされて、限られた睡眠時間を十分に活用できるか心配で仕方がなかった。今、この瞬間にでも夜目の効く最強の使い手が自分を照準の中に収めているかもしれないのだ。
6
ところが意外にも、次の瞬間にはごつごつとしたHID6の手に揺さぶられて起こされる羽目となった。感覚的には解凍されるのとさして変わりはない。脳みそが引き出されているかいないかの差ぐらい――にもかかわらず、外はまだ暗く何時間も経ってはいないであろうことが察せられた。同じように眠りについていても、人間の生理的なファンクションの方の睡眠はずいぶんタイムスケールが短い。 結局、いまいち覚醒しきれていない状態で指図されるがままに寝袋から出て身体に巻き付け、数時間前の彼がしていたように傾斜の前に腹ばいになった。「電気銃の撃ち方は知っているな」「それは……知っている。情報化前の講習で倣った」「撃ったことは?」「ない」急ごしらえの相棒はとんだ新人と組まされたものだと言いたげに口を曲げた。だが、それでも真剣に指示を続けてくれた。 「いいか、三つだけ覚えろ。先に撃たれてお前が死んでいなかった場合、とにかく撃ち返せ。ビビって引っ込んだら距離を詰められる。次に、銃声がしたがお前じゃないやつが撃たれている場合、すぐに隠れておれを起こせ。最後に、すでに相手が接近していて取っ組み合いになった場合、大声をあげて危険を知らせろ。いいな、なにもなければ日が上がるまで監視だ」 僕は反射的に「えっ」と唸った。「じゃあ僕はもう寝られないのか」体感的には明らかに眠い。これまでの仕事では感じた試しのない感覚だ。しかし目の前の経験豊富な同僚は眉間に皺を寄せて「お前はもう五時間も寝た。俺だって同じくらい寝る権利はある」とぐうの音も出ない正論を告げたので、目の前に広がる暗闇と黙って対峙するほかない現実を渋々受け入れた。 あるいはこれが僕のこれからの仕事なのかもしれない。いつどこから撃ち殺されてもおかしくないと考えれば怖がってもいいはずなのに、十分ではない睡眠となんの代わり映えもしない黒一面の風景に、姿勢さえも変えられない窮屈さが倦怠感を身体じゅうに押し広げてあるはずの恐怖を塗りつぶしてしまう。 小一時間経ったか、それともまだ五分しか経っていないか定かではないが、僕の意識は将来の人生設計に傾いた。今は必要に応じて解凍される標準入力インターフェイスでしかないけども、いつか精神体の人々はなんらかの根本的な解決策を手に入れて地上に進出するはずだ。数十年後か、数百年後か、数千年後かはともかく、冷凍冬眠装置に故障がなければ僕もその時には一人の市民として輪に加わっているだろう。立体映像として描かれた上司の彼女とも直接会って話せるようになるかもしれない。より多くの人々とも交流の機会を得て、地上世界をより良くするために話し合うことになる。 そこへいくと、僕はあまりにもものを知らなさすぎる。今、こうして地上での勤務経験でも同僚に水を開けられているし、無限大の情報源にアクセスして僕たちが寝ている間も常に思考を重ねている精神体の人々とはまずもって比べられない。あらゆる問題が解決した後でさえも僕自身の能力が課題として待ち受けており、それを改善するのは簡単ではない。 昔、地上に人類が暮らしていた頃には何人にも教育が与えられていた。そういう施設もたくさんあった。ところが今から地上世界に再進出するとしても、当面はもっと基礎的なインフラを構築する方が優先されて他の事柄は後回しにされるに違いない。つまり、現状の格差を覆す手がかりはおそらく得られず、僕の人生は非常に不活性的で見通しの悪いものとならざるをえない。 だとしたら。こうも考えられる。 今の状況がずっと続いている方がよほど良いじゃないか。地上に出て応分の働きをして、用が済んだら冷凍されて、そのうちまた解凍される。人生がとても離散的なのはやむをえないが、少なくとも思い悩むことはあまりない。たまにトイレに糞が残っているとか、食事や水に喜びを見いだせないとか、そういった点に目を瞑れば今の暮らしもそんなに悪くはない。彫刻だってできる。 ただ……じゃあなんで僕はもっと楽な地質調査とか資源の回収の仕事に留まらず、より多くのことを知ろうとしたのだろう。今だって眠いのをこらえて必死に―― その時、真っ黒な風景にわずかだが光がちらついた。最初は気のせいかと思ったが、続けて二回、そして三回、光が灯る。入れ違いに別の地点でも光が灯った。やがて決定的に電気銃特有の奇妙な音色が耳に届いて、いよいよ確信を得た。 銃撃戦が行われている。 左手の閃光は派手に光っているのに対して右手の方は幾分控えめだ。だんだん激しさを増して音も大きく響いている。そこで、はたと思い出して彼を起こそうとしたところで背後から声がした。 「右のやつらが夜勤<ナイトシフト>だな」 どきりとして「起こそうと思ったんだけど」と申し開きをしかけたが、彼は平然と僕の前から電気銃を持っていって自分の位置に構え直した。 「いや、おれが勝手に起きた。眠りが浅かったらしい」 おそらく眠りが浅いのではなく、浅く寝ていたに違いない。頼りない新人に命を預けて高いびきなど経験豊富な者の振る舞いではないからだ。 とはいえ、いちいち落ち込んでいても仕方がない。僕も自分の背嚢から電気銃を取り出して開き、さっきまでと同じように置いた。 「なんで右が夜勤<ナイトシフト>だと分かるんだ。左の方がよく撃っているように見えるけど」 しゃべっていても隣の同僚の頭は照準から揺らがない。 「光の散乱具合から当てずっぽうに撃っているだけだと分かる。それに対して右側は正しく牽制している。距離を詰めきるまで逃げられないようにするためだ。ほら、見ろ」 数百メートルか、あるいはもっと離れた地点で決定的な瞬間が訪れた。最後に右手の光が二回光り、以降はまるで闇がすべてを覆い隠したかのように辺りが静まり返った。 「妙な気を起こすなよ。おれたちにできるのはやつらがひと仕事を終えたと考えて帰ってくれるのを祈るだけだ」 さすがにこの頃には眠気が吹き飛んでいた。たった今、暗闇の対岸で絶命した人々も今後の人生について思いを馳せていたかもしれない。それがほんのちょっとしたさじ加減で奪われた。まだ見ぬ夜勤<ナイトシフト>の凄腕たちが気まぐれで進行方向を変えていたら、今頃死んでいたのは僕たちだったのだ。
7
何事もなく太陽が上がり、食事を食べ終え、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても恐怖は背筋に張りついたようにしていつまでも消えなかった。まだ殺し足りない夜勤<ナイトシフト>が昼も活動していて、四方八方のどこからか自分を狙っているのではないかと妄想に駆られた。彼らが文字通りの職分ならそんなことはありえない。そうでなくても襲撃の気配があれば僕よりも先に同僚が気がつくだろう。いずれにしてもなにかが起こる前から心配するのは杞憂でしかなかった。だが、分かっていても足取りは鉄の重さで、腹にはいつまでも溶けない氷が沈んでいた。 「ここだな」 HID6が大きな平屋建ての前で止まった時、ようやく安堵の気持ちが芽生えた。建物の中に入れば遠くから撃ち殺される可能性は低い。実際、この後の仕事はとても気楽だった。目標物はあっけなく見つかった。眼前に並ぶ砲弾らしき物体そのものは風化していてもはや役に立たないが、内部の弾芯にはタングステンが豊富に含まれている。そのまま持っていくには重すぎる砲弾も、古くなっていたおかげか背嚢の角や電気銃の銃床を駆使して叩くと簡単に砕けた。同じ作業を二人で黙々と続けているうちに、ブリーフィングで示されていた分量を大幅に越える材料が集まった。 しかし意気揚々と帰り支度を整えて建物から出ようとした途端、正面にひと組の人影を認めて僕はついさっきの恐怖を胃の奥からせり出すこととなった。電気銃――背嚢の中だ――目視距離に堂々と佇む二人と相対すること数秒、先に口を開いたのは相手の方だった。 「君らもここで物資を集めていたのかい」 背後で電気銃を構えていたのであろうHID6が答える。 「さあ、どうかね」 「タングステンか?」 「だったらどうだ」 短い応答の後、相手は急に両手を胸の前で合わせて懇願のポーズをとった。 「我々も同じものを探しているんだ。もしよかったら分けてもらえないか、この通りだ」 そこで僕はようやく相手が二人して武装していないこと、そもそも雰囲気からして敵意がないこと、イエローの作業服を着ていることなどを把握した。張り詰めていた緊張の糸が切れて、がちがちに固まっていた筋肉が和らいだ。 「おれたちになんの利益が? 他社だということくらいは分かってるだろう」 「分かっている、交換しよう。我々は銅線を持っている。今回の目標物でなくても絶対に必要なはずだ」 確かに、と率直な感想を抱いた。銅線なら僕の仕事でも集めた覚えがある。次回以降の仕事で要求された時にもともと持っていたらその日は仕事をしなくてもB評価だ。 「現物を見ないことにはなんとも言えんな」 同僚の呼びかけに律儀に応じて、彼らは各々の背嚢を下ろして中身を探りだした。昨夜、戦闘しないまでも夜勤<ナイトシフト>たちの仕事ぶりを目の当たりにしたからか、この短い間にも特殊な感覚が養われたのか分からないが、てんで戦闘経験のない僕にさえ、彼らが隙だらけの小動物に見えた。じきに背嚢の奥からずるずると銅線をひっぱりだすと、その長さを誇るようにして広げてから丸めはじめた。 「どうだ、悪い話じゃないだろう? 多めにとったって評価はどうせ変わらないんだ、だから」 「そうだな。いいだろう」 そう言うと真後ろにいた巨体が歩を進めて隣に並び、背中の背嚢を片手で持ち上げて下ろした。 もう片方の手にはまだ電気銃が充填状態で握られている。 「だが、おれがくれてやるのはこいつだ」 電気銃が真横で射出されて不可視の運動エネルギーがイエローの作業服を着た相手に衝突した。それは相手の胴体に風穴を開けるには十分すぎる威力で、すでに事切れているであろう肉体はそのまま地面に崩折れた。撃たれていない方は突然の襲撃に状況を飲み込めず、まばたき数回分の間隙を経てようやく素っ頓狂な悲鳴をあげた。僕自身の悲鳴も遅れてあがった。 「おい、一度しか言わねえからよく聞け。走って逃げ切れたら追わねえ。だからうまく逃げろ。ほら、走れ」 二人の醜態をよそに彼は黄色い作業着の足元すれすれに二発目を放った。ほとんど反射的に背嚢も持たずに相手は走り出した。 「おっ、けっこう速いじゃねえか」 いくらか時間を置いて同僚が放った三発目、四発目の銃撃は傍目から見ても粗雑な撃ち方だった。とても当てるつもりで撃っているとは思えない。現に運動エネルギーの塊は相手から数メートルも離れた地点にぶつかり、かすかに土煙を舞わせていた。しかし彼は一向に意に介さず、黒い顔に今まで見せたこともない残忍な笑みを浮かべながら作為的な射撃を繰り返した。 そうして一分、二分も経ち、イエローの作業着が本当にイエローなのか判別がつきづらくなってきた辺りで、彼はいきなり銃の構え方を変えた。 「そろそろ楽しみは終わりだな」 距離距離はもはや狙撃に近いと言って差し支えないほど離れていたにもかかわらず、最後の一撃はあっけなく逃げ惑う背中の中心を捉えた。さすがにこの距離となると悲鳴も地面に倒れた音も聞こえない。 「……どうして」 今の僕の心理状況としては、この一言を絞り出すのが精一杯だった。言いながら、次の言葉を考える。 「殺す必要は、なかった」 しかしそのわずかな間に、目の前の殺人者はさっきまでの堅実で面倒見のよい同僚に変貌を遂げていた。 「もうずいぶん前になるが、言っただろ。お前の楽しみみたいなのがおれにもあると。おれは……逃げるやつを撃つのが好きでね」 あまりにも感慨深く、まるで趣味の話でもするみたいに言うものだから僕は気がおかしくなりそうだった。相変わらず堂々とした態度で彼は「それに」と付け加える。 「お前、A評価って取ったことないだろう。あれはどうやったら取れると思う」 「し、知らない」 これは一瞬前までは嘘ではなかった。本当に知らない。最初の何回かは多く資材を持っていって高評価を狙ったものの、上司の彼女が褒めてくれるだけで評価自体に変化はなかった。直接、A評価をとるにはどうしたらいいか聞いたこともあるが、はぐらかされるばかりで結局教えてもらえていない。 もちろん、こうして状況と辻褄を合わせれば未経験者の僕でも吐き気を催すほどよく分かる。 「おれたちだって競合他社を減らせる。この銃はそのためにあるんだ」 「今まで、何回、こんなことを」 しゃべらないと本当に吐いてしまいそうだったので聞きたくもない質問をした。対する同僚の受け答えは洗練されていた。 「おれはずっとA評価しか取ったことがなくてね」 帰りの道のりは非常に快適だった。なぜなら殺したイエローたちは電気で動く二人乗りのバイクを近くに隠していて、それに乗って帰ったからだ。僕の本心を見透かしていてなおHID6は後部座席に座る僕に、エンジンの駆動音や風切り音に負けない大きい声で呼びかける。 「こんなものおれたちは持っていねえ! そうだろ!? だが他社の連中は持ってる! おれたちが持っていない良いものを連中は持ってる! これでおれたちが勝ってると思うか!? ええ? 殺さずに勝てると思うか!?」 僕はただひたすら無言の抵抗を貫くほかなかった。時速百キロメートルで前から後ろへと高速で流れ去っていく風景、彼方まで広がる乳白色の塩の地平線、そのどれもがひどく味気なくに感じられた。
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