salt/標準入力インターフェイス.md
2024-09-02 22:39:42 +09:00

93 KiB
Raw Blame History

1

土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を落ち着けた。摩天楼を突くほどの巨大ビルがそびえていたという島も、世界でもっとも栄えていたとされる湾岸の街並みも、等しく時間の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像――かつて自由を讃えていたという――だけがこの辺りで唯一、建っていると言える建物だ。 この前に来た時よりも少し暖かくなっていたおかげか、そこそこ長い距離を往復した割にさほど疲労感はなかった。曇ガラスに似た平らな地面を手でさすりながら、手頃な位置にナイフを突き刺して切り取る。膂力の少ない身体ではずいぶん手間取るが暇はたっぷりある。そうして得た塊からこぼれ落ちた破片を口に含む。しょっぱい。しかしミネラルと塩分の摂取にはこの上なく望ましい。なぜならこれは塩そのものだからだ。 地平線の彼方まで広がるこの平面はかつて海の一部だった。大昔、人類に降りかかった未曾有の気象災害により海水が凍結、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て巨大な塩の結晶ができあがった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が事切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。仕事として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面は僕に一風変わった洞察をもたらしてくれる。 洞察が深ければ深いほど一心不乱に手が動く。さっきまでは表情のない立方体でしかなかった塩の塊が、ナイフの切っ先で削られるごとになにがしかの文脈を負っていく。ある時には四足の動物を連想させることもあれば、小一時間も経つと人形に変わる。過程を辿るとあたかも生物の進化を表しているようでもある。原初の生命もミネラルと塩と水から生まれたのだった。 高く昇った太陽が傾いで地平線の彼方に隠れはじめる頃、僕の隠れた衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務評価を考えるとそろそろ帰宅しなければならない頃合いだ。現に、探索地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。 「またやっているのか」 「やっているよ」 『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、隆々とした肉体すべてで呆れた様子を表現する。体格に優れる彼に与えられる仕事はいかにも大変そうに見え、背嚢は特別に大きく固い金属製でできている。手には電動銃。本来、我々は常に武器の携行を命じられているが、重い割に使う機会がまったくないため僕は毎回忘れたふりをしている。最初は本当に忘れていったのだが、勤務評価になんの影響もなかったので定番のやり口となった。 「それ、言うほど使い道があるのか」 HID6は顔を傾けて意味ありげに口元を歪ませた。 「使おうと思えばな」 要領はいまいち得られないが、あまり詮索するのも無粋だ、と会話を終えようとしたところで巨体の主が隣に並んで座り込んだのが分かった。 「今日はどこまで行ってきたんだ」 おずおずと塩の平面の向こうを指差す。 「あの辺りの対岸まで。片道二時間くらいかな」 「そうか。土いじり専門だったなお前は」 たぶん悪気はないと思うが、それでもどことなく軽んじられた気配がしたので声高らかに反論する。 「地質調査と言ってほしいな。僕が頑張って土を選り分けて拾ってくるから、センサじゃ分からないようなことだって把握できる」 「それがだめだとは言ってねえよ、ただな……」 言いかけたところで、彼は彼で時間が迫っていたらしい。隣の山が隆起して背嚢を背負い込んだ。「色々な可能性を探れってことだ。まだ若いんだから」 知ったふうな口を利いて手を振って去っていく彼の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。最後にもう一度、夕陽の強い光に照らされた固形の海面を眺める。 可能性ってなんだ。僕はこの夕暮れを浴びるだけですごく満ち足りているのに。 徒歩にして約三〇分の地点に着くと、どこかに露出しているのであろう地上のセンサが反応して石畳がめくれ上がった。突如現れた長い下り階段を降りていき、重くて固そうな扉に突き当たる。少し待っていると勝手に開く。 後は流れ作業だ。すれ違うにも困難な細い通路を渡り、規定の手続きに従って成果物を提出する。表示がかすれ気味なモクロディスプレイに映し出された勤務評価は、今回もB。見る前から結果は分かっていた。適切な成果物を持って日が落ちるまでに帰ればB評価が確定する。A評価は一度も取ったことがないが、特に問題は起こっていない。 〝標準インターフェイス11、切断処理に入ってください〟 イヤホンから聞こえる女性の声に従って残りのルーティーンを続行した。 作業着と背嚢とイヤホンを中身ごとロッカーにしまい、脱衣する。施設の最奥に位置するチェンバー室の殻に入り込むと、後頭部を密着させた。殻が自動的に閉鎖されて表面に文字が浮かぶ。 〝切断処理開始〟 途端、深く心地よい眠気に襲われて目を閉じざるをえなくなる。意識が沈む寸前、密着した後頭部にドライバが差し込まれる感覚がかすかにした。

2

記憶に連続性があると言っても、この場合は少々あてにならない。冷凍と解凍を繰り返すたびに僕の長期記憶は揮発していき、今や覚えていることの方が少ないからだ。一番最初に解凍させられた時は身も心もフレッシュだった。まるで瑞々しい葉野菜のよう。シェルターを訪れた当時の感情も明瞭に残っていたから、さぞ地表は芳しい草花が生い茂り、空は青く澄み渡り人類の復活を讃えてくれるのだろうと胸を踊らせていた。あるいは地表に文明社会が再興していてもおかしくないとさえ期待した。ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに。誠に遺憾ながらニューヨークはこの命名規則だとニューニューヨークになってもらうしかない。 しかし、初めて目を覚ましたチェンバー殻の表面に浮かんだ文字列はつれない一言。 〝あなたは標準入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します〟 ところで、活動状態の肉体はたいへん燃費が悪い。一〇〇人の人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食料、清潔な飲み水、空気、それらを支える大がかりな施設な循環システムを要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚機構や社会制度までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。 そこで、我々は情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存し、思考する精神を地下深くのサーバに転写する。延々と眠りこけていては例外的な事象に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサ類を基に、情報体と化した技術者たちが日々分析にあたる。彼らにはラザニアもコーヒーもマウンテンデューもいらない。地表が未曾有の異常気象に見舞われている環境下で一〇〇人ぶんの水源を濾過し続ける方法を検討するよりも、深宇宙探査機用の原子力電池一つの方が安上がりで手っ取り早い。当時、情報化はすでに革新派の間では取り入れられていたライフスタイルだったが、ここへきて初めて一挙に普及したと推測される。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを提供していたからだ。 僕がこうして地上で凍らずに生存しているということは、情報体の僕が別に存在していて技術者優待を受けられる身分かもしくは金持ちだったのだろう。無分別に人々を受けられるほどサーバの演算性能は高くない。情報体の人々が僕たちを都度呼び起こす理由は様々だが、大抵は個体の適性に合わせた仕事が割り振られる。僕の場合はセンサで捉えきれない微小な気候変動のモニタリングや、実際のサンプルを持ち帰る地質調査が大半を占める。なんの前触れもなく解凍されると言いつけ通りに地上に出ていき、仕事を終えると再びチェンバー殻に入って冷凍される。もう何度繰り返したか覚えていない。最初の解凍の時点では外出に耐寒防護服が必要だったが、今では人類が活動していた頃とほとんど変わらない。 だが、情報体の彼らが生身の人間の姿に戻ることはできない。生体脳の中身を情報体に転写できても、逆を行う技術を開発できなかったからだ。曰く、脳の構造は半導体ほど単純ではないらしい。眠るたびにわざわざ後頭部を開いて脳だけ別の条件で冷凍しているくらいだから、なんとなく難しさの想像はつく。 結局、期待されていた技術革新はついに起こらず、元の肉体は電力食らいの負債に成り下がった。万能な機械の肉体などなお望むべくもない。そんな資材や生産設備はどこにもない。ゆえに僕たちは情報体の標準入力インターフェイスなのだった。枝分かれした自我の代償に労働し、勤務評価を得て再び眠りにつく。次に解凍されるのは数年後か数十年後か、それとも数百年後か分からない。 確かに、使えるものは使わなければならない。僕たちの後頭部には脳を取り出しやすくするためのネジ穴が設けられているし、脳と肉体の電気的接点はモジュール化されている。もともとは情報体に移行する経過的措置だったが、くしくも再解凍の効率化に一躍買っているようだ。 僕自身、自分の処遇には納得している。そもそも「肉体の僕」という自我は計画通りなら存在しなかった代物だ。「情報体の僕」の精神に上書きされて揮発する定めだった。なんであれ生きているのはすばらしい。仕事一辺倒の人生でも楽しみはある。 今日もまたチェンバー殻の内側で目が覚めた。殻の湾曲した表面にいつもの文字列が浮かぶ。 〝HID11接続処理中〟 彼女は僕が殻を出て身支度を整えるまでの間を「接続処理中」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開き、そこから出られるようになる。チェンバー室の左右に整然と並ぶ大量の殻にはまだ眠りについている同僚たちの姿が透けて見える。同僚と言っても勤務体系が年単位でばらばらなので気安く会話はできない。前回、出会ったHID6はあれで三回目だが今は端っこの殻の中で巨体を丸めて安穏としている。 たとえ世紀を隔てていようとも染みついたモーニングルーティーンに揺るぎはない。作業服と背嚢はチェンバー室の隣、食事は直進して突き当たりを左の培養プラント室にある。巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているか分からない。味や食感についての感想は差し控えたい。飲み水も前回より黒ずんでいた。 食事が済むと頃合いよく便意を催す。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのかもしれない。部屋を出て奥のトイレに向かう。六つある便器のうち大半が割れ、残った便器にも大抵は乾燥した糞が堆積しているが、何回か寝て起きる頃には清掃されていたり修理が施されていたりする。きっと同僚による仕事の成果なのだろう。 ちなみに水は流れない。このトイレの水洗装置はかなり初期の段階から破損している。いつまでも直らない様子を見るに、標準入力インターフェイスでは修理しきれない箇所なのだと推定される。 準備の最終段階。前回よりひび割れが目立つ廊下を歩き、巨大なモノクロディスプレイが据え置かれた空間でブリーフィングを受ける。質疑応答もここで答えてもらえる場合がある。中央に置かれた椅子に座ると、特に重心をかけたつもりはないのに脚ごとひしゃげて壊れた。どうやらブリーフィングは立って受けることになりそうだ。 ディスプレイ上に線が引かれて作図が開始された。現在地点を中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の資材についての文字情報も並ぶ。いつもより長い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間くらいは余りそうだ。 「質問」 質問コマンドを投げかけるとディスプレイが暗転して対話状態に遷移する。部屋の中央に立体映像が投影されて白いオーバーコートに身を包んだ女性の姿が現れる。 〝HID11、質問を受け付けます〝 「飲み水が黒ずんでいるみたいだ。味はともかく健康への影響が気になる」 立体映像の女性が明瞭に返答する。 〝雨水を濾過するフィルタの目詰まりと想定されます。すでに他の標準入力インターフェイスにタスクを割り振っているため、まもなく解決されるでしょう〟 「ありがとう。あと、便器に糞が溜まってきたので次に起きる時までにはなんとかしてほしい。あのままでは溢れかえってしまうよ」 ややセンシティブな要請にも彼女は律儀に答えてくれる。 〝標準入力インターフェイスに特有の代謝現象に起因する老廃物の処理については私も常に憂慮しています。現在、解決に向けて討議中です〟 「そいつはいいね、ところで、そっちの暮らしはどう?」 ここへきて彼女はようやく当惑した顔を見せる。他の同僚は情報体と不必要な会話をしないらしいが、僕としては仕事を一緒にする相手のことはよく知っておきたい。 〝相変わらずです。あなた方の暮らしが変化と危険に満ちているとしたら、私たちはその逆。安全で満ち足りているけど変化がありません〟 肉体を持たない思考だけの暮らし、というものがどんな感じなのか気になって仕方がない。歴史上のどんな場所にも一瞬で旅ができて、あらゆる知覚は決して衰えることなく無尽蔵に供給され、空腹も寝不足も欲求不満も存在しない。まさに楽園の世界だ。 しかし立体投影された彼女は礼儀正しさの裏でいつもどこか退屈しているようで、その一方で焦っているようにも見えた。 「ところでこれ、なにに見える?」 僕は背嚢から前回の隠された成果物をお披露目した。すると彼女は生真面目に前のめりの姿勢になって造形された塩の塊をまじまじと眺めた。 〝なんの変哲もない塩の塊に見えますが〟 「そうだね。前回の時に道端で拾ったんだ。僕は面白い形をしていると思ったんだけど」 〝毎回よく変わった形の結晶を見つけてくるみたいですね〟 ほどなくしてブリーフィングが終わると彼女が〝接続完了〝を通告し、エレベータに乗って地上階に移動した。細長い通路の最奥には、天井まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。あたかも巨人用に設られたそれは情報体の側の操作によってしか開かない。通路の左右には深い暗闇が広がっていて、何十回と行き交っていても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。 僕の到達を見計らったようにけたたましいブザー音が鳴り響き、ハンドル部がゆっくりと回転を開始した。扉の周りの警告灯が激しく回る。目を突く鋭い赤色の光線はしかし、たちどころに漆黒の空と底に吸い込まれていく。 やがてブザー音は荘厳な歯車の駆動音に取って代わり、シェルターの扉が地鳴りに似た振動を伴って前方に開く。揺さぶられて落ちないか恐れて手にますます力が入る。 たっぷり何分もかけて扉が解放されると、もう一つの扉が現れる。そこだけ切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には『危険物』とラベルに貼られた小部屋がある。作業服と背嚢が置かれている部屋とよく似ているが、ロッカーの中には銃器とバッテリーが保管されている。 彼女はこれらの武器について〝汎用的ソリューション〝と呼称して携行を命じている。後頭部にネジ穴があり、脳を出し入れできる僕たちはあたかもサイボーグのようだが、実際には飢えた犬より弱い。そんな生き物が地上にいればだが。事実、今まで一度も使いたくなった試しはない。そして、ついに外に出る。僕にとっては昨日のことのようだが、きっと何百年ぶりの地上だ。分厚い鉄の扉が背後で固く閉ざされ、気の遠くなるほど長い階段を登り続けるうちにシェルターの中のどんな強力な光源も敵わない光――すなわち、太陽の光が僕の顔を照らした。

3

目的地に着くには塩の地面を渡っていかなければならない。乳白色の海に足を下ろす際、念のために重心を後ろに引いておく。ブリーフィングでは前回の冷凍から今は七八年ほど経過していると聞いた。地質の変化を恐れる年月ではないが、塩の塊が脆弱化している可能性は捨てきれない。ざらざらした表面を片足で強く踏みつけ、安全を確かめてからそっと乗り移る。 懸念は杞憂に終わり、一時間歩いても塩の地面が揺らぐことはなかった。してみると、これほど巨大な積層がいかにして出来上がったのか気になってくる。 気象災害が引き起こされた原因は地殻変動だとも小惑星の衝突だとも、あるいは化学兵器を交えた世界大戦だとも言われている。情報体の人々の間でも結論は出ていないようだ。いずれにしてもこれら塩の層は急速に冷却されて分離した塩分が凝固してできたものと推測されている。だとすれば、その時の地表の状況は生けとし生きる者にとっては致命的だったに違いない。こうして幾度となく地上に顔を出しても「地上人」だとか「新人類」といった、サイエンス・フィクションじみた超人と出会わないのも、生き残った知的生命が我々のみであることを示唆している。 あるいは、我々は生き残ったのではなく取り残されたのかもしれない。必然的に滅ぶ定めであった神々の理から逸脱し、例外的に存在してしまった。だとしたら、なんと痛快な話だろうか。僕たち人類はまた再び地球上に、あまねく宇宙全体に蔓延り続けるのだ。そのためにはよく働かなければならない。 太陽が頭上を通り過ぎて傾きかけた頃、ようやく乳白ではない色の地面に足が届いた。かつてこの地域に存在した国は気候的な条件から石造りの建物が多く、数百年、数千年の時を経ても完全に風化せず地下に資材を蓄えている場合が少なくない。崩れた建物らしき外壁と周囲の状況から、それと見込んだ地点の瓦礫を取り除くとマンホールが現れた。蓋を開けた向こう側には円形の通り道に溶接されたはしごが見える。 長さはそれほどでもないはずだが手動での昇降には手間がかかる。地上に出るエレベータとさして変わらない時間を経て最下点に到達すると、風化して崩れ落ちた棚らしき鉄板が左右に並んでいる空間に出くわした。 観察したかぎりでは、ここは武器庫かなにかに思われた。国家や大組織が用意するほど立派な代物ではない。どちらかといえば少々金余りで、割に心配性の個人が拵えた設備だろう。鉄板に挟まれる形で地に伏した銃器の数々は、どれも先端が折れ曲がっていたり破損していてとても使いものになりそうにはない。 目的の物品はここではなく鉄扉で隔たれたさらに奥側にあった。鉛らしき容器の中に収められていたそれはブリーフィング通りの代物なら劣化ウラン弾である。とはいえ、誰かに撃ち込むために必要なわけではない。内部に含有されているウラン238が目当てなのだ。容器から持てるぶんの劣化ウラン弾を包みごと慎重に取り出していく。この包みに放射線を抑える特別な素材が用いられていることを祈るばかりだ。 「おい、そこの君」 背嚢を埋めるに十分な弾を収めたところで、背後から声がかかった。どうやら作業に集中するあまり耳が遠くなっていたらしい。振り返ると右胸に『HID39』と印字された標準入力インターフェイスが立っていた。どういうわけか作業服のカラーリングが違う。僕たちはみんなオレンジの色の服を着ているのに、彼は青色だ。 「おや、もしかして君もこいつを回収に?」 とはいえ、なるほど合点がいった。僕ひとりでは持ちきれない状況を見越して情報体は複数人に仕事を割り振っていたようだ。そそくさと背嚢を抱えて部屋の隅にずれ、仕草で回収を勧めた。だが、HID39の視線は僕から動かなかった。そのまま背中の背嚢をどすんと落としたので威圧されたような気持ちになった。HID39の背嚢は大きくて丈夫な金属製だった。 「私はそこにあるすべての劣化ウラン弾を回収せよと指示されてきた」 脅されているのは気のせいではなかったようだ。要求を直接突きつけてはいないが暗に命じている。 「全部よこせ」と。 僕は表情に害意のなさを強調して笑みを浮かべつつ、後方に後ずさった。 「いやはや、それは……ご勘弁願いたいね。こっちも同じ仕事を指示されているんだ」 「私の知ったことではないな。指示通りの成果物を納品できなければ勤務評価に影響が出る」 相手が一歩前に踏み出したので僕も同じ距離だけまた後ずさる。文字通りの営業スマイルがひきつり出す。 「僕だってそうさ。同じ標準入力インターフェイスじゃないか。なあ、どうだろう、ここは一つ、半々で分け合ってそれで全部だったという話にするのは……」 HID39は結論の決まっている会話を続けるのに飽きたのか、背嚢から取り出した電動銃をまっすぐ突きつけてきた。 「無事に帰りたければ今回の勤務評価は諦めるんだな」 結局、背嚢に詰めたばかりの劣化ウラン弾がまんまと移し替えられるまで、僕は身じろぎ一つできなかった。電動銃を抜きしてもどのみち敵う相手ではない。 「なあ……あんた」 用を済ませるやいなや口一つも利かず踵を返そうとする彼に震える声で尋ねた。 「僕はかなり長くやっているはずなんだが、仕事のバッティングなんて一度もなかった。一体どう報告すればいいんだ?」 HID39は顔半分だけ振り返ってつぶやいた。無表情で抜け目ないはずだった顔にかすかな笑みが灯った。 「そのまま報告すればいい」 最後に彼は「しばらく穴から出てくるな」と雑な命令を押し付けてから去っていった。とうの昔に放棄された武器庫の奥で、僕はとてつもなくやりきれない気分になった。空虚な独り言が空気を切り裂く。 「汎用的ソリューションって、確かにそうだな」 体内時間で30分ほど待ってから帰宅を開始した。中身がほとんど空の背嚢を背負っているせいで身のこなしが軽い。日が沈むまでの時間はありすぎて困るほどだ。あてどなく探して運良く劣化ウラン弾が見つかることなどあるはずもなく、今回の勤務評価が最低で終わると確定したからにはせめて趣味を楽しまないといけない。 地上と地上と結ぶ塩の地面の中間点、四方八方が見渡すかぎり乳白色の塩の上で一心不乱に塩を削いだ。手に力が籠もりすぎているせいか、どんな塊もなにがしかの文脈を持つ前にあっという間に細切れになってしまう。きっと僕はいらついているんだ。金属製の背嚢を持つ同僚ほど重要な仕事を任されていないし、僕の作った塩の彫刻は相変わらず彼女に理解されない。僕だって理屈で彫っているわけじゃないから無理もないのだが……。 気づくと濃い橙色の光に照らされて乳白色の地面に火が灯ったかのような光景が広がっていた。まるでろうそくみたいだと思った。手には塩を削るナイフと同じくらい、いや、それよりも鋭い鏃に似た彫刻ができている。ひょっとするとこれは僕の破壊衝動の表れなのだろうか。彼女に見せるには文字通り刺々しくて気が進まない。 だが、せめて帰還の予定時刻くらいは最低限守らなくてはならない。 いつになくのろのろとシェルターに戻り、切断処理のルーティーンを済ませる。最後に待ち受ける勤務評価は成果物がないため当然ながら最低のD評価。間を置かずディスプレイが沈黙する前に呼びかけた。 「質問」 勤務終了後に質問した例は未だかつてなく、立体映像の彼女も最初から内容が分かっている素振りで応じた。 〝今回は残念でしたね。目的物が見当たらなかったのでしょうか〟 「いや、見つかったし持って帰れるはずだったんだ。だが他の標準入力インターフェイスに奪われてしまった」 沈黙。賢明そうなつるりとした顔に目に見えて焦燥の色が走った。 「もしかしてこういうことってありえるのか? 共に人類の復興を目指しているのに奪い合いなんて――」 〝落ち着いて聞いてください。ちゃんと説明します〟 凛とした声に制されて思わず口の動きが止まる。立体映像が投影されたまま、背後のディスプレイも点灯して周辺の地図が描き出される。それ自体は仕事のたびに見ているものだったが、覚えのない点がいくつかの箇所に穿たれていた。 「これは……」 被せるようにして彼女がしゃべりはじめた。 〝これらは、我々の近隣に存在する競合他社のシェルターです。今回の目的地はいずれの地点からも十分に離れていたので達成可能と見込みましたが、このたびの報告を受けた以上はあなたの捜索可能範囲を下方修正せざるをえません〟 そういえば、このシェルターは株式会社の所有物だった。僕の脳裏に眠っていた揮発しかけの長期記憶が呼び起こされた。精神体の人々のほとんどは会社の社員か株主で、他のシェルターも同様の構成をとっていると考えられる。だが、しかし、だからといって……。 「競合他社でもこういう時には協力しあえないのか」 〝十年おきに開催される株主総会で時にそういった提案も上がりますが〟 そこで彼女は声のトーンを落とす。そしていつになく皮肉めいた微笑を口元に残した。 〝毎回否決されています。私たちは従業員なので企業の意思決定には従わざるをえません。転職できる身でもありませんからね〟 しかし株主の言い分も分かる。僕たちと同じ標準入力インターフェイスの番号列を宿した彼は、譲歩の余地なく資源をすべて奪った。僕が肉体的な能力に劣っていて、おそらく武装もしていないと看過したからだ。背後から撃ち殺す必要すらないとみなされたのだ。僕の脅威度は一発分の電力にも満たない。 そういう僕の心情を察してか、彼女はいつになく優しい声で僕を励ました。 〝気落ちする必要はありません。今回の件は私の計算不足でもあります。残念ながら評価は評価ですが、次はもっと適性に合った仕事を案内できるよう努めます〟 「いいや」 僕は背嚢を逆さにひっくり返して中身を床にぶちまけた。そこから例の尖った塩の塊を拾い上げて見せる。 「さっき言い忘れたことがあった。僕はこれでそいつに反撃したんだ。本物のナイフと違って隠しやすいからね。だいぶ深くえぐったから、もしかすると劣化ウラン弾を運びきれず途中で死んだかもしれない。そうしたら、僕たちも損をしたけど、相手の会社も得をしていない! そういうことにならないか?」 勢いよくまくしたてた僕を見る彼女はしばし黙り込んだ後、努めて平静を保っている感じの口調で告げた。直感的に、まるで子どもの成長を心配しつつも見守る母親のようだと感じた。 〝……そうですね、ただいまの報告から得られた情報により、あなたの適性分析に一定の修正が加えられました。それでは次回にまたお会いしましょう〟 僕はいつもより大股開きで部屋を出てチェンバー殻に向かった。何百年もの間、知っているはずなのに気づけなかった。僕たちは競争をしているんだ。より高次の仕事を果たさなければこの世界の情報を得る機会さえ与えられない。与えられた適性に甘んじでいてはいつか無知なまま死んでしまう。青色の作業服を着た競合他社のHID39が僕を殺さなかったのは状況判断に過ぎない。特に意味はなくとも殺そうと思えば簡単に殺せた。 興奮さめやらぬ中、脱衣も忘れて殻に入るとすぐに冷凍が正常に行えない旨の警告音が鳴り、急いで来た道を戻る羽目になった。

4

解凍されて殻から這い出ると、人影が目の前に映り込んで困惑した。ルーティーンにはない事態だったので思わず立ち止まってしまう。 「おい、なにボサッとしてるんだ。行くぞ」 呼びかけられて視点を上に向けると、黒く逞しい肉体を持つHID6が目の前にいるのだと分かった。なぜ彼が一緒に解凍されているのか、どうして命令されているのか分からなかったが溶けかけで思考力がまとまらない現状ではおとなしくついていく方が得策と思われた。後に続いて更衣室に入ると、彼はてきぱきと着替えて金属製の背嚢を軽々と背負った。やはり肉体に恵まれた者は違うなと他人事の態度で自分のロッカーを開けると、そこに同型の背嚢が鎮座していたので再び困惑を余儀なくされた。しかし、自分のロッカーに入っている以上はこれが僕の持ち物だ。いつもより苦労して身支度を整える頃には、HID6はすでに食堂で僕の倍近い量の食事を摂っていた。 せめて遅れまいとせかせかして食べ終えると、隣のパイプ下にいる他ならぬ彼から声がかかった。 「おい、詰めて持っていかないのかよ。おれのはやらんぞ」 その彼は言行通り、金属製の背嚢から取り出した容器を器用に操って食事と水をそれぞれ保存していった。あっけにとられて見ていると、ようやく巨体の主は事情を察したようだった。 「なるほどな、お前、出張は初めてなんだな。一度もやったことがないやつと組むとは初めてだが……まあいい、黙っておれの言う通りにしろ。まず食事と水を詰めるんだ。一日では帰ってこられないからな」 僕にとって仕事とは「日が落ちる前に帰ってくれば評価が安定するもの」という認識でしかなかった。日が落ちた後も続けなければいけない仕事など想像もつかない。「出張」という見慣れない単語も出てきた。いずれにしても、前回の勤務評価時に咄嗟にとった行動が今回の特別な仕事を招いているのは間違いない。 つまり、僕はその方面の適性があると見込まれたのだ。より多くの知るであろう職域の。 今回は便意がこなかったのでトイレはパスした。HID6が帰ってきた後、一緒にブリーフィングを受ける。彼が言った通り、ディスプレイに図示された目的地はいつもの三倍は遠かった。片道だけでも日が暮れてしまう。目標の物品はタングステンだという。前回に見た「競合他社」の点を記憶から掘り起こして地図上に重ね合わせると、確かにどの拠点からも十分に到達可能な距離だと分かる。 「質問」 低く野太い声が質問コマンドを発すると、たちどころに部屋の中央から立体映像が……現れるはずなのだが一向に出現せず、ディスプレイが暗転して文字列が表示された。 〝回答:質問待機中〟 「今回、未経験者との共同での出張となるが特別なリスクは存在しないか」 言葉が途切れると文字列が再び流れる。 〝回答:特になし。事情を斟酌して今回の出張は貴殿の単独出張よりも危険度が低い内容である〟 「質問。では、あえて未経験者を同伴させる意図は」 〝回答:当社の方針として、適性分析に修正があった場合は柔軟な配置転換を実施している〟 黒い面長の顔が僕にちらりと向いた。どんな意図があっての仕草なのかは掴みきれない。 「質問終了」 〝回答終了〟 そっけない指示にディスプレイも似たりよったりの淡白さで消灯した。いつまでも彼が見つめているのでついに気になって目を合わせると、ようやく僕に向かって口を開いてくれた。 「お前も質問した方がいいんじゃないか。やったことがないなら色々知りたいだろう」 「いや……いいよ。必要がなくなった。実は同じ質問をしようと思ってたんだ」 努めて平静を装って答えると巨体の肉体がわずかに揺れて「へえ」と微笑んだ。だが、それだけで踵を返すやいなやさっさと先に行ってしまった。慌てて僕も追いすがる。一人が乗るにしては広いと思っていたエレベータも彼と同席だとずいぶん狭く感じられた。細い通路を一列に並んで進んだ後の危険物室では、いきなり大型の電動銃が投げ渡されたので取り落としてしまった。 「いいか、怪しいやつがいたらとりあえず撃て。撃った理由なんて後から考えりゃいい」 銃を拾い上げて持たせてくれた彼はしかし、気遣いの反面、脅しともとれる圧力をもって僕に押し迫った。さっきまではひそかに燃えていた新しい職責への熱意も、長い階段を昇る頃には恐怖へと変わっていた。 改めて言うまでもない話だが、質問の必要がないというのは嘘だ。本当は彼女とめちゃくちゃ話したかったし、どういう危険があるのか具体的にレクチャーしてほしかった。そうでなくても配置転換を実現してくれたことへの感謝とか、感謝に対する励ましとか、そういったものが聞きたくて仕方がなかった。 でもHID6にそんな振る舞いを見せるのは嫌だった。彼に答える情報体はとてもビジネスライクで僕のとはまるきり違っていたからだ。

5

それでも透き通ったそよ風が吹く地上世界はいつも通り格別だった。金属製の背嚢は確かに重くて辛かったが、歩いているうちに重心のコツが掴めてきた。僕の先を行く山のような巨体の同僚は道連れとしては口数が少なく物足りないとはいえ頼もしくはあった。そんな彼は危険地域の土地勘があるらしく、今は電動銃を折りたたんで背嚢にしまい込んでいる。僕もそれに倣って両手を揺らしながらしばらく乳白色の地面を鳴らして楽しんだ。 今回通っている固形の海の道筋は僕が行ったことのある方向とはだいぶ違っていた。いつもならすぐに陸地が見えたが、今日はいつにも増して晴れている日なのに対岸が朧ろげにしか映らない。太陽が頭上を通り過ぎてもまだ辿り着かず、まだ目的地にも達していないのにとうとう僕の脚は疲労を訴えだした。 自ら休憩を打診するのは気後れする、と意地を張ってさらに歩き続けること数時間。ようやく思い出したように巨体が歩みを止めて「そろそろ補給をとるか」とその場に腰を下ろした。僕は必死で疲労を隠しつつ、むしろ気が早いなとでも言いたげな顔で座ろうとしたが、脚が引きつって体勢を崩してしまい、尻もちをつく形で塩の地面に倒れ込んだ。 「無理すんな」 HID6は言葉少なめに告げて、背嚢から食事の入った容器を取り出すと二の句を続けた。 「お前は初めてにしてはついてこれている方だ。経験者でも文句の多いやつはいた」 「こういう一緒にやる仕事って何回もやったことがあるのか」 見透かされていてもなお余裕を保っていそうな態度を崩さず問いかける。彼は渋い顔をして言う。 「何回もある。むしろ一人でやる方が少ない。二人だけじゃなくて三人とか四人の時もある。数が多ければ多いほど特に危険だ」 「持って帰るものが重くて多いとか?」 どうやら的外れな返事をしたらしい。食事を含んだまま一転、薄笑いをして「それもあるがそうじゃねえ」と切り返された。「数が多い時は敵も多い。大抵は誰かが帰ってこられない」 淡々とした物言いとは裏腹に僕の背筋はたちまち凍りついた。HID39をさらに獰猛にしたような輩がたくさんいるということだ。言われてみれば、戦略的な理に適いすぎている。先に相手を殺してしまえば物資を奪い取れるだけでなく、競合他社の標準入力インターフェイスを減らすことができる。あまり想像したくはないが、接続可能なインターフェイスを完全に失ったシェルターは地上世界に対していかなる操作も行えない。センサ頼りの受動的な分析しかできない。そのセンサさえも一旦物理的に壊れでもしたら一巻の終わりだ。他社との競争において致命的な不利を負うのみならず、情報体の長期的生存をも危うくなる。 「これ、かなり聞きづらいことなんだけど……」 食事の手を止めておずおずと尋ねる。 「僕たちは、勝っているのか? その、競合他社に」 背嚢に空いた容器を片付けていた巨体が一瞬固まったように見えた。少し待っても回答はない。なんだかきまりが悪くなり、僕は急いで自嘲を混ぜ込んだ。 「いや、僕はつい前回、あっさり負けちゃったけど」 「じきに嫌でも分かる」 HID6が立ち上がったので僕も慌てて残りの食事を片付けて背嚢に突っ込んだ。「だが、負けたってのはどういうことだ。逃げて生き残ったのか」金属製の背嚢を慎重に背負い込みながら首を振る。「逃げてすらいない。ブルーの作業服を着たやつが気まぐれで見逃してくれただけだ」こんなふうに言うと侮られるかもしれないが、思わず吐露したくなるほど悔しい事実だった。意外にも彼は白い歯を見せつけて笑った。「気にするな。今度、ブルーの連中にお前を生かしたことを後悔させればいい」 それからの道のりはうってかわって退屈しなかった。補給中の会話で打ち解けられたのか、ぽつぽつと会話を交わす雰囲気になったのだ。競合他社はそれぞれ違う色の作業服を身に着けていて、ブルーもいればイエローもいるという。一度、レッドの服を着たやつを見つけたかと思いきや、それは殺したやつの血で染まっていただけだったなどと粗野な武勇伝を聞かせてくれたりもした。逆に、競合他社の相手から見れば僕たちは「オレンジのやつら」ということになる。 一日たっぷりかけて対岸に渡り、朝方ぶりに土を踏みしめるとなんだか奇妙な感触がした。きっとこれからはこの感じが当たり前になるのだと思った。この辺りでは珍しい丘陵に昇り、下っていき、しばらくするとちょっとした湖に出くわした。案の定、一面が水ではなく塩気を含んだ個体に凝結している。含まれているミネラルや不純物の濃度の関係なのか、こっちの方は幾分か透き通っているように見えた。じきに日が落ちるから野営をするとHID6が言うので、僕は急いで湖の方向に駆け寄って片手で持てる立方体のサイズに塩の塊を削り取った。戻ってくると彼に「お楽しみ用か」と茶化されたので「いいや、このまま持っておく」とついむきになって言い張った。本当は夜のうちに造形するつもりだった。 ちょうどなだらかな傾斜が付いている清潔な地面を見繕い、そこで僕たちは野営の準備を始めた。必要なものは金属製の背嚢に全部入っていた。いかに現在の地表が温暖化しているとはいえ、夜間には氷点下をぐっと下回る。作業着よりも分厚い素材で作られた折りたたみ式の寝袋に入り込むと一転、切り裂くように吹きつけていた寒風が阻まれて全身が温まった。 「ぐっすり寝るなよ、適当な時間で交代だ」 寝袋を器用に巻き付けて身体の自由と防寒を両立させながら彼が言った。手元にはもう電動銃の鈍く光るチャージライトがちらつく。 「本当に競合他社が襲いかかってくるのかな、相手だって眠いんじゃ」 自力で寝るのも起きるのも初めての僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。しかし彼は構わず腹ばいになって傾斜の向こう側に電動銃のバッテリーマガジンを立てかけた。 「むしろ油断ならない。夜勤<ナイトシフト>の連中がいる」 「夜勤<ナイトシフト>?」 聞き慣れない言葉だ。ひょっとしたら僕のこれまでの職分では知りえない言葉がたくさんあるのかもしれない。 「夕方に解凍されて夜のうちに勤務する凄腕の輩だ。おれもお前も大抵の仕事はものを持って帰ったり、情報を集めたりすることだが、連中は違う」 深く息を吸い込んだのか、彼の背中が一層盛り上がった。 「連中の仕事は競合他社の人員を減らして回ることだ。つまり、戦闘しかしない」 さながら血に飢えた野獣のようなイメージ像が脳裏に浮かんだ。当然、僕が適性によって今の仕事をあてがってもらったように、夜勤<ナイトシフト>にも適性があるのだろう。電動銃をどこにでも百発百中で当てられるとか、夜でも眠くならない体質とか。 「そういう人たちと戦ったことがあるのか」 「ない、あったら生きてちゃいない。だがおれたちの会社で元夜勤だったやつと組んだことはある――早死したくなくて配置転換を希望したと言っていたが――いずれにしても、なるべく敵には回すまいと感じたな」 こんな話を藪から棒に聞かされて、限られた睡眠時間を十分に活用できるか心配で仕方がなかった。今、この瞬間にでも夜目の効く最強の使い手が自分を照準の中に収めているかもしれないのだ。

6

ところが意外にも、次の瞬間にはごつごつとしたHID6の手に揺さぶられて起こされる羽目となった。感覚的には解凍されるのとさして変わりはない。脳みそが引き出されているかいないかの差ぐらい――にもかかわらず、外はまだ暗く何時間も経ってはいないであろうことが察せられた。同じように眠りについていても、人間の生理的なファンクションの方の睡眠はずいぶんタイムスケールが短い。 結局、いまいち覚醒しきれていない状態で指図されるがままに寝袋から出て身体に巻き付け、数時間前の彼がしていたように傾斜の前に腹ばいになった。「電動銃の撃ち方は知っているな」「それは……知っている。情報化前の講習で倣った」「撃ったことは?」「ない」急ごしらえの相棒はとんだ新人と組まされたものだと言いたげに口を曲げた。だが、それでも真剣に指示を続けてくれた。 「いいか、三つだけ覚えろ。先に撃たれてお前が死んでいなかった場合、とにかく撃ち返せ。ビビって引っ込んだら距離を詰められる。次に、銃声がしたがお前じゃないやつが撃たれている場合、すぐに隠れておれを起こせ。最後に、すでに相手が接近していて取っ組み合いになった場合、大声をあげて危険を知らせろ。いいな、なにもなければ日が上がるまで監視だ」 僕は反射的に「えっ」と唸った。「じゃあ僕はもう寝られないのか」体感的には明らかに眠い。これまでの仕事では感じた試しのない感覚だ。しかし目の前の経験豊富な同僚は眉間に皺を寄せて「お前はもう五時間も寝た。俺だって同じくらい寝る権利はある」とぐうの音も出ない正論を告げたので、目の前に広がる暗闇と黙って対峙するほかない現実を渋々受け入れた。 あるいはこれが僕のこれからの仕事なのかもしれない。いつどこから撃ち殺されてもおかしくないと考えれば怖がってもいいはずなのに、十分ではない睡眠となんの代わり映えもしない黒一面の風景に、姿勢さえも変えられない窮屈さが倦怠感を身体じゅうに押し広げてあるはずの恐怖を塗りつぶしてしまう。 小一時間経ったか、それともまだ五分しか経っていないか定かではないが、僕の意識は将来の人生設計に傾いた。今は必要に応じて解凍される標準入力インターフェイスでしかないけども、いつか精神体の人々はなんらかの根本的な解決策を手に入れて地上に進出するはずだ。数十年後か、数百年後か、数千年後かはともかく、冷凍冬眠装置に故障がなければ僕もその時には一人の市民として輪に加わっているだろう。立体映像として描かれた上司の彼女とも直接会って話せるようになるかもしれない。より多くの人々とも交流の機会を得て、地上世界をより良くするために話し合うことになる。 そこへいくと、僕はあまりにもものを知らなさすぎる。今、こうして地上での勤務経験でも同僚に水を開けられているし、無限大の情報源にアクセスして僕たちが寝ている間も常に思考を重ねている精神体の人々とはまずもって比べられない。あらゆる問題が解決した後でさえも僕自身の能力が課題として待ち受けており、それを改善するのは簡単ではない。 昔、地上に人類が暮らしていた頃には何人にも教育が与えられていた。そういう施設もたくさんあった。ところが今から地上世界に再進出するとしても、当面はもっと基礎的なインフラを構築する方が優先されて他の事柄は後回しにされるに違いない。つまり、現状の格差を覆す手がかりはおそらく得られず、僕の人生は非常に不活性的で見通しの悪いものとならざるをえない。 だとしたら。こうも考えられる。 今の状況がずっと続いている方がよほど良いじゃないか。地上に出て応分の働きをして、用が済んだら冷凍されて、そのうちまた解凍される。人生がとても離散的なのはやむをえないが、少なくとも思い悩むことはあまりない。たまにトイレに糞が残っているとか、食事や水に喜びを見いだせないとか、そういった点に目を瞑れば今の暮らしもそんなに悪くはない。彫刻だってできる。 ただ……じゃあなんで僕はもっと楽な地質調査とか資源の回収の仕事に留まらず、より多くのことを知ろうとしたのだろう。今だって眠いのをこらえて必死に―― その時、真っ黒な風景にわずかだが光がちらついた。最初は気のせいかと思ったが、続けて二回、そして三回、光が灯る。入れ違いに別の地点でも光が灯った。やがて決定的に電動銃特有の奇妙な音色が耳に届いて、いよいよ確信を得た。 銃撃戦が行われている。 左手の閃光は派手に光っているのに対して右手の方は幾分控えめだ。だんだん激しさを増して音も大きく響いている。そこで、はたと思い出して彼を起こそうとしたところで背後から声がした。 「右のやつらが夜勤<ナイトシフト>だな」 どきりとして「起こそうと思ったんだけど」と申し開きをしかけたが、彼は平然と僕の前から電動銃を持っていって自分の位置に構え直した。 「いや、おれが勝手に起きた。眠りが浅かったらしい」 おそらく眠りが浅いのではなく、浅く寝ていたに違いない。頼りない新人に命を預けて高いびきなど経験豊富な者の振る舞いではないからだ。 とはいえ、いちいち落ち込んでいても仕方がない。僕も自分の背嚢から電動銃を取り出して開き、さっきまでと同じように置いた。 「なんで右が夜勤<ナイトシフト>だと分かるんだ。左の方がよく撃っているように見えるけど」 しゃべっていても隣の同僚の頭は照準から揺らがない。 「光の散乱具合から当てずっぽうに撃っているだけだと分かる。それに対して右側は正しく牽制している。距離を詰めきるまで逃げられないようにするためだ。ほら、見ろ」 数百メートルか、あるいはもっと離れた地点で決定的な瞬間が訪れた。最後に右手の光が二回光り、以降はまるで闇がすべてを覆い隠したかのように辺りが静まり返った。 「妙な気を起こすなよ。おれたちにできるのはやつらがひと仕事を終えたと考えて帰ってくれるのを祈るだけだ」 さすがにこの頃には眠気が吹き飛んでいた。たった今、暗闇の対岸で絶命した人々も今後の人生について思いを馳せていたかもしれない。それがほんのちょっとしたさじ加減で奪われた。まだ見ぬ夜勤<ナイトシフト>の凄腕たちが気まぐれで進行方向を変えていたら、今頃死んでいたのは僕たちだったのだ。

7

何事もなく太陽が上がり、食事を食べ終え、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても恐怖は背筋に張りついたようにしていつまでも消えなかった。まだ殺し足りない夜勤<ナイトシフト>が昼も活動していて、四方八方のどこからか自分を狙っているのではないかと妄想に駆られた。彼らが文字通りの職分ならそんなことはありえない。そうでなくても襲撃の気配があれば僕よりも先に同僚が気がつくだろう。いずれにしてもなにかが起こる前から心配するのは杞憂でしかなかった。だが、分かっていても足取りは鉄の重さで、腹にはいつまでも溶けない氷が沈んでいた。 「ここだな」 HID6が大きな平屋建ての前で止まった時、ようやく安堵の気持ちが芽生えた。建物の中に入れば遠くから撃ち殺される可能性は低い。実際、この後の仕事はとても気楽だった。目標物はあっけなく見つかった。眼前に並ぶ砲弾らしき物体そのものは風化していてもはや役に立たないが、内部の弾芯にはタングステンが豊富に含まれている。そのまま持っていくには重すぎる砲弾も、古くなっていたおかげか背嚢の角や電動銃の銃床を駆使して叩くと簡単に砕けた。同じ作業を二人で黙々と続けているうちに、ブリーフィングで示されていた分量を大幅に越える材料が集まった。 しかし意気揚々と帰り支度を整えて建物から出ようとした途端、正面にひと組の人影を認めて僕はついさっきの恐怖を胃の奥からせり出すこととなった。電動銃――背嚢の中だ――目視距離に堂々と佇む二人と相対すること数秒、先に口を開いたのは相手の方だった。 「君らもここで物資を集めていたのかい」 背後で電動銃を構えていたのであろうHID6が答える。 「さあ、どうかね」 「タングステンか?」 「だったらどうだ」 短い応答の後、相手は急に両手を胸の前で合わせて懇願のポーズをとった。 「我々も同じものを探しているんだ。もしよかったら分けてもらえないか、この通りだ」 そこで僕はようやく相手が二人して武装していないこと、そもそも雰囲気からして敵意がないこと、イエローの作業服を着ていることなどを把握した。張り詰めていた緊張の糸が切れて、がちがちに固まっていた筋肉が和らいだ。 「おれたちになんの利益が? 他社だということくらいは分かってるだろう」 「分かっている、交換しよう。我々は銅線を持っている。今回の目標物でなくても絶対に必要なはずだ」 確かに、と率直な感想を抱いた。銅線なら僕の仕事でも集めた覚えがある。次回以降の仕事で要求された時にもともと持っていたらその日は仕事をしなくてもB評価だ。 「現物を見ないことにはなんとも言えんな」 同僚の呼びかけに律儀に応じて、彼らは各々の背嚢を下ろして中身を探りだした。昨夜、戦闘しないまでも夜勤<ナイトシフト>たちの仕事ぶりを目の当たりにしたからか、この短い間にも特殊な感覚が養われたのか分からないが、てんで戦闘経験のない僕にさえ、彼らが隙だらけの小動物に見えた。じきに背嚢の奥からずるずると銅線をひっぱりだすと、その長さを誇るようにして広げてから丸めはじめた。 「どうだ、悪い話じゃないだろう? 多めにとったって評価はどうせ変わらないんだ、だから」 「そうだな。いいだろう」 そう言うと真後ろにいた巨体が歩を進めて隣に並び、背中の背嚢を片手で持ち上げて下ろした。 もう片方の手にはまだ電動銃が充填状態で握られている。 「だが、おれがくれてやるのはこいつだ」 電動銃が真横で射出されて不可視の運動エネルギーがイエローの作業服を着た相手に衝突した。それは相手の胴体に風穴を開けるには十分すぎる威力で、すでに事切れているであろう肉体はそのまま地面に崩折れた。撃たれていない方は突然の襲撃に状況を飲み込めず、まばたき数回分の間隙を経てようやく素っ頓狂な悲鳴をあげた。僕自身の悲鳴も遅れてあがった。 「おい、一度しか言わねえからよく聞け。走って逃げ切れたら追わねえ。だからうまく逃げろ。ほら、走れ」 二人の醜態をよそに彼は黄色い作業着の足元すれすれに二発目を放った。ほとんど反射的に背嚢も持たずに相手は走り出した。 「おっ、けっこう速いじゃねえか」 いくらか時間を置いて同僚が放った三発目、四発目の銃撃は傍目から見ても粗雑な撃ち方だった。とても当てるつもりで撃っているとは思えない。現に運動エネルギーの塊は相手から数メートルも離れた地点にぶつかり、かすかに土煙を舞わせていた。しかし彼は一向に意に介さず、黒い顔に今まで見せたこともない残忍な笑みを浮かべながら作為的な射撃を繰り返した。 そうして一分、二分も経ち、イエローの作業着が本当にイエローなのか判別がつきづらくなってきた辺りで、彼はいきなり銃の構え方を変えた。 「そろそろ楽しみは終わりだな」 距離距離はもはや狙撃に近いと言って差し支えないほど離れていたにもかかわらず、最後の一撃はあっけなく逃げ惑う背中の中心を捉えた。さすがにこの距離となると悲鳴も地面に倒れた音も聞こえない。 「……どうして」 今の僕の心理状況としては、この一言を絞り出すのが精一杯だった。言いながら、次の言葉を考える。 「殺す必要は、なかった」 しかしそのわずかな間に、目の前の殺人者はさっきまでの堅実で面倒見のよい同僚に変貌を遂げていた。 「もうずいぶん前になるが、言っただろ。お前の楽しみみたいなのがおれにもあると。おれは……逃げるやつを撃つのが好きでね」 あまりにも感慨深く、まるで趣味の話でもするみたいに言うものだから僕は気がおかしくなりそうだった。相変わらず堂々とした態度で彼は「それに」と付け加える。 「お前、A評価って取ったことないだろう。あれはどうやったら取れると思う」 「し、知らない」 これは一瞬前までは嘘ではなかった。本当に知らない。最初の何回かは多く資材を持っていって高評価を狙ったものの、上司の彼女が褒めてくれるだけで評価自体に変化はなかった。直接、A評価をとるにはどうしたらいいか聞いたこともあるが、はぐらかされるばかりで結局教えてもらえていない。 もちろん、こうして状況と辻褄を合わせれば未経験者の僕でも吐き気を催すほどよく分かる。 「おれたちだって競合他社を減らせる。この銃はそのためにあるんだ」 「今まで、何回、こんなことを」 しゃべらないと本当に吐いてしまいそうだったので聞きたくもない質問をした。対する同僚の受け答えは洗練されていた。 「おれはずっとA評価しか取ったことがなくてね」 帰りの道のりは非常に快適だった。なぜなら殺したイエローたちは電気で動く二人乗りのバイクを近くに隠していて、それに乗って帰ったからだ。僕の本心を見透かしていてなおHID6は後部座席に座る僕に、エンジンの駆動音や風切り音に負けない大きい声で呼びかける。 「こんなものおれたちは持っていねえ! そうだろ!? だが他社の連中は持ってる! おれたちが持っていない良いものを連中は持ってる! これでおれたちが勝ってると思うか!? ええ? 殺さずに勝てると思うか!?」 僕はひたすら無言の抵抗を貫くほかなかった。時速百キロメートルで前から後ろへと高速で流れ去っていく風景、彼方まで広がる乳白色の塩の地平線、そのどれもがひどく味気なく感じられた。

8

成果物を走査するダッシュボードの中にタングステンと血みどろの生首が投げ込まれて以来、僕はあっさりこの種の仕事から手を引いた。もともと適性なんてなかったのだ。モクロスクリーンに踊るA評価の文字を一瞥してさっさとチェンバー室に戻っていったHID6をよそに、いつまでも色褪せたリリウムの床に滴る血痕を眺めていた。率直に配置転換の希望を告げると彼女はむしろ安堵した様子だった。 ロッカーには金属製の背嚢が残ったままだったが、もう二度と使うことはない。中から便利そうな道具だけ拝借して、手に取るのはいつもの軽くて柔らかい背嚢だ。あれから何回かまた冷凍と解凍を経て、土と塩をいじる生活に逆戻りした。電動銃も持ち歩いていない。ブリーフィングで作図される地図の縮尺は小さく、競合他社と相まみえる危険性は非常に低い。それでももし出会ったら……荷物を全部差し出すか黙って撃たれる方を選ぶ。 僕の人生設計は完全に崩壊した。人類はきっと滅ぶ。どこでボタンをかけ違えたのか分からないが、競合他社同士で別け隔てなく協力し合うのも難しいのだろう。シェルターの位置を中心に得られる資源の多寡や種類が定まり、おのずと生産できる成果物も決まっていく。どんなに条件を詰めても必ずどこかの会社が割りを食い、他社からの施しは後世に渡る不利を形成する。企業のステークホルダーはそんな不合理な契約を認めたりはしない。法人とはそういうものだ。 太古の昔、我々は自然人と呼ばれる存在だった。法人格の一部に組み込まれる前――僕たちの判断は真に個人に委ねられていた。それが村を形成し、国家となり、より利益に先鋭的な企業組織の台頭が目覚ましくなると、個人的な意思決定の領分はますます縮小を余儀なくされた。そんな折に訪れた気象災害は法人の自滅的傾向をより鮮明に描き出したと言える。競争するために生まれた存在は競争によって死ぬしかないのである。 乳白色の地面の上で塩を舐めることが増えた。自分のしている営為が無味乾燥ではないと確かめたがっているのかもしれない。頭の中で意味を感じられていないから、舌を通して味を感じている。今日も今日とて塩辛さは変わらない。 そんなふうだからか彫刻の出来栄えには自分でも首を傾げざるをえない。出来上がったものを見つめたり、くるくると回したり角度を変えてみても特になにか文脈を負っているようには感じられない。先の出来事が自分の人生観にショックを与えすぎてスランプに陥ってしまったのだ。 今回もまた、思うままに刻んだ形容しがたい塩の塊を地平線の彼方に向かって投げ捨てた。塊はほど近い地点に着地して乳白色の地面をつるつると滑っていった。 やりきれない気持ちを抱えながら帰途に着くと、遠くに人影が見えた。あの時以来、同僚と分かっていてもなにか動くものを捉えたら目で追う癖がついている。背嚢から双眼鏡――金属製の方から拝借した――を取り出してよく覗くと、他ならぬ巨体の殺人者がそこにいた。HID6だ。シェルターとは反対方向に向かっている。仕事の途中だろうか。 しかしそう考えるには不審な点があった。今は昼過ぎで、仕事を始めるには遅すぎる時間だ。かといって帰ってくるのは早すぎるし進行方向もおかしい。 ありえるとしたら夜勤<ナイトシフト>に配置転換された場合だが、だとしたら今度は逆に出勤が早すぎる。話を聞くかぎり彼らは夕暮れ以降に働いている。 棒立ちで注視している間に彼はゆっくりと遠ざかっていく。そういえば電動バイクも使っていない。あれほど便利な道具を使わないのは不合理だ。しかし数回の冷凍と解凍の間に何百年も経っていて電装系が風化した可能性も否めない。 こうして思案しているとなぜたか胸のつかえがごまかされるような感じがした。おのずと足が前へと動き、やがてHID6の後を追う格好をとった。たぶん僕は、なんであれ彼の行いをもう一度目の当たりにして決着をつけなければならないのだろう。 いざ追ってみるとすぐに彼の行き先が変わっていることに気がついた。無価値の瓦礫の山ばかりでなにもない内陸部の方へと進んでいる。結果的に遮蔽物が多く、隠れながら進む手がかりを得たものの言葉に言い表せない違和感はますます強まった。あるいは、彼の「楽しみ」と関係しているのかもしれない。いずれにしても腹は決まっていた。 彼の歩みは堂々たるもので一切迷いが感じられなかった。地質調査でもなければなんらかの資源を探しているといったふうでもない。予め目的地が決まっているようだった。それにしては歩幅や身のこなしから疲労を気にしている素振りはない。以前の出張のように日をまたぐ仕事ならどんな体力自慢であっても足取りは重くなる。彼ほどの恵体の持ち主なら尚更そうだ。 実際のところ、僕は半ば尾行が露見しても構わないつもりでいた。いざとなれば目的地の方角が同じだったとか、彫刻の材料を探していたとか、いくらでも言い訳は立つ。いくら遮蔽物が多いといっても半身も隠せればいい方だ。なにもない時もある。数百メートルの距離があるといっても見通しのよい終末の真っ平な世界で、気まぐれに振り向きでもされたら即座に発見されてしまう。もし目が合ったらこっちもたった今気づいたようなふりをして挨拶を交わすつもりだ。この際、過去のわだかまりはないものとして扱った方が望ましい。 少なくとも、彼の不審な行動の理由がはっきりするまでは。 予想通り、双眼鏡の向こうの巨体は尾行開始から一時間ほどで止まり、瓦礫の山が特に積もった地点で辺りを見回しはじめた。すると、グレイの作業服を着た標準入力インターフェイスが二名、どこからか現れて接近してきた。意外にも彼は電動銃を手に持っていない。こんな状況で襲撃されたらひとたまりもない。 不本意ではあるが、僕は遮蔽物から遮蔽物に移動を重ねて彼らのすぐ近くまでにじり寄った。距離にして三〇メートルもない。双眼鏡がなくてもお互いが見える距離だ。いざとなったら武装しているふりをして牽制しなければならない。殺人者とはいえ有力な人材を競合他社に潰されるわけにはいかない。 ところが、彼らの応対はあたかも親しみさえにじみ出るほどこなれたもので物騒な気配は一切しなかった。案外、彼も人殺し一辺倒というわけではないらしい。金属製の背嚢を下ろしてやり取りもしている。今は電動銃を見せてなにかを教えているようだ。武器と交換したくなるほど価値の高い資源をもらえるのだろうか。 ひゅっと甲高い音がして、自分の真横を運動エネルギーの塊が通過していった。瓦礫の壁が砕けて砂塵が舞う。あげかけた悲鳴を喉元で抑え込んだが、どのみち意味はなかったようだ。たぶん、彼は最初から気づいていたのだ。それどころか、ここについてくるように仕向けていた。 「おーい、坊主! 出てこいよ! いい話がある!」 牽制射撃で動きを封じておきながら、彼の声はぞっとするほど朗らかだった。それでも懸命に気取られまいと僕は物見遊山のふりをしてふらふらと近づいていく。 「なんだ分かっていたのかあ、実は挨拶しようと思ってたんだ、たまたま材料を探していて……」 「そうか、まあ久しぶりだな。見ての通り、こいつらは他社の標準入力インターフェイスだ」 こちらの言い分をまるで信じていない態度で彼は横に立つ人物を紹介した。抜け目ない狡猾そうな表情をした二人は口も利かずに黙って会釈をする。僕も努めて明るく返す。 「君、話し合いとかできたんだな。てっきり撃ち殺してばかりなのかと」 皮肉を交えて石を投じてやるも、HID6に気を払う様子はなかった。横の二人も平然としている。 「普通はな。昨日もやってきたばかりだ。背嚢に首が入ってる。見るか?」 「……それで、いい話というのは?」 口を開いたのはグレイの作業服を着た方だった。 「正直、我々にとって貴殿の介入は想定外なのだが……」 「いや、いいよ。おれが推薦する。こいつは成体未満だ」 無表情のまま渋る二人に対して彼が顎でしゃくると「確かに」ともう片方が納得した。 「成体じゃなかったからどうだっていうんだ」 「成体でなければ成長余力が見込まれる。つまり適性の修正幅が大きい」 グレイの一人が手短に説明した。これまでずっと他の標準入力インターフェイスより背が低く、膂力も小さく、肉体性能に劣っていることに気後れしていたが、視点を変えればそういう見方もできるらしい。 「じゃあおれとこいつが転職ってことでいいな」 「……いいだろう。シェルターの座標と武装の概要は把握した」 「転職? 転職ってなんだ」 また知らない単語が出てきた。もちろん地上に人類がいた頃の単語としては理解している。昔の社会には様々な職業があり、個人の希望と需要に合わせてそれを変えることができた。だが、今のご時世に標準入力インターフェイス以外の生き方が肉体を持つ者にあるとは思えない。 HID6は僕の背丈に合わせて少し屈み、噛んで含めるように言った。 「おれたちのシェルターはもう終わりだ。開発競争で負けているし、持っている情報量も少ない。おまけに便器はいつも糞まみれ。このまま所属していてもジリ貧だ。だから、転職する」 「え、それは、つまり――」 「我が社の標準入力インターフェイスに移り変わるということだ。代わりにシェルターの位置、セキュリティ、武装、施設内の構造について教えてもらった。近年中に襲撃する予定だ」 それは、つまり、産業スパイじゃないか。背任行為だ。 グレイの二人のうち片方が背嚢から電動銃を取り出した。口で言わなくても態度は伝わる。心なしか僕たちの武器よりも洗練されているように見えた。そこへ、巨体の彼が割って入る。 「悪いことは言わねえ、黙って首を縦に振れ。お前が土いじりを続けたいっていうんならしばらくは構わない。グレイの作業着を着てやればいい。どうせそのうち気が変わる。おれの目は確かだ」 「分かった、分かったよ。待遇が確かなら転職する。僕は会社にこだわりはない」 それ自体は、嘘ではなかった。遠い昔に死んだ両親が少数株主で、たまたま契約していたシェルターだったからという理由なくして僕がオレンジの作業着を着る意味はない。なにか一つでも前提条件が違えば、僕は喜んで今いる会社の全員を死に追いやっただろう。 しかし。 ただ僕は彼が許せなかった。巨体で親身な彼が喜んで人殺しをしていたこと、それでも会社の利益のためだと思い込もうとしていた信頼を再び裏切られたこと。そこに始末をつけることが僕にとっての最優先で、他の事柄は些事でしかなかった。 「念のために武器を押収したい。これからシェルターの付近まで同行してもらう。一応確かめておかなければ」 「こいつは武器を持たないやつなんだ」 「いや、彫刻を掘るためにナイフを持ち歩いている」 「たかがナイフだろ」 グレイの片方は首を振って手を突き出した。「ナイフも武器には違いない」僕は腰を落として背嚢を前に回し、ナイフを差し出した。代わりに受け取ったHID6が振り返ってグレイの片方に手渡す。 今の彼は隙だらけだ。 僕はすばやく背嚢から塩でできた鋭い彫刻を抜き取り、広々とした巨躯の肩に突き刺した。ところで、塩のモース硬度は二.〇以上もある。石膏より固い。尖った先端は筋肉の中に吸い込まれるように入り込んでいき、僕の手元に生々しい嫌な感触を残した。彼の野太い絶叫が辺りにこだまする。そうして抜き取った塩の塊を、痛みから膝をついた巨体の向こう側――グレイの片割れに向かってまっすぐ投げつけた。今度は刺さりはせず手にぶつかって落ちる。それでも電動銃を放り出させるには十分だった。 未発達な肉体に有利な点があるとすれば身軽なところだ。前に放り投げられた電動銃を前に踏み出して拾い上げると、ろくに照準も合わせずグレイの作業着に向かって発砲した。洗練された外見に相応しい洒落た音をたててエネルギーの弾丸が相手の胴を貫く。続けて、わずかに銃身を水平にずらしてもう片方も始末する。 なにも頭で考えてやってのけたわけではない。彼に塩の彫刻を刺してから先のことは行き当たりばったりだった。 「くっ、このガキ……」 振り返ると顔を激情に歪めた同僚が肩を抑えて立ち上がっていた。今度こそ、逃げるしかない。 僕はありったけの力を込めて美しい作りの電動銃を瓦礫の山の遠方に打ち捨てた。直後、背嚢を手に取って脱兎のごとく駆け出す。走り出して少し経つと滑稽な雰囲気の銃声が背後から聞こえてきた。彼が自分の電動銃を撃っているのだろう。瓦礫の壁の間をすりぬけるように走ってやり過ごす。ほどなくして振り返ると、山のような巨体が必死で追いすがってくるのが見えた。

9

毒々しい夕暮れの強い日差しが乳白色の地面を照らす。その合間を二つの人影が通り過ぎて大きく間延びした影を作る。それはさながら巨人同士の戯れに見えた。だが、現実、僕は殺人者に追われていて僕も今では殺人者になってしまった。正当防衛を主張する論拠は乏しい。彼の言う通り黙って頷いていれば危害を加えられないであろう確信はあった。長距離走に特有の脇腹の痛みに苛まれながら、今になってなぜこんなことをしでかしたのか後悔の念が湧く。突沸した熱湯のごとく湧き出した怒りが僕を動かしたのだ。あえて平易に表現するならこれを反抗、と呼ぶ。 当初のリードは僕の体力的限界に応じてみるみるうちに縮んでいった。ちらと振り返ると彼も決して気楽そうではなかったものの、それでも一〇〇メートルも間隔はない。一気にペースを上げて距離を詰めないのは追いついた後の取っ組み合いを想定してのことだろう。彼は背嚢も武器も置いてけぼりにしてきたので丸腰だが、こっちは背嚢を背負っている。むろん、唯一の正規の武器であるナイフを差し出し、塩の結晶の塊も電動銃も投げ出した今では同じく丸腰だったが、中身が不明な荷物を持っているというだけで相手は手を出しにくい。 ここへきて今さら話し合いは通じないだろう。捕まったら素手でも殺される。なぜなら彼には僕がしようとしていることが分かっているからだ。僕もまた彼の殺意を認めているからすべきことが決まっている。このままシェルターに直進して、競合他社による襲撃を情報体の人々に知らせなければならない。 やがて距離間隔は五メートル、三メートルへと縮まり、シェルターの階段が石畳から引き出される頃には一息で追いつかれそうな位置にまで近づいていた。転がるようにして階段を降りてドアをくぐる。シェルターの大きなハンドル付きの扉はしばらくすると勝手に閉じてまた開くまでに時間がかかるが、今回の場合は手近すぎて彼を押し止める役には立たない。暗闇を左右に湛えた細い通路をなるべく急いで移動する。もう彼の黒々とした顔つきがはっきり見えるほどの間隔しかない。勤務評価室で彼女を呼び出している暇などない。シェルター内での標準入力インターフェイス同士の殺傷をどう扱うのか未知数だが、少なくともA評価常連の彼をいきなり懲戒解雇にはしないだろう。せいぜいしばらく謹慎として冷凍させておくだけで、襲撃後にはグレイの連中が彼を解凍している。ここに逃げ込めたことは僕にとってなんの安全も保証しない。 通路を抜けたあたりで背後から銃声がした。ただでさえひび割れた壁面に弾痕が穿たれる。危険物室から別の電動銃を取ってきたのだろう。ついに追いかけっこに業を煮やしたのだ。三発目の銃声が響いたあたりで、僕は肩口に鋭い衝撃を感じて横の壁に身を叩きつける結構となった。まるで鋭利な熱湯の塊を浴びせられたような鮮烈な痛みが押し寄せて、声にならない悲鳴をあげる。噴き出した血漿が薄汚れた壁面や床に血溜まりを作った。 それでもチェンバー室は目の前だった。走っているとはとても言いがたい足取りで追手から逃げ惑う僕に残された手は、もう一つしかない。血で汚れた手でチェンバー殻の湾曲した表面を叩いて内部に転がり込む。殻が閉じきったあたりで電動銃を手にしたHID6が目の前に立ちふさがった。さしもの彼も長距離走はさすがに堪えたようで、顔いっぱいに汗をかいて息を切らしている。無言のまま電動銃を構えてチェンバー殻に向けた。 だが、電動銃はオレンジの警告灯を表示して発射機構を閉じた。 やはり、シェルター内の設備を破壊されないよう予め規制登録してあるのだ。強化ガラス越しでも分かる仕草で舌打ちすると、彼は大仰に電動銃を投げ捨てた。そして、これまたガラス越しでもよく通る大声で言う。 「ふん、そのまま寝たければ寝るがいい。起きた瞬間に首をひねって殺してやるからな」 まるで研ぎ澄まされた肉体を見せつけるようにその場で脱衣した彼は、大股開きで近くのシェルター殻に入り込んだ。僕より先に解凍されるつもりだ。 シェルター殻の内部で警告音が鳴り響いた。湾曲した表面に文字列が二行ぶん並ぶ。 〝警告。着衣状態では正常な冷凍が行われません〟 〝警告。バイタルに異常を検知。正常な冷凍が行われません〟 一体、誰に聞こえるのかも定かでない状況で、僕は叫んだ。 「構わない、強制的に冷凍してくれ それで、あいつよりも、HID6よりも早く解凍してほしい」 〝その要請には従えません。解凍処理は接続要請が行われた時にのみ行われます〟 「なんでもいい! なにか、理由を、考えて……」 〝強制冷凍シークエンス開始。当社の保証範囲外です。問題発生時につきましてはお客様の……〟 シューッとガスが吹き込む音がして、徐々に僕の意識は遠のいていった。不出来で未発達でおまけに流血もしている肉体の頭部にドライバが差し込まれる……。 夢は見ない。冷凍されている間の脳は当然ながら細胞レベルで活動が停止しているため電源を落としたコンピュータとなんら変わりはない。電源がないコンピュータが電気羊の夢を勝手に見ないように、我々の意識もまた諸神経の活動レベルに合わせて連続的に再開される。次に目が覚めた時、湾曲したガラスの表面に示された文字列がにわかに僕の恐怖を細胞レベルで呼び覚ました。胸の高鳴りが警告音と並走する。 〝標準入力インターフェイス11接続処理中〟 「待て、待ってくれ、出さないでくれ」 哀願を無視してシェルター殻が前にせり出す、ガラスを引き戻そうと突き出した腕が無慈悲にも空を掻く。 そこで僕は違和感に気がついた。浅黒い隆々とした腕はどう見ても自分のそれではない。顔を傾けると、腕の付け根の肩口にはさらに盛り上がった筋肉が配されていて、なにか鋭いもので刺されたような傷跡があった。 正面を向くと、ガラスの表面に蛍光灯の光が差して自分自身の姿が映り込む。黒々とした逞しい顔、鎧のような肉体は、明らかにHID6そのものだった。 「これは……」 〝解凍処理の失敗につき、ハードウェアの換装を行いました〟 前に踏み出すと太ましい両脚が即座に応じた。チェンバー室の中央には見慣れない中肉中背の男が立っている。僕の姿を見た瞬間、狼狽を隠せない様子で叫んだ。 「お前、お前……返せっ、おれの身体……」 「君、まさか、HID6なのか」 口を衝いて出た音は野太く低く、とても自分のものとは思われなかった。状況から推察して、僕の本来の肉体は死んだのだろう。着衣のまま出血も多量にしていてはスシ・レストランの下働きが下処理を誤ったツナのように腐敗してもおかしくない。しかし、取り出された脳は生きていた。保存されている肉体の中でもっとも適合性の高いものが自動的に選択されたのだ。それが、HID6の肉体だった。 HID6が突進してきた。なるほど中肉中背の身体でも元の僕だったらきっとひとたまりもなかっただろう。しかし、今の僕にとってはまるで止まっているように見える。難なく向かってきた相手の首筋を片手で掴むと、そのまま真上に持ち上げた。目測で一八センチメートル近くはありそうな成人の裸体が宙に浮く。首を強く締め上げているので彼の口からは声にならないうめき声が漏れた。 自分の身体に絞め殺されるかもしれないというのはどんな気持ちなのだろう。しばらく逡巡した後、僕は手近なチェンバー殻に彼を文字通り片手で持ち運んでいき、そのまま投げ飛ばした。彼が起き上がる前に殻の表面を叩いて再び冷凍シークエンスを開始させる。いずれにしても、処分を決めるのは情報体の仕事だ。 巨躯を駆って人生最後になるかもしれないモーニングルーティーンを済ませる。食事と水分補給はこの身体だといつもの三倍は食べないと満足しなかった。ブリーフィング室に着くとさっそく、立体映像の彼女を呼び出す。彼女は姿が変わってしまった僕に少々驚き、また痛み入るような眼差しで見つめたが、怯まずに堂々と物申した。 「今すぐ稼働可能な標準入力インターフェイスをすべて起こしてほしい。緊急事態だ」 冷凍されてから何年経ったが分からないが、グレイの連中がいつ攻めてくるか定かではない。 〝一体なにが……〟 「今回は全員休日出勤だ」

10

僕の証言と突き合わせて被疑者とされたHID6の半解凍大脳を走査して、これから迫りくる脅威の真実性が明らかとなると情報体の間で直ちに緊急の会合が持たされた。地上に露出したセンサ類は紛うことなく隊列をとって移動する集団の姿を捉えている。 聞いたこともないような警告音がシェルター内に鳴り響き、危険物室の中身が一切合切取り払われ、すべての標準入力インターフェイスが武器を手に持って一堂に会した。これほどの人数が同じ勤務シフトを組むことになったのは例を見ない。中でも目を見張るのは夜勤<ナイトシフト>の面々だった。意外にも老若男女の多彩な顔ぶれが並ぶ列に武器が手渡されると、もうすでに戦闘の検討が済んだとでも言いたげに各々の持ち場へと向かいはじめる。 陣頭指揮は僕が取る形となった。皮肉にもA評価常連の巨体は人々を従わせる上で相当な効力を発揮した。元の肉体ではとてもうまくいかなかっただろう。 競合他社はおそらくHID6が直前にシェルターの扉を開放して招き入れることを念頭に置いているはずだが、かといってそれに依存して計画を立てるとも思えない。強襲の日に扉が閉まっていれば、それはそれで破壊する技術をすでに持っていると考えられる。したがって扉は予め開けて待ち受ける方針が支持された。たとえ最終的に防衛に成功しても破損した扉を修繕する能力を我々は持っていない。不正侵入を防げないシェルターは無力だ。せいぜいスパイが活躍していると思わせて、油断して入り込んできた初期投入戦力を削るのが手っ取り早い。 勤務開始から八時間が経過してすでに時間外労働に入りはじめた頃、センサが石畳の上に人影を察知した。相手の計画ではシェルターに帰還するHID6に続いて競合他社が侵入する手はずになっていたが、こちらの都合上、HID6に擬態した僕がシェルターから出て直接出迎える形をとった。 細い通路の対岸に多数の標準入力インターフェイスが潜む中、軋みながら開く巨大な扉の向こうの階段を昇り、地表に立った。さっそく僕を産業スパイと認めたグレイの作業服たちが四方八方から現れて電動銃を突きつける。隊列の一群はそれぞれ電動バイクを持ち、さらにひときわ大きな中世の破城槌に似た台車や、その他の兵器を積載した車輌を伴っていた。 「HID6で間違いないな」 僕はできるかぎり低く声を出そうと努めたが、実際には杞憂だった。彼の声はもともと低い。 「そうだ」 「施設内に稼働中の標準入力インターフェイスはいるか」 まったくいない、と言うのも嘘くさいので工夫を施した。 「内勤適性の者が数名いるのを見た。なに、どうせなにもできやしないさ」 グレイたちの何名かが顔を見合わせて頷くと、僕の方を向いて案内を命じた。 ぞろぞろと階段を下って、シェルター扉が再び閉まる前に隊列を招き入れる。 細い通路の前で一旦制止して「ここは狭いから一列に並んだ方がいい」と丁寧な助言を申し出る。 先頭の僕が渡りきったところで、突如、片手を大きくあげて味方に支持を出す。と同時に、射線から外れるように急いで先に進む。哀れにも身動きのとれない通路上に取り残されたグレイたちは、直後に不細工な電動銃の慟哭に包まれて瞬く間に絶命する次第となった。過剰な銃撃の余波でちぎれ飛んだ腕が暗闇へと消えていく。 戦闘開始だ。 大した間を置かず、銃声を聞きつけた後続の部隊が押し寄せてくる。巨大なシェルター扉を遮蔽にグレイたちが放つ応射は、その洗練された銃声もさることながら少なからずこちらの戦力をすり減らした。先に殲滅した隊列は全体の一部に過ぎない。その時、巨大な擦過音が虚空に響いて老朽化した壁面を炸裂させた。敵の高威力兵器だ。二発目の爆撃に捕らわれたこちらの隊列が瞬時に砕け散った。 いよいよ敵の優勢が鮮明と化したところで、情報体から一斉に退却命令が発布される。これ以上はより狭い空間に引き込んで戦況の泥沼を誘うしかない。 八時間の合間に即席で構築したバリケードや遮蔽物の隙間から、細い通路を渡りきってやってくる軍勢を抑え込むように射撃する。しかし電動銃のバッテリーは想定以上に摩耗が早く、電動銃自身の熱暴走も懸念材料であった。一方、目を見張る活躍を見せたのは夜勤<ナイトシフト>の面々で、早々に射列を放棄したかと思えば、廊下の角で各々近距離戦を仕掛け、ナイフ一本とごく抑制された電動銃の発砲で次々と手勢を仕留めて回った。 僕自身も、HID6の肉体によって駆動される正確無比の射撃と皮膚感覚にも等しい警戒意識に支えられつつ、徐々に後退を余儀なくされていく戦場で奮闘を重ねた。