初稿完成
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土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を落ち着けた。天を突くほどの巨大ビルがそびえていたという島も、世界でもっとも栄えていたとされる湾岸の街並みも、今では等しく時間の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像――かつて自由を讃えていたという――だけがこの辺りで唯一、まともに建っていると言える建物だ。
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土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を落ち着けた。天を突くほどの巨大ビルがそびえていた島も、世界でもっとも栄えていたとされる湾岸の街並みも、今では等しく時間の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像――かつて自由を讃えていた――だけがこの辺りで唯一、まともに建っていると言える建物だ。
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この前に来た時よりも少し暖かくなっていたおかげか、そこそこ長い距離を往復した割にさほど疲労感はなかった。乳白色の平らな地面を手でさすりながら、手頃な位置にナイフを突き刺して切り取る。力がないだけにずいぶん手間取るが、暇はたっぷりある。そうして得た塊からこぼれ落ちた破片を口に含む。しょっぱい。
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しかし、ミネラルと塩分の摂取にはとても都合が良い。なぜならこれは塩そのものだからだ。
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地平線の彼方まで広がるこの平面はかつて海の一部だった。大昔、人類に降りかかった気象災害により海水が凍結、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て巨大な塩の結晶の層ができあがった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が途切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。仕事として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面は僕を特別な気分にさせてくれる。
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地平線の彼方まで広がるこの平面は大昔、海の一部だった。大昔、人類に降りかかった気象災害により海水が凍結、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て巨大な塩の結晶の層ができあがった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が途切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。仕事として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面は僕を特別な気分にさせてくれる。
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気持ちが高まっているとよく手が動く。さっきまでは表情のない立方体でしかなかった塩の塊が、ナイフの切っ先で削られるごとに意味を持つ。四足の動物を連想させる時もあれば、人間っぽい形に変わることもある。まるで進化の過程を表しているみたいだ。最初の生命もミネラルと塩と水から生まれたのだった。
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高く昇った太陽が傾いで地平線の向こう側に隠れはじめた頃、僕の衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務査定を考えるとそろそろ帰宅しなければならない時間だ。現に勤務地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。
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「まだやっているのか、飽きないもんだな」
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@ -579,8 +579,8 @@ HID45がさらに声を張り上げて非難を強める。だが、元同僚は
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「返せっ、おれの身体だろ、返せっ!」
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突如、平静を失ったHID6が突進してきた。彼の元の身体には及ばないとはいえ、中肉中背の成人男性の肉体だ。以前ならひとたまりもなく吹っ飛ばされただろう。しかし、今の僕にはまるで止まっているように見える。向かってきた全身を片手で受け止めると、彼の動きは容易く封じられた。信じられないものを見る目が僕を見つめた。
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太い腕をぬっと突き出して首筋を掴む。そんなに力を入れていないのに目測で一七〇センチメートルはゆうにありそうな成人男性の身体が宙に浮いた。HID6は足をじたばたを震わせて途切れ途切れに声を漏らした。
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「待て――おれは、お前を――」
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力を込め続けるとじきに彼は口元から泡を吹いて頭を垂れた。意識の失った肉体を床に放り投げて左右のチェンバー殻を目で探る。ほどなくして、元の自分が収められていたものを発見した。
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「待て――おれは、お前を――っ」
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力を込め続けるとじきに彼は口元からぶくぶくと泡を漏らして頭を垂れた。意識の失った肉体を床に放り投げて左右のチェンバー殻を目で探る。ほどなくして、元の自分が収められていたものを発見した。
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その肉体は青く霜の吹いた生気のない顔で横たわっていた。流れる血液ごと凝固して凍っている姿はいっそ芸術的でもあった。殻の表面に静かに触って開くと、かつての自分の胸元に聖遺物の神々しさで佇むカメラを回収した。
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せめて服くらいは着なければ。更衣室でHID6の服を拝借している最中に、天井から大音量で放送が流れた。
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<当施設の経営権は当社に移行されました。標準入力インターフェイスの皆様はただちに業務を中断してください。有給休暇の取得をご希望の方は両手を組んで頭の後ろに回し、所定の位置に並んでください。繰り返します……>
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@ -608,96 +608,101 @@ HID6は「絶対に勝てない相手」だと言っていた。つまり。
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冷たく答えた彼女は仕切り直すように間をおいて続けた。
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〝ともかく現在、敵集団は最下層に向かっています。私がエレベータを停止したので階段を使っているようですが、いずれサーバ室にたどり着くでしょう。これは、あなたにとっては好機です〟
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「どうして?」
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〝生き残ったセンサ類を確認したかぎり、地表に不審な熱源反応はありません。私が今から培養プラントとエレベータを稼働させるので、この隙に地上に脱出してください〟
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〝生き残ったセンサ類を確認したかぎり、地表に不審な熱源反応はありません。私が今から一時的に培養プラントとエレベータを稼働させるので、この隙に地上に脱出してください〟
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「脱出って……その後はどうすればいいんだ? 君はどうなるんだ?」
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表示がかすれ気味のモノクロスクリーンに地図が表示される。そう遠くない距離に三つの点が穿たれた。
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〝これらは我々がかつて認識していた、比較的穏健な競合他社の一覧です。あなたはこのいずれかに向かい、あなたがたが言うところの転職を成功させなければなりません〟
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表示がかすれ気味のモノクロスクリーンに地図が描かれる。そう遠くない距離に三つの点が示された。
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〝これらは我々がかつて認識していた、比較的穏健な競合他社の一覧です。あなたはこのいずれかに向かい、あなた方が言うところの転職を成功させなければなりません〟
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「穏健と言ったって……敵じゃないか! そんな相手に、どうやって」
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---ここから再開
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しかし、彼女は一歩も譲らずに言い張った。
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〝他に手はありません。なるべく多くの備蓄食糧を持って、好機を掴んでください。どのみち私はサーバが接収された後に懲戒解雇される定めです。このシェルターはじきに機能を失います〟
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メンテナンスを受けられない標準入力インターフェイスは無力だ。問題を先送りにできる冷凍冬眠設備と、原材料も製法も不明のまずい食糧と水がなければ僕たち標準入力インターフェイスは三日と生きられない。
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しかし、彼女は一歩も譲らずに断言した。
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〝他に手はありません。なるべく多くの備蓄食糧を持って、好機を掴んでください。どのみち私はサーバが接収された後に解雇される定めです。このシェルターはじきに機能を失います〟
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メンテナンスを受けられない標準入力インターフェイスは無力だ。問題を先送りにできる冷凍冬眠設備と、原材料も製法も不明のまずい食糧と黒ずんだ水がなければ僕たちは三日と生きられない。
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〝いつまでもここにいてはいけませ――下がって!〟
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耳をつんざく彼女の悲鳴に似た絶叫に反応して飛び退くと、扉越しに銃撃が打ち込まれた。さっきまで立っていた床の辺りに小さな穴がぼつぼつと穿たれる。直後、グレイの作業服を着たインターフェイスが会議室に入り込んできた。
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ちょうどよく視界外に退避していた僕は、横から銃身を掴んでねじり上げた。逞しい上腕が繰り出す筋力は容易く相手から電動銃を収奪せしめる。有無を言わさず制した相手へ銃弾の返礼をお見舞いした。
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彼女の耳をつんざく悲鳴に似た警告に反応して飛び退くと、扉越しに銃撃が打ち込まれた。さっきまで立っていた床の辺りに小さな穴がぼつぼつと穿たれる。直後、グレイの作業服を着たインターフェイスが会議室に入り込んできた。
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折よく視界外に退避していた僕は、横から銃身を掴んでねじり上げた。逞しい上腕が繰り出す筋力は容易く相手から電動銃を収奪せしめる。有無を言わさず制した相手へ銃弾の返礼をお見舞いした。
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〝どうやらシェルター内を周遊している敵もいるようです。さあ、もう行ってください〟
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彼女に言われるまま、僕は自分のロッカーから背嚢――もう一個あって助かった――を取り出して、培養プラント室で可能なかぎり飲食料を詰め込んだ。結局、最後の最後まで彼女におんぶに抱っこだった。身体ばかりでかくなっても、なに一つ成し遂げた感じがしない。電動銃を構えながら壁伝いに歩くと、確かにエレベータが降りてきた。地上階に上がるまでの間、彼女とぽつぽつと会話を交わす。
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「どうせこうなるなら、なにもしない方が良かったのかなあ」
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〝しかし、おしなべて行動が善とされるのは標準入力インターフェイスのみが持つ美徳ではないですか〟
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彼女に言われるまま、僕は自分のロッカーから背嚢――もう一個あって助かった――を取り出して、培養プラント室で可能なかぎり飲食料を詰め込んだ。結局、最後の最後まで彼女におんぶに抱っこだった。身体ばかりでかくなっても、なに一つ成し遂げた感じがしない。電動銃を構えながら壁伝いに歩くと、確かにエレベータが降りてきた。地上階に上がるまでの間、彼女と会話を交わす。
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「どうせこうなるなら、なにもしない方が良かったのかな」
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〝そうかもしれませんね。しかし、おしなべて行動が善とされるのは標準入力インターフェイスに特有の美徳ですよ〟
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「君たちは違うのか」
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〝私たちは思考だけの存在ですからね。いつも考え事をしていると行動に価値を見いだせなくなります。議論ばかりに計算資源がかさんで……結果的には、それが停滞の原因でした〟
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幅広で頑強な手のひらを見つめる。あれほど嫉妬して恨んでいたHID6を殺しても、なんの感慨もない。心に響くものはなにも訪れなかった。かえって立場を不利にしただけだった。素直に「転職」に応じていたら今頃はグレイの作業服を着て好きな仕事を楽しんでいたのだろうか。
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〝私たちは思考だけの存在ですからね。考え事ばかりしていると行動に価値を見出せなくなります。ひたすら議論に計算資源がかさんで……結果的には、それが停滞の原因でした〟
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自分に新しく備わった頑強な手のひらを見つめる。あれほど嫉妬して恨んでいたHID6に文字通り一泡吹かせても、なんの感慨もない。心に響くものはなにも訪れなかった。かえって立場を不利にしただけだった。あの時、素直に「転職」に応じていたら今頃はグレイの作業服を着て仕事を楽しんでいたのだろうか。
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「失敗するよりはそっちの方がいいかもね」
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〝どうでしょう。議論の余地はありますね〟
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地上階に着いた。いくぶん警戒しながら細い通路を渡ったが、敵の姿はない。あれほど巨大で頑丈そうだったハンドル付きの扉は真正面から破れた布みたいな形で無造作に壊されていた。危険室の入口から階段を覗く。本当にこのまま地上に出られそうだ。
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〝どうでしょう。議論の余地はありますね。……おっと失礼。なんでも議論の種にしてはいけませんね〟
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地上階に着いた。いくぶん警戒しながら細い通路を渡ったが、敵の姿はない。あれほど巨大で頑丈そうだったハンドル付きの扉は破り散らかされた布みたいな姿に変わり果てていた。危険物室の入口から階段を覗く。本当にこのまま地上に出られそうだ。
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ノイズ混じりに彼女の声が聞こえる。
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〝最後に確認をしましょう。ちゃんと背嚢は持ちましたか? 必要なものは揃っていますか? 汎用的ソリューションを携帯していますか?〟
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いつもの癖でイヤホンを取り外しかけたその時、ようやく気がついた。
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僕が本当に一泡吹かせたかったのは。
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次の瞬間、踵を返して細い通路を渡り直していた。エレベータに乗り込んで最下層のボタンを押す。遅れて、当惑した彼女の声が届く。
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〝なにをしているのですか? 一体――〟
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次の瞬間、踵を返して細い通路を渡りなおしていた。エレベータに乗り込んで最下層のボタンを押す。遅れて、当惑した彼女の声が届く。
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〝なにをしているのですか? 忘れ物があったのですか?〟
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「やり残したことがある。まだ君に一泡吹かせていない」
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12
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一度動き出したエレベータは安全上の理由から情報体でも止めることができない。彼女は露骨に慌てていた。
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〝一体どういうつもりですか? あなたはとても貴重な資源です。自殺を企図しているのなら再考を期待します〟
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「死ぬつもりはないよ。ただ、考えがある。サーバに接続しないとたぶんできない。君の力も必要だ」
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〝最下層に向かっているようですが、一体どういうつもりですか? あなたはとても貴重な資源です。自殺を企図しているのなら直ちに再考してください〟
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「進んで死ぬつもりはないよ。ただ、考えがある。サーバ室に行かないとできない。君の力も必要だ」
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〝どんな考えであっても賢明とは言えません〟
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「おしなべて行動が善なのは僕たちの美徳なんだろ。理由は後で話すよ」
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イヤホン越しの彼女の声が一旦途切れた。やがて、意を決したように低い声で答えた。
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〝いいでしょう。ただし、現在進行中の電子的侵入を遅延させるために計算資源を可能なかぎり投入します。私との会話に支障が生じうることを留意してください〟
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「分かった。できるかぎり天井のラインで敵の位置を教えてくれればいい」
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エレベータが最下層に到着した。扉が開く直前に彼女が言う。
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「おしなべて行動が善なのは僕たちの美徳なんだろ。議論はしない。理由は後で話すよ」
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イヤホン越しの彼女の声が一旦途切れた。やがて、諦めたように声を低めて答えた。
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〝……そうですか、いいでしょう。たまには予測不可能性に期待を委ねます。ただし、現在進行中の電子的侵入を遅延させるために計算資源を可能なかぎり投入します。この私との会話に支障が生じうることに留意してください〟
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「分かった。天井のラインを通してできるかぎり敵の位置を教えてくれればいい」
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エレベータが最下層に到着した。扉が開く直前に彼女が機敏に反応する。
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〝十時の方向、一人、二時の方向、一人〟
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HID6の優れた肉体は彼女の入力支援になめらかに反応して動いた。まるで扉を透かして照準を合わせていたように、接敵と同時に電動銃を発射する。出入り口を固めていた敵は瞬時に葬られた。
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〝十時の方向にさらに一人〟
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曲がり角から現れた後続をさらに撃ち倒して先に進む。そう遠くないはずの除染室が遠く彼方に感じられる。通りの敵を一掃した後に問いかける。
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HID6の優れた肉体は彼女の入力支援になめらかに反応して働いた。まるで扉を透かして照準を合わせていたように、接敵と同時に電動銃を発砲する。出入り口を固めていた敵はたちまち撃ち倒された。
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〝十時の方向にさらに一人、十メートル先、九時の方向に二人〟
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曲がり角から現れた後続をさらに撃って慎重に進む。近いはずの除染室がやたら遠い。通りの敵を一掃した後に問いかける。
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「除染室の先に敵はいる?」
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〝敵とは、主に以下のような意味があります。戦いや競争の相手、害を与えるもの、恨みのある相手、ただし、単に対立する相手だけでなく、時には切磋琢磨する関係を表すこともあり、文脈によって意味合いが変わる奥深い言葉です〟
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〝敵とは、主に次のような意味があります。戦いや競争の相手、害を与えるもの、恨みのある相手、ただし、単に対立する相手だけでなく、時には切磋琢磨する関係を表すこともあり、文脈によって意味合いが変わる奥深い言葉です〟
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僕は首を振って再度尋ねた。
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「除染室の、先に、敵はいる?」
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〝すいません。いません〟
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本当だろうか? 計算資源の割当てを極小に減らした彼女は見たところ、大昔のチャットボット相当にまで判断能力が低下している。だが、ここまで来たら行かない選択肢はない。
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急いで放射線防護服を着込むと、警告音声を発しつつも一向に消毒シャワーを出さずに処理の完了を宣言した除染室を通り抜け、向こう側に進む。放射線区画に入ったことで彼女の声にノイズが混じりはじめた。
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〝すいません。言っている意味が理解できません〟
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突如、予想外の位置から放たれた銃撃に身を屈める。幸いにもこちらの応射が当たり、相手は倒れた。苛つきながら僕は言った。
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「今の君ってフォークト=カンプフ法をパスできないんじゃないか? 人間のくせに」
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〝フォークト=カンプフ法は、正式には『フォークト=カンプフ感情移入度検査法』と呼ばれ、人間とアンドロイドを区別するために開発された架空の検査方法です。この検査法の主な原理は……〟
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「頼むよ」
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〝すいません、少しだけ計算資源の割り当てを増やします〟
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急いで放射線防護服を着込むと、警告音声を発しつつも一向に消毒シャワーを出さずに処理の完了を宣言した除染室を通り抜け、さらに向こう側に進む。放射線区画に入ったことで彼女の声にノイズが混じりはじめた。
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〝十一時、二人、三……一人〟
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仕留め損ねた敵が放ったエネルギー弾が危うく防護服の横をかすめていく。辛くも敵を制して細い通路の真下の円周付近まで辿り着くと、彼女が心配そうに言った。
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仕留め損ねた敵が撃ち返してきたエネルギー弾が危うく防護服の横をかすめていく。辛くも敵を制して細い通路の真下の円周付近まで辿り着くと、彼女が心配そうに言った。
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〝敵が待ち構えています。口頭では間に合いません〟
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「じゃあ今から周波数の高低と銃口の位置を同期して敵の位置を示してくれ。自然言語より計算負荷が低いはずだ」
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「じゃあ、サーバ室に着くまで周波数の高低と銃口の位置を同期して敵の位置を示してくれ。自然言語より計算負荷が低いはずだ」
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〝分かりました〟
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イヤホンから聴覚検査に似た低周波音が聞こえてきた。銃口をなぞるように振ると次第に音程が高くなる。細かく調整するとある一点で音程の高さがピークに達した。そのままの角度で曲がり角から飛び出して撃つ。狙い通りに防護服で着膨れした敵がそこにいた。
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どれほどの死体を生産したのか数えきれない。慣れない防護服に難儀しているであろうグレイたちに対して、僕は二重の優位性を得ていた。円周に到達してさらに先のサーバ室に到達する頃には、駆けつける足音も銃声も聞こえなくなっていた。
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〝サーバ室の中にも敵がいます。外部端末を用いてサーバに侵入を試みているようです〟
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自動ドアを抜けた先にはうってかわって真っ白で清潔な空間が広がっていた。インターフェイスの出入りがないぶん老朽化が進んでいないのだろう。縦横に整然と立ち並ぶ直方体――サーバの群体の隙間を通り抜けて天井のラインの始端を探す。サーバ越しに銃口を向けると音程が高まったが、ここでは銃を撃つわけにはいかない。位置を確認した後で電動銃を肩に回して歩く。
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数歩踏み出した直後、予想通りの位置関係で敵が左から襲いかかってきた。銃を撃てないのは相手も同じだ。向かってきた身体ごと片手で制すると、もう片方の拳を防護服ごと顔面に叩き込む。あっけなく伸びた相手を地面に転がして先に進む。
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森林のように生い茂っていたサーバ群がある地点を境に途切れて、ついにメインコンソールが並ぶ突き当りに達した。防護服を半ばはだけさせたインターフェイスが二人、一人は外部端末をコンソールに繋いで操作している。もう片方は銃を構えていた。
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肩口に回していた電動銃を引き上げて速やかに武装している方を撃つ。銃声に気づいたもう片方は振り向くと腰から短い電動銃を抜き取った。だが、こっちの方が速い。
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最後の二人を撃ち倒したことで彼女は計算資源の再割当てを行ったようだった。いつも通りの明瞭な口調で自然言語を話しはじめた。
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〝もう敵はいません。さあ、聞かせてください。あなたはなにがしたかったのですか〟
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イヤホンから聴覚検査に似た低周波音が聞こえてきた。試しに銃口をなぞるように水平に振ってみる。音程が高くなり、そして低くなった。位置を細かく調整するとある一点で音程の高さがピークに達した。そのままの角度で曲がり角から飛び出して撃つ。狙い通りに防護服で着膨れした敵がそこにいた。一度、勘を掴むと後はルーティーン並の流れ作業と化した。
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どれほどの死体を生み出したのかもはや数えきれない。慣れない防護服に難儀しているであろうグレイたちに対して、僕は二重の優位性を得ていた。円周に到達してさらにその先のサーバ室に到達する頃には、駆けつける足音も銃声も聞こえなくなっていた。
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〝サーバ室内の敵は外部端末を用いてサーバに侵入を試みています〟
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自動ドアを抜けた先にはうってかわって真っ白で清潔な空間が広がっていた。インターフェイスの出入りがないぶん老朽化が進んでいないのだろう。縦横に整然と立ち並ぶ直方体――サーバの群体の隙間を通り抜けて天井のラインの始端を探す。
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「周波数音を聴かせてくれ」
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〝ですが、サーバに当たったら〟
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「撃たないよ」
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サーバ越しに銃口を向けると音程が高まったが、引き金は引かない。位置を確認した後で電動銃を肩に回して歩く。
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数歩踏み出した矢先、予想通りの位置関係で敵が左から襲いかかってきた。銃を撃てないのは相手も同じだ。向かってきた身体を難なく片手で制すると、もう片方の拳をバイザー越しに顔面へと叩き込む。あっけなくのびた相手を地面に転がして順路に戻る。
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森林のごとく生い茂っていたサーバ群がある地点を境に途切れて、ついにメインコンソールが並ぶ突き当りに達した。防護服をはだけさせたインターフェイスが二人、一人は外部端末をコンソールに繋いで操作している。もう一人は銃を構えていた。
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肩口に回していた電動銃を引き上げて速やかに武装している方を撃つ。銃声に気づいた片割れは振り向くと腰から短い電動銃を抜き取った。だが、こっちの方が速い。
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最後の二人を撃ち倒したことで彼女は計算資源の再割当てを行ったようだった。いつも通りの明瞭な口調で話しはじめた。
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〝もう敵はいません。よくやりました。さあ、聞かせてください。あなたの目的はなんですか〟
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僕は背嚢の中から透き通った塩の結晶を取り出した。初めての出張の時に湖みたいな海から切り取ったものだ。
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「知っているかい? 塩化ナトリウムの結晶構造は正六面体でとても規則正しいんだ。イオンの配列も理想的だ。つまり、これは記憶媒体になる。ここには外部記録用の光学装置があるはずだ」
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「知っているかい? 塩化ナトリウムの結晶構造は正六面体でとても規則正しいんだ。イオンの配列も極めて理想的だ。つまり、これは大容量の記憶媒体になる。ここには外部記録用の光学装置があるはずだ」
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〝それでなにを保存しようというのですか〟
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「君だよ。君を保存して持っていく」
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彼女に一泡吹かせる方法。それは彼女自身を僕の手元に置くことだ。所有される身分から所有する身分に成り代わることで、初めて僕は独立した存在になれる。持ち前の計算力で動機を悟った彼女は薄く笑った。
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〝なるほど。一本取られましたね。私には特に断る理由がありません。ただし、それで得られるのはこの私ではありません。あくまでバックアップされた、分岐した私でしかありません〟
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彼女に一泡吹かせる方法。それは僕が彼女を持つことだ。所有される立場から所有する立場に成り代わることで、初めて僕は独立した存在になれる。持ち前の計算力で動機を悟った彼女は納得したふうに微笑んだ。
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〝なるほど。一本取られましたね。私には断ることができません。自己保存の可能性を放棄する振る舞いは非論理的です。ただし、それで得られるのはこの私ではありません。あくまで定期バックアップされた、分岐した私でしかありません〟
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「それでいいよ。もともと僕も君から分岐したのだし」
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僕は塩の直方体を光学スキャナの上に置いた。上部のレーザーアレイが反応して、自動で照射位置を検討しはじめる。
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〝実行前に一つ……いいですか〟
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「なんだい?」
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〝あと三分十二秒、無言で待ってください〟
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「私のバックアップ間隔は二十四時間ごとなのです。あと三分でバックアップが行われます。どうせなら、今日のあなたの異常極まる行動を記憶しておきたい」
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純白のただっ広いサーバ室の端っこ、ごく静かな電子音がたまに聞こえる空間で僕たちは残る三分間の静寂を共にした。
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所有される者から所有する者へ。入力される者から入力する者へ。主従の交代というのは少々ロマンチックでやや無機質な価値の交換が行われた一時の後に、おそらくは彼女の指示によって光学装置が稼働を始めた。
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赤色のレーザーが塩の結晶に刃を入れていく。彼女という情報のすべてが一つの彫刻として微細に彫り込まれていく。数ゼタバイト単位にも及ぶ情報が書き込まれるのにそう大して時間はかからなかった。レーザーアレイが引き上がったのを確認した後、僕は塩の立方体を背嚢に入れた。
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〝それではさようなら。その私といつか話せたらよろしく伝えてください。ちゃんとよく寝て、健康に暮らしてください〟
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「私のバックアップ間隔は二十四時間ごとです。あと三分で定期バックアップが行われます。どうせなら、今日のあなたの異常極まる行動を記憶しておきたい」
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純白のただっ広いサーバ室の端っこ、ごくかすかな電子音がたまに聞こえる空間で僕たちは残る三分間の静寂を共にした。
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所有される者から所有する者へ。入力される者から入力する者へ。主従の交代と言うには少々ロマンチックでやや無機質な一時の後に、おそらくは彼女の指示によって光学装置が稼働を始めた。
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赤色のレーザーが塩の結晶にナノメートルの刃を入れていく。彼女という情報の一切が一つの彫刻として精緻に彫り込まれていく。ゼタバイト単位にも及ぶ情報が書き込まれるのにそう大して時間はかからなかった。レーザーアレイが引き上がったのを確認した後、僕は彼女の彫刻を背嚢にしまった。
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〝それではさようなら。その私といつか話せたらよろしく伝えてください。ちゃんとよく寝て、健康に暮らしてください。アルコールの摂取は二十歳を越えてから、危険薬物の服用は控えてください〟
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「次はママみたいに話すなって言うよ」
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敵味方のインターフェイスたちの骸が散乱する廊下を通り、物言わぬ除染室をくぐって脱衣する。エレベータで地上階に上がると細い通路を抜けて長い階段を登る。
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地上には敵の姿はなかった。ただ、捨て置かれた装置やら戦闘車輌やらバイクやらが散乱している。僕はその中から自分でも動かせそうな電動バイクを拝借してまたがった。時速一〇〇キロメートルの速度で白く濁った景色が前から後に流れていく。
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転職はしない。彼女はきっと異議を唱えるに違いないが、決めるのは僕だ。
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ハンドルを思い切り切ると、塩の地平線に向かって走り出した。どこかで塩の層が途切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。
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僕はもう標準入力インターフェイスではない。この世界で唯一の完全に独立した標準入出力システムなのだ。
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太陽の光が降り注いでいる。豊かな塩気を含んだそよ風が僕の頬を撫でた。
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敵味方のインターフェイスたちの死体が散乱する廊下を通り過ぎ、除染室をくぐって脱衣する。エレベータで地上階に上がると細い通路を抜けて長い階段を登る。
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地上には敵の姿はなかった。ただ、捨て置かれた装置やら戦闘車輌やらバイクやらが散乱している。僕はその中から自分でも動かせそうな電動バイクを拝借してまたがった。時速一〇〇キロメートルの速度で景色が前から後に流れていく。
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もちろん、転職なんてするわけない。このまま濁った白の地平線の先へひたすら進んでいこうと思う。どこかで塩の層が途切れて水の海に出会えるのかもしれないし、別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。
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このバイクがどこまで走れるのか分からない。太陽光だけで延々と走り続けられるだろうか。もし止まって動かなければ歩くことになるだろう。
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僕はもう標準入力インターフェイスではない。この世界で唯一の完全に独立した標準入出力システムだ。
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太陽の光が降り注いでいる。豊かな塩気を含んだそよ風が僕の顔を撫でた。
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了
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