1 土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を落ち着けた。天を突くほどの巨大ビルがそびえていたという島も、世界でもっとも栄えていたとされる湾岸の街並みも、今では等しく時間の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像――かつて自由を讃えていたという――だけがこの辺りで唯一、垂直に建っていると言える建物だ。 この前に来た時よりも少し暖かくなっていたおかげか、そこそこ長い距離を往復した割にさほど疲労感はなかった。曇ガラスに似た平らな地面を手でさすりながら、手頃な位置にナイフを突き刺して切り取る。この身体ではずいぶん手間取るが暇はたっぷりある。そうして得た塊からこぼれ落ちた破片を口に含む。 しょっぱい。 しかしミネラルと塩分の摂取にはずいぶん都合が良い。なぜならこれは塩そのものだからだ。 地平線の彼方まで広がるこの平面は海の一部だった。大昔、人類に降りかかった気象災害により海水が凍結、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て巨大な塩の結晶の層ができあがった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が途切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。仕事として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面は僕を特別な気持ちにさせてくれる。 気持ちが高まっているとよく手が動く。さっきまでは表情のない立方体でしかなかった塩の塊が、ナイフの切っ先で削られるごとに意味を持つ。四足の動物を連想させる時もあれば、人間に変わることもある。まるで生物の進化を表しているみたいだ。最初の生命もミネラルと塩と水から生まれたのだった。 高く昇った太陽が傾いで地平線の彼方に隠れはじめた頃、僕の衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務査定を考えるとそろそろ帰宅しなければならない頃合いだ。現に勤務地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。 「まだやっているのか、飽きないもんだな」 「早く帰ってもどうせ寝るだけだからね」 『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、隆々とした肉体の全部を駆使して呆れた様子を表現する。体格に優れる彼に与えられる仕事はいかにも大変そうで、背嚢は特別に大きく固い金属製でできている。手には大型の電動銃。僕たちは常に武器の携行を命じられているが、邪魔な瓦礫や道を塞ぐ岩などを砕くにはもっと小さいものでも事足りる。 「そんなに大きいのなんて使い道あるの」 HID6は顔を傾けて意味ありげに微笑んだ。 「使おうと思えばな」 そう言いつつ、巨体の主が隣に座り込んだ。 「今日はどこまで行ってきたんだ」 塩の平面の向こうを指差す。 「あの辺りの対岸まで。片道二時間くらいかな」 「そうか。土いじり専門だったなお前は」 おそらく悪気はないにせよ、それでもどことなく軽んじられた気配がしたので声を強めて反論する。 「地質調査だよ。土いじりなんかじゃない。センサじゃ分からないようなことだって分かるんだ。大抵は花崗岩と閃緑岩の見分けだってつかない」 「分かった、悪かったよ。だめだとは言ってねえよ。ただな……」 言いかけたところで、彼は彼で時間が迫っていたらしい。のそりと立ち上がってつぶやく。「色々な可能性を探ってみろ。まだ若いんだから」 相変わらず勝手気ままな調子で手を振って去っていく彼の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。最後にもう一度、夕陽の強い光に照らされた固形の海面を眺める。 こんな暮らしにも可能性とやらがあるといいけど。 徒歩にして約三〇分の地点に着くと、どこかに露出しているのであろう地上のセンサが反応して石畳がめくれ上がった。突如現れた長い下り階段を降りていき、重くて固そうな扉に突き当たる。少し待っていると勝手に開く。 後は流れ作業だ。すれ違うにも困難な細い通路を渡り、規定の手続きに従って〝納品物〟を提出する。スキャナに続くカーゴに集めてきた鉱石を入れると、奥手に回転して壁の向こう側にしまい込まれる。 施設のどこにも一様に引かれた天井のラインが鈍く光る。壁面に投影されたモノクロスクリーンに映し出された評価は、今回もB。見る前から結果は分かっていた。適切な納品物を持って日が落ちるまでに帰ればB評価が確定する。A評価は一度も取ったことがないが、特に問題は起こっていない。 〝標準入力インターフェイス11、お疲れ様でした。切断処理に入ってください〟 イヤホンから聞こえる女性の声に従って残りのルーティーンを続行した。 作業服と背嚢とイヤホンを中身ごとロッカーにしまい、脱衣する。施設の最奥に位置するチェンバー室の殻に入り込むと、後頭部を密着させた。殻が自動的に閉塞されて強化ガラスの表面に文字が浮かぶ。 <切断処理開始> 直後、深く心地よい眠気に襲われて目を閉じざるをえなくなる。意識が沈む寸前、後頭部にドライバが差し込まれる感覚がかすかにした。 2 最初に聞いた話と違い、人間の身体で目覚めた時はまだ身も心もフレッシュだったと思う。シェルターを訪れた当時の感情もはっきり残っていたから、ただ純粋に世界は元通りになったのだと信じた。草花が生い茂り、空は青く澄み渡り、小鳥たちが人類の復活を讃えてくれる……。新しく作られた街の名前は、当然どれも新しく変わっていて、ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに、ニューヨークは……ニュー・ニューヨークになっている、たぶん。 しかし、チェンバー殻の湾曲した表面に浮かんだ文字列はだいぶつれなかった。 <あなたは標準入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します> どうやら僕は人間ではなくなったらしい。 なんでも、活動状態の肉体はとても燃費が悪い。一〇〇んインの人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食糧、清潔な飲み水、空気、それらを支える大がかりな循環設備を要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、学校や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚機構や社会制度までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。 そこで、僕たちは情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存して、思考する精神を地下深くのサーバに転写する。延々と眠りこけていては急な出来事に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサ類をもとに「情報体」と化した人々が日々、分析にあたる。 彼らはとても効率的で無駄が少なく、一生懸命働くのにラザニアもトリプルエスプレッソラテもマウンテンデューもいらない。地上が異常気象に見舞われている環境下で一〇〇人分の水源を濾過し続ける方法を検討するよりも、深宇宙探査機用の原子力電池とソーラーパネルの方が安上がりで済む。情報化は前の世界でも風変わりな人々が実践していたものの、一気に普及したのは皮肉にも災害のおかげと言える。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを宣伝しているのを見たことがある。 これらはあくまで一時的な措置に過ぎないと聞かされていた。だが、僕が「標準入力インターフィエス11」なる名称を賜った際に知らされた新事実は以下の通りだった。 一つ、未曾有の気象災害から数百年余りの年月が経ったが、情報体を人間の頭脳に再転写する技術は解決できそうにないこと。 二つ、その一方で地表は哺乳類が活動可能な気候に好転していること。 三つ、よって今後は冷凍保存された肉体を都度解凍し、持ち主である情報体の人間が適性に応じてインターフェイスとして活用すること。 確かに、使えるものは使わなければならない。もともと僕たちの後頭部には脳みそを取り出しやすくするためのネジ穴が設けられているし、脊髄と脳の電気的接点はモジュール化されている。これは情報体に移行する際の外科的な手続きであり、同時に保存条件の異なる肉体と脳を分離するための方法だったが、くしくも冷凍と解凍の効率化に一躍買ったというわけだ。 自分の処遇に納得感があるかと言われれば複雑だ。計画通りに進んでいればそもそも「生体脳の方に残った僕」という自我は存在しえなかった。「情報体の僕」の精神に上書きされて消滅する定めだからだ。あるいは、情報体が地上の調査よりも肉体のランニングコストを倦んで一切合切放棄していたら、やはり今の自分はない。 一方で、だから恩に着ろというのもおかしい。誰も自我をもう一つくれなどと頼んだ覚えはない。情報化される際にもそんな説明は受けていない。数百年も生きていれば気持ちが変わるのかもしれないが、情報体の僕は自分から枝分かれして遠い先に行ってしまった別人であって、同じように物事を考えるのは難しい。 かといって、自殺する気にもなれない。今の暮らしにもそれなりの楽しみはある。仕事をしてさえいればこうして生きていられる。なんだかんだで釣り合いが取れてしまっているのだ。ゆえに僕は標準入力インターフェイスなのだった。 今日もまたチェンバー殻の中で目が覚めた。殻の湾曲した表面にいつもの文字列が浮かぶ。 <HID11:接続処理中> システム上、僕たちが殻を出て身支度を整えるまでの間――人間らしく言い換えるならモーニングルーティーン――を「接続処理」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開く。チェンバー室の左右に整然と並ぶ大量の殻にはまだ眠りについている「同僚」たちの姿が強化ガラスの向こうに透けて見える。同僚と言っても勤務体系が年単位でばらばらなので頻繁に会話はできない。前回に出会ったHID6も今は端っこの殻の中で巨体を丸めて安穏としている。 作業服と背嚢はチェンバー室の隣のロッカーの中、食事は直進して突き当りを左の培養プラント室にある。巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているのか分からない。味や食感についての感想は差し控えたい。飲水も前回より黒ずんでいた。 食事を済むと頃合い良く便意を催す。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのだろう。部屋を出て奥のトイレに向かう。途中、ひび割れた壁面を修理している顔馴染みの同僚と出くわした。「おはよう」と挨拶をすると「ああ、おはよう」と気さくに返事をしてくれる。「今から出勤か?」「うん」「地上の仕事は大変そうだな」「僕はそうでもないよ」 僕たちは僕たちで情報体の人々とは異なる言い回しを好んだ。いきなり人ではないと言われてもなかなか受け入れられはしない。「同僚」だとか「出勤」といった一連のフレーズは、かつて地上世界で暮らしていた頃の名残りで、誰かがふと使った言葉が急速に普及した。他にも色々な言い回しがあるらしい。「最近は勤務査定が厳しくて困るね」見るからに老け込んだ風体の彼は、この短い会話の合間にも折れ曲がった腰を何度もさすっていた。 標準入力インターフェイスに与えられる「仕事」は適性によって大きく異なる。高齢だったり、なんらかの障害を持っている場合には地上ではなくシェルター内の「内勤」に割り振られることが多い。僕は逆に若杉、背丈が低く力もないが代わりに身軽なので外で土や鉱石を集めている。 トイレの便器は六つあるが、大半は壊れている。運が悪いと便器の中に乾燥した糞が積もっていることもある。ここはかなり前から水が流れない。いつまでも直らない様子を見るに、どう頑張っても修理しきれない箇所なのだろう。内勤の誰かが糞を片付けるまではずっとこのままだ。だから僕は、内勤のインターフェイスのことを本音ではよく思っていない。さっきのお年寄りは違うと信じたいけど、サボっている個体が多いのかもしれない。 ルーティーンの最終段階。見るたびにひび割れが広がっている廊下を歩き、天井のラインから巨大なモノクロスクリーンが投影される特別な空間で「会議」を行う。耳に支給のイヤホンを装着すると声が聞こえてくる――僕をインターフェイスとして扱う〝ユーザ〟――他ならぬ、数百年前に枝分かれした情報体の僕だ。 〝おはようございます。前回の切断から二三年と九ヶ月、一五日と一二時間が経過しました。体調はいかがですか〟 「問題ないと思うけど、健康診断を受けたわけじゃないからね」 〝チェンバー殻のスキャナは一四七年前に電力効率化が策定されて以来、中止されていますからね。各自セルフメンテナンスをお願いしています〟 「それって僕が何回解凍されたあたり?」 〝三回目の後です〟 以前はチェンバー殻が脳みその中身まで覗き見てメンタルケアまでしてくれたというが、今の僕たちは全部自発的に行わないといけない。趣味を持つのはその一環でもある。「福利厚生の悪い職場だ」と揶揄する同僚もいた。 「ところで、飲み水が黒ずんでいるみたいだ。味はともかく健康への影響が気になる」 〝どうやら雨水を濾過するフィルタが目詰まりを起こしているようですね。他の標準入力インターフェイスが処理を実行中です〟 「そうか、それは良かった。あと便器に糞が溜まっているのもなんとかしてほしいな」 〝標準入力インターフェイスに特有の代謝現象は厄介ですね。私たちも抜本的解決に努めてはいます〟 時折、見え隠れする上下関係とは裏腹に彼女と話すのは割に楽しい。が、やはり奇妙にも感じる。もし僕が地上世界で生き続けていたらこうなっていたのか、とか、肉体を持たない精神のみの存在だから肉体のまま歳をとるのとは勝手が違うんじゃないか、とか、普通なら考えないような想像をする。もちろん、どのみち彼女ほど長く生きることはできない。今こうして同じ瞬間を共にしていても僕はせいぜい一四歳プラス解凍中の日数なのに対して、彼女は五〇〇歳をゆうに越えている。 「ところで、そっちの暮らしはどうなの? なんか変わったりした?」 〝特になにも。安全でとても満ち足りています。だけど、変化はありませんね〟 肉体を持たない思考だけの生活、というのがどんなものなのか未だに理解できない。僕たちが何年かかってもいけないどんな場所にも一瞬で行けて、当時のもっとも美しい状態の建築物や風景を楽しめる。あらゆる知覚は決して衰えず無尽蔵に供給されて、空腹も寝不足もない。 そんな楽園じみた世界で暮らしているのに、現実の地上世界には未練があると言う。 〝では、さっそく入力の指示に移りましょう〟 イヤホンから女性の声が一旦途切れると、天井のラインの点滅に合わせてモノクロスクリーン上に線が引かれはじめた。現在地点を中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の資材に関する文字列も並ぶ。いつもより遠い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間は余りそうだ。 〝今回は特に食事と水分補給を万全に済ませてください。外気温は一〇度前後と好適ですが、なるべく直射日光も……〟 「はいはい、分かったよ。ところでこれ、なにに見える?」 余計な世話焼きを遮り、背嚢から前回の成果物をお披露目した。天井のラインが不規則に点滅する。 〝……なんの変哲もない塩の塊に見えますね〟 「そうだね。前回、道端で拾ったんだ。僕は面白い形をしていると思ったんだけど」 ほどなくして「会議」が終わると彼女は〝接続完了〟を通告した。エレベータに乗って地上階に移動する。細長い通路の最奥には、暗闇の上の上まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。あたかも巨人用に設えられたそれは情報体の操作によってしか開かない。通路の左右にも深い漆黒が広がっていて、何十回と行き交っていても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。 けたたましいブザー音が鳴り響く。ハンドルがゆっくりと回転する。扉の周りの警告灯が放つ鋭い光がしかし、たちまち周囲の闇へと吸い込まれていく。 やがてブザー音は大げさな歯車の稼働音に取って代わり、シェルターの扉が地鳴りに似た振動を伴って持ち上げられる。揺さぶられて落ちないか怖くて手にますます力が入る。 たっぷり何分もかけて巨大な扉が解放されると、もう一つの小さな扉が現れる。そこまで切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には「危険物」とラベルが貼られた小部屋がある。一列に立てかけられた電動銃から小さいのを手に取ってひたすら長い階段を登る。 イヤホンから途切れがちに彼女の声が聞こえた。 〝最後に確認をしましょう。ちゃんと背嚢は持ちましたか? 必要なものは揃っていますか? 汎用的ソリューションを携帯していますか?〟 「分かったって」 今日の彼女のキャラクターは母親っぽくて少々鬱陶しい。耳からイヤホンを取り外してポケットに突っ込む。 情報体の人々は武器のことを〝汎用的ソリューション〟と呼んでいる。後頭部にネジ穴があり、脳みそを出し入れできる僕たちはあたかもサイボーグのようだが、実際にはコンクリート片も満足にうごかせない。情報体の人たちに至っては、地上のどんな小さなものさえ動かせない。現実の物体に深く介入できる能力は特別なのだ。 そして、ついに地上に出る。僕にとっては昨日のことのようだが、実際には二三年ぶりらしい。階段を登り続けているうちにシェルターの中のどんな強力な光源も敵わない光――すなわち、太陽の光が顔を暖かく照らした。 3 示された目的地に着くには固形の海の上を渡っていかなければならない。白く濁った平面に足を下ろす際、重心を後ろに引いておく。地質の変化を恐れる年月ではないが、度々の気温上昇で塩の層が脆弱化しているかもしれない。片足で強く踏みつけ、安全を確かめてからそっと乗り移る。 大丈夫そうだ。 心配は杞憂に終わり、一時間歩いても塩の地面が揺らぐことはなかった。してみると、これほど巨大な積層はどうやってできたのか思いが巡る。 気象災害が引き起こされた原因は地殻変動だとも小惑星の衝突だとも、あるいは化学兵器を交えた世界大戦だとも言われている。情報体の人々の間でも結論は出ていない。ある日突然に始まって、終わった。塩の層に関しては急速に冷えて分離した塩分が凝固してできたものと推測されている。だとすれば、その時の地上はどんな生き物にとっても致命的だったに違いない。こうして幾度となく外に顔を出しても「地上人」や「新人類」と出くわさないのは、少々つまらないもののとりあえず安心ではある。マンガや映画通りなら、きっと僕たちを憎むか軽蔑しているだろうから。 世界が終わる、たぶん何日か、何週間か前。僕は両親に連れられてシェルターにやってきた。二人とも途中でなにが起こってもおかしくないと用心に用心を重ねていたが、幸いにも暴徒や銃弾は車に向かわず全員とも無事だった。しかし、家族全員のチェンバー殻があると期待していた両親に対して会社が提示したのは、情報体に移行可能なのは株主当人のみ、つまり父一人だけという動かぬ事実だった。 父と母は一回か二回、互いに目配せをした……それは記憶に残っている。直後、僕は有無を言わさずチェンバー殻に押し込められ、長い長い眠りについた。後で情報体の僕に聞かされた話によると、両親はその場で死を選んだ。死ぬことによって持ち株を僕に相続させ、同時に情報体として生き続ける権利をも移譲したのである。まるで絵に描いたような感動ストーリーだ。泣いてくれる全米はもうない。ここからの眺めはどこまでも無表情だ。 だがそんな愛すべき両親とて、数百年後に息子の自我が増えて片方が娘になっているとは思わないだろう。もし二人が生き返ったらきっと、自分の子どもだと見なすのは僕の方だ。あの時から見た目も中身もほとんど変わっていない。でも、法的には彼女に正当な権利が認められるという。裁判所も法律も消滅したおかげでこのことをあまり深く考えずに済んでいるのが嬉しい。 太陽が頭上を通り過ぎて傾きかけた頃、ようやく濁った白ではない色の地面に足が届いた。かつて、この辺りの湾岸地帯には建造物が多かった。石造りの建物は数百年経っても簡単には風化せず、条件次第では地下に資材を蓄えている場合がある。崩れた家屋らしき外壁と周囲の状況から、それと見込んだ地点の瓦礫の塊に向けて電動銃を撃ち放つ。慣れていないので射撃と同時にひっくり返りそうにあったが、期待通りに遮蔽物が一層されてマンホールが現れた。蓋をこじ開けた先には簡素なはしごも見える。 距離はさほどでもないのに下まで降りるのにはずいぶん手間がかかった。電動銃のライトを前方に照らすと、朽ちた棚が左右一列に続く保管庫らしき空間が浮かんだ。しっかりしていそうでも、国家や立派な組織が作るほど大層な代物ではない。金持ちで心配性の人が拵えた設備だろう。棚からこぼれ落ちたいかめしい銃器の数々は、どれも先端が折れ曲がっていたり錆びついていたりした。持ち主には使う暇がなかったようだ。 目的の物品はここではなく鉄扉で隔たれたさらに奥にあった。鉛の容器の中に収められていた「納品物」は会議通りなら劣化ウラン弾ということになる。しかし弾丸としては使いものにならないらしい。スクリーンには内部に含まれているウラン238が目立てだと記されていた。さっそく、銃を脇に置いて容器から持てる分の劣化ウラン弾を包みごと慎重に取り出していく。 「おい」 背嚢を埋め尽くすのに十分な量を収めたところで、背後から声がかかった。作業に集中するあまり耳が遠くなっていたのかもしれない。振り返ると胸に『HID39』と印字された標準入力インターフェイスが立っていた。どういうわけか作業服の色が違う。僕たちはみんなオレンジの服を着ているのに、彼はブルーだ。 「あ、もしかして君もこれを集めにきたの?」 もしそうなら、大いに納得できる。僕ひとりでは運びきれない状況を見越して複数のインターフェイスに仕事が割り振られていたのだ。そそくさと背嚢を抱えて部屋の隅にずれ、手招きして回収を勧めた。だが、HID39の視線は僕から動かなかった。そのまま背中の背嚢をどすんと強く下ろして口を開く。彼の背嚢は大きくて丈夫な金属製だった。 「おれはそこにあるすべての劣化ウラン弾を回収しろと指示されてきた」 「すべて? そこにある量では足りない?」 「ああ、お前が背嚢に入れた分も含めて、全部だ。とっととよこせ」 HID6ほどではないにせよ、自分よりずっと背が高くがっしりした成人男性の身体が一歩前に迫った。 ここへきて僕はようやく自分が脅されているのだと悟った。なるべく顔に不満を表さないようにして笑みを浮かべつつ、じりじりと後ずさる。 「えーと、それは、その、勘弁してほしいな。こっちも同じ仕事で来ているんだ」 「おれの知ったことじゃない。規定量を納品できなければ勤務査定に影響が出る」 相手がさらに一歩踏み出したので、僕も同じ距離だけまた後ろに下がる。声はもう震えだしていた。 「それは、お互い様じゃないか――そうだ、どうだろう。ここは一つ、半々で分け合ってそれで全部だったという話にするのは――」 HID39は会話を続けるのが嫌になったのか、とうとう手に持った電動銃を突きつけてきた。コンクリートを容易に打ち砕くほどのエネルギーの塊をぶつけられたら、即死だ。 「無事に帰りたければ今回の勤務査定は諦めるんだな」 結局、背嚢に詰めたばかりの劣化ウラン弾がまんまと移し替えられるまで、身じろぎ一つできなかった。電動銃は数歩踏み出せば手が届く距離に転がっているが、僕にとっては地平線の彼方よりも遠い。 「ねえ、ちょっと」 用を済ませるやいにゃろくな口も利かずに踵を返した彼に、震えきった声で尋ねた。 「こんなこと、これまで一度もなかった。どうやって報告したらいい」 彼は顔半分だけ振り返ってぼそりと答えた。やや粗野な顔つきの口元に笑みが宿る。 「そのまま報告してみろ。何事も慣れだ」 最後に命じられた「しばらくマンホールから出るな」という指示を守って空虚な部屋に佇んでいると、とてつもなくやりきれない気持ちになった。地下で人肌に温められたぬるい空気に独り言が漂う。 「汎用的ソリューションって、確かにそうだな」 中身がほとんど空の背嚢を背負っているせいで身のこなしが軽い。日が沈むまでの時間はありすぎて困るほどだ。あてどなく探して運良く他の劣化ウラン弾が見つかる幸運などあるはずもなく、今回の勤務査定が最低で終わると確定したからにはせめて趣味を楽しまないといけない。 地上と地上を結ぶ凝固した海の中間点、四方八方が見渡すかぎり濁った白の平面上で、一心不乱に塩を削いだ。手に力が籠もりすぎているせいか、どんな塊も意味を持つ前に細切れと化してしまう。言うまでもなく、僕はいらついている。身体が未熟だから金属製の背嚢を背負うような大変そうな仕事を任せてもらえないし、僕の作った塩の彫刻は一度も彼女に理解されたことがない。同じ仕事を何十回と繰り返して、自分が土いじりにしか向いていないと信じるのには嫌気が差していた。 気がつくと濃い橙色の光に照らされて塩の地面に火が灯ったかのような光景が広がっていた。まるでろうそくみたいだと思った。手には塩を削るナイフと同じくらい、いや、それよりも鋭い鏃に似た彫刻ができていた。 せめて日が落ちる前には帰らないといけない。 シェルターからほどよく離れた地点にはソーラーパネルが点々と並ぶ。どれも強い日差しを受けて輝いていた。 シェルターに戻ると、のろのろと切断処理を始める。モーニングルーティーンの逆を行うのだ。最後に待ち受ける「勤務査定」――ディスプレイ上には〝性能評価〟と記されているが――は、納品物がないため当然ながら最低のD評価だった。イヤホンを耳にくっつけて、まずは彼女の言葉を待つ。 〝おや、今回は残念ですね。納品物が見当たらなかったのでしょうか。まあ、そういう日もありますよ〟 「いや、見つかったし持ち帰るはずだったんだ」 口を開いた途端、味わった恐怖がたちどころに怒りに兌換されてどんどん語気が強まった。 「そいつはブルーの作業着を着ていた。どういうことなんだ。他のインターフェイスのものを奪うなんていけないんじゃないのか。D評価は僕のせいじゃない。そいつのせいだ」 イヤホンの向こう側でしばらく沈黙が続いた。齢五〇〇歳くらいの彼女にしては珍しい。やがて、意を決したような低いトーンで話しはじめた。 〝分かりました。ちゃんと説明しましょう〟 天井のラインが光り、モノクロスクリーンが性能評価画面から遷移して周辺の地図が描き出される。それ自体は会議のたびに見ているものだったが、いつもより縮尺が格段に広く、陸地がいくつもの線で細かく区分けされていた。 「これは……」 〝勢力図です。私たちの、我が社のものと、競合他社のです〟 よく見ると下の方に僕たちのシェルターを中心とする領域もあった。他の領域と比べると面積が狭い。 このシェルターが会社の持ち物で、情報体の人々が株主ないしは技術者だというのも知っていた。他のシェルターも似たりよったりの仕組みで動いているのは間違いない。こうした巨大な建造物や組織は僕が生まれるずっと前には国が担っていたそうだが、今ではどこも会社がやっている。学校も会社、警察も会社、軍隊も会社、政府が会社の国もあった。当時、働いたことのない一四歳の僕にはそれが良い話なのかよく分からなかった。今もよく分からない。ただ、両親がたまに不満を漏らしていたのは覚えている。 〝最初の遭遇はおよそ三〇〇年前です。どの競合他社も情報体を生体脳に戻す技術を開発できず、我が社と同様に元の肉体を標準入力インターフェイスとして活用していました。その時、各社が横並びの状況にあると初めて認識できたのです。現在の法解釈ではインターフェイスは操作盤であって人間ではないため、競争の過程で破損を伴う入力を加えても重罪には問われません。権益を確保して、然るべき利潤を得た後に補償を提供しても割に合うとの考えなのでしょう。むろん、我が社も同様の方針です〟 僕はすぐには納得できずに声を張り上げた。 「競合他社といっても同じ人類じゃないか。協力しあえないのか」 〝増産できず減る一方の資源を収集するしかない現状では、難しいですね。株主総会でも稀にそういった提起がなされますが〟 そこで彼女は揶揄するように声色を変えた。 〝毎回否決されています。私も株主ですが会社全体の意思決定には従わざるをえません。こんなご時世では、他に行くあてもないですからね〟 つまり、僕と同じく標準入力インターフェイスの番号を宿したブルーの彼は、インターフェイスとしてはむしろ忠実だったと言える。下手な譲歩にも乗らず徹底的に資源を奪い尽くした。のみならず、余計なコストも削減した。肉体的に劣っていて、反撃しそうにもない相手には電動銃一発分の電力さえ惜しいというわけだ。 一度は滅入った気分がめらめらと燃え上がるのを感じた。 〝しかし、今後は心配いりませんよ。今回の件は私の誤りでした。あの地点は我が社の領域の周縁部からもそれなりに遠く、内容に問題はないと考えていましたが、次はもっと適性に合う入力を心がけます〟 「いいや」 反射的に、僕は背負っていた背嚢をひっくり返して中身を床にぶちまけた。そこから例の塩の鏃を拾い上げて高々と掲げる。天井のラインが不規則に点滅した。 「さっき言い忘れたことがあった。僕はこれでそいつにやり返してやったんだ。本物のナイフより隠しやすいからね。だいぶ深くえぐったから、もしかすると途中で死んだかもしれない! そうしたら、僕たちは損をしたけど、相手の会社にはもっと損をさせたことになる。そうじゃないか?」 勢いよくまくしたてて息まで切らした僕に、彼女が珍しく気圧されたふうに答えた。 〝……それはなあ、そうですね〟 「だから僕にだって適性があるんだよ。もっと遠くに行かせてくれよ。世の中が――といってもシェルターと塩だけの世界だけど――そんなことになってるなんて知らなかった。なにも知らないまま土いじりだけして生きるなんてごめんだ。僕の可能性を信じてくれ!」 いつしか僕は二三年前に巨体の同僚が発した言葉をそのままなぞってしゃべっていた。話したことは完全に作り話だが、気持ちは本当だ。嘘偽りのない嘘だ。 〝私としては気が進みません。もっと頃合いを待つつもりでした。その肉体は未発達で、高度かつ複雑な入力に耐えられる仕様ではありません〟 「今は僕が使っている身体だ。君らユーザが知らない感覚だって分かっている」 あくまで意地を張っていると、ついにイヤホン越しの声が妥協を示した。 〝そこまで言うならいいでしょう。適性の修正を申請してみます。ですが、結果は私の一存で決まるわけではありません。いいですね〟 僕はいつもより大股開きでチェンバー殻に向かった。言ってやったぞという気持ちだった。僕たちは競争しているんだ。より難しい仕事をしなければ世界から置いてけぼりを食ってしまう。そしていつか無知なまま死ぬ。ブルーの作業着を着た競合他社のHID39はその気になれば簡単に僕を殺せた。 興奮が全身に滾るなか脱衣も忘れて殻に入ると即座にアラートが鳴り、正常に冷凍が行えない旨の警告が表示されたので急いで来た道を戻る羽目になった。 4xx 解凍されて殻から這い出ると、目の前に山のような巨体がそびえていた。モーニングルーティーンにはない事態だったので思わず立ち止まってしまう。頭上から聞き覚えのある野太い声が降り注いでそれが初めてHID6だと分かった。 「なにボサッとしてるんだ。行くぞ」 なぜ彼が一緒に解凍されているのか、どうして命令されているのか納得いかなかったが溶けたてで思考力がまとまらない現状ではおとなしくついていく方が無難と思われた。後に続いて更衣室に入ると、彼はてきぱきと着替えて金属製の背嚢を軽々と背負った。肉体に恵まれた者への嫉妬と羨望と綯い交ぜにしつつ他人事の態度で自分のロッカーを開けた途端、そこに同型の背嚢が鎮座していたので面食らった。しかし、自分のロッカーに入っている以上はこれが僕の持ち物だ。いつもより苦労して身支度を整える頃には、HID6はすでに食堂で大量に食事を摂っていた。 せめて遅れまいとせかせかして食べ終えると、隣のパイプ下にいる他ならぬ彼から声がかかった。 「おい、詰めて持っていけ。忘れてもおれのはやらんぞ」 彼は言行通り、金属製の背嚢から取り出した容器に食事と水をそれぞれ保存していった。呆気にとられて見ていると、ようやく巨体の主は事情を説明する気になったらしい。手を止めて向き直った。 「まだ話を聞いていないようだな。お前は今日、おれと一緒に仕事をする。ただの仕事じゃない。『出張』だ。一日じゃ終わらない。だから食糧と水を持っていく。分かるな」 聞き慣れない文脈の単語が出てきた。特定の標準入力インターフェイス間で用いられている言葉だろうか。僕にとって「仕事」とは日が落ちる前に済ませて帰ってくるものという認識だった。日をまたいでも続けなければならない仕事など想像もつかない。だが、きっとそれが「出張」なのだろう。前回の勤務査定の時にとった行動が今回の特別な仕事を導いたのは間違いない。 つまり、僕はその方面の適性があると認められたのだ。より多くを知るであろう職域の。 今回は便意がなかったのでトイレはパスした。HID6が戻ってきた後、一緒にブリーフィングを受ける。彼が言った通り、ディスプレイに図示された目的地はいつもの三倍は遠かった。片道だけでも日が暮れてしまう。目標の納品物はチタン合金とベリリウムだという。前回に見た「競合他社」の勢力図を思い出すかぎり、他の拠点から容易に到達可能な距離だと推定できた。 「質問」 イヤホンを耳にくっつけたHID6が短くしゃべると、なぜかモノクロディスプレイが遷移して文字列が表示された。 〝回答:質問待機中〟 「今回、複数のインターフェイスを併用した入力となるが、特別なリスクは存在しないか」 〝回答:特になし。インターフェイスのうち片方の仕様を斟酌して、キャリブレーションを目的に危険度が低い入力を与えている〟 「では、あえて適性がないインターフェイスをこの種の入力に採用した目的は」 〝回答:前回の性能評価時に適性の修正が行われたため、試験運用を実施している〟 浅黒い面長の顔が僕にちらりと向いた。微笑んでいるようだった。 「質問終了」 〝回答終了〟 そっけない指示にディスプレイも似たりよったりの淡白さで消灯した。いつまでも彼が見つめているのでつい気になって目を合わせると、ようやく口を開いてくれた。 「お前も情報体の自分に質問しておいた方がいいんじゃないか。初めてならなおさら不安だろう」 「いや……いいよ。必要がなくなった。実は同じ質問をしようとしていたんだ」 努めて平静を装って答えたが、真っ赤な嘘だ。本当は彼女ととても話したかったし、責任ある仕事を与えてくれたお礼も言いたかった。気兼ねなく雑談もしたかった。彼女はきっと励ましてくれるだろうし、とにかく声も聞きたかった。イヤホンをつけて一言でも話せば、それは即座に叶う。 でも、HID6にそんな振る舞いを見せるのは嫌だった。彼と情報体の彼の会話はとてもビジネスライクでプロフェッショナルな雰囲気に満ちていて、僕とはまるきり違っていたからだ。なんだか僕が彼女とする会話がすごく子どもっぽく感じられた。 地上階へのエレベータに乗って細い通路を一列に渡り、巨大な扉が開いた先の危険物室では当然のように一番大型の電動銃を手渡された。 「一応聞いておくが、撃ったことはあるよな?」 「岩とかコンクリートならね……」 さっきまで悠然と燃えていた新しい職責への熱意も、地上に続く長い階段を上がる頃には恐怖へと変わっていた。 5 それでも透き通ったそよ風が吹く地上世界は美しい。昇りはじめた太陽が塩の地面の濁り気をを打ち消そうと光を注いでいる。金属製の背嚢は重くて辛かったが、歩いているうちに重心の感覚が掴めてきた。僕の隣を歩く「同僚」は大きくて頼もしい。一人でこんなに遠くに行けと言われたらやはり心細かっただろう。事実、彼には競合地域に土地勘があるらしく今は大型の電動銃を折りたたんで背嚢にしまい込んでいる。僕もそれに倣って両手を揺らしながら踵で乳白色の層を踏み鳴らして楽しんだ。 今回進んでいる道筋は僕が行ったことのある方向とはだいぶ違っていた。いつもならすぐに陸地が見えたが、今日はいつにも増してよく晴れている日なのに対岸が朧げにしか映らない。太陽が頭上を通り過ぎてもまだ辿り着かず、目的地にも達していないのに脚が疲労を訴えだした。 「疲れたか」 「いや」 巨体の同僚は一時間おきに気を遣ってそう言ってくれたものの、自ら休憩を願い出るのは負けた気がする。意地を張って懸命に歩き続けることさらに数時間、背嚢の重みに押しつぶされそうな気持ちで一歩ずつ歩いていると、ついに彼が「疲れたな、休もう」と言ってその場に腰を下ろした。僕は精一杯なんでもない振りをして、むしろもう休憩か、とでも言いたげな顔で座ろうとしたが、脚が引きつって体勢を崩してしまい、尻もちをつく形で塩の上に倒れ込んだ。 「無理すんな。安全なうちに体力を残しておけ」 背嚢から食糧の入った容器を取り出すと同僚は言葉を続けた。 「初めてにしてはお前はついてこれている方だ。出張経験者でも移動が苦手なやつはいる」 「こういう一緒にやる仕事――出張って、何回もやったことあるのか」 疲労を見透かされていてもなお余裕を保っていそうな態度を崩さず問いかける。彼は渋い顔をして答えた。 「数えきれないほどな。出張はむしろ一人で行く方が珍しい。三人とか四人の時もある。数が多ければ多いほど場所が遠方で危険だ」 食べている吐瀉物みたいな粘体がごくりと喉を鳴らす音と共に胃袋に落ちていった。結果的に僕を見逃したHID39とは比較にならないほど凶暴な輩がたくさんいるということだ。改めて考えてみれば、競合他社の標準入力インターフェイスを殺すのは戦略的な理に適いすぎている。物資を奪い取れるだけでなく、行動範囲も狭められる。接続可能なインターフェイスを完全に失ったシェルターは地上世界に対していかなる操作も行えない。センサ頼りの受動的な分析がすべてだ。そのセンサさえも一度物理的に壊れでもしたら直せない。他社との競争において致命的な不利を負うのみならず、情報体の生存をも危うくなる。 「これ、かなり聞きづらい話なんだけど……」 食事の手を止めておずおずと尋ねる。 「僕たちの会社は、どうなんだ? うまくやれているのか、その、競合他社と」 空いた容器を片付けていた巨体が一瞬固まった。少し待っても回答はない。なんだかきまりが悪くなり、急いで自嘲を加えた。 「いや、僕は前にあっさり負けちゃったから、偉そうに言えないけど」 「じきに嫌でも分かる」 急に彼が立ち上がったので、僕も慌てて残りの食事を片付けて背嚢に突っ込んだ。「だが、負けたっていうのはどういうことだ。逃げきったのか」金属製の背嚢をゆっくり背負い込みながら首を振る。「逃げてすらいないよ。ブルーの作業服を着たやつだったんだけど、たまたま見逃してくれただけだ」改めて口に出すと侮られても仕方がないと思った。しかし吐露せずにいられないほど悔しい事実でもあった。意外にも、彼は白い歯を見せつけて微笑んだ。 「いつか、そいつにお前を生かしたことを後悔させればいい」 それからの道のりはあまり退屈しなかった。HID6が色々と教えてくれたからだ。たとえば競合他社はそれぞれ違う色の作業服を身に着けていて、ブルーもいればイエローもいるという。一度、レッドの服を着たやつを見つけたと思いきや、それはそいつの血で染まっていただけだったなど怖い話を聞かせてくれたりもした。逆に、競合他社の相手から見れば僕たちは「オレンジのやつら」ということになる。 一日たっぷりかけて対岸を渡り、朝方ぶりの土を踏みしめるとなんだかおかしな感触がした。きっとこれからはこの感じが当たり前になるのだろう。この辺りでは珍しい丘陵に登り、然る後に下っていき、しばらくするとちょっとした湖に出くわした。案の定、一面が水ではなく塩気に満ちた個体に凝結している。含まれているミネラルや不純物の濃度の関係んおか、こっちの方はずいぶん透き通っているように見えた。もうすぐ日が落ちるから野営すると彼が言うので、急いで湖に駆け寄って片手で持てる立方体のサイズに塩の塊を切り取った。戻ってくると「お楽しみ用か、いつもやっている……」と茶化されかけたので「いや、このまま持っておく」とついむきになって言い張った。本当は夜が来る前に彫るつもりだった。 なんとなく今だったら彼女にも伝わりそうなものを造形できると思えた。 ちょうどなだらかな傾斜がついている清潔な地面を見繕い、そこで僕たちは野営を始めた。必要なものは背嚢の中に全部入っていた。いかに現在の地上が温暖化しているとはいえ、夜間には氷点下をぐっと下回る。作業服よりも分厚い素材で作られた寝袋に入り込むと一点、身を切り裂く寒風が阻まれて全身が温まった。 「いいか、適当な時間で交代だ。二人してぐっすり眠っていたら襲われかねない」 寝袋を器用に巻き付けて身体の自由と防寒を両立させながら彼が言った。手元にはもう電動銃の鈍く光るチャージライトがちらついている。 「本当にそんなことあるのかな、競合他社のやつらだって眠いんじゃ」 自力で眠るのも起きるのも久しぶりの僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。しかし彼は構わず腹ばいになって傾斜に電動銃のバッテリーマガジンを突き立てた。 「むしろ油断ならない。夜勤<ナイトシフト>の連中がいるかもしれない」 「夜勤<ナイトシフト>?」 また聞き慣れない言葉が出てきた。 「夜に出勤する凄腕の輩だ。おれもお前も大抵の仕事はものを持って帰ったり、情報を集めたりすることだが、やつらは違う」 深く息を吸い込んだのか、巨体の背中が一層盛り上がった。 「連中の仕事は競合他社のインターフェイスを破壊することだ。つまり、戦闘しかしない」 さながら闇夜に溶け込む血に飢えた野獣のようなイメージが脳裏に浮かんだ。各々が適性に応じて仕事を割り振られているように、夜勤<ナイトシフト>にもそういう適性があるのだろう。電動銃をどこにでも百発百中で当てられるとか、夜でも目がよく見えるとか。 「そういう人たちと会ったことあるの……」 「ない。あったら生きてちゃいない」 こんな話を藪から棒に聞かされて、限られた睡眠時間を十分に活用できるか気兼ねした。今、この瞬間にも最強の使い手が暗闇を突き破って自分を照準の内に収めているかもしれないのだ。そう思うと、心臓の鼓動が高鳴っていつまでも落ち着かなかった。 6 ところが意外にも、次の瞬間にはごつごつとした同僚の手に揺さぶられて起こされる羽目となった。感覚的には解凍されるのとさして変わりはない。脳みそが引き出されているかいないかの差ぐらい――にもかかわらず、外はまだ暗く何時間も経ってはいないであろうことが察せられた。同じように眠りについていても、標準入力インターフェイスのファンクションとしての睡眠はずいぶんタイムスケールが短い。 結局、いまいち覚醒しきれていない状態で指図されるがままに寝袋から出て身体に巻き付け、直前の彼がそうしていたように傾斜の前で腹ばいになった。「いいか、三つだけ覚えてくれ。とても重要だ」その彼は起き上がりながら言った。 「もし先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――」 いきなり物騒な話から始まったので身体がこわばった。 「――とにかく撃ち返せ。ビビって引っ込んでいたら距離を詰められる。次に、銃声がしたがお前じゃないやつが撃たれていた時。すぐに隠れておれを起こせ。最後に、すでに相手が接近していて取っ組み合いになった時、大声をあげて危険を知らせろ。いいな、なにもなければ日が上がるまで監視だ」 反射的にうめき声をあげた。「じゃあ僕はもう寝られないのか」体感的には明らかに眠い。これまでの仕事では感じたことのない感覚だ。しかし目の前の経験豊富な同僚は眉間に皺を寄せて「お前はもう六時間は寝ている。おれだって四時間くらいは寝ていいだろ」とぐうの音も出ない正論を告げたので、目の前に広がる暗闇と黙って対峙するほかない現実を受け入れた。 いつどこから撃ち殺されてもおかしくないと考えればもっと怖がってもいいはずなのに、ぼけた頭となんの代わり映えもしない黒一面の風景に、姿勢さえも満足に変えられない窮屈さが倦怠感を身体じゅうに押し広げてあるはずの恐怖を塗りつぶしてしまう。 小一時間経ったか、あるいは五分しか経っていないか定かではないが、僕の意識は将来の人生設計に傾いた。今は必要に応じて接続されるしがないインターフェイスでしかないけれども、いつか情報体の人々はなにか根本的な解決策を手に入れて地上に進出すつはずだ。数十年後か、数百年後か、数千年後かはともかく、冷凍冬眠装置に故障がなければ僕もその時には一人の市民として輪に加わっているだろう。音声を通してしか話せない彼女とも直接会って話せるようになるかもしれない。彼女はどんな感じなのかな。より多くの人々とも交流の機会を得て、地上世界をより良くするために話し合うことになる。そうなればこんな馬鹿げた競争も終わるに違いない。 だが、そこへいくと僕はあまりにもものを知らなさすぎる。現にこうして勤務経験でも同僚に水を開けられているし、無限大の情報源にアクセスして僕たちが凍っている間にも常に思考を重ねている情報体の人々とはまずもって比べるまでもない。あらゆる問題が解決した後には僕自身の能力が課題として待ち受けていて、それを改善するのはまったく簡単ではない。 昔は学校があった。僕はとってもよくできた生徒だったらしく、歩いて登校する形式の特別な学校に通っていた。15歳になったらカレッジを受験する話もあった。ところがこれからじわじわと再構築される地上世界の文明には、きっとしばらくは学校もカレッジもない。田んぼとか、発電所とか、水道とか、そういうものの方がずっと大切だからだ。僕は子どものまま放置されて、格差を覆せないまま非常に不活性で見通しの悪い人生を歩む羽目になる。 だとしたら。こうも考えられる。 今の状況がずっと続いている方がよほど良いじゃないか。地上に出て働いて、用が済んだら長く眠って、そのうちまた起こされる。人生がとても離散的なのは仕方がないが、少なくとも思い悩むことはあまりない。壁がひび割れているとか、食事や水がまずいとか、たまにトイレに糞が積もっているとか、そういった点に目を瞑れば今の暮らしもそんなに悪くない。彫刻だってできる。 ただ……じゃあなんで僕は楽な仕事に留まらずにこんな辛い出張をしているのだろう。今だって眠いのをこらえて必死に―― その時、真っ黒な風景にわずかだが光がちらついた。最初は気のせいかと思ったが、続けて二回、そして三回、光が灯る。入れ違いに別の地点でも光が灯った。やがて電動銃特有の甲高い音色が耳に届いて、確信を得た。 銃撃戦が行われている。 左手の閃光が派手に光っているのに対して右手の方はいくぶん控えめだ。両者の応酬は一方的ながら、だんだん激しさを増して音も大きく響いてきている。そこで、はたと思い出して彼を起こそうと思い出したあたりで背後から声がした。 「始まったようだな」 ぎくりとして「起こそうと思ったんだけど」と申開きしたが、彼は気にするそぶりをせず僕の前から電動銃を持っていって自分の位置に構え直した。 「いや、おれが勝手に起きた。眠りが浅い方でね」 そんなわけがない。眠りが浅いのではなく、浅く寝ていたんだ。経験のない子どもに命を預けて高いびきなんてするわけがない。 「さて、ここで特別講習だ」 勝手に落ち込みかけていると、HID6は横目で問いかけた。 「左と右、どっちが夜勤<ナイトシフト>だ?」 打ち出されている光の数では左側が圧倒的だ。どんどん距離は縮まっているのに、輝点の間隔の違いでどっちがどっちか判別できるほどには差がある。しかし―― 「右の方だ」 いつになくはっきり答えると「ほう」と彼はつぶやいた。「なぜそう思った」 「見た感じでは左の方がいっぱい撃っていて有利っぽいけど、たぶんそれは違って――相手の位置が分かっていないだけだと思う。当てずっぽうなんだ。でも右の方は相手が逃げられないように牽制だけして距離を詰めている。だから右の方が上手だ。夜勤<ナイトシフト>が強い人たちばかりだっていうんなら、右の方がそうだ」 数百メートルか、あるいはもっと離れた地点でついに決定的な瞬間が訪れた。最後に右手の光が二回光、それきり、まるで闇がすべてを覆い隠したかのように静まり返った。同僚が低い声で言った。 「正解だ。そしておれたちができるのはやつらが帰るのを祈ることだけだ」 さすがにこの頃には眠気が吹き飛んでいた。たった今、暗闇を隔てられた対岸で絶命したインターフェイスたちも今後の人生に思いを馳せていたかもしれない。それがほんのちょっとしたさじ加減で奪われた。夜勤<ナイトシフト>たちが気まぐれで向きを変えていたら、今頃死んでいたのは僕たちだったのだ。 7 何事もなく太陽が上がり、食事を摂り終え、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても、恐怖は背筋に張りついたようにしていつまでも消えなかった。まだ殺し足りない夜勤<ナイトシフト>たちが朝も働き続けて、四方八方のどこからか自分を狙うのではないかと妄想に駆られた。心配しても意味などないと理解していても足取りは鉄の重さで、腹にはいつまでも溶けない氷が沈んでいた。 「ここだな」 HID6が足を止めた先にあったのは半壊した巨大な航空機だった。あまりにも大きかったので二人で辺りを周回するまでそれがそうとは気づかなかったほどだ。まるで死んで倒れた巨人が胃袋や腸を垂れ流しているように、引き裂かれた胴体部からケーブルや座席やその他の部品が散乱していた。 中に入ると陽光が遮られて視界が一気に薄暗くなった。時折、周辺に人骨と思しき欠片がまとわりついているのを見て気分の悪さと関心が同時にわだかまった。数百年経っても骨は溶けて消えたりしないらしい。「いっそ月に着いちまえば多少は長生きできたのにな」巨体が災いして歩きにくそうに足で残骸をどかしながら同僚が言う。確かに、この航空機は地上用にしては大きく、月か火星の定期運行用に見えた。 言われてみれば、月や火星は地球の気象災害とは無縁だ。しかし食糧や燃料を生産する設備に乏しいため、地球からの物資がなければどのみち飢えて死んでしまうことに変わりはない。変わり果てていく地表を臨みながらゆっくり死に絶えていくのと、一瞬のうちに死ぬのとだったら、個人的には後者の方が嬉しい。 目的の納品物は航空機の露出した内部に含まれていた。背嚢の中の工具を活用して慎重に引き剥がしていく。不要な部品ごと持っていくには大きすぎるし重いからだ。二人して作業を黙々と続けているうちに、ブリーフィングで示された分量を大幅に越える納品物を採集できた。 きっと油断していたのだと思う――何時間も狭い薄闇の中にいて空間の把握がおろそかになっていたのだ。航空機から外に出た途端、正面にひと組の人影を認めてついさっきの恐怖感を胃の奥から吐き出すこととなった。短く悲鳴をあげて手をばたつかせる――電動銃――は背嚢の中だ――一歩ずつ近づいてくる二人と相対すること数秒、先に口を開いたのは相手の方だった。 「君らもここで物資を集めていたのかい」 そこへ、助け舟が到来した。電動銃のチャージ音を響かせながら背後でHID6が野太い声で短く答える。 「失せろ」 だが、相手は譲らなかった。 「チタンか? そうだろ」 「だったらどうだ、失せろと言ったぞ」 短い応答の後、相手は急に両手を胸の前で合わせて懇願のポーズをとった。 「我々も同じものを探しているんだ。もしよかったら……譲ってくれないか。この通りだ」 そこで僕はようやく相手が二人して武装しちえないこと、そもそも雰囲気からして敵意がなさそうなこと、イエローの作業着を着ていることなどを把握した。張り詰めていた緊張の糸が切れて、がちがちに固まっていた筋肉が緩んだ。しかし巨体の同僚は前に踏み出してなおも迫る。 「おれたちになんの利益がある。他社だということくらいは分かるだろう」 「分かっている、交換しよう。我々はタングステンを持っている。砲弾の芯からとったやつだ。どうだ、有用な金属だぞ」 確かに、と率直な換装を抱いた。タングステンは軽量かつ高密度な金属素材なので、武器にも工具にも応用できる。導電性や耐熱性にも優れているから電子部品にも使える。シェルターにあって損はない物資だ。 「現物を見ないことにはなんとも言えんな」 相変わらず銃口を突きつけたままではあったが、口ぶりには多少の軟化が見て取れた。相手もそれを察したに違いない。 イエローの二人組は同僚の呼びかけに律儀に応じて各々の背嚢の中からタングステンを取り出した。手渡された銀色の塊をまじまじと見つめてから、彼は僕に渡した。「これは本当にタングステンで間違いないか」僕はその金属の軽さと手触り、叩いた時の感触を調べてから慎重に答えた。「本物だと思う。少なくともステンレスじゃない」 信頼を得たと確信したのか二人組は息を弾ませて前のめりに言った。 「どうだ、悪い話じゃないだろう? こんなでかい航空機から集めたんなら、余るほどチタンがあるはずだ。そうだろ?」 「そうだな。いいだろう」 巨体の首筋が前に折れると二人は目に見えて喜んだ。昨夜、戦わないまでも夜勤<ナイトシフト>たちの仕事ぶりを目の当たりにしたからか、てんでこの種の経験がない僕にさえ、目の前の彼らは隙だらけの小動物に見えた。残りのタングステンを取り出す間も背嚢を探ることにかかりきりで、こちらに注意を払う素振りもない。 HID6はさらに一歩踏み出して、自分の背嚢を片手で引き下げた。 もう片方の手には、電動銃がフルチャージの状態で握られている。 「だが、おれがくれてやるのはこいつだ」 直後、水平に傾いた銃口から不可視の運動エネルギーが飛び出し、イエローの作業服を着た片方に衝突した。それは胴体に風穴を開けるには十分すぎる威力で、すでに事切れているであろう死体をさらに数歩ぶん後方に吹き飛ばした。撃たれていない方は突然の襲撃に状況を飲み込めず、瞬き数回分の間隔を経てようやく素っ頓狂な悲鳴をげた。僕自身も悲鳴も遅れてあがった。それらすべてをHID6の低い声が塗りつぶした。 「おい、一度しか言わねえからよく聞け。走って逃げきれたらお前の勝ちだ。だからうまく逃げろ。ほら、走れ」 彼はイエローの足元すれすれに二発目を放った。すると、相手は背嚢も持たず反射的に走り出した。 「おっ、けっこう速いな」 いくらかの間をおいて同僚が撃ち出した三発目、四発目の銃撃は傍目から見ても粗雑な撃ち方だった。当てるつもりで撃っているとは到底思えない。現に運動エネルギーの塊は相手から数メートルも離れた地点にぶつかり、かすかに土煙を舞わせていた。しかし一向に意に介さず、その浅黒い顔に今まで見た覚えがない残忍な笑みを浮かばせていた。 そうして何分か経ち、何発も外してイエローの作業服が本当にイエローなのか判別がつきづらくなってきた辺りで、彼はいきなり電動銃の構え方を変えた。 「そろそろお楽しみは終わりだな」 相手との距離はもはや狙撃の領分に近いと言って差し支えないほど離れていたにもかかわらず、最後の一撃はあっけなく逃げ惑う背中の中心を捉えた。さすがにもう悲鳴も地面に倒れた音も聞こえない。 「……どうして」 今の僕の心理状況では、この一言を絞り出すのが精一杯だった。言いながら、次の言葉を考える。 「殺す必要は、なかった」 しかし僅かな間に、隣の殺人者はさっきまでの面倒見のよい優しき巨漢に変貌を遂げていた。口からごく柔らかく言葉が流れる。 「人の楽しみには色々あるのさ。お前は塩の塊を彫るのが好き、おれは……逃げるやつを後ろから撃つのが好きでね」 あまりにも感慨深く、まるで趣味の話をするみたいに言うものだから僕は気がおかしくなりそうだった。堂々とした態度で彼は「それに」と付け加える。 「お前、A評価って取ったことないだろう。今日最後の特別講習だ。あれはどうやったら取れると思う」 「し、知らない」 考えるより先に本能が回答を拒否した。認めたくなかった。しかし状況から想像すればおのずと答えが分かってしまう。吐き気がしてきた。彼もとっくに見抜いている。 「おれたちだって競合他社を減らせるんだ。この銃はそのためにある」 「今まで、何回、こんなことを?」 しゃべらないと本当に吐いてしまいそうだったので聞きたくもない質問をした。対する同僚の受け答えは実に洗練されていた。 「おれはA評価しか取ったことがなくてね」 皮肉にも帰りの道のりは非常に快適だった。殺したイエローたちは電気で動く二人乗りのバイクを知覚に隠していて、それに乗って帰ったからだ。HID6は後部座席にまたがる僕に、エンジンの駆動音や風切り音に負けない大きな声で叫んだ。 「こんなものおれたちは持っちゃいねえ! そうだろ!? だが他社の連中は持ってる! おれたちが持っていない良いものを持ってやがる! これでおれたちがうまくやれていると思うか!? ええ? 殺さずに勝てると思うか?」 僕はひたすら無言の抵抗を貫くほかなかった。時速一〇〇キロメートル超で前から後ろへと高速で流れ去っていく風景、遠く彼方まで広がる濁った白の地平線、固形の塩の海、そのどれもがひどく味気なく感じられた。 8 納品物を走査するスキャナの上にチタン合金とベリリウムと血みどろの生首が投げ込まれて以来、僕はこの種の仕事から手を引いた。もともと適性なんてなかったのだ。モノクロスクリーンに踊るA評価の文字を一瞥して、さも同僚を労う仕草で肩を叩いてチェンバー室に戻っていったHID6をよそに、いつまでも色褪せたリノリウムの床に滴る血痕を眺めていた。「もう外に出たくない」そうイヤホンにつぶやくと彼女は特に追及せず適性を修正した。 ロッカーには残置された二種類の背嚢に加えて掃除用具が追加された。壁を補修する道具、床を拭く道具、どうせならトイレの糞を集める道具もあると良かった。あれから何回か冷凍と解凍を繰り返したが、ずっと内勤の仕事を続けている。ブリーフィングは非常に短い。移動時間は三〇分もかかれば長い方だと感じる。 彫刻はもう彫っていない。彫るための材料がここにはない。 代わりに、彼女と話す機会が増えた。イヤホンはシェルターの中ならだいたい機能する。毎回、ひび割れた壁に補修材を塗りたくり、汚れた床を拭きながら雑談を交わす。内容はなんでもいい。天気の話だけはできないけど。 「覚えてる? 一〇歳の頃に僕が鉱石コンテストで優勝したの、最後は匂いで分かったって言っちゃったんだけど実は当てずっぽうで……」 〝私にとってはずいぶん昔のことですね。大抵は記憶が薄れてしまっています。ああ、でも一〇歳までおねしょが治らなかったのはよく覚えていますよ。あれは恥ずかしかったですね〟 「それは即刻忘れてほしいな」 シェルターの中は意外に広い。直すべき壁は無数にあり、拭くべき床はもっと多い。以前の仕事で内勤のインターフェイスとあまり会わなかったのも納得だ。チェンバー室も他に三つもあって、培養プラント室もそのぶんだけあり、トイレも備わっている。そしてもちろん、大抵は便器に糞が積もっている。 原子力電池付近の最下層は特に最悪だ。放射線防護服は暑くて重い。分厚い生地に手足の動きが阻まれていると作業は遅々として進まず、代わりに口数ばかりがますます増える。壁のひび割れが広大な円周に広がっていて途方に暮れ、思わず天を仰ぐと吹き抜けの天井に暗闇が広がっていた。あの細い通路から落ちるとここで床の染みと化すのだ。 「ところで君は今なにしているの?」 てんで見通しの立たない仕事を半ば放棄してふと彼女に尋ねると、放射線特有のノイズに紛れて自明すぎる回答が返ってくる。 〝あなたと話しています〟 「そうじゃなくて、僕が仕事をしながら話しているように君もなにかしているんじゃないの」 〝ええ、まあそれはそうですね。ですが私は情報体なので、処理ごとに自我を分割しています〟 「よく分からないな」 〝あなたと話しているこの私は会話をするためだけに生成されています。総体としての私がなにかをしながら会話をしているのは事実ですが、私という自我単位に並行処理の自覚はありません〟 「それっていいことなの?」 〝効率的ではありますね。どのみち計算資源をすべて割り当てた私とは会話が成り立たないでしょう〟 時々、彼女との会話から情報体特有の生活が垣間見えることがある。曰く、情報体は人間では手足の指を全部使っても不可能な仕事を同時に抱え込むことができるとか、いくらでも好きな見た目に自分を変えられるとか、食事もいらなければトイレにも行かないとか。 〝いえ、食べたい人は食べますし、行く人は行きますね〟 反論も抜け目ない。 「そうなの? まあ、でもそれは分かるかな。美味しいものを食べた気になれるのは悪くない。でもトイレは行かなくていいんじゃないか」 だってどう考えたって無駄だ。誰だって行かずに済むなら行きたくないし、もしそういう選択肢が標準入力インターフェイスにもあったらぜひとも全員に実践してもらいたい。便器から糞を拾うたびに顔を顰めなくて済む。集める時には何年も経っているから乾燥しきっていて掴みやすいのだけが幸いだ。だが、イヤホン越しの彼女はとても言いづらそうに言葉を濁らせた。 〝うーん、そうですね、行かなくてもいいのはそうなんですが……その、好みによるというか〟 「トイレに好みなんてあるのかな。一日に何十回も出した気になりたい人なんている?」 〝えーと、この話はあなたにはまだ早いんじゃないかと思います〟 なぜか一方的に会話を打ち切られたが、ちょうど腰を深く折り曲げた同僚がエレベータの昇降口から現れたので挨拶を交わした。膨れた腕を振り回して大声を張る。 「おはよう」 「おはよう。元気か?」 「この壁の補修をこれ以上しなくて済むならね」 顔中に深く皺が刻まれた老体のインターフェイスは口元を曲げて微笑んだ。 「じゃあ私と交代しよう。君は上階の方をやりなさい」 「ほんと? どうもありがとう」 率直に感謝の気持ちを表明する。いっそこの場で防護服を脱ぎ散らかしたくてたまらなかったところだ。 「若いのにこんな仕事をさせるのはあまりよくないからね。本当は外に出た方がいい。なにか事情があるんだろうけども……」 曖昧な問いかけに、同じくらい曖昧な笑みで返してやり過ごす。会釈を交わしあってすれ違いざま、思い出したように折れ曲がった背中が振り向いた。 「まあ、仕事熱心なのはいいことだ。さっき防護服を着る時に、若い連中――あんたほどじゃないが――なにやらぺちゃくちゃ喋っていてね。ああいうのは良くないね」 放射線防護服などの特殊な区間向けの装備は最下層の一つ上の階層に置かれている。そこで着脱と除染を経てまたエレベータに乗る。その工程を踏む途中にいくつかある部屋の中から、確かにぼそぼそと声が聞こえてきた。 なるほど誰もが真面目に働いているわけではないらしい。この辺りの部屋は配管などが敷き詰められた設備用の部屋で、複数のインターフェイスが入り込んで仕事をするような場所ではない。 「こういうのって注意した方がいいのかな」 彼女に話しかけたが返答はない。奇妙なノイズがイヤホンに載っている。まだ放射線の強い区間なのに加えて入り組んだ狭い場所だから電波の入りが悪いのかもしれない。 次第に、ぼそぼそとした声色の音程に耳が慣れたのか扉の向こうの会話が聞こえるようになってきた。 「……どうだ、転職するか? 返答がイエスなら出張を願い出ろ」 「……けどよ、願い出たってその通りの仕事が振られるかどうか……」 「おれがなぜずっとA評価を取り続けているか分かるか? 仕事を選べるからさ。出張の枠を用意してお前を入れる」 声量こそ小さいがその声は野太く低く、はっきりとしていた。気がつくと脱衣も除染も忘れて扉に防護服ごと身体を押し当てていた。「転職」という聞き慣れない単語が出てきたからだ。単語自体の意味はもちろん知っているが、標準入力インターフェイスを職業に例えているなら、他の職のあてがこの世界にあるとは思えない。 「……ばれねえのかな、そこが不安だ。おれたちは脳みそを握られているんだぜ」 「やつらは健康診断をケチってる。ばれようがねえよ。当日までお前が口を閉じていればな」 「だが派手に動いたら危ないだろう。その枠とやらには誰が入る予定なんだ」 「めぼしい連中とはもう話をつけた。あとは出張経験者を組み入れる。雑魚はいらん」 言うまでもなく、会話の内容にはとてつもなく不穏な雰囲気が漂っていた。唐突に、足音が扉の方向に迫ったので右向け右をして除染室に向かった。会話に決着が着いたようだ。除染室の扉が閉まるか閉まらないかの間際、部屋から二人のインターフェイスが出てきたのが見えた。細身の男に続いて、巨体の同僚――他でもないHID6が身を屈めて現れた。同時に扉が完全に封鎖されて警告音声が流れる。 〝除染処理を開始します。姿勢を適切に保ってください〟 四方八方から噴出する消毒シャワーの圧力に耐えながら、一瞬のうちに目に焼きついた光景を何度も何度も思い描いた。 面倒見が良くて優しい同僚、殺人者で逃げる相手を撃つのが好きな同僚。その同僚が、なにかを企んでいる。 9 彼女はきっと驚いたに違いない。仕事から戻ってくるやいなや「適性を修正してほしい」と言われたのだから。もちろん事情は説明した。しかし証拠が乏しい。放射線が一定以上検出される区画にはカメラなどが一切配備されていないため、彼らの密談を裏付ける記録はどこにもない。 〝仮に適性が再び修正されたとして、どうするつもりですか〟 「僕の聞いた話が確かなら、HID6と一緒に出張に行くことになる」 〝なるほど、それで証明してみせようというわけですね〟 イヤホンの向こうで息を吸い込む音がした。ところで、情報体に呼吸という概念は存在するのだろうか。酸素もいらなければ発声器官もないのだから不要なのは間違いない。単に会話のエミュレーションとして備わっているのだろう。 〝ですが、危険です。あなたの言っている通りのことが起こるにせよ、起こらないにせよ〟 「分かっているよ。ただ……一泡吹かせたくて」 おそらく一〇〇年は経ったであろう今でも鮮明に思い出せる。ぽっかり穴が空いた作業着、逃げ惑うイエローの背中、優しい同僚の獰猛な笑み。彼は僕を打ちのめしたのに、僕は彼になにもやり返していない。思い知らせるなら今が最高のタイミングだ。どんな隠し事をしているにせよ、明るみになれば彼は罰を受けるだろう。 次の解凍時、彼女の声はいささか緊張を帯びていた。らしくない、と思ったが理由は分かっていた。 〝適性の修正が認められ、今回、拡張入力――あなたがたが言うところの出張――が行われることになりました。あなたの言った通り、HID6とその他数名です〟 「信じてくれるかい」 〝依然として客観的な証拠能力には事足りません。しかし、私を信じさせるには十分と認めましょう〟 直後、納品物を格納するスキャナがいつもと逆方向に回転して、中からなにかが転がってきた。天井のカメラと似た薄い板みたいな形状をしている。背面には折れた金属片を平らにならした跡が見える。 「これは……?」 〝使用頻度の低い区間のカメラを省電力化の名目で廃止し、それを材料に標準入力インターフェイスに適した撮影機材に加工しました〟 要するにビデオカメラだということだ。スイッチを押すと筐体側面のランプが一瞬光り、もう一度押すと二回光って消えた。〝それで録画終了です。音声も記録されますが、他に機能はありません〟と彼女が付け加えた。 〝再三申し上げているように重要なのは証拠です。もしあなたが然るべき映像を持って帰ってこられたら、期待通りの結果が手に入るでしょう〟 もう一度、簡素極まるビデオカメラの角ばった筐体をまじまじと見つめた。 「ありがとう。でも、どうしてこんなことまで?」 〝標準入力インターフェイスの不始末は持ち主にも帰責されます。実は私も大株主に一泡吹かせたいと思っていたんですよ。計算資源の割り当て量が不満でしてね〟 情報体の世界にも色々あるらしい。僕たちの言葉で表すならさしずめ「出世競争」かもしれない。 ルーティーンの一部をやり直して金属製の背嚢にあらゆるものを詰め込んでいく。不思議と今ではそれほど怖くなくなった細い通路の始端でHID6が待っていた。顔を合わせると彼はいたってフレンドリーな表情で微笑んだ。 「お前は必ず戻ってくると思っていたよ。他の二人はもう外に出ている」 巨大扉の先の危険物室で一番大型の電動銃を手に取ると、いつになく力強い足取りで地上世界に踏み出した。 地表では確かに標準入力インターフェイスたちが待っていた。巨体の同僚とは対照的に二人の顔には渋面がありありと浮かんだ。後に続いてHID6が出てくると、僕にはではなく彼にクレームを投げかけた。 「おい、なんだこいつは、ガキじゃねえか」 しかし彼は一歩も譲らず、むしろ威圧するように声を低く張った。 「いや、こいつは見どころがある。前は出張もやっていた」 表向き、ブリーフィングでは五〇キロメートル以上離れた地域の鉱石を採集することになっていた。例の勢力図通りなら周縁部分どころか競合他社の地域に入り込む格好だ。以前に聞いたように四人での出張は半ば戦闘を前提にしている。 改めて二人を見ると、片方は除染室前で見た細身の男、もう一人は知らないインターフェイスだった。それぞれHID23、HID45と胸元に記されている。今回の出張になんらかの企みが隠されていることを知っているのはHID23とHID6のみだ。歩行を開始してからしばらく経っても何事も起こる気配がないのは、シェルターから十分離れないと達成できない内容だからと考えられる。 久しぶりの陽光、柔らかく吹き抜ける塩気を含んだ風は秘め事を抱えている身でも格別だった。世紀を隔てても変わらない塩の大地が相も変わらず悠然と地平線の彼方まで広がっている。その白く濁った表面にまるで頬ずりするように靴底をすり合わせながら、しばらく道のりを楽しんだ。 先を行く三人の口数はおしなべて少なかった。プロフェッショナルらしくこの先の危険に備えて体力を温存しているのか、あるいは企みの行く末を案じているのか。例の二人は周縁地域にも達していないうちから大型の電動銃を片時も手放さなかった。HID6の号令に合わせて休息をとる時も、食事の際にも必ず手が届く位置に電動銃があった。必ずしも予期せぬ敵の襲来を危惧してのことではない。たぶん味方も信じていないのだ。唯一、状況をなにも知らされていないであろうHID45もそんなピリピリした雰囲気を察知したのか、食事後には電動銃を広げだした。その隙に、僕は容器を片付けるふりをして背嚢の中からカメラを取り出して胸ポケットに装着した。レンズの部分がちょうどよく生地の切れ目から顔を出す格好だ。スイッチを押す。以降、すべての出来事が記録される。よほど注意して見られなければこれがカメラだとは気づかれないだろうが、念のためにあまり正面で向き合わない方が望ましい。幸いにも歩行中、僕の位置はずっと最後尾だった。 塩と土の大地を交互に踏みしめて半日近くも経過すると、さすがにベテランの大人たちの足取りにも疲れが見えてきたようだった。休憩の合間に仕事の段取りを軽く説明して、また歩き続ける。橙色の濃い夕陽が顔に差しても行軍は止まらず、南半球に引っ込んだ太陽と入れ違いに月が顔を出す頃になり、ようやく野営場所が確定した。 「ここはもう周縁部ではない。敵の勢力下だ」厳かな口調でHID6が口火を切り、さらに続けた。「二人ペアで見張り番をする」みんなは無言で頷いた。彼の指示で最初の組分けは僕とHID23に決まった。言うまでもなく意図は分かっている。企みを知っている者とそうでない者同士で振り分けたのだ。寝袋を引き出す間際、二人が目配せを交わしたのを見逃さなかった。 大型の電動銃を斜面に二つ並べて暗闇をしばらく見つめていると、隣からぼそりと声がした。 「お前、HID11と言ったか。確かに見た目より骨があるな。あんなに歩かされたのに音を上げなかった」 「しょっちゅう重い服を着てシェルターを駆けずり回っていたからね」 予想とは裏腹に内勤のおかげで予想以上に体力がついていたらしい。 「でも、どうしてだ? 前は出張していてもついこないだまで内勤だったんだろう」 その声にはどんなに気配を抑えていても隠しきれない圧力を感じた。僕は月明かりを通して表情を読まれないように努めて電動銃の照準の前に顔を固定し続けた。 「あの時は少し疲れてね。でもやっぱり内勤も飽きちゃった」 「そりゃそうだろう。老いぼれか女しかやらないような仕事だ」 顔を向けなかったのは正解だ。きっと今の僕はムッとしているに違いない。肌感覚として、内勤のインターフェイスに老体や女性が多いのは事実だが、決して見下されるような仕事ではない。内勤に従事する標準入力インターフェイスがいなければシェルターはとっくに崩壊しているだろう。 「おじさんは出張が多いの?」 なんとか平静を装って水を向けると、HID23は自慢げに答えた。 「まあな。一度慣れると他の仕事は退屈で仕方がねえ」 「じゃあもう何人も殺……やっつけたんだね」 せめて非難がましく聞こえないように言い回しを変える。すると、ますます大胆な態度が口ぶりに表れた。 「メシを食うのとさして変わらないね、俺にとっちゃ」 その時、ちらりと漆黒の奥が光った。「ねえ、あそこ光らなかった?」隣のベテランの見解を待つまでもなくさらにもう一度光る。「本当だ」次第に光は激しく交錯し合う。前回とは違ってひどい荒れ模様だ。「銃撃戦というよりはもはや乱戦だ」しばらくするとそれらはぷつりと途絶えた。 「どっちかが勝ったのかな」 今度こそ照準から顔を離して合わせる。同僚は興奮がちに言った。 「あんなに間近だと相打ちの可能性もある。だが一応、他のやつらを起こさねえと――」 HID23が立ち上がって振り返った途端、不可視のエネルギーがその肩口を鋭く捉えた。かすかな硝煙とともに血飛沫が舞う。短いうめき声を漏らした彼は斜面を転がっていく。慌てて銃座を放棄して駆け寄りかけたが、同時にHID6の言いつけを思い出した。 〝もし先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――とにかく撃ち返せ〟 いざ暗闇と相対してトリガーを引き絞ると、驚くほど簡単にエネルギー弾が発射された。直後、瞬いた光がすぐ直近の敵の姿を捉えた。距離にして一〇歩もない。スキップすればハイタッチもできそうだった。敵は牽制射撃と奇襲で二手に別れていたのだ。目を見開いた途端、影に似た敵は驚くほど俊敏に接近してきた。 もし僕が下手に経験豊富な大人だったらきっとやられていたに違いない。本能的な恐怖から電動銃を持ち上げて盾のように構えると、そこへまっすぐ敵の腕が迫った。がちりと金属音が鳴り響く。月明かりを照り返す鋭い銀色の輝きが死の匂いを感じさせる。敵は電動銃ではなくナイフを持っている。 初手を防がれた敵はしかし、軽い身のこなしで僕を押し倒すとすぐさま覆い被さった。再度、ナイフが頭上にきらめく。黒装束に覆われた目元がかすかに歪んだ。 「子ども……!?」 一瞬、振り下ろされかけた刃の切っ先が止まった。直後、真横からエネルギー弾が発射された。胴体を塞ぐ黒い塊が横に傾いで倒れ込んだ。入れ替わりに、HID6の顔が現れる。 「夜勤<ナイト・シフト>を見て生き残るとは運のいいやつだ」 決死の瞬間をくぐり抜けて、ようやく僕は自分がろくに呼吸もしていなかったことに気づいた。急速に駆動を再開した呼吸器官の痛みに胸を抑えながら地面を転がる。胴体に風穴が空いた敵の死体が見えた。噂に聞く残忍な夜勤<ナイト・シフト>の素顔はいたってありふれた中年女性だった。 10 その日は全員起きたまま警戒にあたったが、二度目の襲撃はなかった。おそらく奇襲役の夜勤<ナイト・シフト>がこちら側を一人も削れずに死んだことで仕事を諦めたのだろう。肩に深手を負ったHID23は僕とHID45で運搬することになった。寝袋を使って即席の担架を拵えたのだ。 幸いにも前日の進捗が良好だったおかげでさほど苦労せずに目的地にたどり着いた。HID6が「ここだ」と言った箇所は四方が瓦礫の山に囲まれていたものの、納品物の合金が転がっていそうには見えなかった。かといって地下施設や家屋を目指す気配もない。いよいよ僕は例の企みが実行に移される気配を感じた。 「ちょうど予定時刻だ」 彼がそう言うが早いか、瓦礫の隙間の奥から徐々に走行音がうなりをあげ、標準入力インターフェイスたちが電動バイクを駆って現れた。二人ともグレイの制服を着ている。競合他社の人間だ。退路を塞ぐように僕たちの来た道にバイクを止めると、慣れた仕草で降りてすぐさま洗練されたデザインの電動銃を突き出す。担架に両手を塞がれている僕たちは早くも形勢を失った。HID45が「なんだこいつらは」と声をあげたが、HID6は無視して二人に話しかけた。 「誰も武装していない。銃を下ろしてくれ」 グレイの二人は能面のような表情の読めない顔でしばらく見つめた後、わずかに銃身の角度を下に傾けた。 「転職希望者で間違いないな」 「そうだ」 「では面接を始める」 淡白な応答の後に二人はポケットから取り出した小型の端末を僕たちにかざした。どういう意図があるのか分からないが、片手にちらつく電動銃のせいで抵抗はできない。最後に担架の上のHID23に端末をあてると、グレイの片方が言った。 「以上で面接を終了する。お前とこいつはいいが、この傷ものはだめだ」 「そうか、じゃあしょうがないな」 HID6が頷くとグレイたちはあたかも日常の動作みたいに電動銃を持ち上げ、担架の上の同僚に照準を合わせた。身の危険を察知したHID23が手を掲げて静止を呼びかけるも、間もなく頭蓋に大穴が穿たれる。直後、僕とHID45は担架を手放して後ずさった。顔のない死体が投げ出されて地面に転がった。 「この子どもはどうする」 「あまり性能は良くない」 「じゃあ殺すか」 引き起こした惨劇をものともせず会話を始めたグレイたちに、HID6が割って入った。 「待て、こいつはおれの会社で何度も適性を修正している。普通はそんなことはできない」 「要するに?」 「若いからだ。現在の性能評価が芳しくなくても投資価値がある」 「なるほど」 グレイたちはお互いに顔を見合わせた。そして「いいだろう」と言って銃身を下ろした。 「一体、これはーー」 今度は巨体の同僚がぐるりと振り向いて僕に迫った。 「いいか、おれたちのシェルターは終わりだ。開発競争で負けているし、持っている情報量も少ない。おまけに便器はいつも糞まみれ。このままいてもジリ貧だ。だから、転職する」 ここへきて、転職というフレーズが躍り出た。今回の出来事のきっかけ。つまり、それは。 分厚い身体を挟んで向こう側から声がした。 「我が社の標準入力インターフェイスに移行するということだ。代わりに会社の情報を頂いた」 目の前の同僚は厳密にはもう同僚ではなくなったらしい。 「背任行為だ。報告されたらお前もお前の情報体も懲戒解雇されるぞ」 真横からHID45が非難する声も飛ぶ。だが、HID6は気に留めるそぶりを見せない。 「もしそれができなかったら?」 「なんだと?」 再び、グレイの片割れが端的に答える。 「情報を頂いたと言っただろう。シェルターの位置、防御設備、すべて把握している。近年中に敵対的買収を仕掛ける予定だ」 そこへHID6が被せるように言う。 「悪いことは言わない、黙って首を縦に振れ。お前らの仕事の内容は変わらん。土いじりや内勤の仕事もしたけりゃある。着る制服の色が変わるだけだ」 「でもそうしたら、他のインターフェイスとか情報体の人たちはどうなるの、僕たちの会社の」 「どうでもいいだろ、そんなこと。やつらもおれたちのことなんか気にかけちゃいない」 僕はHID6の目をじっと見つめた。濃い茶色の眼差しにはまだ嘘みたいに温かみがあった。 ここへ来るまでの間、HID6はいつも通りの頼れる同僚そのものだった。ひょっとすると前に見た殺人者としての光景は見間違いか夢だったのではないかと思うほどに。 「分かった。会社にこだわりはない」 「そうか、よし」 転職予定の同僚は大きな手のひらで僕の肩をぽんぽんと叩いた。 ある意味で、嘘ではなかった。遠い昔に死んだ父親がたまたま株主で、シェルターの契約が株主優待に含まれていたという前提なくして僕がオレンジの作業服を着る理由はない。 「念のために武器を押収したい」 グレイの片方の要請に従い、背嚢から電動銃を取って元同僚に差し出した。振り返った彼がそれを引き渡す。 「ナイフも持っているだろう」 「そうだね」 今度はわざと腰を落として前屈みになり、時間をかけて背嚢の中をまさぐりながらナイフを取り出した。また代わりに受け取ったHID6が振り返り、グレイに手渡す。 今の彼は隙だらけだ。 後方のHID45と視線を合わせた。彼は今まさに、背嚢から電動銃を取り出してもう片方のグレイに差し出すところだった。横顔に浮かぶ不安な目元が、交錯すると微かに瞬いた。 刹那、僕は背嚢から鋭い塩の彫刻を抜き取り、広々とした巨体に突き刺した。塩のモース硬度は二.〇以上もある。石膏よりも固い。尖った先端は彼の筋肉の中に吸い込まれるように入っていき、手のひらに生々しい嫌な感触を残した。彼の野太い絶叫が辺りにこだまする。グレイたちの注意がそれた。 入れ違いに、HID45が銃身を振り払って構えると眼前のグレイに向けて発射した。続けて、もう片方のグレイにもエネルギーの弾丸を浴びせる。後には顔を激情に歪めた同僚が残された。 「くっ、貴様ら……」 「この件は帰ったら直ちに報告する。覚悟しろ」 銃口を果敢に突きつけてHID45が告げる。HID6が膝をついたまま薄暗く笑った。 「どう報告する。おれの情報体は大株主だぞ。木っ端インターフェイスどもの証言など」 「いや、実はずっと証拠を記録していた。これがカメラだ」 胸元のポケットからわずかにはみでたレンズを指先で叩いて示すと、彼はしばし笑いを止めた。そしてごく静かな物腰で「そうか、やるな」とつぶやいた。 だが、次の瞬間。 すばやく起き上がった彼は自らの巨体から塩の彫刻を抜き取り、HID45に襲いかかった。片手で容易く銃身を押さえつけた直後、明後日の方向に振れた銃口からエネルギー弾が何発か飛び出して虚空に消える。役目はそれで終わりだった。彼のもう片方の手に握られた突端が勇敢な同僚の首元に深々と突き刺さる。一回、二回、三回。首筋からどばどばと噴き出た鮮血が勇敢な同僚の制服をたちまちレッドに染め上げた。事切れた死体をボロ布でも放るようにして片手で投げ出すのを見た途端、僕は電動バイクに向かって一目散に駆け出した。 9 グレイたちの電動バイクは僕にはやや大きすぎたが、跨ってハンドルをひねるとまるで自律的に重心を保っているかのようにまっすぐ走り出した。多少の粗道をものともせず進み、流れゆく景色はさほど時間が経たないうちに濁った白の地平線に置き換わった。滑らかな擦過音と響く風のうなりに紛れて、背後からエネルギーの塊が空気を切り裂いてやってくる。 ハンドルを強く握りしめながら振り向くと、HID6もまた電動バイクを駆って迫ってきていた。大型の電動銃を片手で器用に操りながら銃撃を重ねる。僕は時々、左右に車体を揺らして射線をずらして対応した。しかしこれこそが元同僚の狙いなのはしばらくの後に判明する。直線に移動し続ける物体と多少なりとも蛇行する物体は、走行性能が同等なら次第に距離が縮む定めにある。 やがて一〇〇メートル以上あった間隔は五〇メートル前後にまで縮み、電動バイクのタイヤが再び土を踏む頃にはさらに接近していた。 ソーラーパネルのまばらな群れを通り抜け、辛くもシェルターの前に車体を滑り込ませると運良く隆起していた入り口に急いで身体を滑り込ませる。転がるようにして階段を降りて扉の先の細い通路を全力で駆け抜けた。あと数歩で曲がり角に辿り着くというところで、背後からのエネルギー弾が僕の肩口を切り裂いた。痛みと衝撃に思わず身体を壁面に打ちつけるーー真っ赤な血痕が壁にこびりつき、垂れて床をも汚したーー血の汚れをとるのは厄介だ。内勤のインターフェイスに申し訳ない。 唐突に力が抜けた身体を引きずりながら廊下を辿り、本来のルーティーンをすべて省略してチェンバー室に向かった。この状況では勤務査定など受ける間もなくカメラを取り上げられる。僕の身を守ってくれるもの……それはチェンバー殻しかない。よろよろとした足取りで手前の殻を叩くと、手のひらの血が表面にべったりとくっついた。せり出した殻が開ききる前に身体を捻り込んで殻を閉鎖する。 殻が閉まるか閉まらないかの瀬戸際、強化ガラスを隔てて汗と血にまみれたHID6が目の前に現れた。強く殻を叩くも、一度誰かが入ったチェンバーが開くことはない。 じきに今すぐ殺せないことを悟った元同僚は不敵な笑みを浮かべてガラス越しに叫んだ。 「それで勝ったつもりか? 言っておくがな、おれは仕事を選べる。今から勤務査定に戻って、次の仕事にお前を指名して入れる。解凍される時は一緒だ。せいぜいよく眠っておくがいい」 刺し傷をものともせず悠然と立ち去っていく難敵を尻目に、僕はチェンバー殻に向かって叫んだ。 「なあ、聞こえているだろ! 助けてくれ! 見ただろ、あいつは僕を殺すつもりだ!」 〝分かっています。しかし現状ではHID6に重罰を課すことはできません。シェルター内のカメラに映っている範囲では危害の証拠は確認されていません〟 彼女の声がチェンバー殻のスピーカーを通して反響する。きっと彼は最後の銃撃を細い通路の出口から放ったのだろう。あそこは上下が吹き抜けの特殊な構造だからどこにもカメラがない。実際、彼はさっき電動銃を手に持っていなかった。 「くそっ、証拠はここにあるんだ、全部撮ったんだ」 胸元の映像技材のスイッチを押した。ランプが二回光って消灯する。録画完了だ。後は観る人さえいれば……。 〝そこから私が回収することはできません。適切に納品されなけば〟 彼女が悲痛な声を絞り出す。こんなに感情のこもった声色を聞くのは初めてだった。 「今、ここから出たら死んでしまうよ、ていうか、もう、眠い……動けない」 かすんだ視界で傷口を見やると、チェンバー殻が血で満たされるのではと錯覚するほど血が吹き出していた。 「冷凍、冷凍してくれ、頼む」 その声には彼女ではなくチェンバー殻のシステムが応答した。湾曲したガラスに文字列が二行にわたって並ぶ。 <警告。着衣状態では正常な冷凍が行われません> <警告。バイタルに異常を検知。正常な冷凍が行われません> 「いいから、冷凍……なにか、考えてくれ、方法……」 <強制冷凍処理開始。本シークエンスについて弊社は一切の法的責任を負いません。この件における免責事項をよくご確認頂き……> 彼女の声はもう聞こえてこなかった。文字列の続きも読めない。不思議と、いつもは不気味で仕方がなかった後頭部にドライバが差し込まれる感覚が妙に心地よかった。 夢は見ない。冷凍されている間の脳は当然ながら細胞単位で活動が停止しているため、電源を落としたコンピュータと同等の状態に至る。電源がないコンピュータが電気羊の夢を勝手に見ないように、我々の意識もまた諸神経の挙動に合わせて連続的に再開される。次に目が覚めた時、湾曲したガラスの表面に示された文字列がにわかに僕の恐怖を細胞単位で呼び覚ました。胸の高鳴りと警告音が並走する。 〝標準入力インターフェイス11:接続処理中〟 「待て、待ってくれ、出さないでくれ」 必死の哀願を無視してシェルター殻が前にせり出していく。ガラスを引き戻そうと突き出した腕が無慈悲にも空を掻く。そこで、僕は並ならぬ違和感に気がついた。 視界に映る浅黒い隆々とした腕はどう見ても自分のそれではない。顔を傾けると、腕の付け根の肩口にはさらに盛り上がった筋肉が配されていて、あれほど血を流していた傷口はなかった。代わりに背中に鈍い痛みを感じた。 正面に向き直ると、ガラスの表面に自分自身の姿が反射して映り込む。 黒々とした逞しい顔つき、鎧のような巨体は、明らかにHID6そのものの姿だった。 「これは、一体……なにがどうなって……」 前に踏み出すと丸太のような両脚が即座に応じた。チェンバー室の中央に立つと、ちょうど対面に狼狽した様子の男が佇んでいるのが見えた。僕の姿を見た瞬間、目を見開いて叫んだ。 「お前、お前か、お前があのガキか」 少々高い声で訴えるその男の口調にはひどく心当たりがあった。 「おじさん、まさかHID6?」 口を衝いて出た音は野太く低く、とても自分のものとは思われなかった。 どういうわけか肉体が入れ替わったのだ。 「返せっ、おれの身体、返せっ!」 HID6が突進してきた。彼の元の体には及ばないとはいえ、中肉中背の成人男性の肉体だ。以前の僕ならひとたまりもなかっただろう。しかし、今の僕にはまるで止まっているように見える。向かってきた全身を片手で受け止めると、彼の動きは易々と封じられた。信じられないようなものを見る目が僕を見つめた。 太い腕をぬっと突き出して首筋を掴む。さほど力を入れずとも目測で一七〇センチメートルはゆうにありそうな成人男性の裸体が宙に浮いた。足をじたばたと震わせて口から声にならないうめき声をあげる元同僚をよそに、手近なチェンバー殻を叩いて開くとその中に投げ入れた。すでに気絶している彼にシステムが反応して自動で冷凍シークエンスが開始される。 後の始末は情報体に任せることにしよう。 注意深く左右を見て回ると一列に並ぶチェンバーから、かつての自分自身が眠る殻を見つけた。青く霜のふいた生気のない顔で横たわっている。流れる血液ごと凝固している様子はいっそ芸術的でもあった。殻の表面に静かに触って開くと、かつての自分の胸元に聖遺物の神々しさで佇む映像機材を回収した。 姿かたちが変わってもモーニングルーティーン自体に変化はない。着る服が大きくなり、食べる量と出す量が増えただけだった。 ブリーフィング室でイヤホンを耳につけると、安堵した彼女の声が出迎えてくれた。 〝急拵えでしたが、うまくいったようですね〟 「一体どうやってこんなことを……」 言葉遣いに似つかわしくない低い声に違和感を覚えつつも尋ねる。 〝あなたの元の肉体は正常に冷凍処理が行われず、体組織が不可逆的に損傷しました。しかし脳は無事です。このような時、シェルターのシステムは自動で適合する他の肉体を検索します〟 「まさか、HID6の肉体が?」 柄にもなく含み笑いがイヤホン越しに聞こえてくる。 〝もちろん、確率的にそううまくはいくわけありません。私が意図的にHID6の肉体が選ばれるように操作しました。通常であればすでにバインドされている肉体が別人に渡ることなどありえないのですが、あのインターフェイスはあなたを次の入力に指名していました。結果、肉体の確保がシステムの最優先事項となり、自らの肉体を失う結末とあいなったのです。首尾は上々のようですね〟 僕は霜がこびりついた映像機材をスキャナに置いた。すぐさま彼女の手によって中のデータが読み取られ、一部始終が共有されることとなった。 〝会社のライバルを蹴落とせた……などと喜んでいる場合ではなくなりましたね。競合他社はまもなく攻めてくるでしょう〟 厳かな口調で彼女が言う。今頃、並列化した自我が高速で働いているのかもしれない。 「とにかく、シェルターを守らないと。みんなを起こそう」 その時、ふと、死んだ両親が時々言っていた言葉を思い出した。それを言う時はいつも緊張感に満ちていた。 「今回は全員、休日出勤だ」 10 もたらされた証拠映像を皮切りに直ちに廃止されていた健康診断が再開された。脳のスキャンによって判明した背任者たちは主犯のHID6も含めて社内会議にかけられ、ほどなくして持ち主の情報体ともども懲戒解雇が確定した。肉体を予備資材として保存した後、生体脳は速やかに焼却処分に処された。同時に、情報体はフルフォーマットにかけられて電子的な死を迎えた。 敵対的買収の危機に際して解凍された標準入力インターフェイスたちは、みんながみんな出張経験者というわけではなかった。むしろ比率的には内勤や地質調査の方が多い。それでも一様に大小の電動銃が配られ、備蓄資材を用いて新たな武器が製造され、シェルター内の至るところには防衛設備が配備された。 腰の曲がった顔馴染みの標準入力インターフェイスもすでに持ち場で電動銃を構えていた。HID6の姿で近づくとしばらく萎縮していたようだったが、新調してもらった作業着の胸元を叩いて「身体が変わったんだ」と言うと表情が緩んだ。「おお、あんたあの子どもか。すっかりデカくなっちまって……」僕もいつもの調子で答える。「もし冷凍されずに育ったら僕もこんな感じだったのかもしれないね」 培養プラントもフル稼働して全員ぶんの食糧と水を作り続けていた。各々の背嚢にもそれぞれを容器に詰めて常時携帯する。いちいち持ち場を離れて飲食をする暇などないからだ。 あらゆる準備が整ったと思われた頃、情報体たちが地上のセンサを通して異常な反応を検知した。数百もの熱源が高速でこちらに接近していると言う。ついに敵対的買収が仕掛けられたのだ。 作戦の初動には僕が選ばれた。敵はHID6の現状を知らない。熱源がシェルターの真上付近まで近づいた時、彼の持ちものだった作業着に着替え直して地上に出ていった。 塩気の含む風に乗せるようにして、あたかも予定通りに進んでいる態度で軽快に叫ぶ。 「準備はできている」 そう言うと、電動バイクやら戦闘車輌やら大小の乗り物に身を預けた大軍団が瓦礫の陰から現れた。随伴歩兵と思われるグレイのインターフェイスたちも洗練された銃器を構えてずかずかとやってくる。 「貴様がHID6か」 「そうだ」 なるべく彼の口調を真似て答える。 「我々のインターフェイスが破壊された状態で見つかった。情報提供を求めたい」 「転職の条件がそり合わず戦闘が起きた。それは申し訳ない。だが、関係者は全員死んだ」 「シェルター内の状況は?」 「問題ない。すでに転職内定者が待機している」 グレイの作業着を着たインターフェイスが左右に顔を見合わせて頷き合う。 「いいだろう。案内してくれ」 来た道を戻り、階段を降りていくと後ろにグレイたちがぞろぞろとついてきた。扉を開けて細い通路を歩く。僕が始端までたどり着く頃には、数十人の敵が身動きのとれない通路に一列で並んだ。振り返って先頭のグレイに告げる。 「ところで転職の件についてだが、やはり考え直すことにするよ」 「なに?」 先頭のグレイが怪訝な顔でにらむ。 「内定辞退だよ」 意味が伝わったかどうかは分からない。僕の両親から聞いた覚えのある言葉だ。雇うつもりの相手に無碍に断られるのは屈辱らしい。 直後、片手を高く掲げて細い通路の先に駆け出す。入れ替わりに、左右から標準入力インターフェイスが顔を出して一斉に電動銃の掃射を開始した。 身動きのとれない敵の群れが続々とエネルギーの塊に押し倒されていく。撃ち返そうにも一列に並んだ状態では前の味方が邪魔でうまくいかない。本能的な恐怖に駆られた一部のインターフェイスは通路から自ら身を投げ出して下に落ちていった。他にも、千切れ飛んだ腕や足が漆黒の闇に吸い込まれていくのを見た。 期待以上の成果に誰かが快哉を叫んだのも束の間、異常を察知した後続の敵がぞろぞろとなだれを打って入口に現れた。細い通路の終端で扇状に広がり、洗練された銃列による応射が開始される。もともとひび割れていた壁面に穴が穿たれた。 敵の射撃の精度は高く、今度はこちらのインターフェイスが撃ち倒される。五分と経たないうちにおびただしい数の死体が廊下に転がった。イヤホン越しに彼女が言う。 〝現在位置の放棄が決定されました。速やかに後退してください〟 聞くが早いか、上に跳ね上げられた巨大な扉の警告灯が激しく点灯して、モーターの回る音とともにゆっくりと閉まりはじめた。しかしグレイの作業着を着た敵の集団はさほど慌てた様子を見せない。閉鎖に巻き込まれないよう脇に散開してなにかを待っている。 まず間違いなく、シェルターの正面扉はじきに突破されるだろう。内通者の手引きありきで作戦を立てるのはありえない。どう転んでも攻めきれる装備を持ってきているはずだ。 答え合わせは生き残った前線の同僚とともに撤退を済ませた直後に聞こえた。腹に響く激しい振動と大小の破裂音が響き、大量の足音が続いた。 「ここからは陣地を敷けるような開けた場所はない。どうする」 シェルター内の廊下はどこをとってもさほど広くはなく、曲がり角や分かれ道が異様に多い。遭遇戦は避けられない。 〝私たちがあなたたちの射撃を支援します〟 反応を示すように天井に引かれた一本のラインが鈍く光った。足音はもうすぐそこまで迫っている。 〝とりあえず右へ〟 言う通りに動くと、他の何人かもついてきた。各々の情報体によって指揮系統が共有されているのだろう。 〝十七秒後に八時の方向に掃射してください〟 並んで電動銃を構えるも、そこにはまだ誰もいない。まもなく彼女によって秒読みが開始される。 〝三……二……一……〟 虚空に向かって射撃を開始したつもりだったが、ちょうどそこへグレイの集団がまるで自ら当たりにいったかのように姿を表した。と、同時にエネルギー弾によって壁に磔にされたように事切れていく。隣の誰かが口笛を吹いた。 「すごい」 〝次、来ます。後退して曲がり角を五歩後ろに、五秒後に一時の方向〟 同じ指示を受けた同僚ともども引き下がり、秒読みに合わせて再び不可視の銃弾を放る。またしても追手の敵集団が不可視の銃弾の餌食となった。 各所で類似の作戦が随時実行された結果、辛くも前線が押し留まりいくつかのインターフェイスたちと合流を果たすことができた。中には顔馴染みの者もいた。 「こんなに派手に壊されちまったら直すまでに何世紀もかかっちまうぞ」 老体のインターフェイスが電動銃のバッテリーを交換しながら叫んだ。 「終わったらみんなで直そう」 口ではそう言ったが、頭では――あるいはHID6の肉体に実装された肌感覚のようなもの――が、おそらくそれは無理だろうと反論していた。あまりにも物量も質も違いすぎる。見るからに、向こうは三人のインターフェイスで一人殺せたら十分というつもりでやっている。 その時、屋内では聞こえるはずのないキャタピラ音に伴って人工的な響きある音声が耳に入った。 <ただいま貴社の経営権を取得しました。現時刻をもって有給休暇とします。直ちに現在の業務を終了してください。繰り返します……> 「なんだって?」 唐突に、隣のインターフェイスが持ち場を離れてフラフラと曲がり角を抜けていった。慌てて僕たちが追いかけて引き留めようとしたが、遅かった。 廊下の先で棒立ちになった同僚が次の瞬間には塵芥と化した。遅れて凄まじい轟音が鳴り響き、床を丸ごとえぐりとられた。ばちばちと音をたてながら内部の電装系をもことごとく破壊され、できあがった大穴の下からは鋭い悲鳴がこだました。 数秒後、何事もなかったかのようにキャタピラ音と人工音声が再開された。 <……現時刻をもって有給休暇とします。直ちに現在の業務を終了してください。繰り返します……> 僕たちは急いで引き下がり、なるべく狭い廊下を選んで撤退した。彼女に呼びかける。 「敵が経営権を取得したと言っている」 〝我が社の情報体が何人か持ち株を売却したようです。が、まだ経営権を奪取できるほどではないはずです。典型的な離反工作でしょう〟 「ひどい裏切りだ! こっちがこんなに頑張って働いているのに!」 しかし、彼女に向かって叫んでもどうにかなる話ではなかった。株主が持ち株を売るのは本来自由である。 「お、おい、待ってくれ」 気がつくと、老体の同僚が後ろで姿勢を崩して倒れ込んでいた。慌てて駆け寄ると彼の顔じゅうが汗まみれなのに気がついた。 「もう立てねえ」 「肩を回してくれ、運んでいく」 「無理するな、置いていけ」 先で待つ他の同僚の諦めた口調にくじけず、老体を持ち上げるとHID6の肉体を如何なく駆動させて走りだした。 「限りある資源は大切にしないとだめだ」 11 戦況は刻一刻と悪化していった。彼女曰く、競合他社が衛星通信を通じてサーバ間の移動手段を確立したらしく、持ち株を売却した情報体には他社での然るべきポストが用意されているとのことだった。我が社の経営陣が会議を経て懲戒の理屈をひねり出した頃には、離反者はとっくに宇宙に吸い上げられて去ってしまっている。インターフェイスの能力のみならず技術力でも上回られている事実は、ただでさえ低い労働意欲をさらに減退させた。 業務開始からゆうに十時間以上が経過して時間外労働に突入しても状況が好転する見込みは得られなかった。 幹線の廊下を我が物顔で踏み鳴らす例のキャタピラが、至るところで砲撃を撃ち抜く音が聞こえてきた。時には上から穴が空き、下から上に空くこともあれば左右の時もあった。僕たち自身も施設内を駆け回りながら戦っているので、もはや敵の正確な位置は掴めない。 〝天井のラインは接続不良の状況です。あなたのいる位置周辺に監視を集中させます〟 彼女はと言うと、僕たちのお守りをしつつ今も居残っている情報体と秒間数億回の会議を繰り返している。相変わらず有効な打開策は出てこない。きっといつまで待っても出ることはないのだろう。計算は魔法ではない。 今も勤務を続けている標準入力インターフェイスの総数も芳しくはなかった。ゲリラ戦というよりはもはや隠れてやり過ごしている状況に近い。 「これからどうするんだ」 上下左右から響く足音とキャタピラ音に囲まれた空間の中で、同僚の一人がぼやくように言う。しばらくは誰も返事をしなかった。 「作戦というほどのことじゃねえが……」 そこへ、老体のインターフェイスが口を開いた。彼はここしばらくの身動きがとれない状況のおかげでなんとか回復できたようだった。 「最下層には放射線の強い場所がある。俺や坊主――もう坊主じゃねえが――みたいな内勤の連中は知っている。そこで籠城したらたぶん長く持つ。どのみちシェルターを完全に掌握するにはここを通らないといけねえ」 「長く持たせてどうするっていうんだ」 「知らんな、情報体の連中がなにか思いつけばいいが」 各員の反応は乗り気ではなかったが、他に手立ても思いつかなかった。一同は手近なエレベータを目指して移動を開始した。 数時間前にはキャタピラ音に混じっていた悲鳴も今ではあまり聞こえてこない。慎重にエレベータに続く廊下の曲がり角から頭を覗かせる。彼女が言う。 〝大丈夫です。その通りには誰もいません〟 「本当に?」 〝大丈夫です。その通りには誰もいません〟 彼女は彼女で大変そうだった。相次ぐ会議に計算資源を割り当て続けた代償として、こちらとの連携にあてがわれたリソースが不足している。今の彼女は人間というよりは壊れた家電のクレームを請け負うチャットボットに近い存在だ。一度など「大丈夫」と言いつつ全然大丈夫ではなく、不本意な接敵に見舞われた。だが、リソース不足の彼女を責め立てても無味乾燥な謝罪文しか返ってこない。 「念のために君らの情報体にも聞いて答え合わせしよう」 僕が言うと、同僚たちは一様に首を振った。 「おれのは持ち株を売って転職した」 「おれもだ」 競合他社の敵対的買収は確実に成功を収めつつあるらしい。 「俺のは大丈夫だと言ってくれた。行こう」 老体のインターフェイスが頼りげのない足取りで先頭に進んだ。僕たちも後に続く。全員がエレベータに乗り込むと一番下のボタンを押した。 エレベータが最下層を示した時、全員の緊張の糸がいま一度張り詰めた。扉が開く。銃を向ける。前には誰にもいない。 「この階層に敵いる?」 〝敵、というのは一般的に自身に害を与える存在、もしくは恨みのある相手を指しますが、時には切磋琢磨する関係を示すこともあり文脈によって意味合いが変わる奥深い言葉です〟 ため息を吐きながらもう一回問い直す。彼女は本当に忙しいらしい。 「この階層に、敵はいる?」 〝すいません。この階層に敵の存在は確認されていません。しかし電波の通じない放射線エリアは不明です〟 具体的な場合分けにも言及しているのでたぶん合っているだろう。同僚にも伝えて歩きはじめる。一応、廊下をしらみつぶしに探ったが確かに敵はいないようだった。気を取り直して直進する。 最下層を道なりに進むとしばらくして除染室に行き当たった。お互いに注意しながら放射線防護服を着込んだ。室内でスキャンを受けた後に奥手に出ると、そこはもう電子ビームが高速で行き交う死の空間だ。遮蔽されたマスク越しに話しかける。 「聞こえる?」 他の同僚がそれぞれ頷いたり、顔の横でOKサイン返したりする。他方、予想通り彼女からの返答はノイズのみだった。 ここまでくると煩わしいキャタピラ音も足音も耳に入らなくなった。着膨れした腕を懸命に回して左右に銃身を向ける。誰もいない。 あまり立ち入らない部屋も念入りに扉を開けて索敵するも、敵影は見当たらず気づけば吹き抜けの最下層――細い通路の最下点にたどり着いていた。辺りには上から落ちてきた千切れた死体や手足、肉片が散乱している。防護服を着ていたのが幸いだ。もし着ていなければ悪臭に耐えきれず気分が悪くなっていたに違いない。 「サーバ室はその奥だ。情報体に申請しないとアクセスできないが」 老体のインターフェイスがもこもこの腕を突き出して言った。他の同僚が問い返す。 「電力室は?」 「その隣だ。壁を挟んでサーバと直結されている」 腕の位置が左にずれて説明が加えられる。同僚たちは関心したふうに言った。 「よく知ってるなあんた」 僕たちはここで腰を落ち着かせて、武装の再点検を行った。与えられた電動銃の他に、背嚢には予備のバッテリーやいくつかの工具、部品などが入っていた。これらは勤務中に装備が故障して交換も行えない時に修理する目的で与えられたものだが、僕たちはバッテリーに細工を施して即席の爆弾に仕立てた。スイッチを押すか衝撃を与えると即時に過充填が行われて破裂する。今来た道を戻り、これを壁面や床の隅に置いてまわり、籠城の構えをとる。通路が狭いので例のキャタピラはここへはやってこられない。来るとしたらインターフェイスだ。 最後に、エレベータの入口にも仕掛ける。老体のインターフェイスと二人で配線を張り合わせていたところで、突如として上方から振動音が降って湧いた。防護服越しに顔を見合わせる。「まずい、敵だ」秒を追うごとに身を激しく打ちつける振動に苛まれながら、配線の処理を続ける。しかしそう簡単に終わる気配はない。「くそっ、手が言うことを聞かねえ」彼が手を振って扉の前から飛び退いた。壁面に立てかけられた電動銃を手に取る。「残りの作業をやってくれ。おれは敵を撃つ。そんなには乗れないはずだ」 応答を示す前に、エレベータの到着を報せるランプが光った。扉が左右に開く。僕は慌てて壁面に身を屈めた。 正面に仁王立ちとなった老体のインターフェイスが電動銃を掃射した。エレベータの中からくぐもった悲鳴が聞こえて身体が崩折れていく音がする。 「早く! エレベータを止めろ!」 腕だけ中に手を伸ばして「開く」ボタンを押し続ける。その隙に銃を放り投げた老体の彼が配線作業に戻る。この階で唯一のエレベータを押し留めていれば追手は来ないかもしれない、とほのかな期待を抱いたが、数分もしないうちにランプが点滅して扉が閉まりはじめた。慌てて手を引っ込める。上の操作の方が優先されるのだろう。 再び、一旦登ったエレベータが下ってくる音がした。作業を終えて急ぎ後退を始めたが最後の配線を壁伝いの張り合わせて曲がり角まで持っていくところで、運悪く扉が開いた。老体のインターフェイスが投げ出したスイッチを受け取った途端、角の向こうで銃声が響いた。通路の先でもみくちゃになった防護服が仰向けに倒れる。 入れ替わりに角から銃口だけ出して応戦した。手応えはない。そこへ、彼女の声が入る。ここは除染室の手前側なのでまだ通信が使えることを思い出した。 〝銃口を十一時の方角に向けてください〟 言う通りにして打ったつもりだが、敵の応射が激しくすぐに手を引っ込めざるをえない。 〝今のは十時でした。十一です〟 「そんな指示じゃ分からないよ、もっと直感的に――そうだ、銃口と敵の位置関係を周波数で同期させてくれ。自然言語より計算量が低いはずだ」 〝承知しました〟 イヤホン越しに低周波のノイズが流れ出す。銃口を突き出して傾けると、次第にキンキンとした高周波音に入れ替わる。音の高まりがピークに達したとところで銃口を固定して撃ち放った。床に倒れ込む音が聞こえる。再度、角から銃口を突き出して残りの敵を打ち倒した後、ひしゃげた防護服を中身ごと引きずって曲がり角に退避させた。半透明に透過されていた頭部は血漿でほとんど見えない。急いで防護服を外すと、ちょうど激しく咳き込んだ彼の吐血が僕の頭部にかかった。 「ごほっ、すまねえ。もう下がってくれ、こんな会社によく付き合ってくれたな」 「どうやったらこの仕事は終わるんだ」 後退に次ぐ後退、相次ぐ同僚の死にさしものHID6の肉体にも疲れが溜まりはじめていた。 「やつは絶対に最後まで買収を受け入れんだろうな」 口から血を漏らしながら彼は言った。 「やつというのは?」 「おれの情報体だ。この会社を経営している」 「おじさん……社長なの?」 いつも壁のひび割れを直し続けていた標準入力インターフェイス、腰が曲がった老体のインターフェイスは、数百年前の地上世界ではこの会社の社長だった。 「違う。おれはインターフェイスだ。社長はあいつだ。最初に起こされた時は、こんな再雇用はまっぴらだと思ったもんだが……おれがあいつの立場なら同じことをする」 そしてそのまま、以降の言葉は口から溢れた血によってかき消された。首がだらんと垂れ下がる。事切れたのだ。 同僚の死を悲しんでいる暇はない。すでにエレベータは最下層に達している。僕は電動銃を握りしめて角から躍り出た。銃口を向けるとすぐにイヤホン越しの周波数が高音に張り付く。 扉が開いたと同時に銃を撃ち放つ。さすがに敵も三度も同じ手は食わない。ほとんどはエレベータの陰に身を寄せて回避したようだ。 〝その銃はバッテリー切れです〟 「分かってる!」 銃を前に放り投げて除染室に急ぐ。手前のガラスが閉まったと同時にエレベータからグレイの群れが一個の塊のように殺到して銃撃を重ねた。強化ガラスの扉が軋む中、警告音声が鳴り響く。 <扉が正常に閉まっていません。妨げとなる物体を取り除いて下さい> 「今やるよ」 扉が閉まりきっていないのは、エレベータから伸びた配線が引っかかっているからだった。 スイッチを押すと、扉の向こうでけたたましく火花が散った。続いて過充填されたバッテリーが次々と破裂する。左右から高速で襲いかかる金属片に隊列が乱れて廊下じゅうに血しぶきが舞った。その間、用済みの配線をちぎって扉を閉めきり、除染処理を受けて先に進む。最下層の円柱では他の同僚が装備を集めていた。新品の電動銃を受け取って扉の前に銃口を合わせる。もう彼女の支援は使えない。 「あのジジイは?」 「やられた。爆弾も使ったけどすぐに後が来る」 端的に会話を終えた直後に奥手からどたどたと足音が迫る。各自、片手で背嚢から即席の爆弾を取り出して投げつける。もくもくと煙が上がり、金属片が辺りに炸裂する。しかしグレイたちの勢いは止まらず、すぐにエネルギー弾の返礼が見舞われた。左右の同僚があっという間に撃ち倒される。もう他に手はない。僕は拵えた爆弾の中でもっとも大きいものを取り出して掲げた。直後、ぞろぞろと隊列をなしてやってきた集団に囲まれる。 「待て! こいつはちょっとした衝撃で爆発する! ここで起爆させたら原子力電池ごとサーバも吹き飛ぶぞ」 HID6の野太い声が功を奏したか、集団の動きが止まった。やがて奥から一人のインターフェイスが現れた。例によって礼儀正しい仕草で身体を直角に折り曲げてお辞儀をする。 「このたび実技選考にご参加いただき、誠にありがとうございました。選考の結果、改めてHID11様をぜひ当社に採用させていただく運びとなりましたことをご報告差し上げます」 爆弾を掲げる手が一瞬だけ緩む。 「どういうことだ」 「当社としても人材不足ゆえ選考基準を通過したなインターフェイスは随時雇用する方針でございます。HID6様の件は誠に残念ですが、よりよいご縁を結べたことを当社としてもたいへん喜ばしく感じております」 どうやら死ぬことにはならなさそうだ。しかし腕を下ろしかけたところで、別の疑問が湧いた。 「情報体はどうなる。僕の」 グレイの礼儀正しいインターフェイスはゆっくりと首を振った。 「申し訳ありません。管理職のポストには現在空きがありませんので……もう少し早くご応募いただければ話は違ったのですが」 「じゃあ殺すのか」 直截に問いただすと相手はまた深々とお辞儀をした。 「今後のご活躍をお祈り申し上げます」 十六時間もの長時間労働の最中、敵に風穴を穿ちつつも今後のことを考えていた。この戦いにはきっと勝てない。死ぬなら話は早いが、もしそうならなかったらどうするか。 話は決まっていた。 「今の会社からは退職するよ。でも、転職はしない」 12 再び高く掲げられた爆弾に周囲の注目が集まる。礼儀正しい例のインターフェイスの張りついた笑顔にも焦りが見えた。 「またとないオファーですよ。いま一度再考されることをおすすめいたします」 「来るな。僕はサーバ室に行く」 「一体なにをなされるおつもりですか」 じりじりと後退して老体のインターフェイスが前に指し示した扉に向かった。 「僕の情報体を持って出ていく。黙って見過ごせばなにもしない。いいか、原子力電池はすぐ隣だ。妙な真似はするな」 精一杯の虚勢を張って後ろ手に扉を開けると、足早に階段を降りてサーバ室に向かう。鉛製の扉をくぐり抜けた先に、さらに別の扉があった。天井に向かって手を振る。ここはもう放射線に侵された空間ではない。 「開けてくれ」 〝どういうつもりですか、せっかく会議を重ねて妥協案を引き出したのに〟 「君の仕業だったのか」 〝大切な資源を無駄にするわけにはいきません〟 「これを見てくれ」 僕は背嚢から四角い透き通った塩の結晶を取り出した。天井のラインが赤く光る。 〝塩の結晶ですか〟 「そうだ。塩の結晶は配列がとてもきれいだから記憶媒体に理想的なんだ。知っているだろ。これに君を入れる〟 〝入れてどうするつもりですか〟 「僕はここを出ていくよ。自立するんだ。でも、旅の道連れがいないと寂しいから……」 無言で扉が開く。その奥には黒い巨大な直方体が延々とどこまでも続くかのように敷き詰められていた。彼女が言う。 〝ここにレーザー加工装置があります。私が操作してデータをコピーすることができます。ですが……〟 一瞬、言葉を切ってから続ける。 〝持ち運べるのはこの私ではなく、バックアップの私です。連続性はありません。あくまで分岐した私です。それでも構いませんか?〟 僕は天井のラインに向かって微笑んだ。 「僕だって君から分岐している。ちょうどいいじゃないか」 すると、彼女は途端に押し黙った。「どうした?」と聞いても反応がない。生前とした空間で手持ち無沙汰を感じはじめた頃に、また声がした。 「五分経ちました。私のバックアップ間隔は五分間なので、どうせなら余すところなく記録したかった」 壁面からレーザー加工用の二対のアームが伸びてきた。澄んだ透明な直方体を渡すと、片方のアームがそれを保持して、もう片方が赤色のレーザーを照射する。彼女自身が塩の結晶の一つひとつに刻みこまれているのだ。 然る後に塩の結晶は僕に戻された。耳元の声が言う。 〝ごきげんよう。別の私によろしく伝えてください〟 サーバ室から出てくると、まだグレイのインターフェイスたちが銃を持って待ち構えていた。僕は緩んだ顔を再び引き締めて爆弾を掲げる。 「用事は済んだ。もう出ていくから邪魔しないでくれ」 除染室からエレベータへ、インターフェイスたちに取り囲まれて細い通路に出る。四方八方にグレイの銃口が光る。至るところには傷だらけの壁面、おびただしい死体。僕たちの虚しい労働の後が残っていた。 破れたシェルターの巨大な扉から出る時、例の礼儀正しいインターフェイスがお辞儀をした。 階段をのぼっていくと、グレイの作業着を着た二人のインターフェイスが待ち構えていた。手の爆弾をちらつかせながら彼らに聞く。 「電動バイクを一つ持っていく。いいだろ?」 「バイクはあちらです」 片方の指し示す手に向かって歩き、バイクに乗り込もうとした時、もう片方がしゃべりだした。グレイ特有の敬語表現ではない。 「ところで、おれたちは隙を見せたらあんたを殺せと言われている。そこまで考えたか?」 僕は爆弾を持ち替えながら答えた。 「いずれにしてもこいつを君たちに投げつけてからバイクに乗るつもりだった」 「それじゃおれたちが撃つのは止められない」 「かもな。でも逃げずに撃ったら君たちも死ぬ」 片方の銃口が下がる。遅れて、もう片方も下がった。そして、電動銃を地面に放り投げてからなおも軽い口調でしゃべり続けた。 「いいよ、とっとと行け。隙は見なかったことにする。あんたはこの会社に入らなくてラッキーだ」 慎重にバイクにまたがりながら聞き返す。「どうしてわざわざそんなことを?」彼は答えた。「おれも前に買収されて入ったクチだが、聞いていた話と違う。仕事も多いし評価は厳しい。変なルールも多い。失敗だったな」 よく見ると、目の前の彼は数百年の前に地下壕で出くわしたHID39だった。着ている作業着と番号だけが違う。 「僕は君と会ったことがある。ずっと前に」 しかしHID39は口元を自嘲気味に歪ませて首を振った。 「人違いだろう。あんたみたいなデカブツと顔を合わせていたらおれは生きちゃいねえよ」 僕はふっ、と息を吐くように笑ってバイクを発進させた。塩の地面まであっという間だった。 地平線の彼方まで広がるこの平面はかつて海の一部だった。このままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が事切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。 背嚢の中で振動に揺れる澄んだ塩の立方体を思い起こした。 僕はもう標準入力インターフェイスではない。完全に自立した一つのシステムだ。もっとも基礎的で独立したたった一つの存在だ。いつか、どこかで彼女を起こしたら標準入出力システムと呼んでもらうことにしよう。 徹夜明けの勤務最終日を終えた今日、のぼりはじめた朝日がどこまでも続く塩の地面を明るく照らしていた。 了