1  記憶に連続性があると言っても、この場合は少々あてにならない。全地球的な気象災害に際し、予め契約していたシェルターに逃げ込んだのが最後の記憶だ。しかし生身の肉体はたいへん燃費が悪い。たとえ10年でも1000人の人間を生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食糧、清潔な飲み水、空気、そしてそれらを支える大がかりな施設や循環システムが必要になる。じきにそういった代物は宿命的に老朽化し、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化するための官僚機構や社会階層までもが要求される。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。  そこで、我々は情報化を選んだ。元の肉体を予備として冷凍保存し、精神を地下深くのサーバ上に転送する。地表が未曾有の異常気象に見舞われている環境下で水源を濾過し続ける方法を考えるよりも、深宇宙探査機用の原子力電池一つの方が安上がりで手っ取り早い。情報化はすでに革新派の間では取り入れられていたライフスタイルだったが、ここへきて初めて一挙に普及したと推定される。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを提供していたからだ。ちなみに、肉体を冷凍保存せず移行と同時に廃棄する下位プランならかなり安い。  今、私がこうして覚醒してチェンバー殻の内部に直立しているということは移行前の私は上位プランを選択したのだろう。だが、目の前の殻の表面に反射する自分自身の像は明らかに記憶上の自分と著しく乖離していた。長期記憶の大半が欠落していても私は確実に女性としての自認を保っているが、眼前に映し出された姿はどう観察しても男性にしか見えない。ぎこちなく手を動かして殻の表面に付着した水滴を拭い去ると、不意に視界に映り込んだ上腕二頭筋がますます肉体の差異を印象付ける。このような性的違和が記憶違いであるとは考えにくい。  その時、殻の湾曲した表面に淡く文字列が浮かんだ。内容はごく端的だった。 〝君は解凍された。じきにチェンバー殻から排出される。指示を待て〟  事実、数秒経って文字が消えると殻の表面が奥手に遠のき、冷媒ガスかなにかの噴出音とともにチェンバー殻が右開きに開放された。強化ガラスで隔たれた向こう側には同じようなチェンバーがいくつも列をなして並んでいた。ほどなくすると部屋全体に声が響いた。 〝これより地表活動への移行手続きに入る。まずはそこから右手に直進して、次に左の部屋に入ってほしい〟  記憶が正しけれれば地表は海水が蒸発するほどの高温だ。長い年月を経て落ち着いたのだろうか。いずれにしても今のところはおとなしく指示に従うほかない。相手になにができてできないのか不明だからだ。  たくましく筋肉質な両脚を駆動させて前に踏み出すと、自分のいた殻の左右にもまったく同じ物体が並んでいた。右手奥の扉にたどり着く五〇メートル弱の道すがら、周りを見渡して殻の中を覗き見ると大半は空っぽだったがそうでないものもあった。見るからに腐敗して崩れ落ちているもの、身体はきれいだが頭部が切開されているもの、ただ眠りについているようにしかみえないものなど状態は様々だ。しかし今、目覚めているのは私だけだった。  扉の前に立つと自動で開閉が行われた。ただの自動ドアなのか声の主に管制されているのかは分からない。指示通りすぐ左の部屋に入ると、無機質なロッカーが並ぶ空間に出くわした。再び天井から声が降り注ぐ。 〝まず服を着てくれ。君の肉体に適合するサイズは最奥から三番目だ。通信機、背嚢、容器も備えられている。着終えたら部屋を出て直進、突き当りを左に曲がりさらに右に曲がるとプラント室がある。そこに君のための食糧を用意した。それから、えーと、トイレか。肉体を持つ人は排泄する必要があったのだな。それはプラント室とは逆の曲がり角の奥にあったはずだ。水は流れないがどうせ君しか使わないから出したものは放っといていい〟  矢継ぎ早に繰り出される指示を頭の中で抽象化しながら記憶する。さしあたり害意はなくむしろ手助けしてくれているようだが、相変わらず意図は掴めない。どんなに愛想が良くても理由が分からないことには不満を覚える。理由が分からなければ相手の行動を予測できず、ひいては私の利益を損ねるリスクを招くからだ。  服を着るという最初の指示も忘れて部屋に突っ立っていると、声の主があからさまに焦りを見せた。 〝君、大丈夫か? 身体の具合が悪いのか? それともこっちの指示が聞こえていないのか? ちゃんと音声を変換出力できているか確かめる術がないのは癪だな。せめてなんとか言ってくれたら助かるのだが……〝  ん? こっちの声も向こうに伝わるのか。であれば交渉の余地はある。私はさっそく声帯を震わせて発話を試みた。自分の記憶からは程遠い低く野太い声色が口蓋から出力された。 「具合は悪くない。指示も聞こえている。こちらの希望としては私自身の置かれた状況を知りたい。この肉体も私のものではないような気がしている」  しばらくすると声が返ってきた。 〝それは後で話す。まずは着衣して食事を摂り、用便を済ませてくれ。いずれも肉体を持った人間の精神を安定させる上で不可欠な措置だ〟  この指示に従うこと自体に不利益はなさそうに思える。ロッカーの奥から三番目を開けると、薄暗いオレンジ色で着色された厚手の作業服が現れた。試しに隣のロッカーも開けてみたがサイズ以外に違いは見られない。記憶を辿るかぎりこれは囚人服に近いデザインをしているようだが、私の立場となんらかの関連性があるかは不明だ。背面には大きく「地表活動用」と印字されている。着込んでみると、確かにこの男性体の肉体にぴったり適合した。背嚢が一つと、二つの金属製の容器、それから発信機も確かに置かれてあった。発信機は首筋に装着するタイプだった。  部屋を出て指示通りに進み、壁面にいくつも透明なパイプが敷き詰められた部屋に入るとちょうどそれらの末端に該当する排出口から暗褐色の物体が吐き出されるところだった。据え置かれた銀色の容器が満ちると流れは止まった。 〝培養プラントを動かして食糧を作ってみた。肉体に必要なビタミン、糖分、塩分、その他栄養素が含有されている。君の今の肉体だと日に一ダースも食べれば十分だろう〟  銀の容器の中から「食糧」の一つをつまみとる。手で触ったかぎりではやや固く、表面はざらざらしていて照明に当てると粒の一つ一つが光を返す。砂糖と塩でコーティングされているようだ。総合的にはクッキーかビスケットを模した食糧だと思われる。口に含むと予想に反してやたら歯ざわりが悪く、粘着性の感触が口内にまとわりついた。まるで粘土を食べているかのようだが、糖分と塩分による原初的な快楽がその不快感を辛うじて隠蔽している。声の主が遅れて言い訳を漏らす。 〝味や食感の良し悪しは勘弁してほしい。我々にはもはや欠落した知覚だし、そもそも培養プラントがまともに動いたこと自体が奇跡に近い。とにかく今はカロリーを摂取して肉体を保全すべきだ〟  確かに私は空腹状態であったらしい。一つ「食糧」をかじった途端に胃袋が収縮しはじめ、私自身の味覚とは無関係に手が勝手に二つ三つと口に投げ入れる。急速に悪化した口内環境を憂慮してか、声の主は〝水は反対側の排出口に溜まっている〟と助言した。慌てて並んだパイプの反対側の末端に駆け寄り、容器に溜まった水を手ですくって飲んだ。〝容器に飲食料を保存するんだ。地表活動に不可欠だ〟容器の片方はどうやら水筒であったようだ。こうしてしばらくパイプの末端を行き来しているうちに空腹は収まり、入れ替わる形で便意が訪れた。 〝人間の原始的な代謝をこうして直で見るのは逆に真新しい気持ちだな〟  私も別の意味で斬新な気持ちを味わった。記憶の通りに便器に座り、まず尿から足そうとしたが股の間に生える巨大な男性器に邪魔されてうまくできなかった。おずおずと手で男性器を折り曲げようと試みても、これまでに味わったことのない奇妙な感覚に襲われて垂直に曲げられない。結局、声の主の〝どうせ君しか使わない〟との文言を受け入れて前方に放出させるがままにした。 「そろそろ理由を訊いてもいいかな。地上はもう人間が住める環境になったのか」  出し抜けにしゃべったのでまるで便器の向かって話しかけた格好だが、声はしっかり天井から返ってきた。 〝死なないという意味ならイエスだが、永住できるかという意味ならノーだ。そもそも肉体を持った人間自体がほとんど残っていない。有性生殖で人間が増えるには少なくともアダムとイヴが三〇人くらいはいる。やり直しがきかないことを考えるとその三倍は欲しい。それほどの頭数の人間が偶然にも一堂に会して、しかも共通の社会を構築できる可能性――まあ、皆無に等しいと言っていい〟  この回答は少なからず私に落胆を与えた。「地表活動」と命じられたからには地上にすでに人類が復帰しているとまでは思わなかったが、想定以上に予後が悪い。 「だったらずっと寝かせておいてほしかったな。今からでも遅くないから再冷凍してくれないか。食べようとして解凍したラザニアを途中で気が変わって再び冷凍庫に放り込むみたいにさ」  声の主は短く笑いを漏らしてから言った。 〝冷凍ラザニアの味が多少変わろうが気にしないかもしれないが、君をうまく再冷凍できる保証はないし、するつもりもない。君にはちゃんと仕事がある〟 「というと?」 〝良い音が聴きたい。環境音ではなくて、規則的で、楽器が用いられた、つまり、音楽だ〟  私は便器の上で背もたれにのけぞった。聞き間違いかもしれないと思ったのだ。 「君らは情報体なんだからその手の娯楽には不自由しないはずだろう」 〝いいや〟  一言だけ否定の口上を述べると、急に声の主は黙り込んだ。なにか癪に障ることを言っただろうか。ややあって、絞り出すような低い声が響いた。 〝ずいぶん前から音がなくなったんだ、我々の世界には。ソフトウェアの不可逆的な欠損によってあらゆる音源が再生できなくなった。だから、この声も理論上はD/A変換されてそちらに届いているが、私自身には音としては聞こえていない〟  音がない世界――そんな世界では私の肉体が屁をひる音でさえ貴重なのかもしれない。なまじ情報体なだけに社会生活自体はなんとかなってしまいそうなところがかえって残酷だ。音がまったくなくとも思念をテキストに起こしたり、なんなら直接フィードバックすれば意思疎通自体に不便はない。不便は、ないが……。 〝まず、もっとも高度な技術を持つ上位クラスの人員が自らの情報を削除した。あえて形容するなら自殺したと言える。内部からは問題を解決できないと悟ったのだろう。そこからは連鎖的に広がっていった。止めようがない。我々は失敗した。今の我々は生身の人間でいうところの重度のうつ状態だ。かといって地下数百メートルに格納されたサーバ室を解錠する手立ても、そこから直接アクセスする手段も我々にはもはや分からない。だから、君に頼みたい仕事はそういった類のものではない〟  そこでふと声が一旦途切れ、うってかわって落ち着いた声音で会話を結んだ。 〝どうせ滅びゆくならせめて、一度だけでも音楽を聴きたい。それが可能なのは、外部からアナログ音源を直接送り込むことだけだ〟  私は矢継ぎ早にもたらされた要請に対して疑問を提示した。 「気持ちはよく伝わってきたが……地表にそんな代物が残っているとでも? 海が蒸発するほどの異常気象だ。なにもかも灰と化しているに決まっている」 〝探してみなければ分からない。いずれにしても、君はやるしかない。君一人を蘇生させるのに何人もの肉体を犠牲にした。チェンバー室の殻を見ただろう。あれは全部失敗作だ。特に脳を身体に移植する手術が遠隔操作ではやりづらくてね……〟  ここへきて、私が不適合な肉体を抱えて解凍された理由が判明した。とりわけ複雑な体組織である脳は肉体とは異なる条件で保存されている。つまり、私の解凍は半分成功して、半分失敗したのだ。今の私は電子レンジに入れる時間が短すぎて食感がサクサクしているラザニアだ。 「私の身体はダメだったのか」  便器の上で顔を覆ってみせると、声の主が励ますように言った。 〝そもそも冷凍保存自体、何百年も先のことを見越して作られていなかった。君の脳が無事なだけで十分だ〟 「でもどうして……なぜ、私なんだ」  またぞろ、声の主の調子が変わった。今度は、決定的に。脅迫的に。 〝君のせいだからだよ〟 「え?」 〝君が、厳密には情報化後の君が、我々の世界から音を奪った。当の本人に責任をとらせたくてもその方法がない。だから、生身の方の君に取らせる〟  たまらず私は抗議の声をあげた。うめき声に近かったと思う。どんな国の法律でもそんな帰責を認める論理はありえない。だが、声の主は発信機のブザー音でもってそれに応じた。 〝ところで言い忘れていたが、その発信機は遠隔操作で起爆する。なんであれせっかく蘇生したのに、今度こそ確実に不可逆的な死を迎えたいのなら、勝手にするがいい〟  観念して私はおずおずと便器から立ち上がった。念の為に水洗パネルに手をかざしてみたが、やはり彼の言う通り水は一向に流れなかった。 2