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〝HID11、お疲れ様でした。切断処理に入ってください〟
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イヤホンから聞こえる女性の声に従って残りのルーティーンを続行した。
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作業服と背嚢とイヤホンを中身ごとロッカーに押し込み、脱衣する。施設の最奥に位置するチェンバー室の殻に入り込むと、後頭部を密着させた。殻が自動的に閉塞されて強化ガラスの表面に文字が浮かぶ。〝僕たち向け〟の特別なメッセージだ。
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<HID11:切断開始>
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〈HID11:切断開始〉
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直後、深く心地よい眠気に襲われて目を閉じざるをえなくなる。意識が沈む寸前、後頭部にドライバが差し込まれる感覚がかすかにした。
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予期せず人間の身体で目覚めた時はまだ身も心もフレッシュだったと思う。シェルターを訪れた時の記憶も昨日のことのように残っていたから、ただ純粋に世界は元通りになったのだと信じた。草花が生い茂り、空は青く澄み渡り、小鳥たちがさえずり人類の復活を讃えてくれる……。新しく作り直された街の名前は当然どれも新しく変わっていて、ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに、ニューヨークはニュー・ニューヨークになっている。
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しかし、チェンバー殻の湾曲した表面に浮かんだ文字列はだいぶつれなかった。
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<あなたは基本入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します>
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〈あなたは基本入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します〉
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どうやら僕は、人間ではなくなったらしい。
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なんでも活動状態の人体はとても燃費が悪いそうだ。一〇〇人の人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食糧、清潔な飲み水、空気、それらを支える大がかりな循環設備を要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚機構や社会制度までもが求められる。尻に火が付いている人類にとっては少々考えることが多すぎる。
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そこで、僕たちは情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存して、思考する精神を地下深くのサーバに転写する。頭まで眠りこけていては急な出来事に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサ類をもとに「情報体」と化した人々が日々分析と議論に勤しむ。
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一方で、だからと言って恩に着るのもおかしい。誰も自我を復活させてくれなどと頼んだ覚えはない。情報化される際にもそんな説明は受けていない。何百年も生きていれば気持ちが変わるのかもしれないが、情報体の僕は枝分かれして遠い先に行ってしまった別人であって、同じように物事を考えるのは難しい。
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かといって、自殺する気にもなれない。今の暮らしにもそれなりの楽しみはある。仕事をしてさえいればこうして生きていられる。なんだかんだで釣り合いが取れてしまっているのだ。ゆえに僕はそれなりに機能的な基本入力インターフェイスなのだった。
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今日もまたチェンバー殻の中で目が覚めた。殻の湾曲した表面に定型句が浮かぶ。
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<HID11:接続開始>
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〈HID11:接続開始〉
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システム上、僕たちが殻を出て身支度を整えるまでの間――人間らしく言い換えるならモーニングルーティーン――は〝接続〟と呼称される。間もなく殻が奥手にせり出して開く。チェンバー室の通路の左右に整然と並ぶ殻には、まだ眠りについている「同僚」たちの姿が強化ガラス越しに透けて見える。同僚と言っても勤務体系が年単位でばらばらなので気安く会話はできない。前回に出会ったHID6も今は端っこの殻の中で巨体を丸めて安穏としている。
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作業服と背嚢はチェンバー室の隣の更衣室、食糧は直進して突き当りを左の培養プラント室にある。パイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているのか分からない。味や食感についての感想は差し控えたい。飲み水も前回より黒ずんでいた。
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食事が済むと用を足したくなる。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのだろう。部屋を出て奥のトイレに向かう。途中、ひび割れた壁面を修理している顔馴染みの同僚と出くわした。「おはよう」と挨拶をすると「ああ、おはよう」と気さくに返事をしてくれる。「今から出勤か?」「うん」「地上の仕事は大変そうだな」「僕はそうでもないよ」
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寝袋を器用に巻きつけて身体の自由と防寒を両立させながら彼が言った。手元には早くも電動銃のチャージライトが鈍く灯っている。
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「そんなことあるのかな、競合他社のやつらだって眠いんじゃ」
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自力で眠るのも起きるのも数百年ぶりの僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。だが彼は頑として腹ばいになって傾斜にバッテリーマガジンを突き立てた。
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「むしろ油断ならない。夜勤<ナイト・シフト>の連中がいるかもしれない」
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「夜勤<ナイト・シフト>?」
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「むしろ油断ならない。夜勤〈ナイト・シフト〉の連中がいるかもしれない」
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「夜勤〈ナイト・シフト〉?」
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また聞き慣れない言葉が出てきた。
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「夜に出勤する凄腕の連中だ。おれもお前も大抵の仕事はものを集めたり持って帰ったりすることだが、やつらは違う」
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深く息を吸い込んだのか、月明かりに照らされた巨体の背中が一層盛り上がった。
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「連中の仕事は競合他社のインターフェイスを破壊することだ。つまり、操作介入しかしない」
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さながら闇夜に溶け込む血に飢えた野獣のイメージが脳裏に浮かんだ。誰もが適性に応じて仕事を割り振られているように、夜勤<ナイト・シフト>にもそういう適性があるのだろう。電動銃をどこにでも百発百中で当てられるとか、夜でも目がよく見えるとか。
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さながら闇夜に溶け込む血に飢えた野獣のイメージが脳裏に浮かんだ。誰もが適性に応じて仕事を割り振られているように、夜勤〈ナイト・シフト〉にもそういう適性があるのだろう。電動銃をどこにでも百発百中で当てられるとか、夜でも目がよく見えるとか。
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「そういう人たちと会ったことあるの……」
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「ない。あったら生きてちゃいない」
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こんな話を寝る前に聞かされて、限られた睡眠時間を十分に活用できるか不安でしょうがなかった。今、こうしている間にもまだ見ぬ敵は暗闇を突き破って自分を照準の内に収めているかもしれないのだ。そう思うと、心臓が高鳴っていつまでも落ち着かなかった。
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そんなわけがない。眠りが浅いのではなく、浅く寝ていたんだ。未熟な子どもに命を預けて高いびきなんてするわけがない。
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「さて、ここで特別講習だ」
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勝手に落ち込みかけていると、HID6が横目で問いかけた。
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「左と右、どっちが夜勤<ナイト・シフト>だ?」
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「左と右、どっちが夜勤〈ナイト・シフト〉だ?」
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撃ち出されている光の数では左側が圧倒的だ。距離はどんどん縮まっているのに、輝点の間隔で判別できるほど差がある。しかし――
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「右の方だ」
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いつになくはっきり答えると「ほう」と彼はつぶやいた。「なぜそう思った」
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「見た感じでは左の方がいっぱい撃っていて有利っぽいけど、たぶんそれは違って、相手の位置が分かっていないだけだと思う。当てずっぽうなんだ。でも右の方は相手に逃げられないように牽制して距離を詰めている。だから右の方が上手だ。夜勤<ナイト・シフト>が強い人たちばかりだっていうんなら、右の方がそうだ」
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「見た感じでは左の方がいっぱい撃っていて有利っぽいけど、たぶんそれは違って、相手の位置が分かっていないだけだと思う。当てずっぽうなんだ。でも右の方は相手に逃げられないように牽制して距離を詰めている。だから右の方が上手だ。夜勤〈ナイト・シフト〉が強い人たちばかりだっていうんなら、右の方がそうだ」
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数百メートルか、あるいはもっと離れた地点でついに決定的な瞬間が訪れた。右側が二回光り、それきり、闇がすべてを覆い隠したかのように静まりかえった。同僚がもともと低い声をさらに低めて言う。
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「正解だ。そしておれたちにできるのはやつらが帰ってくれるのを祈ることだけだ」
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さすがにこの頃には眠気が吹き飛んでいた。たった今、分厚い暗闇に隔てられた対岸で絶命したインターフェイスたちも今後の人生に思いを馳せていたのかもしれない。それがほんのちょっとしたさじ加減で奪われた。夜勤<ナイト・シフト>たちが気まぐれで向きを変えていたら、今頃死んでいたのは僕たちだったのだ。
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さすがにこの頃には眠気が吹き飛んでいた。たった今、分厚い暗闇に隔てられた対岸で絶命したインターフェイスたちも今後の人生に思いを馳せていたのかもしれない。それがほんのちょっとしたさじ加減で奪われた。夜勤〈ナイト・シフト〉たちが気まぐれで向きを変えていたら、今頃死んでいたのは僕たちだったのだ。
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何事もなく太陽が昇り、食事を摂って、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても、恐怖は背中にべったり貼りついたようにして消えなかった。まだ殺し足りない夜勤<ナイト・シフト>たちが朝も働き続けて、今にも自分に狙いを定めるのではないかと妄想に駆られた。心配しても意味なんてないと理解していても足取りは鉄か鉛の重さで、腹には溶けない氷が冷え冷えと沈んでいた。
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何事もなく太陽が昇り、食事を摂って、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても、恐怖は背中にべったり貼りついたようにして消えなかった。まだ殺し足りない夜勤〈ナイト・シフト〉たちが朝も働き続けて、今にも自分に狙いを定めるのではないかと妄想に駆られた。心配しても意味なんてないと理解していても足取りは鉄か鉛の重さで、腹には溶けない氷が冷え冷えと沈んでいた。
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「ここだな」
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HID6が足を止めた先にあったのは半壊した巨大な航空機だった。とてつもなく大きかったので二人で辺りを周回するまでそれがそうとは信じられなかったほどだ。あたかも戦いに敗れた巨人兵が胃袋や腸を垂れ流しているように、引き裂かれた胴体部からケーブルや座席やその他の部品が散乱していた。
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中に入ると陽の光が遮られて視界が一気に薄暗くなった。時折、周辺に人骨と思しき欠片がまとわりついているのを見て、気分の悪さと純粋な関心が揉み合った。辛うじて後者が競り勝つ。数百年経っても骨は溶けて消えないらしい。「いっそ月に着いちまえば多少は長生きできたのにな」体格が災いして歩きにくそうに足で残骸をどかしながら同僚が言う。確かにこの航空機は地上用にしては大きく、月か火星の定期便用に見える。
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背嚢に入っていた磁石をくっつけてもなにも起こらないことを示す。「タングステンは非磁性の金属なんだ」そこまで説明して一応、彼は納得したようだった。「さすが土いじりの専門家だな」信頼を得たと確信したのか二人組は息を弾ませて前のめりにしゃべりだした。
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「悪い話じゃないだろう? こんなでかい航空機から集めたんなら、余るほどチタンがあるはずだ。分けたってそっちは損をしない。おまけにタングステンも手に入る」
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「そうだな。いいだろう」
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彼が首肯すると二人は顔を綻ばせて喜んだ。昨夜、戦わないまでも夜勤<ナイト・シフト>たちの仕事ぶりを目の当たりにしたからか、てんでこの種の経験がない僕にさえ、イエローの二人組は隙だらけの小動物に見えた。残りのタングステンを取り出す間も背嚢を探ることにかかりきりで、こちらに注意を払う気配もない。
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彼が首肯すると二人は顔を綻ばせて喜んだ。昨夜、戦わないまでも夜勤〈ナイト・シフト〉たちの仕事ぶりを目の当たりにしたからか、てんでこの種の経験がない僕にさえ、イエローの二人組は隙だらけの小動物に見えた。残りのタングステンを取り出す間も背嚢を探ることにかかりきりで、こちらに注意を払う気配もない。
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HID6はさらに一歩踏み出して、自分の背嚢を片手で引き下ろした。
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もう片方の手には、電動銃がフルチャージの状態で握られている。
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「だが、おれがくれてやるのはこいつだ」
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「だが派手に動いたら危ないだろう。その枠とやらには誰が入るんだ」
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「めぼしい連中とはとっくに話をつけて何度もやっている。今回で最後だ。あとは出張経験者を組み入れる」
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言うまでもなく、会話の内容にはとてつもなく不穏な雰囲気が漂っていた。唐突に、足音が扉の方向に迫ったので右向け右をして着脱室に向かった。話し合いに決着が着いたのだ。磨りガラスでできた扉が閉まるか閉まらないかの間際、部屋から着膨れした二人のインターフェイスが出てきたのが見えた。細身の男に続いて、巨体の同僚――バイザー越しでもよく分かる――他でもないHID6が身を屈めて出てきた。同時に、扉が封鎖されて警告音声が流れる。
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<作業終了後は放射線防護服を脱衣し、着脱室内に正しく保管してください>
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〈作業終了後は放射線防護服を脱衣し、着脱室内に正しく保管してください〉
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着脱状態を検査する淡い光を浴びながら、一瞬のうちに瞼に焼きついた光景を何度も何度も思い描いた。
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面倒見が良くて優しい同僚、逃げる相手を撃つのが好きな同僚。その同僚が、なにかを企んでいる。
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消えかかっていた心の蝋燭に力強く火が灯った。
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一瞬、振り下ろされた刃の切っ先が止まる。その間隙を突くように、真横から不可視の銃弾が発射された。身を塞ぐ黒装束が横に傾いで倒れ込んだ。顔を向けると、電動銃を構えたHID6が見えた。
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その背後から迫る別の黒装束の姿も。
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反射的に銃を構えてトリガーを引くと、狙い通りに彼の後ろの黒い影が後方に吹き飛んだ。巨体の同僚は驚いて振り返ったが、向き直る頃には皮肉な笑みを湛えていた。
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「夜勤<ナイト・シフト>に襲われて生き残るとは……お互い運が良かったな」
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決死の数十秒をくぐり抜けた後、僕は自分がろくに息もしていなかったことに気がついた。急速に駆動を再開した呼吸器官の痛みに胸を抑えて地面に仰向けになる。場違いにきれいな星が点々と輝く夜空から目をそらすと、黒装束の露わになった顔つきが目に入った。噂に聞く血に飢えた夜勤<ナイト・シフト>の素顔は、いたってありふれた中年女性にしか見えなかった。
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「夜勤〈ナイト・シフト〉に襲われて生き残るとは……お互い運が良かったな」
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決死の数十秒をくぐり抜けた後、僕は自分がろくに息もしていなかったことに気がついた。急速に駆動を再開した呼吸器官の痛みに胸を抑えて地面に仰向けになる。場違いにきれいな星が点々と輝く夜空から目をそらすと、黒装束の露わになった顔つきが目に入った。噂に聞く血に飢えた夜勤〈ナイト・シフト〉の素顔は、いたってありふれた中年女性にしか見えなかった。
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10
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その日は全員起きたまま警戒にあたったが、二度目の襲撃はなかった。奇襲役の夜勤<ナイト・シフト>がこちら側を一人も削れずに死んだので操作介入を諦めたのだろう。肩に深手を負ったHID23は、寝袋で即席の担架を作って交代で運搬することになった。
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その日は全員起きたまま警戒にあたったが、二度目の襲撃はなかった。奇襲役の夜勤〈ナイト・シフト〉がこちら側を一人も削れずに死んだので操作介入を諦めたのだろう。肩に深手を負ったHID23は、寝袋で即席の担架を作って交代で運搬することになった。
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天気は曇り。空を覆う灰色の重圧に圧されつつも、前日の進捗が良好だったおかげでさほど苦労せず目的地にたどり着いた。HID6が「ここだ」と言った場所は、前方に半壊した建物がいくつか建っているだけで納品物の鉱石が転がっていそうにはない。かといって地下施設や家屋を目指す動きもない。いよいよ僕は例の企みが実行に移される兆候を感じた。
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「今から見慣れない連中が来るが、慌てるなよ」
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彼がそう言うが早いか、建物の隙間の遠くから徐々に走行音がうなり、基本入力インターフェイスたちが電動バイクを駆って現れた。二人ともグレイの作業服を着ている。競合他社のインターフェイスだ。退路を塞ぐ形で僕たちの来た道にバイクを止めて降りると、直立不動の体勢で電動銃を突き出す。銃はバイクに似て黒く角ばっていて、僕たちのよりもだいぶ洗練されている。担架に両手を塞がれている僕たちは早くも形勢を失った。HID45が「なんだこいつらは」と叫んだが、HID6は無視して二人に話しかけた。
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気だるげに頭を傾けて傷口を見やると、殻が血で満たされるのではと錯覚するほど出血していた。
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「冷凍、冷凍してくれ、頼む」
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その声には彼女ではなくチェンバー殻のシステムが応答した。製造当初からあったであろう〝人間向け〟の警告音声が流れる。
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<警告。着衣状態では正常な冷凍が行われません>
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<警告。バイタルに異常を検知。正常な冷凍が行われません>
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〈警告。着衣状態では正常な冷凍が行われません〉
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〈警告。バイタルに異常を検知。正常な冷凍が行われません〉
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「いいから、冷凍……なんとか、してくれ」
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<強制冷凍シークエンス開始。本プログラムについて当社は一切の法的責任を負いません。この件における免責事項をよくご覧いただき……>
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〈強制冷凍シークエンス開始。本プログラムについて当社は一切の法的責任を負いません。この件における免責事項をよくご覧いただき……〉
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彼女の声はもう聞こえてこなかった。文字列の続きも読めない。不思議と、普段は不気味で仕方がなかった後頭部にドライバが差し込まれる感覚が妙に心地よかった。
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夢は見ない。冷凍されている間の脳みそは当然ながら細胞単位で活動が停止しているため、電源を落としたコンピュータと同等の状態に至る。電気羊の夢は電気なくしては見られない。逆に、スイッチを入れられた瞬間、僕たちの意識もまた諸神経の始動に合わせて連続的に再開される。目が覚めた時、湾曲したガラスの表面に示された文字列がにわかに僕の恐怖を細胞単位で呼び起こした。胸の高鳴りとシェルター殻の稼働音が並走する。
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<HID11:接続開始>
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〈HID11:接続開始〉
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「待て、待ってくれ、出さないでくれ」
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必死の哀願を無視して殻が前にせり出していく。ガラスを引き戻そうと突き出した腕が無慈悲にも空を搔く。そこで、僕は並ならぬ違和感に気がついた。
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視界に映る隆々とした腕は、どう見ても自分のそれではなかった。顔を傾けると、肩口にも盛り上がった筋肉が配されていて、あれほど血を流していた脇腹に傷口はなかった。代わりに背中に鈍い痛みを感じた。
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構わず力を込め続けると、じきに彼は全身を震わせて頭を垂れた。どうやら本当に一泡吹かせるのは難しいらしい。意識の失った肉体を床に放り投げて左右のチェンバー殻を目で探る。ほどなくして、元の自分が収められていた殻を発見した。
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その肉体は青く霜の吹いた生気のない顔で横たわっていた。流れる血液ごと凝固して凍っている姿はいっそ芸術的でもあった。殻の表面に静かに触って開くと、かつての自分の胸元に聖遺物の神々しさで座るカメラを回収した。
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せめて服くらいは着なければ。更衣室でHID6の作業服を着込んでいる最中に、天井から大音量で放送が流れた。
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<当施設の経営権は合法的に移行されました。基本入力インターフェイスの皆様はただちに業務を中断してください。有給休暇の取得をご希望の方は両手を組んで頭の後ろに回し、所定の位置にお並びください。繰り返します……>
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〈当施設の経営権は合法的に移行されました。基本入力インターフェイスの皆様はただちに業務を中断してください。有給休暇の取得をご希望の方は両手を組んで頭の後ろに回し、所定の位置にお並びください。繰り返します……〉
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廊下に出ると、そこには凄惨な光景が広がっていた。警告灯という警告灯が光り、ただでさえひび割れまみれの壁には大小の穴が穿たれ、至るところに死体が転がっていた。会議室に着くまでの間、二ダースを超えるインターフェイスの残骸を目の当たりにし、先の放送も負けず劣らず繰り返された。
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会議室の中でイヤホンをつけると――この場合、HID6のユーザに接続されるのではと懸念したが――問題なく彼女の声が聞こえたので安堵した。
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〝ああ、無事だったんですね、良かった……〟
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「宇宙にもシェルターがあったんだね」
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天井のラインを透かすようにして空想上の天を仰ぐ。
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〝月面の大企業が運営しているようです。インターフェイスの所有権にこだわらず地上で戦略的に調達する方針なのだとか〟
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<……有給休暇の取得をご希望の方は両手を組んで……>
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〈……有給休暇の取得をご希望の方は両手を組んで……〉
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話の途中で放送が扉越しに漏れ聞こえてきたので、ついでに気になっていた質問を投げかけた。
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「ところで『有給休暇』ってどういう意味?」
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〝元の意味はともかく、取得を試みたインターフェイスは例外なく破壊されました〟
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@ -713,7 +713,7 @@
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〝フォークト=カンプフ法は、正式には『フォークト=カンプフ感情移入度検査法』と呼ばれ、人間とアンドロイドを区別するために開発された架空の検査方法です。この検査法の主な特徴は――〟
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「ねえ、頼むよ」
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〝すいません。計算資源の割り当てを少し増やします〟
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<これより放射線区画となります。安全のため、必ず放射線防護服を着用してくだ、くだ、くだ――>
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〈これより放射線区画となります。安全のため、必ず放射線防護服を着用してくだ、くだ、くだ――〉
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破壊された扉から着脱室に入り込むと、室内でぱちりと火花が飛んだ。語尾がループし続けている警告音声を聞きながら防護服を着込む。放射線区画に入ったことで彼女の声にノイズが混じる。
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〝十一時、二人、三……一人〟
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仕留め損ねた敵が撃ち返してきた運動エネルギーが危うく防護服の真横をかすめていく。辛くも敵を制して細い通路の真下の円周付近までたどり着くと、彼女が心配そうに言った。
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