4話から

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Rikuoh Tsujitani 2024-09-15 00:17:44 +09:00
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1
土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を落ち着けた。摩天楼を突くほどの巨大ビルがそびえていたという島も、世界でもっとも栄えていたとされる湾岸の街並みも、等しく時間の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像――かつて自由を讃えていたという――だけがこの辺りで唯一、建っていると言える建物だ。
この前に来た時よりも少し暖かくなっていたおかげか、そこそこ長い距離を往復した割にさほど疲労感はなかった。曇ガラスに似た平らな地面を手でさすりながら、手頃な位置にナイフを突き刺して切り取る。膂力の少ない身体ではずいぶん手間取るが暇はたっぷりある。そうして得た塊からこぼれ落ちた破片を口に含む。しょっぱい。しかしミネラルと塩分の摂取にはこの上なく望ましい。なぜならこれは塩そのものだからだ。
地平線の彼方まで広がるこの平面はかつて海の一部だった。大昔、人類に降りかかった未曾有の気象災害により海水が凍結、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て巨大な塩の結晶ができあがった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が事切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。仕事として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面は僕に一風変わった洞察をもたらしてくれる。
洞察が深ければ深いほど一心不乱に手が動く。さっきまでは表情のない立方体でしかなかった塩の塊が、ナイフの切っ先で削られるごとになにがしかの文脈を負っていく。ある時には四足の動物を連想させることもあれば、小一時間も経つと人形に変わる。過程を辿るとあたかも生物の進化を表しているようでもある。原初の生命もミネラルと塩と水から生まれたのだった。
高く昇った太陽が傾いで地平線の彼方に隠れはじめる頃、僕の隠れた衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務評価を考えるとそろそろ帰宅しなければならない頃合いだ。現に、探索地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。
「またやっているのか」
「やっているよ」
『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、隆々とした肉体すべてで呆れた様子を表現する。体格に優れる彼に与えられる仕事はいかにも大変そうに見え、背嚢は特別に大きく固い金属製でできている。手には大型の電動銃。僕たちは常に武器の携行を命じられているが、邪魔な瓦礫や道を塞ぐ岩などを砕くにはもっと小さいのでも事足りる。
「そんなに大きいの使い道あるの」
HID6は顔を傾けて意味ありげに口元を歪ませた。
土や砂の詰まった容器でいっぱいになった背嚢を下ろすと、僕はいつもの場所に腰を落ち着けた。天を突くほどの巨大ビルがそびえていたという島も、世界でもっとも栄えていたとされる湾岸の街並みも、今では等しく時間の圧力に押しつぶされて瓦礫の山と化している。遠目に見える半身の立像――かつて自由を讃えていたという――だけがこの辺りで唯一、垂直に建っていると言える建物だ。
この前に来た時よりも少し暖かくなっていたおかげか、そこそこ長い距離を往復した割にさほど疲労感はなかった。曇ガラスに似た平らな地面を手でさすりながら、手頃な位置にナイフを突き刺して切り取る。この身体ではずいぶん手間取るが暇はたっぷりある。そうして得た塊からこぼれ落ちた破片を口に含む。
しょっぱい。
しかしミネラルと塩分の摂取にはずいぶん都合が良い。なぜならこれは塩そのものだからだ。
地平線の彼方まで広がるこの平面は海の一部だった。大昔、人類に降りかかった気象災害により海水が凍結、凝固し、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て巨大な塩の結晶の層ができあがった。歩こうと思えばこのままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が途切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。仕事として与えられていない以上、そんな長丁場の寄り道は決してできないがこの白く濁った表面は僕を特別な気持ちにさせてくれる。
気持ちが高まっているとよく手が動く。さっきまでは表情のない立方体でしかなかった塩の塊が、ナイフの切っ先で削られるごとに意味を持つ。四足の動物を連想させる時もあれば、人間に変わることもある。まるで生物の進化を表しているみたいだ。最初の生命もミネラルと塩と水から生まれたのだった。
高く昇った太陽が傾いで地平線の彼方に隠れはじめた頃、僕の衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務査定を考えるとそろそろ帰宅しなければならない頃合いだ。現に勤務地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。
「まだやっているのか、飽きないもんだな」
「早く帰ってもどうせ寝るだけだからね」
『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、隆々とした肉体の全部を駆使して呆れた様子を表現する。体格に優れる彼に与えられる仕事はいかにも大変そうで、背嚢は特別に大きく固い金属製でできている。手には大型の電動銃。僕たちは常に武器の携行を命じられているが、邪魔な瓦礫や道を塞ぐ岩などを砕くにはもっと小さいものでも事足りる。
「そんなに大きいのなんて使い道あるの」
HID6は顔を傾けて意味ありげに微笑んだ。
「使おうと思えばな」
要領はいまいち得られないが、あまり詮索するのも無粋だ、と会話を終えようとしたところで巨体の主が隣に並んで座り込んだのが分かった。
そう言いつつ、巨体の主が隣に座り込んだ
「今日はどこまで行ってきたんだ」
おずおずと塩の平面の向こうを指差す。
塩の平面の向こうを指差す。
「あの辺りの対岸まで。片道二時間くらいかな」
「そうか。土いじり専門だったなお前は」
たぶん悪気はないと思うが、それでもどことなく軽んじられた気配がしたので声高らかに反論する。
「地質調査と言ってほしいな。僕が頑張って土や石を選り分けて拾ってくるから、センサじゃ分からないようなことだって把握できる。大抵は花崗岩と閃緑岩の見分けだってつかない」
「だめだとは言ってねえよ。ただな……」
言いかけたところで、彼は彼で時間が迫っていたらしい。隣の山が隆起して背嚢を背負い込んだ。「色々な可能性を探れってことだ。まだ若いんだから」
知ったふうな口を利いて手を振って去っていく彼の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。最後にもう一度、夕陽の強い光に照らされた固形の海面を眺める。
可能性ってなんだ。僕はこの夕暮れを浴びるだけですごく満ち足りているのに
おそらく悪気はないにせよ、それでもどことなく軽んじられた気配がしたので声を強めて反論する。
「地質調査だよ。土いじりなんかじゃない。センサじゃ分からないようなことだって分かるんだ。大抵は花崗岩と閃緑岩の見分けだってつかない」
分かった、悪かったよ。だめだとは言ってねえよ。ただな……」
言いかけたところで、彼は彼で時間が迫っていたらしい。のそりと立ち上がってつぶやく。「色々な可能性を探ってみろ。まだ若いんだから」
相変わらず勝手気ままな調子で手を振って去っていく彼の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。最後にもう一度、夕陽の強い光に照らされた固形の海面を眺める。
こんな暮らしにも可能性とやらがあるといいけど
徒歩にして約三〇分の地点に着くと、どこかに露出しているのであろう地上のセンサが反応して石畳がめくれ上がった。突如現れた長い下り階段を降りていき、重くて固そうな扉に突き当たる。少し待っていると勝手に開く。
後は流れ作業だ。すれ違うにも困難な細い通路を渡り、規定の手続きに従って成果物を提出する。表示がかすれ気味なモクロディスプレイに映し出された勤務評価は、今回もB。見る前から結果は分かっていた。適切な成果物を持って日が落ちるまでに帰ればB評価が確定する。A評価は一度も取ったことがないが、特に問題は起こっていない。
〝標準インターフェイス11、切断処理に入ってください〟
後は流れ作業だ。すれ違うにも困難な細い通路を渡り、規定の手続きに従って〝納品物〟を提出する。スキャナに続くカーゴに集めてきた鉱石を入れると、奥手に回転して壁の向こう側にしまい込まれる。
施設のどこにも一様に引かれた天井のラインが鈍く光る。壁面に投影されたモクロスクリーンに映し出された評価は、今回もB。見る前から結果は分かっていた。適切な納品物を持って日が落ちるまでに帰ればB評価が確定する。A評価は一度も取ったことがないが、特に問題は起こっていない。
〝標準入力インターフェイス11、お疲れ様でした。切断処理に入ってください〟
イヤホンから聞こえる女性の声に従って残りのルーティーンを続行した。
作業服と背嚢とイヤホンを中身ごとロッカーにしまい、脱衣する。施設の最奥に位置するチェンバー室の殻に入り込むと、後頭部を密着させた。殻が自動的に閉鎖されて表面に文字が浮かぶ。
〝切断処理開始〟
途端、深く心地よい眠気に襲われて目を閉じざるをえなくなる。意識が沈む寸前、密着した後頭部にドライバが差し込まれる感覚がかすかにした。
作業服と背嚢とイヤホンを中身ごとロッカーにしまい、脱衣する。施設の最奥に位置するチェンバー室の殻に入り込むと、後頭部を密着させた。殻が自動的に閉塞されて強化ガラスの表面に文字が浮かぶ。
<切断処理開始>
直後、深く心地よい眠気に襲われて目を閉じざるをえなくなる。意識が沈む寸前、後頭部にドライバが差し込まれる感覚がかすかにした。
2
一番最初に解凍させられた時は身も心もフレッシュだった。まるで瑞々しい葉野菜のよう。シェルターを訪れた当時の感情も明瞭に残っていたから、さぞ地表は芳しい草花が生い茂り、空は青く澄み渡り人類の復活を讃えてくれるのだろうと胸を踊らせていた。あるいはすでに文明社会が再興していてもおかしくないとさえ期待した。ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに。誠に遺憾ながらニューヨークはこの命名規則だとニューニューヨークになってもらうしかない。
しかし、初めて目を覚ましたチェンバー殻の表面に浮かんだ文字列はつれない一言。
〝あなたは標準入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します〟
ところで、活動状態の肉体はたいへん燃費が悪い。一〇〇人の人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食料、清潔な飲み水、空気、それらを支える大がかりな施設な循環システムを要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚機構や社会制度までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。
そこで、我々は情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存し、思考する精神を地下深くのサーバに転写する。延々と眠りこけていては例外的な事象に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサ類を基に、情報体と化した技術者たちが日々分析にあたる。彼らにはラザニアもトリプルエスプレッソラテもマウンテンデューもいらない。地表が未曾有の異常気象に見舞われている環境下で一〇〇人ぶんの水源を濾過し続ける方法を検討するよりも、深宇宙探査機用の原子力電池一つの方が安上がりで手っ取り早い。当時、情報化はすでに革新派の間では取り入れられていたライフスタイルだったが、ここへきて初めて一挙に普及したと推測される。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを提供していたからだ。きっとうまくいく。これは一時的な措置に過ぎない。
……はずだったのだが、僕が〝標準インターフェイス11〟なる名称を賜った際に知らされた新事実は以下の通りだった。
一つ、数百年余の年月が経ったが情報体を人間の頭脳に再転送する技術は開発できそうにないこと。
二つ、その一方で地表は人間が活動可能な気候に好転しつつあること。
三つ、よって今後は冷凍保存された人間を都度解凍し、元の持ち主である情報体が適性に応じて入力インターフェイスとして活用すること。
確かに、使えるものは使わなければならない。もともと僕たちの後頭部には脳を取り出しやすくするためのネジ穴が設けられているし、頭蓋と脳の電気的接点はモジュール化されている。これは情報体に移行する際の外科的措置であり、同時に保存条件の異なる肉体と脳を分離するための策だったが、くしくも冷凍と解凍の効率化に一躍買っている。
自分の処遇に納得感があるかと言われれば複雑だ。計画通りにことが進んでいればそもそも「生体脳の方に残った僕」という自我は存在しえなかった。「情報体の僕」の精神に上書きされて揮発する定めだからだ。あるいは、情報体が地上の調査よりも肉体のランニングコストを倦んで一切合切放棄していたら、やはり今の自分はない。
一方で、だから恩に着ろというのもおかしい。誰も自我をもう一つくれなんて頼んだ覚えはない。情報化される際にそんな説明は受けていない。何百年も生きていれば自分の子機を増やしたい気持ちになるのかもしれないが、情報体は自分から枝分かれして遠い先に行ってしまった別人であって、同じように物事を考えるのは難しい。
かといって、自殺する気にもなれない。今の暮らしにもそれなりの楽しみはある。なんだかんだで釣り合いが取れてしまっているのだ。ゆえに僕は標準入力インターフェイスなのだった。
今日もまたチェンバー殻の内側で目覚めた。殻の湾曲した表面にいつもの文字列が浮かぶ。
〝HID11接続処理中〟
彼女は僕が殻を出て身支度を整えるまでの間――モーニングルーティーンを「接続処理」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開く。チェンバー室の左右に整然と並ぶ大量の殻にはまだ眠りについている「同僚」たちの姿が透けて見える。同僚と言っても勤務体系が年単位でばらばらなので頻繁に会話はできない。前回に出会ったHID6も今は端っこの殻の中で巨体を丸めて安穏としている。
作業服と背嚢はチェンバー室の隣のロッカーの中、食事は直進して突き当りを左の培養プラント室にある。巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているか分からない。味が食感についての感想は差し控えたい。飲み水は前回より黒ずんでいた。
食事が済むと頃合いよく便意を催す。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのだろう。部屋を出て奥のトイレに向かう。途中、ひび割れた壁面を修理している顔なじみの同僚と出くわす。「おはよう」と挨拶をすると「おお、おはよう」と気さくに返事をしてくれる。「出勤かい?」「うん」「地上の仕事って大変じゃないかい」「僕はそうでもないよ」
僕たちは僕たちで精神体の人々とは異なる言い回しを好んだ。「同僚」だとか「出勤」といったフレーズは、かつて地上世界で暮らしていた頃の名残りで、誰かがふと使った言葉が急速に普及した。他にも色々な言い回しがあるらしい。「最近は勤務評価が厳しくて困るね」見るからに老け込んだ風体の彼は、この短い会話の間にも折り曲がった腰を何度もさすっていた。
標準入力インターフェイスに与えられる「仕事」は適性によって異なる。冷凍された際の年齢が高かったり、なんらかの障害を持っていた場合には地上ではなく施設内の「内勤」に割り振られることが多い。僕は逆に若すぎ、背が低く力もないが代わりに身軽なので外で土や小石を集めている。
トイレの便器は六つあるが、大半は壊れている。運が悪いと便器の中に乾燥した糞が積もっていることもある。ここの水洗装置はかなり初期の段階から破損している。いつまでも直らない様子を見るに、僕たちでは修理しきれない箇所なのだと推定される。適性ある標準入力インターフェイスが糞を片付けるまではずっとこのままだ。
ルーティーンの最終段階。直しても直しても蜘蛛の巣みたいにひび割れが広がる廊下を歩き、巨大なモノクロディスプレイが据え置かれた特別な空間で「ブリーフィング」を受ける。耳にイヤホンを装着すると声が聴こえる――僕をインターフェイスとして扱うユーザ――他ならぬ、数百年前に枝分かれした精神体の僕だ。
〝おはようございます。前回の解凍から二三年経過しました。体調はどうでしょう〟
「問題ないと思うけど健康診断を受けたわけじゃないからね」
〝チェンバー殻のスキャナは一四七年前に電力効率化が策定されて以来、中止されていますからね〟
最初に聞いた話と違い、人間の身体で目覚めた時はまだ身も心もフレッシュだったと思う。シェルターを訪れた当時の感情もはっきり残っていたから、ただ純粋に世界は元通りになったのだと信じた。草花が生い茂り、空は青く澄み渡り、小鳥たちが人類の復活を讃えてくれる……。新しく作られた街の名前は、当然どれも新しく変わっていて、ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに、ニューヨークは……ニュー・ニューヨークになっている、たぶん。
しかし、チェンバー殻の湾曲した表面に浮かんだ文字列はだいぶつれなかった。
あなたは標準入力インターフェイスとして再定義されました。以後、HID11と呼称します
どうやら僕は人間ではなくなったらしい。
なんでも、活動状態の肉体はとても燃費が悪い。一〇〇んインの人間をまともに生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食糧、清潔な飲み水、空気、それらを支える大がかりな循環設備を要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、学校や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚機構や社会制度までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。
そこで、僕たちは情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存して、思考する精神を地下深くのサーバに転写する。延々と眠りこけていては急な出来事に対処できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサ類をもとに「情報体」と化した人々が日々、分析にあたる。
彼らはとても効率的で無駄が少なく、一生懸命働くのにラザニアもトリプルエスプレッソラテもマウンテンデューもいらない。地上が異常気象に見舞われている環境下で一〇〇人分の水源を濾過し続ける方法を検討するよりも、深宇宙探査機用の原子力電池とソーラーパネルの方が安上がりで済む。情報化は前の世界でも風変わりな人々が実践していたものの、一気に普及したのは皮肉にも災害のおかげと言える。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを宣伝しているのを見たことがある。
これらはあくまで一時的な措置に過ぎないと聞かされていた。だが、僕が「標準入力インターフィエス11」なる名称を賜った際に知らされた新事実は以下の通りだった。
一つ、未曾有の気象災害から数百年余りの年月が経ったが、情報体を人間の頭脳に再転写する技術は解決できそうにないこと。
二つ、その一方で地表は哺乳類が活動可能な気候に好転していること。
三つ、よって今後は冷凍保存された肉体を都度解凍し、持ち主である情報体の人間が適性に応じてインターフェイスとして活用すること。
確かに、使えるものは使わなければならない。もともと僕たちの後頭部には脳みそを取り出しやすくするためのネジ穴が設けられているし、脊髄と脳の電気的接点はモジュール化されている。これは情報体に移行する際の外科的な手続きであり、同時に保存条件の異なる肉体と脳を分離するための方法だったが、くしくも冷凍と解凍の効率化に一躍買ったというわけだ。
自分の処遇に納得感があるかと言われれば複雑だ。計画通りに進んでいればそもそも「生体脳の方に残った僕」という自我は存在しえなかった。「情報体の僕」の精神に上書きされて消滅する定めだからだ。あるいは、情報体が地上の調査よりも肉体のランニングコストを倦んで一切合切放棄していたら、やはり今の自分はない。
一方で、だから恩に着ろというのもおかしい。誰も自我をもう一つくれなどと頼んだ覚えはない。情報化される際にもそんな説明は受けていない。数百年も生きていれば気持ちが変わるのかもしれないが、情報体の僕は自分から枝分かれして遠い先に行ってしまった別人であって、同じように物事を考えるのは難しい。
かといって、自殺する気にもなれない。今の暮らしにもそれなりの楽しみはある。仕事をしてさえいればこうして生きていられる。なんだかんだで釣り合いが取れてしまっているのだ。ゆえに僕は標準入力インターフェイスなのだった。
今日もまたチェンバー殻の中で目が覚めた。殻の湾曲した表面にいつもの文字列が浮かぶ。
HID11接続処理中
システム上、僕たちが殻を出て身支度を整えるまでの間――人間らしく言い換えるならモーニングルーティーン――を「接続処理」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開く。チェンバー室の左右に整然と並ぶ大量の殻にはまだ眠りについている「同僚」たちの姿が強化ガラスの向こうに透けて見える。同僚と言っても勤務体系が年単位でばらばらなので頻繁に会話はできない。前回に出会ったHID6も今は端っこの殻の中で巨体を丸めて安穏としている。
作業服と背嚢はチェンバー室の隣のロッカーの中、食事は直進して突き当りを左の培養プラント室にある。巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているのか分からない。味や食感についての感想は差し控えたい。飲水も前回より黒ずんでいた。
食事を済むと頃合い良く便意を催す。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのだろう。部屋を出て奥のトイレに向かう。途中、ひび割れた壁面を修理している顔馴染みの同僚と出くわした。「おはよう」と挨拶をすると「ああ、おはよう」と気さくに返事をしてくれる。「今から出勤か?」「うん」「地上の仕事は大変そうだな」「僕はそうでもないよ」
僕たちは僕たちで情報体の人々とは異なる言い回しを好んだ。いきなり人ではないと言われてもなかなか受け入れられはしない。「同僚」だとか「出勤」といった一連のフレーズは、かつて地上世界で暮らしていた頃の名残りで、誰かがふと使った言葉が急速に普及した。他にも色々な言い回しがあるらしい。「最近は勤務査定が厳しくて困るね」見るからに老け込んだ風体の彼は、この短い会話の合間にも折れ曲がった腰を何度もさすっていた。
標準入力インターフェイスに与えられる「仕事」は適性によって大きく異なる。高齢だったり、なんらかの障害を持っている場合には地上ではなくシェルター内の「内勤」に割り振られることが多い。僕は逆に若杉、背丈が低く力もないが代わりに身軽なので外で土や鉱石を集めている。
トイレの便器は六つあるが、大半は壊れている。運が悪いと便器の中に乾燥した糞が積もっていることもある。ここはかなり前から水が流れない。いつまでも直らない様子を見るに、どう頑張っても修理しきれない箇所なのだろう。内勤の誰かが糞を片付けるまではずっとこのままだ。だから僕は、内勤のインターフェイスのことを本音ではよく思っていない。さっきのお年寄りは違うと信じたいけど、サボっている個体が多いのかもしれない。
ルーティーンの最終段階。見るたびにひび割れが広がっている廊下を歩き、天井のラインから巨大なモノクロスクリーンが投影される特別な空間で「会議」を行う。耳に支給のイヤホンを装着すると声が聞こえてくる――僕をインターフェイスとして扱う〝ユーザ〟――他ならぬ、数百年前に枝分かれした情報体の僕だ。
〝おはようございます。前回の切断から二三年と九ヶ月、一五日と一二時間が経過しました。体調はいかがですか〟
「問題ないと思うけど、健康診断を受けたわけじゃないからね」
〝チェンバー殻のスキャナは一四七年前に電力効率化が策定されて以来、中止されていますからね。各自セルフメンテナンスをお願いしています〟
「それって僕が何回解凍されたあたり?」
〝三回目の後です〟
以前はチェンバー殻が脳みその中身まで走査してメンタルケアをしてくれたというが、今の僕たちは自発的に行っている。「福利厚生の悪い職場だ」などと揶揄する同僚もいた。
「ふーん、ところで飲み水が黒ずんでいるみたいだ。味はともかく健康への影響が気になる」
〝ああ、それは雨水を濾過するフィルタが目詰まりを起こしているんですよ。他の標準入力インターフェイスが処理を実行中です〟
「そうか、それは良かった。あと便器に糞が溜まっているのもなんとかしてほしいかな。誰かが手で掬い続けるのにも限界がある」
〝標準入力インターフェイスに特有の代謝現象は厄介ですね。私たちも解決しようとはしています〟
彼女と話すのは割に楽しいが奇妙でもある。もし僕が冷凍されずに生き続けていたからこうなっていたのか、とか、肉体を持たない精神のみの存在だから肉体のまま歳をとるのとは勝手が違うんじゃないか、とか、普通なら考えないような想像に思いが巡る。とはいえ、どのみち彼女ほど加齢することはできない。今こうして同じ瞬間を生きていても僕は一四歳プラス解凍中の日数なのに対して、彼女は三〇〇歳をゆうに越えている。そのせいか僕がどんなに対等なつもりで話をしても、彼女はまるで親のような態度で接する。それが時々――いや最近はかなり――煩わしい。
「ところでそっちの暮らしはどう? なんか良いことあった?」
〝相変わらずです。あなたの暮らしが先に述べたような欠乏と不足の連続だとすれば、私たちはその逆ですね。安全でとても満ち足りています。だけど、変化はありません〟
肉体を持たない思考だけの生活、というものがどんなものか未だに理解できない。僕たちが何年かかってもいけないどんな場所にも一瞬で行けて、当時の美しい状態の建築物や風景を楽しめる。あらゆる知覚は決して衰えることなく無尽蔵に供給され、空腹も寝不足も欲求不満も存在しない。
そんな楽園じみた世界で暮らしているのに、現実の地上世界に未練があると言う。
「だから僕をインターフェイスとして使っているわけね」
〝あけすけに言えばそうなりますね。では、今回の入力内容ですが……〟
イヤホンから女性の声が一旦途切れると、巨大なモノクロディスプレイ上に線が引かれて作図が開始された。現在地点を中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の資材に関する文字情報も並ぶ。いつもより遠い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間くらいは余りそうだ。
〝今回は特に食事と水分補給を万全に済ませてください。外気温は一〇度前後ですが、なるべく直射日光も……〟
以前はチェンバー殻が脳みその中身まで覗き見てメンタルケアまでしてくれたというが、今の僕たちは全部自発的に行わないといけない。趣味を持つのはその一環でもある。「福利厚生の悪い職場だ」と揶揄する同僚もいた。
「ところで、飲み水が黒ずんでいるみたいだ。味はともかく健康への影響が気になる」
〝どうやら雨水を濾過するフィルタが目詰まりを起こしているようですね。他の標準入力インターフェイスが処理を実行中です〟
「そうか、それは良かった。あと便器に糞が溜まっているのもなんとかしてほしいな」
〝標準入力インターフェイスに特有の代謝現象は厄介ですね。私たちも抜本的解決に努めてはいます〟
時折、見え隠れする上下関係とは裏腹に彼女と話すのは割に楽しい。が、やはり奇妙にも感じる。もし僕が地上世界で生き続けていたらこうなっていたのか、とか、肉体を持たない精神のみの存在だから肉体のまま歳をとるのとは勝手が違うんじゃないか、とか、普通なら考えないような想像をする。もちろん、どのみち彼女ほど長く生きることはできない。今こうして同じ瞬間を共にしていても僕はせいぜい一四歳プラス解凍中の日数なのに対して、彼女は五〇〇歳をゆうに越えている。
「ところで、そっちの暮らしはどうなの? なんか変わったりした?」
〝特になにも。安全でとても満ち足りています。だけど、変化はありませんね〟
肉体を持たない思考だけの生活、というのがどんなものなのか未だに理解できない。僕たちが何年かかってもいけないどんな場所にも一瞬で行けて、当時のもっとも美しい状態の建築物や風景を楽しめる。あらゆる知覚は決して衰えず無尽蔵に供給されて、空腹も寝不足もない。
そんな楽園じみた世界で暮らしているのに、現実の地上世界には未練があると言う。
〝では、さっそく入力の指示に移りましょう〟
イヤホンから女性の声が一旦途切れると、天井のラインの点滅に合わせてモノクロスクリーン上に線が引かれはじめた。現在地点を中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の資材に関する文字列も並ぶ。いつもより遠い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間は余りそうだ。
〝今回は特に食事と水分補給を万全に済ませてください。外気温は一〇度前後と好適ですが、なるべく直射日光も……〟
「はいはい、分かったよ。ところでこれ、なにに見える?」
余計な世話焼きを遮り、背嚢から前回の隠された成果物をお披露目した。天井に取り付けられたカメラがぐりぐりと動いて僕の手元にフォーカスする。
余計な世話焼きを遮り、背嚢から前回の成果物をお披露目した。天井のラインが不規則に点滅する。
〝……なんの変哲もない塩の塊に見えますね〟
「そうだね。前回、道端で拾ったんだ。僕は面白い形をしていると思ったんだけど」
ほどなくして「ブリーフィング」が終わると彼女は〝接続完了〟を通告し、エレベータに乗って地上階に移動した。細長い通路の最奥には、暗闇の上の上まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。あたかも巨人用に設えられたそれは情報体の操作によってしか開かない。通路の左右にも深い漆黒が広がっていて、何十回と行き交っていても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。
けたたましいブザー音が鳴り響く。ハンドルがゆっくりと回転する。扉の周りの警告灯が放つ鋭い光はしかし、たちどころに周囲の闇へと吸い込まれていく。
やがてブザー音は荘厳な歯車の稼働音に取って代わり、シェルターの扉が地鳴りに似た振動を伴って前方に開く。揺さぶられて落ちないか恐れて手にますます力が入る。
たっぷり何分もかけて巨大な扉が解放せしめられると、もう一つの小さな扉が現れる。そこだけ切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には『危険物』とラベルが貼られた小部屋がある。一列に立てかけられた電動銃から小さいのを手に取って出口に急ぐ。
彼女はこれらの武器を〝汎用的ソリューション〟と呼んでいる。後頭部にネジ穴があり、脳を出し入れできる身体はあたかもサイボーグのようだが、実際には積み重なったコンクリート片にギブアップする。
そして、ついに地上に出る。僕にとっては昨日のことのようだが、実際には二三年ぶりだ。長い階段を登り続けているうちにシェルターの中のどんな強力な光源も敵わない光――すなわち、太陽の光が僕の顔を暖かく照らした。
ほどなくして「会議」が終わると彼女は〝接続完了〟を通告した。エレベータに乗って地上階に移動する。細長い通路の最奥には、暗闇の上の上まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。あたかも巨人用に設えられたそれは情報体の操作によってしか開かない。通路の左右にも深い漆黒が広がっていて、何十回と行き交っていても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。
けたたましいブザー音が鳴り響く。ハンドルがゆっくりと回転する。扉の周りの警告灯が放つ鋭い光がしかし、たちまち周囲の闇へと吸い込まれていく。
やがてブザー音は大げさな歯車の稼働音に取って代わり、シェルターの扉が地鳴りに似た振動を伴って持ち上げられる。揺さぶられて落ちないか怖くて手にますます力が入る。
たっぷり何分もかけて巨大な扉が解放されると、もう一つの小さな扉が現れる。そこまで切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には「危険物」とラベルが貼られた小部屋がある。一列に立てかけられた電動銃から小さいのを手に取ってひたすら長い階段を登る。
イヤホンから途切れがちに彼女の声が聞こえた。
〝最後に確認をしましょう。ちゃんと背嚢は持ちましたか? 必要なものは揃っていますか? 汎用的ソリューションを携帯していますか?〟
「分かったって」
今日の彼女のキャラクターは母親っぽくて少々鬱陶しい。耳からイヤホンを取り外してポケットに突っ込む。
情報体の人々は武器のことを〝汎用的ソリューション〟と呼んでいる。後頭部にネジ穴があり、脳みそを出し入れできる僕たちはあたかもサイボーグのようだが、実際にはコンクリート片も満足にうごかせない。情報体の人たちに至っては、地上のどんな小さなものさえ動かせない。現実の物体に深く介入できる能力は特別なのだ。
そして、ついに地上に出る。僕にとっては昨日のことのようだが、実際には二三年ぶりらしい。階段を登り続けているうちにシェルターの中のどんな強力な光源も敵わない光――すなわち、太陽の光が顔を暖かく照らした。
3
目的地に着くには固形の海の上を渡っていかなければならない。濁った海面に足を下ろす際、重心を後ろに引いておく。地質の変化を恐れる年月ではないが、気温の上昇で塩の塊が脆弱化している懸念は捨てきれない。片足で強く踏みつけ、安全を確かめてからそっと乗り移る。
心配は杞憂に終わり、一時間歩いても塩の地面が揺らぐことはなかった。してみると、これほど巨大な積層は一体いかにしてできあがったのか
気象災害が引き起こされた原因は地殻変動だとも小惑星の衝突だとも、あるいは化学兵器を交えた世界大戦だとも言われている。情報体の人々の間でも結論は出ていない。塩の層は急速に冷えて分離した塩分が凝固してできたものと推測されている。だとすれば、その時の地上は生けとし生きるものにとっては致命的だったに違いない。こうして幾度となく外に顔を出しても「地上人」だとか「新人類」といった、サイエンス・フィクションじみた超人と出会わないのも、ひとえに生き残った知的生命が僕たちだけであることを示唆している。
人類の栄華が終わったその日、僕は両親に連れられてシェルターにやってきた。二人とも途中でなにが起こってもおかしくないと用心に用心を重ねていたが、幸いにも暴徒や銃弾は車に向かわず全員とも無傷だった。しかし、家族全員ぶんのチェンバー殻があると期待していた両親に対して会社が提示したのは、情報体に移行可能なのは株主当人のみ、すなわち父一人だけという条件だった
父と母はほんの一回、二回、互いに目配せをした……それは記憶に残っている。直後、たちまち僕はチェンバー殻に押し込められ、長い長い眠りについた。後で情報体の僕に聞かされた話によると、両親はその場で自ら死を選んだ。死ぬことによって持ち株を僕に相続させ、同時に情報体に移行する権利をも移譲したのである。まるで絵に描いたような感動ストーリーだ
だがそんな両親とて、数百年後に息子の自我が増えて片方が娘になっているとは思わないだろう。もし二人が生き返ったらたぶん、自分の子どもだと見なすのは僕の方だ。あの時から見た目も中身もほとんど変わっていないからだ。でも、法的には彼女に正当な権利が認められるだろう。幸いにも、依拠すべき法律も裁判所も消滅したおかげでこの問題を永久に棚上げできる
太陽が頭上を通り過ぎて傾きかけた頃、ようやく濁った白ではない色の地面に足が届いた。かつて、この辺りの湾岸地帯には建造物が多かった。石造りの建物は数百年経っても完全には風化せず、地下に資材を蓄えている場合がある。崩れた家屋らしき外壁と周囲の状況から、それと見込んだ地点の瓦礫の塊に向けて電動銃を撃ち放つ。足場が悪い上に慣れないせいか射撃と同時にひっくり返りそうになったが、期待通りに遮蔽物が一掃されてマンホールが現れた。蓋を開けた先には溶接された簡素なはしごが見える
距離はさほどでもないのにシェルターから地上に出るエレベータと同じくらい時間をかけて最下点に到達すると、朽ちた棚が左右一列に続く保管庫らしき空間に突き当たった。手は込んでいるが国家や大組織が運用するほど立派な代物ではない。金持ちで心配性の人が拵えた設備だろう。棚からこぼれ落ちて地に伏した銃器の数々は、どれも先端が折れ曲がっていたり錆びついていたりした。どうやら持ち主には使う暇がなかったようだ
目的の物品はここではなく鉄扉で隔たれたさらに奥側にあった。鉛の容器の中に収められていた目標物はブリーフィング通りなら劣化ウラン弾ということになる。しかし弾丸としては使いものにならないらしい。ディスプレイには内部に含有されているウラン238が目当てだと記されていた
さっそく、容器から持てるぶんの劣化ウラン弾を包みごと慎重に取り出していく。この包みに放射線を抑える加工が施されていることを祈るばかりだ。
示された目的地に着くには固形の海の上を渡っていかなければならない。白く濁った平面に足を下ろす際、重心を後ろに引いておく。地質の変化を恐れる年月ではないが、度々の気温上昇で塩の層が脆弱化しているかもしれない。片足で強く踏みつけ、安全を確かめてからそっと乗り移る。
大丈夫そうだ
心配は杞憂に終わり、一時間歩いても塩の地面が揺らぐことはなかった。してみると、これほど巨大な積層はどうやってできたのか思いが巡る。
気象災害が引き起こされた原因は地殻変動だとも小惑星の衝突だとも、あるいは化学兵器を交えた世界大戦だとも言われている。情報体の人々の間でも結論は出ていない。ある日突然に始まって、終わった。塩の層に関しては急速に冷えて分離した塩分が凝固してできたものと推測されている。だとすれば、その時の地上はどんな生き物にとっても致命的だったに違いない。こうして幾度となく外に顔を出しても「地上人」や「新人類」と出くわさないのは、少々つまらないもののとりあえず安心ではある。マンガや映画通りなら、きっと僕たちを憎むか軽蔑しているだろうから
世界が終わる、たぶん何日か、何週間か前。僕は両親に連れられてシェルターにやってきた。二人とも途中でなにが起こってもおかしくないと用心に用心を重ねていたが、幸いにも暴徒や銃弾は車に向かわず全員とも無事だった。しかし、家族全員のチェンバー殻があると期待していた両親に対して会社が提示したのは、情報体に移行可能なのは株主当人のみ、つまり父一人だけという動かぬ事実だった
父と母は一回か二回、互いに目配せをした……それは記憶に残っている。直後、僕は有無を言わさずチェンバー殻に押し込められ、長い長い眠りについた。後で情報体の僕に聞かされた話によると、両親はその場で死を選んだ。死ぬことによって持ち株を僕に相続させ、同時に情報体として生き続ける権利をも移譲したのである。まるで絵に描いたような感動ストーリーだ。泣いてくれる全米はもうない。ここからの眺めはどこまでも無表情だ
だがそんな愛すべき両親とて、数百年後に息子の自我が増えて片方が娘になっているとは思わないだろう。もし二人が生き返ったらきっと、自分の子どもだと見なすのは僕の方だ。あの時から見た目も中身もほとんど変わっていない。でも、法的には彼女に正当な権利が認められるという。裁判所も法律も消滅したおかげでこのことをあまり深く考えずに済んでいるのが嬉しい
太陽が頭上を通り過ぎて傾きかけた頃、ようやく濁った白ではない色の地面に足が届いた。かつて、この辺りの湾岸地帯には建造物が多かった。石造りの建物は数百年経っても簡単には風化せず、条件次第では地下に資材を蓄えている場合がある。崩れた家屋らしき外壁と周囲の状況から、それと見込んだ地点の瓦礫の塊に向けて電動銃を撃ち放つ。慣れていないので射撃と同時にひっくり返りそうにあったが、期待通りに遮蔽物が一層されてマンホールが現れた。蓋をこじ開けた先には簡素なはしごも見える
距離はさほどでもないのに下まで降りるのにはずいぶん手間がかかった。電動銃のライトを前方に照らすと、朽ちた棚が左右一列に続く保管庫らしき空間が浮かんだ。しっかりしていそうでも、国家や立派な組織が作るほど大層な代物ではない。金持ちで心配性の人が拵えた設備だろう。棚からこぼれ落ちたいかめしい銃器の数々は、どれも先端が折れ曲がっていたり錆びついていたりした。持ち主には使う暇がなかったようだ
目的の物品はここではなく鉄扉で隔たれたさらに奥にあった。鉛の容器の中に収められていた「納品物」は会議通りなら劣化ウラン弾ということになる。しかし弾丸としては使いものにならないらしい。スクリーンには内部に含まれているウラン238が目立てだと記されていた。さっそく、銃を脇に置いて容器から持てる分の劣化ウラン弾を包みごと慎重に取り出していく。
「おい」
背嚢を埋めるのに十分な弾を収めたところで、背後から声がかかった。作業に集中するあまり耳が遠くなっていたのかもしれない。振り返ると胸に『HID39』と印字された標準入力インターフェイスが立っていた。どういうわけか作業服のカラーリングが違う。僕たちはみんなオレンジの服を着ているのに、彼はブルーだ。
おや、もしかして君もこいつを集めにきたのか?」
とはいえ、なるほど合点がいった。僕ひとりでは運びきれない状況を見越して複数のインターフェイスに仕事が割り振られていたようだ。そそくさと背嚢を抱えて部屋の隅にずれ、手招きして回収を勧めた。だが、HID39の視線は僕から動かなかった。そのまま背中の背嚢をどすんと強く下ろして口を開く。彼の背嚢は大きくて丈夫な金属製だった。
私はそこにあるすべての劣化ウラン弾を回収せよと指示されてきた」
背嚢を埋め尽くすのに十分な量を収めたところで、背後から声がかかった。作業に集中するあまり耳が遠くなっていたのかもしれない。振り返ると胸に『HID39』と印字された標準入力インターフェイスが立っていた。どういうわけか作業服のが違う。僕たちはみんなオレンジの服を着ているのに、彼はブルーだ。
あ、もしかして君もこれを集めにきたの?」
もしそうなら、大いに納得できる。僕ひとりでは運びきれない状況を見越して複数のインターフェイスに仕事が割り振られていただ。そそくさと背嚢を抱えて部屋の隅にずれ、手招きして回収を勧めた。だが、HID39の視線は僕から動かなかった。そのまま背中の背嚢をどすんと強く下ろして口を開く。彼の背嚢は大きくて丈夫な金属製だった。
おれはそこにあるすべての劣化ウラン弾を回収しろと指示されてきた」
「すべて? そこにある量では足りない?」
お前が背嚢に入れた分も含めてだ。全部よこせ」
自分よりずっと背の高いがっしりした身体が一歩前に迫った。
ここへきて僕はようやく自分が脅されているのだと悟った。表情に害意のなさを強調して笑みを浮かべつつ、ゆっくりと後ずさる。
「えーと、勘弁してほしいな……こっちも同じ仕事を指示されているんだ。分かるだろ?
私の知ったことではない。目標物を納品できなければ勤務評価に影響が出る」
相手がさらに一歩踏み出したので、僕も同じ距離だけまた後ろに下がる。文字通りの営業スマイルがひきつりだす
「それはお互い様じゃないか――そうだ、どうだろう、ここは一つ、半々で分け合ってそれで全部だったという話にするのは……
HID39は会話を続けるのに飽きたのか、とうとう背嚢から取り出した電動銃をまっすぐ突きつけてきた。コンクリートを容易に砕くほどのエネルギーの塊をぶつけられたら即死だ。
「無事に帰りたければ今回の勤務評価は諦めるんだな」
結局、背嚢に詰めたばかりの劣化ウラン弾がまんまと移し替えられるまで、僕は身じろぎ一つできなかった。電動銃を抜きにしてもどのみち14歳プラス解凍中の日数が敵う体格の相手ではない。
なあ、あんた
用を済ませるやいなやろくに口も利かず踵を返した彼に震える声で尋ねた。
「これまで仕事のバッティングなんて一度もなかった。一体どう報告すればいいんだ?
彼は顔半分だけ振り返ってぼそりと言った。無表情で抜け目のない顔に嘲笑の色が宿る。
「そのまま報告すればいい
最後に命じられた「しばらくマンホールから出るな」という指示を愚直に守って空虚な部屋に佇んでいると、とてつもなくやりきれない気になった。地下で人肌に温められたぬるい空気に独り言が漂う。
ああ、お前が背嚢に入れた分も含めて、全部だ。とっととよこせ」
HID6ほどではないにせよ、自分よりずっと背が高くがっしりした成人男性の身体が一歩前に迫った。
ここへきて僕はようやく自分が脅されているのだと悟った。なるべく顔に不満を表さないようにして笑みを浮かべつつ、じりじりと後ずさる。
「えーと、それは、その、勘弁してほしいな。こっちも同じ仕事で来ているんだ
おれの知ったことじゃない。規定量を納品できなければ勤務査定に影響が出る」
相手がさらに一歩踏み出したので、僕も同じ距離だけまた後ろに下がる。声はもう震えだしていた
「それはお互い様じゃないか――そうだ、どうだろう。ここは一つ、半々で分け合ってそれで全部だったという話にするのは――
HID39は会話を続けるのが嫌になったのか、とうとう手に持った電動銃を突きつけてきた。コンクリートを容易に打ち砕くほどのエネルギーの塊をぶつけられたら即死だ。
「無事に帰りたければ今回の勤務査定は諦めるんだな」
結局、背嚢に詰めたばかりの劣化ウラン弾がまんまと移し替えられるまで、身じろぎ一つできなかった。電動銃は数歩踏み出せば手が届く距離に転がっているが、僕にとっては地平線の彼方よりも遠い。
ねえ、ちょっと
用を済ませるやいにゃろくな口も利かずに踵を返した彼に、震えきった声で尋ねた。
「こんなこと、これまで一度もなかった。どうやって報告したらいい
彼は顔半分だけ振り返ってぼそりと答えた。やや粗野な顔つきの口元に笑みが宿る。
「そのまま報告してみろ。何事も慣れだ
最後に命じられた「しばらくマンホールから出るな」という指示を守って空虚な部屋に佇んでいると、とてつもなくやりきれない気持ちになった。地下で人肌に温められたぬるい空気に独り言が漂う。
「汎用的ソリューションって、確かにそうだな」
中身がほとんど空の背嚢を背負っているせいで身のこなしが軽い。日が沈むまでの時間はありすぎて困るほどだ。あてどなく探して運良く劣化ウラン弾が見つかる幸運などあるはずもなく、今回の勤務評価が最低で終わると確定したからにはせめて趣味を楽しまないといけない。
地上と地上を結ぶ凝固した海面の中間点、四方八方が見渡すかぎり濁った白の平面上で、一心不乱に塩を削いだ。手に力が籠もりすぎているせいか、どんな塊も文脈を負う前に細切れと化してしまう。言うまでもなく、僕はいらついている。身体が子どもだから金属製の背嚢を持つような大変な仕事を任せてもらえないし、僕の作った塩の彫刻は彼女に理解されない。僕だって理屈で彫っているわけじゃないから無理もないのだが……。
気がつくと濃い橙色の光に照らされて塩の地面に火が灯ったかのような光景が広がっていた。まるでろうそくみたいだと思った。手には塩を削るナイフと同じくらい、いや、それよりも鋭い鏃に似た彫刻ができている。ひょっとするとこれは僕の破壊衝動の表れなのだろうか。彼女に見せるには文字通り刺々しくて気が進まない。
なんにせよ、せめて帰還の予定時刻は最低限守らなくてはならない。
のろのろとシェルターに戻り、切断処理を始める。モーニングルーティーンの逆を行うのだ。最後に待ち受ける勤務評価――ディスプレイ上には〝性能評価〟と記されているが――は、納品物がないため当然ながら最低のD評価だった。イヤホンを耳にくっつけて彼女の言葉を待つ。
〝おや、今回は残念ですね。目標が見当たらなかったのでしょうか〟
「いや、見つかったし持ち帰るはずだった」
口を開いた瞬間、味わった恐怖がたちどころに怒りに兌換されてどんどん語気が強まった。
「そいつはブルーの作業服を着ていた。一体どういうことなんだ、仕事のバッティングなんてありえるのか。D評価は僕のせいじゃない。そいつのせいだ」
イヤホンの向こう側でしばらく沈黙が続いた。齢三〇〇歳か五〇〇歳くらいの彼女にしては珍しい。やがて、意を決したような低いトーンでしゃべりはじめた。
中身がほとんど空の背嚢を背負っているせいで身のこなしが軽い。日が沈むまでの時間はありすぎて困るほどだ。あてどなく探して運良く他の劣化ウラン弾が見つかる幸運などあるはずもなく、今回の勤務査定が最低で終わると確定したからにはせめて趣味を楽しまないといけない。
地上と地上を結ぶ凝固した海の中間点、四方八方が見渡すかぎり濁った白の平面上で、一心不乱に塩を削いだ。手に力が籠もりすぎているせいか、どんな塊も意味を持つ前に細切れと化してしまう。言うまでもなく、僕はいらついている。身体が未熟だから金属製の背嚢を背負うような大変そうな仕事を任せてもらえないし、僕の作った塩の彫刻は一度も彼女に理解されたことがない。同じ仕事を何十回と繰り返して、自分が土いじりにしか向いていないと信じるのには嫌気が差していた。
気がつくと濃い橙色の光に照らされて塩の地面に火が灯ったかのような光景が広がっていた。まるでろうそくみたいだと思った。手には塩を削るナイフと同じくらい、いや、それよりも鋭い鏃に似た彫刻ができていた。
せめて日が落ちる前には帰らないといけない。
シェルターからほどよく離れた地点にはソーラーパネルが点々と並ぶ。どれも強い日差しを受けて輝いていた。
シェルターに戻ると、のろのろと切断処理を始める。モーニングルーティーンの逆を行うのだ。最後に待ち受ける「勤務査定」――ディスプレイ上には〝性能評価〟と記されているが――は、納品物がないため当然ながら最低のD評価だった。イヤホンを耳にくっつけて、まずは彼女の言葉を待つ。
〝おや、今回は残念ですね。納品物が見当たらなかったのでしょうか。まあ、そういう日もありますよ〟
「いや、見つかったし持ち帰るはずだったんだ」
口を開いた途端、味わった恐怖がたちどころに怒りに兌換されてどんどん語気が強まった。
「そいつはブルーの作業着を着ていた。どういうことなんだ。他のインターフェイスのものを奪うなんていけないんじゃないのか。D評価は僕のせいじゃない。そいつのせいだ」
イヤホンの向こう側でしばらく沈黙が続いた。齢五〇〇歳くらいの彼女にしては珍しい。やがて、意を決したような低いトーンで話しはじめた。
〝分かりました。ちゃんと説明しましょう〟
正面のモノクロディスプレイが性能評価画面から遷移して周辺の地図が描き出される。それ自体はブリーフィングのたびに見ているものだったが、いつもより縮尺が格段に広く、陸地がいくつもの線で細かく区分けされていた。
天井のラインが光り、モノクロスクリーンが性能評価画面から遷移して周辺の地図が描き出される。それ自体は会議のたびに見ているものだったが、いつもより縮尺が格段に広く、陸地がいくつもの線で細かく区分けされていた。
「これは……」
〝勢力図です。私たちの、我が社の、競合他社のです〟
よく見ると下の方に僕たちのシェルターを中心とする地域もあった。他のものと比べると目に見えて面積が狭い。
このシェルターが株式会社の所有物で、精神体の人々が株主ないしは技術者だというのは既知の事実だ。他のシェルターの構成員も似たりよったりなのは間違いない。こうした巨大な建造物や組織の運用は僕が生まれるずっと前には国が担っていたそうだが、今ではどこも会社がやっている。学校も会社、警察も会社、軍隊も会社、しまいには政府が会社の国もできた。一四歳で働いたことのない僕にはそれが良い話なのかよく分からなかった。今もよく分からないが、両親がよく不満を漏らしていたのは覚えている。
〝どの競合他社も精神体を生体脳に戻す技術を開発できず、我が社と同様に元の肉体を標準入力インターフェイスとして活用しているようです。現行の法解釈ではインターフェイスは操作盤であって人間ではないため、競争の過程で全損を伴う実力行使を加えても重罪には問われません。権益を確保して、然るべき利潤を得た後に保証を提供しても割に合うとの考えなのでしょう〟
「競合他社だといっても同じ人類じゃないか。協力しあえないのか」
〝増産できず減る一方の資源を収集するしかない現状では、難しいですね。株主総会でもたまにそういった提案が上がりますが〟
そこで彼女は揶揄するように声色を変える。
〝毎回否決されています。私も株主ですが会社全体の意思決定には従わざるをえません〟
つまり、僕と同じく標準入力インターフェイスの番号列を宿したブルーの彼は、インターフェイスとして忠実だったと言える。下手に出た相手にもまったく譲歩せず資源を奪い尽くした。それだけじゃない。余計なコストも削減した。肉体的に劣っていて、応戦もしそうにない相手には電動銃一発分の電力さえ惜しいというわけだ。
そう考えると、一度は滅入った気分が再び燃え盛るのを感じた。
〝しかし今後は心配いりません。今回の件は私の誤りでした。あの地点は周縁部とはいえ我が社の領域内だったので支障はないと考えていましたが、次はもっと適性に合う範囲の入力を心がけます〟
〝勢力図です。私たちの、我が社のものと、競合他社のです〟
よく見ると下の方に僕たちのシェルターを中心とする領域もあった。他の領域と比べると面積が狭い。
このシェルターが会社の持ち物で、情報体の人々が株主ないしは技術者だというのも知っていた。他のシェルターも似たりよったりの仕組みで動いているのは間違いない。こうした巨大な建造物や組織は僕が生まれるずっと前には国が担っていたそうだが、今ではどこも会社がやっている。学校も会社、警察も会社、軍隊も会社、政府が会社の国もあった。当時、働いたことのない一四歳の僕にはそれが良い話なのかよく分からなかった。今もよく分からない。ただ、両親がたまに不満を漏らしていたのは覚えている。
〝最初の遭遇はおよそ三〇〇年前です。どの競合他社も情報体を生体脳に戻す技術を開発できず、我が社と同様に元の肉体を標準入力インターフェイスとして活用していました。その時、各社が横並びの状況にあると初めて認識できたのです。現在の法解釈ではインターフェイスは操作盤であって人間ではないため、競争の過程で破損を伴う入力を加えても重罪には問われません。権益を確保して、然るべき利潤を得た後に補償を提供しても割に合うとの考えなのでしょう。むろん、我が社も同様の方針です〟
僕はすぐには納得できずに声を張り上げた。
「競合他社といっても同じ人類じゃないか。協力しあえないのか」
〝増産できず減る一方の資源を収集するしかない現状では、難しいですね。株主総会でも稀にそういった提起がなされますが〟
そこで彼女は揶揄するように声色を変えた。
〝毎回否決されています。私も株主ですが会社全体の意思決定には従わざるをえません。こんなご時世では、他に行くあてもないですからね〟
つまり、僕と同じく標準入力インターフェイスの番号を宿したブルーの彼は、インターフェイスとしてはむしろ忠実だったと言える。下手な譲歩にも乗らず徹底的に資源を奪い尽くした。のみならず、余計なコストも削減した。肉体的に劣っていて、反撃しそうにもない相手には電動銃一発分の電力さえ惜しいというわけだ。
一度は滅入った気分がめらめらと燃え上がるのを感じた。
〝しかし、今後は心配いりませんよ。今回の件は私の誤りでした。あの地点は我が社の領域の周縁部からもそれなりに遠く、内容に問題はないと考えていましたが、次はもっと適性に合う入力を心がけます〟
「いいや」
反射的に、僕は背負っていた背嚢をひっくり返して中身を床にぶちまけた。そこから例の尖った塩の塊を拾い上げて高々と掲げる。天井のカメラが動いて手元に焦点を合わせる
「さっき言い忘れたことがあった。僕はこれでそいつに反撃したんだ。本物のナイフと違って隠しやすいからね。だいぶ深くえぐったから、もしかすると資源を運びきれず途中で死んだかもしれない! そうしたら、僕たち損をしたけど、相手の会社にはもっと損をさせたことになる。 そうじゃないか?」
勢いよくまくしたてた僕に、イヤホン越しの彼女が珍しく気圧されたふうに答える
〝……それはあ、そうですね〟
「だから僕にだって適性があるんだよ。もっと遠くに行かせてくれよ。世の中が――といってもシェルターと塩だけの世の中だけど――そんなことになってるなんて知らなかった。なにも知らないまま土いじりだけして生きるなんてごめんだ。僕の可能性を信じてくれ!」
いつしか僕は二三年前に巨体で逞しい同僚が発した言葉をそのままなぞって喋っていた。話したことは完全に作り話だが気持ちは本当だ。嘘偽りのない嘘だ。
〝私としては気が進みませんね。私のその肉体は未発達で、高度かつ複雑な入力に耐えられる仕様ではありません〟
なに言ってるんだ、今は僕が使ってるんだから、身体のことは僕が一番よく分かっている。まさか今からでも上書きしようなんてつもりじゃないだろうな
えて見当違いの指摘をしたのが効いたのか、イヤホン越しの声が妥協を示した。
〝そこまで言うのならいいでしょう。適性に修正を加えた上で、次回の入力を検討します
僕はいつもより大股開きでチェンバー殻に向かった。僕たちは競争しているんだ。より難しい仕事をしなければ置いてけぼりを食ってしまう。そしていつか無知なまま死ぬ。ブルーの作業を着た競合他社のHID39はその気になれば簡単に僕を殺せた。
興奮が全身に滾るなか脱衣も忘れて殻に入るとすぐにアラートが鳴り、正常に冷凍が行えない旨の警告が表示されたので急いで来た道を戻る羽目になった。
反射的に、僕は背負っていた背嚢をひっくり返して中身を床にぶちまけた。そこから例の塩の鏃を拾い上げて高々と掲げる。天井のラインが不規則に点滅した
「さっき言い忘れたことがあった。僕はこれでそいつにやり返してやったんだ。本物のナイフより隠しやすいからね。だいぶ深くえぐったから、もしかすると途中で死んだかもしれない! そうしたら、僕たち損をしたけど、相手の会社にはもっと損をさせたことになる。そうじゃないか?」
勢いよくまくしたてて息まで切らした僕に、彼女が珍しく気圧されたふうに答えた
〝……それはあ、そうですね〟
「だから僕にだって適性があるんだよ。もっと遠くに行かせてくれよ。世の中が――といってもシェルターと塩だけの世だけど――そんなことになってるなんて知らなかった。なにも知らないまま土いじりだけして生きるなんてごめんだ。僕の可能性を信じてくれ!」
いつしか僕は二三年前に巨体の同僚が発した言葉をそのままなぞってしゃべっていた。話したことは完全に作り話だが気持ちは本当だ。嘘偽りのない嘘だ。
〝私としては気が進みません。もっと頃合いを待つつもりでした。その肉体は未発達で、高度かつ複雑な入力に耐えられる仕様ではありません〟
今は僕が使っている身体だ。君らユーザが知らない感覚だって分かっている
くまで意地を張っていると、ついにイヤホン越しの声が妥協を示した。
〝そこまで言うならいいでしょう。適性の修正を申請してみます。ですが、結果は私の一存で決まるわけではありません。いいですね
僕はいつもより大股開きでチェンバー殻に向かった。言ってやったぞという気持ちだった。僕たちは競争しているんだ。より難しい仕事をしなければ世界から置いてけぼりを食ってしまう。そしていつか無知なまま死ぬ。ブルーの作業を着た競合他社のHID39はその気になれば簡単に僕を殺せた。
興奮が全身に滾るなか脱衣も忘れて殻に入ると即座にアラートが鳴り、正常に冷凍が行えない旨の警告が表示されたので急いで来た道を戻る羽目になった。
4
4xx
解凍されて殻から這い出ると、目の前に山のような巨体がそびえていた。モーニングルーティーンにはない事態だったので思わず立ち止まってしまう。頭上から聞き覚えのある野太い声が降り注いでそれが初めてHID6だと分かった。
「なにボサッとしてるんだ。行くぞ」
@ -166,7 +176,7 @@ HID39は会話を続けるのに飽きたのか、とうとう背嚢から取り
「おい、詰めて持っていけ。忘れてもおれのはやらんぞ」
彼は言行通り、金属製の背嚢から取り出した容器に食事と水をそれぞれ保存していった。呆気にとられて見ていると、ようやく巨体の主は事情を説明する気になったらしい。手を止めて向き直った。
「まだ話を聞いていないようだな。お前は今日、おれと一緒に仕事をする。ただの仕事じゃない。『出張』だ。一日じゃ終わらない。だから食糧と水を持っていく。分かるな」
聞き慣れない文脈の単語が出てきた。特定の標準入力インターフェイス間で用いられている言葉だろうか。僕にとって「仕事」とは日が落ちる前に済ませて帰ってくるものという認識だった。日をまたいでも続けなければならない仕事など想像もつかない。だが、きっとそれが「出張」なのだろう。前回の勤務評価の時にとった行動が今回の特別な仕事を導いたのは間違いない。
聞き慣れない文脈の単語が出てきた。特定の標準入力インターフェイス間で用いられている言葉だろうか。僕にとって「仕事」とは日が落ちる前に済ませて帰ってくるものという認識だった。日をまたいでも続けなければならない仕事など想像もつかない。だが、きっとそれが「出張」なのだろう。前回の勤務査定の時にとった行動が今回の特別な仕事を導いたのは間違いない。
つまり、僕はその方面の適性があると認められたのだ。より多くを知るであろう職域の。
今回は便意がなかったのでトイレはパスした。HID6が戻ってきた後、一緒にブリーフィングを受ける。彼が言った通り、ディスプレイに図示された目的地はいつもの三倍は遠かった。片道だけでも日が暮れてしまう。目標の納品物はチタン合金とベリリウムだという。前回に見た「競合他社」の勢力図を思い出すかぎり、他の拠点から容易に到達可能な距離だと推定できた。
「質問」
@ -504,7 +514,7 @@ HID6が頷くとグレイたちはあたかも日常の動作みたいに電動
「いや、実はずっと証拠を記録していた。これがカメラだ」
胸元のポケットからわずかにはみでたレンズを指先で叩いて示すと、彼はしばし笑いを止めた。そしてごく静かな物腰で「そうか、やるな」とつぶやいた。
だが、次の瞬間。
すばやく起き上がった彼は自らの巨体から塩の彫刻を抜き取り、HID45に襲いかかった。片手で容易く銃身を押さえつけた直後、明後日の方向に振れた銃口からエネルギー弾が何発か飛び出して虚空に消える。役目はそれで終わりだった。彼のもう片方の手に握られた突端が勇敢な同僚の首元に深々と突き刺さる。一回、二回、三回。首筋からどばどばと噴き出た鮮血が忠実な同僚の制服をたちまちレッドに染め上げた。事切れた死体をボロ布でも放るようにして片手で投げ出すのを見た途端、僕は電動バイクに向かって一目散に駆け出した。
すばやく起き上がった彼は自らの巨体から塩の彫刻を抜き取り、HID45に襲いかかった。片手で容易く銃身を押さえつけた直後、明後日の方向に振れた銃口からエネルギー弾が何発か飛び出して虚空に消える。役目はそれで終わりだった。彼のもう片方の手に握られた突端が勇敢な同僚の首元に深々と突き刺さる。一回、二回、三回。首筋からどばどばと噴き出た鮮血が勇敢な同僚の制服をたちまちレッドに染め上げた。事切れた死体をボロ布でも放るようにして片手で投げ出すのを見た途端、僕は電動バイクに向かって一目散に駆け出した。
9
@ -512,10 +522,10 @@ HID6が頷くとグレイたちはあたかも日常の動作みたいに電動
ハンドルを強く握りしめながら振り向くと、HID6もまた電動バイクを駆って迫ってきていた。大型の電動銃を片手で器用に操りながら銃撃を重ねる。僕は時々、左右に車体を揺らして射線をずらして対応した。しかしこれこそが元同僚の狙いなのはしばらくの後に判明する。直線に移動し続ける物体と多少なりとも蛇行する物体は、走行性能が同等なら次第に距離が縮む定めにある。
やがて一〇〇メートル以上あった間隔は五〇メートル前後にまで縮み、電動バイクのタイヤが再び土を踏む頃にはさらに接近していた。
ソーラーパネルのまばらな群れを通り抜け、辛くもシェルターの前に車体を滑り込ませると運良く隆起していた入り口に急いで身体を滑り込ませる。転がるようにして階段を降りて扉の先の細い通路を全力で駆け抜けた。あと数歩で曲がり角に辿り着くというところで、背後からのエネルギー弾が僕の肩口を切り裂いた。痛みと衝撃に思わず身体を壁面に打ちつけるーー真っ赤な血痕が壁にこびりつき、垂れて床をも汚したーー血の汚れをとるのは厄介だ。内勤のインターフェイスに申し訳ない。
唐突に力が抜けた身体を引きずりながら廊下を辿り、本来のルーティーンをすべて省略してチェンバー室に向かった。この状況では勤務評価など受ける間もなくカメラを取り上げられる。僕の身を守ってくれるもの……それはチェンバー殻しかない。よろよろとした足取りで手前の殻を叩くと、手のひらの血が表面にべったりとくっついた。せり出した殻が開ききる前に身体を捻り込んで殻を閉鎖する。
唐突に力が抜けた身体を引きずりながら廊下を辿り、本来のルーティーンをすべて省略してチェンバー室に向かった。この状況では勤務査定など受ける間もなくカメラを取り上げられる。僕の身を守ってくれるもの……それはチェンバー殻しかない。よろよろとした足取りで手前の殻を叩くと、手のひらの血が表面にべったりとくっついた。せり出した殻が開ききる前に身体を捻り込んで殻を閉鎖する。
殻が閉まるか閉まらないかの瀬戸際、強化ガラスを隔てて汗と血にまみれたHID6が目の前に現れた。強く殻を叩くも、一度誰かが入ったチェンバーが開くことはない。
じきに今すぐ殺せないことを悟った元同僚は不敵な笑みを浮かべてガラス越しに叫んだ。
「それで勝ったつもりか? 言っておくがな、おれは仕事を選べる。今から勤務評価に戻って、次の仕事にお前を指名して入れる。解凍される時は一緒だ。せいぜいよく眠っておくがいい」
「それで勝ったつもりか? 言っておくがな、おれは仕事を選べる。今から勤務査定に戻って、次の仕事にお前を指名して入れる。解凍される時は一緒だ。せいぜいよく眠っておくがいい」
刺し傷をものともせず悠然と立ち去っていく難敵を尻目に、僕はチェンバー殻に向かって叫んだ。
「なあ、聞こえているだろ! 助けてくれ! 見ただろ、あいつは僕を殺すつもりだ!」
〝分かっています。しかし現状ではHID6に重罰を課すことはできません。シェルター内のカメラに映っている範囲では危害の証拠は確認されていません〟
@ -573,23 +583,229 @@ HID6が突進してきた。彼の元の体には及ばないとはいえ、中
もたらされた証拠映像を皮切りに直ちに廃止されていた健康診断が再開された。脳のスキャンによって判明した背任者たちは主犯のHID6も含めて社内会議にかけられ、ほどなくして持ち主の情報体ともども懲戒解雇が確定した。肉体を予備資材として保存した後、生体脳は速やかに焼却処分に処された。同時に、情報体はフルフォーマットにかけられて電子的な死を迎えた。
敵対的買収の危機に際して解凍された標準入力インターフェイスたちは、みんながみんな出張経験者というわけではなかった。むしろ比率的には内勤や地質調査の方が多い。それでも一様に大小の電動銃が配られ、備蓄資材を用いて新たな武器が製造され、シェルター内の至るところには防衛設備が配備された。
腰の曲がった顔馴染みの標準入力インターフェイスもすでに持ち場で電動銃を構えていた。HID6の姿で近づくとしばらく萎縮していたようだったが、新調してもらった作業着の胸元を叩いて「身体が変わったんだ」と言うと表情が緩んだ。「おお、あんたあの子どもか。すっかりデカくなっちまって……」僕もいつもの調子で答える。「もし冷凍されずに育ったら僕もこんな感じだったのかもしれないね」
培養プラントもフル稼働して全員ぶんの食糧と水を作り続けていた。各々の背嚢にもそれぞれを容器に詰めて常時携帯する。いちいち持ち場を離れて飲食をする暇などないからだ。
あらゆる準備が整ったと思われた頃、情報体たちが地上のセンサを通して異常な反応を検知した。数百もの熱源が高速でこちらに接近していると言う。ついに敵対的買収が仕掛けられたのだ。
作戦の初動には僕が選ばれた。敵はHID6の現状を知らない。熱源がシェルターの真上付近まで近づいた時、彼の持ちものだった作業着に着替え直して地上に出ていった。
塩気の含む風に乗せるようにして、あたかも予定通りに進んでいる態度で軽快に叫ぶ。
「準備はできている」
そう言うと、電動バイクやら戦闘車輌やら大小の乗り物に身を預けた大軍団が瓦礫の陰から現れた。随伴歩兵と思われるグレイのインターフェイスたちも洗練された銃器を構えてずかずかとやってくる。
「貴様がHID6か」
「そうだ」
なるべく彼の口調を真似て答える。
「我々のインターフェイスが破壊された状態で見つかった。情報提供を求めたい」
「転職の条件がそり合わず戦闘が起きた。それは申し訳ない。だが、関係者は全員死んだ」
「シェルター内の状況は?」
「問題ない。すでに転職内定者が待機している」
グレイの作業着を着たインターフェイスが左右に顔を見合わせて頷き合う。
「いいだろう。案内してくれ」
来た道を戻り、階段を降りていくと後ろにグレイたちがぞろぞろとついてきた。扉を開けて細い通路を歩く。僕が始端までたどり着く頃には、数十人の敵が身動きのとれない通路に一列で並んだ。振り返って先頭のグレイに告げる。
「ところで転職の件についてだが、やはり考え直すことにするよ」
「なに?」
先頭のグレイが怪訝な顔でにらむ。
「内定辞退だよ」
意味が伝わったかどうかは分からない。僕の両親から聞いた覚えのある言葉だ。雇うつもりの相手に無碍に断られるのは屈辱らしい。
直後、片手を高く掲げて細い通路の先に駆け出す。入れ替わりに、左右から標準入力インターフェイスが顔を出して一斉に電動銃の掃射を開始した。
身動きのとれない敵の群れが続々とエネルギーの塊に押し倒されていく。撃ち返そうにも一列に並んだ状態では前の味方が邪魔でうまくいかない。本能的な恐怖に駆られた一部のインターフェイスは通路から自ら身を投げ出して下に落ちていった。他にも、千切れ飛んだ腕や足が漆黒の闇に吸い込まれていくのを見た。
期待以上の成果に誰かが快哉を叫んだのも束の間、異常を察知した後続の敵がぞろぞろとなだれを打って入口に現れた。細い通路の終端で扇状に広がり、洗練された銃列による応射が開始される。もともとひび割れていた壁面に穴が穿たれた。
敵の射撃の精度は高く、今度はこちらのインターフェイスが撃ち倒される。五分と経たないうちにおびただしい数の死体が廊下に転がった。イヤホン越しに彼女が言う。
〝現在位置の放棄が決定されました。速やかに後退してください〟
聞くが早いか、上に跳ね上げられた巨大な扉の警告灯が激しく点灯して、モーターの回る音とともにゆっくりと閉まりはじめた。しかしグレイの作業着を着た敵の集団はさほど慌てた様子を見せない。閉鎖に巻き込まれないよう脇に散開してなにかを待っている。
まず間違いなく、シェルターの正面扉はじきに突破されるだろう。内通者の手引きありきで作戦を立てるのはありえない。どう転んでも攻めきれる装備を持ってきているはずだ。
答え合わせは生き残った前線の同僚とともに撤退を済ませた直後に聞こえた。腹に響く激しい振動と大小の破裂音が響き、大量の足音が続いた。
「ここからは陣地を敷けるような開けた場所はない。どうする」
シェルター内の廊下はどこをとってもさほど広くはなく、曲がり角や分かれ道が異様に多い。遭遇戦は避けられない。
〝私たちがあなたたちの射撃を支援します〟
反応を示すように天井に引かれた一本のラインが鈍く光った。足音はもうすぐそこまで迫っている。
〝とりあえず右へ〟
言う通りに動くと、他の何人かもついてきた。各々の情報体によって指揮系統が共有されているのだろう。
〝十七秒後に八時の方向に掃射してください〟
並んで電動銃を構えるも、そこにはまだ誰もいない。まもなく彼女によって秒読みが開始される。
〝三……二……一……〟
虚空に向かって射撃を開始したつもりだったが、ちょうどそこへグレイの集団がまるで自ら当たりにいったかのように姿を表した。と、同時にエネルギー弾によって壁に磔にされたように事切れていく。隣の誰かが口笛を吹いた。
「すごい」
〝次、来ます。後退して曲がり角を五歩後ろに、五秒後に一時の方向〟
同じ指示を受けた同僚ともども引き下がり、秒読みに合わせて再び不可視の銃弾を放る。またしても追手の敵集団が不可視の銃弾の餌食となった。
各所で類似の作戦が随時実行された結果、辛くも前線が押し留まりいくつかのインターフェイスたちと合流を果たすことができた。中には顔馴染みの者もいた。
「こんなに派手に壊されちまったら直すまでに何世紀もかかっちまうぞ」
老体のインターフェイスが電動銃のバッテリーを交換しながら叫んだ。
「終わったらみんなで直そう」
口ではそう言ったが、頭では――あるいはHID6の肉体に実装された肌感覚のようなもの――が、おそらくそれは無理だろうと反論していた。あまりにも物量も質も違いすぎる。見るからに、向こうは三人のインターフェイスで一人殺せたら十分というつもりでやっている。
その時、屋内では聞こえるはずのないキャタピラ音に伴って人工的な響きある音声が耳に入った。
<ただいま貴社の経営権を取得しました。現時刻をもって有給休暇とします。直ちに現在の業務を終了してください。繰り返します……>
「なんだって?」
唐突に、隣のインターフェイスが持ち場を離れてフラフラと曲がり角を抜けていった。慌てて僕たちが追いかけて引き留めようとしたが、遅かった。
廊下の先で棒立ちになった同僚が次の瞬間には塵芥と化した。遅れて凄まじい轟音が鳴り響き、床を丸ごとえぐりとられた。ばちばちと音をたてながら内部の電装系をもことごとく破壊され、できあがった大穴の下からは鋭い悲鳴がこだました。
数秒後、何事もなかったかのようにキャタピラ音と人工音声が再開された。
<……現時刻をもって有給休暇とします。直ちに現在の業務を終了してください。繰り返します……>
僕たちは急いで引き下がり、なるべく狭い廊下を選んで撤退した。彼女に呼びかける。
「敵が経営権を取得したと言っている」
〝我が社の情報体が何人か持ち株を売却したようです。が、まだ経営権を奪取できるほどではないはずです。典型的な離反工作でしょう〟
「ひどい裏切りだ! こっちがこんなに頑張って働いているのに!」
しかし、彼女に向かって叫んでもどうにかなる話ではなかった。株主が持ち株を売るのは本来自由である。
「お、おい、待ってくれ」
気がつくと、老体の同僚が後ろで姿勢を崩して倒れ込んでいた。慌てて駆け寄ると彼の顔じゅうが汗まみれなのに気がついた。
「もう立てねえ」
「肩を回してくれ、運んでいく」
「無理するな、置いていけ」
先で待つ他の同僚の諦めた口調にくじけず、老体を持ち上げるとHID6の肉体を如何なく駆動させて走りだした。
「限りある資源は大切にしないとだめだ」
11
戦況は刻一刻と悪化していった。彼女曰く、競合他社が衛星通信を通じてサーバ間の移動手段を確立したらしく、持ち株を売却した情報体には他社での然るべきポストが用意されているとのことだった。我が社の経営陣が会議を経て懲戒の理屈をひねり出した頃には、離反者はとっくに宇宙に吸い上げられて去ってしまっている。インターフェイスの能力のみならず技術力でも上回られている事実は、ただでさえ低い労働意欲をさらに減退させた。
業務開始からゆうに十時間以上が経過して時間外労働に突入しても状況が好転する見込みは得られなかった。
幹線の廊下を我が物顔で踏み鳴らす例のキャタピラが、至るところで砲撃を撃ち抜く音が聞こえてきた。時には上から穴が空き、下から上に空くこともあれば左右の時もあった。僕たち自身も施設内を駆け回りながら戦っているので、もはや敵の正確な位置は掴めない。
〝天井のラインは接続不良の状況です。あなたのいる位置周辺に監視を集中させます〟
彼女はと言うと、僕たちのお守りをしつつ今も居残っている情報体と秒間数億回の会議を繰り返している。相変わらず有効な打開策は出てこない。きっといつまで待っても出ることはないのだろう。計算は魔法ではない。
今も勤務を続けている標準入力インターフェイスの総数も芳しくはなかった。ゲリラ戦というよりはもはや隠れてやり過ごしている状況に近い。
「これからどうするんだ」
上下左右から響く足音とキャタピラ音に囲まれた空間の中で、同僚の一人がぼやくように言う。しばらくは誰も返事をしなかった。
「作戦というほどのことじゃねえが……」
そこへ、老体のインターフェイスが口を開いた。彼はここしばらくの身動きがとれない状況のおかげでなんとか回復できたようだった。
「最下層には放射線の強い場所がある。俺や坊主――もう坊主じゃねえが――みたいな内勤の連中は知っている。そこで籠城したらたぶん長く持つ。どのみちシェルターを完全に掌握するにはここを通らないといけねえ」
「長く持たせてどうするっていうんだ」
「知らんな、情報体の連中がなにか思いつけばいいが」
各員の反応は乗り気ではなかったが、他に手立ても思いつかなかった。一同は手近なエレベータを目指して移動を開始した。
数時間前にはキャタピラ音に混じっていた悲鳴も今ではあまり聞こえてこない。慎重にエレベータに続く廊下の曲がり角から頭を覗かせる。彼女が言う。
〝大丈夫です。その通りには誰もいません〟
「本当に?」
〝大丈夫です。その通りには誰もいません〟
彼女は彼女で大変そうだった。相次ぐ会議に計算資源を割り当て続けた代償として、こちらとの連携にあてがわれたリソースが不足している。今の彼女は人間というよりは壊れた家電のクレームを請け負うチャットボットに近い存在だ。一度など「大丈夫」と言いつつ全然大丈夫ではなく、不本意な接敵に見舞われた。だが、リソース不足の彼女を責め立てても無味乾燥な謝罪文しか返ってこない。
「念のために君らの情報体にも聞いて答え合わせしよう」
僕が言うと、同僚たちは一様に首を振った。
「おれのは持ち株を売って転職した」
「おれもだ」
競合他社の敵対的買収は確実に成功を収めつつあるらしい。
「俺のは大丈夫だと言ってくれた。行こう」
老体のインターフェイスが頼りげのない足取りで先頭に進んだ。僕たちも後に続く。全員がエレベータに乗り込むと一番下のボタンを押した。
エレベータが最下層を示した時、全員の緊張の糸がいま一度張り詰めた。扉が開く。銃を向ける。前には誰にもいない。
「この階層に敵いる?」
〝敵、というのは一般的に自身に害を与える存在、もしくは恨みのある相手を指しますが、時には切磋琢磨する関係を示すこともあり文脈によって意味合いが変わる奥深い言葉です〟
ため息を吐きながらもう一回問い直す。彼女は本当に忙しいらしい。
「この階層に、敵はいる?」
〝すいません。この階層に敵の存在は確認されていません。しかし電波の通じない放射線エリアは不明です〟
具体的な場合分けにも言及しているのでたぶん合っているだろう。同僚にも伝えて歩きはじめる。一応、廊下をしらみつぶしに探ったが確かに敵はいないようだった。気を取り直して直進する。
最下層を道なりに進むとしばらくして除染室に行き当たった。お互いに注意しながら放射線防護服を着込んだ。室内でスキャンを受けた後に奥手に出ると、そこはもう電子ビームが高速で行き交う死の空間だ。遮蔽されたマスク越しに話しかける。
「聞こえる?」
他の同僚がそれぞれ頷いたり、顔の横でOKサイン返したりする。他方、予想通り彼女からの返答はイズのみだった。
ここまでくると煩わしいキャタピラ音も足音も耳に入らなくなった。着膨れした腕を懸命に回して左右に銃身を向ける。誰もいない。
あまり立ち入らない部屋も念入りに扉を開けて索敵するも、敵影は見当たらず気づけば吹き抜けの最下層――細い通路の最下点にたどり着いていた。辺りには上から落ちてきた千切れた死体や手足、肉片が散乱している。防護服を着ていたのが幸いだ。もし着ていなければ悪臭に耐えきれず気分が悪くなっていたに違いない。
「サーバ室はその奥だ。情報体に申請しないとアクセスできないが」
老体のインターフェイスがもこもこの腕を突き出して言った。他の同僚が問い返す。
「電力室は?」
「その隣だ。壁を挟んでサーバと直結されている」
腕の位置が左にずれて説明が加えられる。同僚たちは関心したふうに言った。
「よく知ってるなあんた」
僕たちはここで腰を落ち着かせて、武装の再点検を行った。与えられた電動銃の他に、背嚢には予備のバッテリーやいくつかの工具、部品などが入っていた。これらは勤務中に装備が故障して交換も行えない時に修理する目的で与えられたものだが、僕たちはバッテリーに細工を施して即席の爆弾に仕立てた。スイッチを押すか衝撃を与えると即時に過充填が行われて破裂する。今来た道を戻り、これを壁面や床の隅に置いてまわり、籠城の構えをとる。通路が狭いので例のキャタピラはここへはやってこられない。来るとしたらインターフェイスだ。
最後に、エレベータの入口にも仕掛ける。老体のインターフェイスと二人で配線を張り合わせていたところで、突如として上方から振動音が降って湧いた。防護服越しに顔を見合わせる。「まずい、敵だ」秒を追うごとに身を激しく打ちつける振動に苛まれながら、配線の処理を続ける。しかしそう簡単に終わる気配はない。「くそっ、手が言うことを聞かねえ」彼が手を振って扉の前から飛び退いた。壁面に立てかけられた電動銃を手に取る。「残りの作業をやってくれ。おれは敵を撃つ。そんなには乗れないはずだ」
応答を示す前に、エレベータの到着を報せるランプが光った。扉が左右に開く。僕は慌てて壁面に身を屈めた。
正面に仁王立ちとなった老体のインターフェイスが電動銃を掃射した。エレベータの中からくぐもった悲鳴が聞こえて身体が崩折れていく音がする。
「早く! エレベータを止めろ!」
腕だけ中に手を伸ばして「開く」ボタンを押し続ける。その隙に銃を放り投げた老体の彼が配線作業に戻る。この階で唯一のエレベータを押し留めていれば追手は来ないかもしれない、とほのかな期待を抱いたが、数分もしないうちにランプが点滅して扉が閉まりはじめた。慌てて手を引っ込める。上の操作の方が優先されるのだろう。
再び、一旦登ったエレベータが下ってくる音がした。作業を終えて急ぎ後退を始めたが最後の配線を壁伝いの張り合わせて曲がり角まで持っていくところで、運悪く扉が開いた。老体のインターフェイスが投げ出したスイッチを受け取った途端、角の向こうで銃声が響いた。通路の先でもみくちゃになった防護服が仰向けに倒れる。
入れ替わりに角から銃口だけ出して応戦した。手応えはない。そこへ、彼女の声が入る。ここは除染室の手前側なのでまだ通信が使えることを思い出した。
〝銃口を十一時の方角に向けてください〟
言う通りにして打ったつもりだが、敵の応射が激しくすぐに手を引っ込めざるをえない。
〝今のは十時でした。十一です〟
「そんな指示じゃ分からないよ、もっと直感的に――そうだ、銃口と敵の位置関係を周波数で同期させてくれ。自然言語より計算量が低いはずだ」
〝承知しました〟
イヤホン越しに低周波のノイズが流れ出す。銃口を突き出して傾けると、次第にキンキンとした高周波音に入れ替わる。音の高まりがピークに達したとところで銃口を固定して撃ち放った。床に倒れ込む音が聞こえる。再度、角から銃口を突き出して残りの敵を打ち倒した後、ひしゃげた防護服を中身ごと引きずって曲がり角に退避させた。半透明に透過されていた頭部は血漿でほとんど見えない。急いで防護服を外すと、ちょうど激しく咳き込んだ彼の吐血が僕の頭部にかかった。
「ごほっ、すまねえ。もう下がってくれ、こんな会社によく付き合ってくれたな」
「どうやったらこの仕事は終わるんだ」
後退に次ぐ後退、相次ぐ同僚の死にさしものHID6の肉体にも疲れが溜まりはじめていた。
「やつは絶対に最後まで買収を受け入れんだろうな」
口から血を漏らしながら彼は言った。
「やつというのは?」
「おれの情報体だ。この会社を経営している」
「おじさん……社長なの?」
いつも壁のひび割れを直し続けていた標準入力インターフェイス、腰が曲がった老体のインターフェイスは、数百年前の地上世界ではこの会社の社長だった。
「違う。おれはインターフェイスだ。社長はあいつだ。最初に起こされた時は、こんな再雇用はまっぴらだと思ったもんだが……おれがあいつの立場なら同じことをする」
そしてそのまま、以降の言葉は口から溢れた血によってかき消された。首がだらんと垂れ下がる。事切れたのだ。
同僚の死を悲しんでいる暇はない。すでにエレベータは最下層に達している。僕は電動銃を握りしめて角から躍り出た。銃口を向けるとすぐにイヤホン越しの周波数が高音に張り付く。
扉が開いたと同時に銃を撃ち放つ。さすがに敵も三度も同じ手は食わない。ほとんどはエレベータの陰に身を寄せて回避したようだ。
〝その銃はバッテリー切れです〟
「分かってる!」
銃を前に放り投げて除染室に急ぐ。手前のガラスが閉まったと同時にエレベータからグレイの群れが一個の塊のように殺到して銃撃を重ねた。強化ガラスの扉が軋む中、警告音声が鳴り響く。
<扉が正常に閉まっていません。妨げとなる物体を取り除いて下さい>
「今やるよ」
扉が閉まりきっていないのは、エレベータから伸びた配線が引っかかっているからだった。
スイッチを押すと、扉の向こうでけたたましく火花が散った。続いて過充填されたバッテリーが次々と破裂する。左右から高速で襲いかかる金属片に隊列が乱れて廊下じゅうに血しぶきが舞った。その間、用済みの配線をちぎって扉を閉めきり、除染処理を受けて先に進む。最下層の円柱では他の同僚が装備を集めていた。新品の電動銃を受け取って扉の前に銃口を合わせる。もう彼女の支援は使えない。
「あのジジイは?」
「やられた。爆弾も使ったけどすぐに後が来る」
端的に会話を終えた直後に奥手からどたどたと足音が迫る。各自、片手で背嚢から即席の爆弾を取り出して投げつける。もくもくと煙が上がり、金属片が辺りに炸裂する。しかしグレイたちの勢いは止まらず、すぐにエネルギー弾の返礼が見舞われた。左右の同僚があっという間に撃ち倒される。もう他に手はない。僕は拵えた爆弾の中でもっとも大きいものを取り出して掲げた。直後、ぞろぞろと隊列をなしてやってきた集団に囲まれる。
「待て! こいつはちょっとした衝撃で爆発する! ここで起爆させたら原子力電池ごとサーバも吹き飛ぶぞ」
HID6の野太い声が功を奏したか、集団の動きが止まった。やがて奥から一人のインターフェイスが現れた。例によって礼儀正しい仕草で身体を直角に折り曲げてお辞儀をする。
「このたび実技選考にご参加いただき、誠にありがとうございました。選考の結果、改めてHID11様をぜひ当社に採用させていただく運びとなりましたことをご報告差し上げます」
爆弾を掲げる手が一瞬だけ緩む。
「どういうことだ」
「当社としても人材不足ゆえ選考基準を通過したなインターフェイスは随時雇用する方針でございます。HID6様の件は誠に残念ですが、よりよいご縁を結べたことを当社としてもたいへん喜ばしく感じております」
どうやら死ぬことにはならなさそうだ。しかし腕を下ろしかけたところで、別の疑問が湧いた。
「情報体はどうなる。僕の」
グレイの礼儀正しいインターフェイスはゆっくりと首を振った。
「申し訳ありません。管理職のポストには現在空きがありませんので……もう少し早くご応募いただければ話は違ったのですが」
「じゃあ殺すのか」
直截に問いただすと相手はまた深々とお辞儀をした。
「今後のご活躍をお祈り申し上げます」
十六時間もの長時間労働の最中、敵に風穴を穿ちつつも今後のことを考えていた。この戦いにはきっと勝てない。死ぬなら話は早いが、もしそうならなかったらどうするか。
話は決まっていた。
「今の会社からは退職するよ。でも、転職はしない」
12
再び高く掲げられた爆弾に周囲の注目が集まる。礼儀正しい例のインターフェイスの張りついた笑顔にも焦りが見えた。
「またとないオファーですよ。いま一度再考されることをおすすめいたします」
「来るな。僕はサーバ室に行く」
「一体なにをなされるおつもりですか」
じりじりと後退して老体のインターフェイスが前に指し示した扉に向かった。
「僕の情報体を持って出ていく。黙って見過ごせばなにもしない。いいか、原子力電池はすぐ隣だ。妙な真似はするな」
精一杯の虚勢を張って後ろ手に扉を開けると、足早に階段を降りてサーバ室に向かう。鉛製の扉をくぐり抜けた先に、さらに別の扉があった。天井に向かって手を振る。ここはもう放射線に侵された空間ではない。
「開けてくれ」
〝どういうつもりですか、せっかく会議を重ねて妥協案を引き出したのに〟
「君の仕業だったのか」
〝大切な資源を無駄にするわけにはいきません〟
「これを見てくれ」
僕は背嚢から四角い透き通った塩の結晶を取り出した。天井のラインが赤く光る。
〝塩の結晶ですか〟
「そうだ。塩の結晶は配列がとてもきれいだから記憶媒体に理想的なんだ。知っているだろ。これに君を入れる〟
〝入れてどうするつもりですか〟
「僕はここを出ていくよ。自立するんだ。でも、旅の道連れがいないと寂しいから……」
無言で扉が開く。その奥には黒い巨大な直方体が延々とどこまでも続くかのように敷き詰められていた。彼女が言う。
〝ここにレーザー加工装置があります。私が操作してデータをコピーすることができます。ですが……〟
一瞬、言葉を切ってから続ける。
〝持ち運べるのはこの私ではなく、バックアップの私です。連続性はありません。あくまで分岐した私です。それでも構いませんか?〟
僕は天井のラインに向かって微笑んだ。
「僕だって君から分岐している。ちょうどいいじゃないか」
すると、彼女は途端に押し黙った。「どうした?」と聞いても反応がない。生前とした空間で手持ち無沙汰を感じはじめた頃に、また声がした。
「五分経ちました。私のバックアップ間隔は五分間なので、どうせなら余すところなく記録したかった」
壁面からレーザー加工用の二対のアームが伸びてきた。澄んだ透明な直方体を渡すと、片方のアームがそれを保持して、もう片方が赤色のレーザーを照射する。彼女自身が塩の結晶の一つひとつに刻みこまれているのだ。
然る後に塩の結晶は僕に戻された。耳元の声が言う。
〝ごきげんよう。別の私によろしく伝えてください〟
サーバ室から出てくると、まだグレイのインターフェイスたちが銃を持って待ち構えていた。僕は緩んだ顔を再び引き締めて爆弾を掲げる。
「用事は済んだ。もう出ていくから邪魔しないでくれ」
除染室からエレベータへ、インターフェイスたちに取り囲まれて細い通路に出る。四方八方にグレイの銃口が光る。至るところには傷だらけの壁面、おびただしい死体。僕たちの虚しい労働の後が残っていた。
破れたシェルターの巨大な扉から出る時、例の礼儀正しいインターフェイスがお辞儀をした。
階段をのぼっていくと、グレイの作業着を着た二人のインターフェイスが待ち構えていた。手の爆弾をちらつかせながら彼らに聞く。
「電動バイクを一つ持っていく。いいだろ?」
「バイクはあちらです」
片方の指し示す手に向かって歩き、バイクに乗り込もうとした時、もう片方がしゃべりだした。グレイ特有の敬語表現ではない。
「ところで、おれたちは隙を見せたらあんたを殺せと言われている。そこまで考えたか?」
僕は爆弾を持ち替えながら答えた。
「いずれにしてもこいつを君たちに投げつけてからバイクに乗るつもりだった」
「それじゃおれたちが撃つのは止められない」
「かもな。でも逃げずに撃ったら君たちも死ぬ」
片方の銃口が下がる。遅れて、もう片方も下がった。そして、電動銃を地面に放り投げてからなおも軽い口調でしゃべり続けた。
「いいよ、とっとと行け。隙は見なかったことにする。あんたはこの会社に入らなくてラッキーだ」
慎重にバイクにまたがりながら聞き返す。「どうしてわざわざそんなことを?」彼は答えた。「おれも前に買収されて入ったクチだが、聞いていた話と違う。仕事も多いし評価は厳しい。変なルールも多い。失敗だったな」
よく見ると、目の前の彼は数百年の前に地下壕で出くわしたHID39だった。着ている作業着と番号だけが違う。
「僕は君と会ったことがある。ずっと前に」
しかしHID39は口元を自嘲気味に歪ませて首を振った。
「人違いだろう。あんたみたいなデカブツと顔を合わせていたらおれは生きちゃいねえよ」
僕はふっ、と息を吐くように笑ってバイクを発進させた。塩の地面まであっという間だった。
地平線の彼方まで広がるこの平面はかつて海の一部だった。このままずっと先まで歩いていける気がする。どこかで塩の層が事切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と歩いた先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。
背嚢の中で振動に揺れる澄んだ塩の立方体を思い起こした。
僕はもう標準入力インターフェイスではない。完全に自立した一つのシステムだ。もっとも基礎的で独立したたった一つの存在だ。いつか、どこかで彼女を起こしたら標準入出力システムと呼んでもらうことにしよう。
徹夜明けの勤務最終日を終えた今日、のぼりはじめた朝日がどこまでも続く塩の地面を明るく照らしていた。