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Rikuoh Tsujitani 2024-08-21 17:54:36 +09:00
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仮題:標準入力インターフェイス
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 記憶に連続性があると言っても、この場合は少々あてにならない。全地球的な気象災害に際し、予め契約していたシェルターに逃げ込んだのが最後の記憶だ。しかし生身の肉体はたいへん燃費が悪い。たとえ10年でも1000人の人間を生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食糧、清潔な飲み水、空気、そしてそれらを支える大がかりな施設や循環システムが必要になる。じきにそういった代物は宿命的に老朽化し、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化するための官僚機構や社会階層までもが要求される。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。
 そこで、我々は情報化を選んだ。元の肉体を予備として冷凍保存し、精神を地下深くのサーバ上に転送する。地表が未曾有の異常気象に見舞われている環境下で水源を濾過し続ける方法を考えるよりも、深宇宙探査機用の原子力電池一つの方が安上がりで手っ取り早い。情報化はすでに革新派の間では取り入れられていたライフスタイルだったが、ここへきて初めて一挙に普及したと推定される。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを提供していたからだ。ちなみに、肉体を冷凍保存せず移行と同時に廃棄する下位プランならかなり安い。
 今、私がこうして覚醒してチェンバー殻の内部に直立しているということは移行前の私は上位プランを選択したのだろう。だが、目の前の殻の表面に反射する自分自身の像は明らかに記憶上の自分と著しく乖離していた。長期記憶の大半が欠落していても私は確実に女性としての自認を保っているが、眼前に映し出された姿はどう観察しても男性にしか見えない。ぎこちなく手を動かして殻の表面に付着した水滴を拭い去ると、不意に視界に映り込んだ上腕二頭筋がますます肉体の差異を印象付ける。このような性的違和が記憶違いであるとは考えにくい。
 その時、殻の湾曲した表面に淡く文字列が浮かんだ。内容はごく端的だった。
〝君は解凍された。じきにチェンバー殻から排出される。指示を待て〟
 事実、数秒経って文字が消えると殻の表面が奥手に遠のき、冷媒ガスかなにかの噴出音とともにチェンバー殻が右開きに開放された。強化ガラスで隔たれた向こう側には同じようなチェンバーがいくつも列をなして並んでいた。ほどなくすると部屋全体に声が響いた。
〝これより地表活動への移行手続きに入る。まずはそこから右手に直進して、次に左の部屋に入ってほしい〟
 記憶が正しけれれば地表は海水が蒸発するほどの高温だ。長い年月を経て落ち着いたのだろうか。いずれにしても今のところはおとなしく指示に従うほかない。相手になにができてできないのか不明だからだ。
 たくましく筋肉質な両脚を駆動させて前に踏み出すと、自分のいた殻の左右にもまったく同じ物体が並んでいた。右手奥の扉にたどり着く五〇メートル弱の道すがら、周りを見渡して殻の中を覗き見ると大半は空っぽだったがそうでないものもあった。見るからに腐敗して崩れ落ちているもの、身体はきれいだが頭部が切開されているもの、ただ眠りについているようにしかみえないものなど状態は様々だ。しかし今、目覚めているのは私だけだった。
 扉の前に立つと自動で開閉が行われた。ただの自動ドアなのか声の主に管制されているのかは分からない。指示通りすぐ左の部屋に入ると、無機質なロッカーが並ぶ空間に出くわした。再び天井から声が降り注ぐ。
〝まず服を着てくれ。君の肉体に適合するサイズは最奥から三番目だ。通信機、背嚢、容器も備えられている。着終えたら部屋を出て直進、突き当りを左に曲がりさらに右に曲がるとプラント室がある。そこに君のための食糧を用意した。それから、えーと、トイレか。肉体を持つ人は排泄する必要があったのだな。それはプラント室とは逆の曲がり角の奥にあったはずだ。水は流れないがどうせ君しか使わないから出したものは放っといていい〟
 矢継ぎ早に繰り出される指示を頭の中で抽象化しながら記憶する。さしあたり害意はなくむしろ手助けしてくれているようだが、相変わらず意図は掴めない。どんなに愛想が良くても理由が分からないことには不満を覚える。理由が分からなければ相手の行動を予測できず、ひいては私の利益を損ねるリスクを招くからだ。
 服を着るという最初の指示も忘れて部屋に突っ立っていると、声の主があからさまに焦りを見せた。
〝君、大丈夫か? 身体の具合が悪いのか? それともこっちの指示が聞こえていないのか? ちゃんと音声を変換出力できているか確かめる術がないのは癪だな。せめてなんとか言ってくれたら助かるのだが……〝
 ん? こっちの声も向こうに伝わるのか。であれば交渉の余地はある。私はさっそく声帯を震わせて発話を試みた。自分の記憶からは程遠い低く野太い声色が口蓋から出力された。
「具合は悪くない。指示も聞こえている。こちらの希望としては私自身の置かれた状況を知りたい。この肉体も私のものではないような気がしている」
 しばらくすると声が返ってきた。
〝それは後で話す。まずは着衣して食事を摂り、用便を済ませてくれ。いずれも肉体を持った人間の精神を安定させる上で不可欠な措置だ〟
 この指示に従うこと自体に不利益はなさそうに思える。ロッカーの奥から三番目を開けると、薄暗いオレンジ色で着色された厚手の作業服が現れた。試しに隣のロッカーも開けてみたがサイズ以外に違いは見られない。記憶を辿るかぎりこれは囚人服に近いデザインをしているようだが、私の立場となんらかの関連性があるかは不明だ。背面には大きく「地表活動用」と印字されている。着込んでみると、確かにこの男性体の肉体にぴったり適合した。背嚢が一つと、二つの金属製の容器、それから発信機も確かに置かれてあった。発信機は首筋に装着するタイプだった。
 部屋を出て指示通りに進み、壁面にいくつも透明なパイプが敷き詰められた部屋に入るとちょうどそれらの末端に該当する排出口から暗褐色の物体が吐き出されるところだった。据え置かれた銀色の容器が満ちると流れは止まった。
〝培養プラントを動かして食糧を作ってみた。肉体に必要なビタミン、糖分、塩分、その他栄養素が含有されている。君の今の肉体だと日に一ダースも食べれば十分だろう〟
 銀の容器の中から「食糧」の一つをつまみとる。手で触ったかぎりではやや固く、表面はざらざらしていて照明に当てると粒の一つ一つが光を返す。砂糖と塩でコーティングされているようだ。総合的にはクッキーかビスケットを模した食糧だと思われる。口に含むと予想に反してやたら歯ざわりが悪く、粘着性の感触が口内にまとわりついた。まるで粘土を食べているかのようだが、糖分と塩分による原初的な快楽がその不快感を辛うじて隠蔽している。声の主が遅れて言い訳を漏らす。
〝味や食感の良し悪しは勘弁してほしい。我々にはもはや欠落した知覚だし、そもそも培養プラントがまともに動いたこと自体が奇跡に近い。とにかく今はカロリーを摂取して肉体を保全すべきだ〟
 確かに私は空腹状態であったらしい。一つ「食糧」をかじった途端に胃袋が収縮しはじめ、私自身の味覚とは無関係に手が勝手に二つ三つと口に投げ入れる。急速に悪化した口内環境を憂慮してか、声の主は〝水は反対側の排出口に溜まっている〟と助言した。慌てて並んだパイプの反対側の末端に駆け寄り、容器に溜まった水を手ですくって飲んだ。〝容器に飲食料を保存するんだ。地表活動に不可欠だ〟容器の片方はどうやら水筒であったようだ。こうしてしばらくパイプの末端を行き来しているうちに空腹は収まり、入れ替わる形で便意が訪れた。
〝人間の原始的な代謝をこうして直で見るのは逆に真新しい気持ちだな〟
 私も別の意味で斬新な気持ちを味わった。記憶の通りに便器に座り、まず尿から足そうとしたが股の間に生える巨大な男性器に邪魔されてうまくできなかった。おずおずと手で男性器を折り曲げようと試みても、これまでに味わったことのない奇妙な感覚に襲われて垂直に曲げられない。結局、声の主の〝どうせ君しか使わない〟との文言を受け入れて前方に放出させるがままにした。
「そろそろ理由を訊いてもいいかな。地上はもう人間が住める環境になったのか」
 出し抜けにしゃべったのでまるで便器の向かって話しかけた格好だが、声はしっかり天井から返ってきた。
〝死なないという意味ならイエスだが、永住できるかという意味ならノーだ。そもそも肉体を持った人間自体がほとんど残っていない。有性生殖で人間が増えるには少なくともアダムとイヴが三〇人くらいはいる。やり直しがきかないことを考えるとその三倍は欲しい。それほどの頭数の人間が偶然にも一堂に会して、しかも共通の社会を構築できる可能性――まあ、皆無に等しいと言っていい〟
 この回答は少なからず私に落胆を与えた。「地表活動」と命じられたからには地上にすでに人類が復帰しているとまでは思わなかったが、想定以上に予後が悪い。
「だったらずっと寝かせておいてほしかったな。今からでも遅くないから再冷凍してくれないか。食べようとして解凍したラザニアを途中で気が変わって再び冷凍庫に放り込むみたいにさ」
 声の主は短く笑いを漏らしてから言った。
〝冷凍ラザニアの味が多少変わろうが気にしないかもしれないが、君をうまく再冷凍できる保証はないし、するつもりもない。君にはちゃんと仕事がある〟
「というと?」
〝良い音が聴きたい。環境音ではなくて、規則的で、楽器が用いられた、つまり、音楽だ〟
 私は便器の上で背もたれにのけぞった。聞き間違いかもしれないと思ったのだ。
「君らは情報体なんだからその手の娯楽には不自由しないはずだろう」
〝いいや〟
 一言だけ否定の口上を述べると、急に声の主は黙り込んだ。なにか癪に障ることを言っただろうか。ややあって、絞り出すような低い声が響いた。
〝ずいぶん前から音がなくなったんだ、我々の世界には。ソフトウェアの不可逆的な欠損によってあらゆる音源が再生できなくなった。だから、この声も理論上はD/A変換されてそちらに届いているが、私自身には音としては聞こえていない〟
 音がない世界――そんな世界では私の肉体が屁をひる音でさえ貴重なのかもしれない。なまじ情報体なだけに社会生活自体はなんとかなってしまいそうなところがかえって残酷だ。音がまったくなくとも思念をテキストに起こしたり、なんなら直接フィードバックすれば意思疎通自体に不便はない。不便は、ないが……。
〝まず、もっとも高度な技術を持つ上位クラスの人員が自らの情報を削除した。あえて形容するなら自殺したと言える。内部からは問題を解決できないと悟ったのだろう。そこからは連鎖的に広がっていった。止めようがない。我々は失敗した。今の我々は生身の人間でいうところの重度のうつ状態だ。かといって地下数百メートルに格納されたサーバ室を解錠する手立ても、そこから直接アクセスする手段も我々にはもはや分からない。だから、君に頼みたい仕事はそういった類のものではない〟
 そこでふと声が一旦途切れ、うってかわって落ち着いた声音で会話を結んだ。
〝どうせ滅びゆくならせめて、一度だけでも音楽を聴きたい。それが可能なのは、外部からアナログ音源を直接送り込むことだけだ〟
 私は矢継ぎ早にもたらされた要請に対して疑問を提示した。
「気持ちはよく伝わってきたが……地表にそんな代物が残っているとでも? 海が蒸発するほどの異常気象だ。なにもかも灰と化しているに決まっている」
〝探してみなければ分からない。いずれにしても、君はやるしかない。君一人を蘇生させるのに何人もの肉体を犠牲にした。チェンバー室の殻を見ただろう。あれは全部失敗作だ。特に脳を身体に移植する手術が遠隔操作ではやりづらくてね……〟
 ここへきて、私が不適合な肉体を抱えて解凍された理由が判明した。とりわけ複雑な体組織である脳は肉体とは異なる条件で保存されている。つまり、私の解凍は半分成功して、半分失敗したのだ。今の私は電子レンジに入れる時間が短すぎて食感がサクサクしているラザニアだ。
「私の身体はダメだったのか」
 便器の上で顔を覆ってみせると、声の主が励ますように言った。
〝そもそも冷凍保存自体、何百年も先のことを見越して作られていなかった。君の脳が無事なだけで十分だ〟
「でもどうして……なぜ、私なんだ」
 またぞろ、声の主の調子が変わった。今度は、決定的に。脅迫的に。
〝君のせいだからだよ〟
「え?」
〝君が、厳密には情報化後の君が、我々の世界から音を奪った。当の本人に責任をとらせたくてもその方法がない。だから、生身の方の君に取らせる〟
 たまらず私は抗議の声をあげた。うめき声に近かったと思う。どんな国の法律でもそんな帰責を認める論理はありえない。だが、声の主は発信機のブザー音でもってそれに応じた。
〝ところで言い忘れていたが、その発信機は遠隔操作で起爆する。なんであれせっかく蘇生したのに、今度こそ確実に不可逆的な死を迎えたいのなら、勝手にするがいい〟
 観念して私はおずおずと便器から立ち上がった。念の為に水洗パネルに手をかざしてみたが、やはり彼の言う通り水は一向に流れなかった。
記憶に連続性があると言っても、この場合は少々あてにならない。冷凍と解凍を数十年おきに繰り返すたび、私の長期記憶は次第に揮発していって今や覚えていることの方が少ないからだ。一番最初に解凍させられた時はまだ身も心もフレッシュだった。まるで瑞々しい葉野菜のように。シェルターに迎えられた当時の記憶も明瞭に残っていたから、さぞ地表は芳しい草花が生い茂り人類の帰還を讃えてくれるのだろうと思っていた。あるいはもう地表に街ができていてもおかしくないとさえ期待した。ロンドンはニューロンドンに、トーキョーはニュートーキョーに。誠に遺憾ながらニューヨークはこの命名規則だとニューニューヨークになってもらうしかない。
ところが、チェンバー殻の表面に表示された文字列はたったの一言。
〝貴殿は我々の標準入力インターフェイスに任命された。以後、指示に従い規律正しく行動されたし〟
ところで、活動状態の肉体はたいへん燃費が悪い。たとえ三〇年でも一〇〇〇人の人間を生きながらえさせようとすれば、膨大な備蓄食料、清潔な飲み水、空気、そしてそれらを支える大がかりな施設や循環システムを要する。じきにそういった代物は宿命的に老朽化を余儀なくされ、修理するための資材や人員、教育や訓練、果ては指揮系統を円滑化する官僚気候や社会階層までもが求められる。尻に火が付いている人類にとってはあまりにも考えることが多すぎる。
そこで我々は情報化を選んだ。元の肉体を問題解決後のために冷凍保存し、思考する精神を地下深くのサーバに転送する。ただ眠りこけていては例外的事象に対応できないからだ。シェルターの内外に張り巡らされたセンサが絶えず人工衛星と交信して、情報体の技術者たちが常時分析にあたっている。彼らにはラザニアもコーヒーもマウンテンデューもいらない。地表が未曾有の異常気象に見舞われている環境下で水源を濾過し続ける方法を考えるよりも、深宇宙探査機用の原子力電池一つの方が安上がりで手っ取り早い。当時、情報化はすでに革新派の間では取り入れられていたライフスタイルだったが、ここへきて初めて一挙に普及したと推測される。どの会社のシェルターも似たりよったりのプランを提供していたからだ。ちなみに、肉体を冷凍保存せず移行と同時に廃棄する下位プランならそれなりに安い。
私がこうして地表活動員として覚醒できているということは、情報体となった私が別に存在していてしかもその私は技術者優待を受けられる身分だったかもしくは金持ちだったのだろう。情報体の人々が私を呼び起こす理由は様々だが、センサでは捉えきれない気候変動のモニタリングや実際にサンプルを持ち帰る地質調査が大半だ。なんの前触れもなく解凍されると任務を通達され、決まった手順で作業服と培養された飲食料を持って地上に出ていき、仕事を終えると脱衣して再び冷凍用のチェンバー殻に入る。もう何度繰り返したか覚えていない。最初の解凍の時点ですでに地表は人類に好適な温度に下がっていた。だが、情報体の彼らが生身の人間の姿に戻ることはできない。生体脳を情報体にできても、逆は行えないからだ。期待されていた技術革新はついに起こらず、元の肉体はただの道具に成り下がった。機械の肉体など望むべくもない。ゆえに私は彼らの標準入力インターフェイスなのだった。
今日もまたチェンバー殻の内側で目が覚めた。しかし、いつもとは決定的に様子が違っていた。身体の調子がおかしくて仕方がない。なにより眼前の殻の表面に反射する自分自身の像は明らかに記憶上の自分と著しく乖離して見えた。長期記憶の大半が欠落していても私は確実に女性としての自認を保っているが、目の前に映し出された姿はどう観察しても男性そのものだ。ぎこちなく手を動かして殻の表面に付着した水滴を拭い去ると、不意に視界に映り込んだ上腕二頭筋がますます肉体の差異を印象付ける。このような性的違和が記憶違いであるとは到底考えにくい。
そんな当惑を無視して殻にはいつもの文字列が表示された。
〝標準入力インターフェイス:接続完了〟
彼らは私がチェンバーから起きることを「接続」と表現する。まもなく殻が奥手にせり出して開き、そこから出られるようになる。ぎこちなく前に踏み出すと太くたくましい両脚が即座に応じた。チェンバー室の左右に並ぶ殻を時々見やりながら、肉体は変わっても脳に染みついた習慣通りの軌跡を辿って活動準備に入る。衣類と背嚢はチェンバー室の隣、食事と携行飲食料は直進して突き当たりを左の培養プラント室、巨大なパイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているのか分からない。
食事が済むと便意を催す。前回の時に溜まったままの便が腸内活動の再開によって押し出されたのかもしれない。いつも通りに部屋を出て廊下の最奥のトイレに向かい、便器に腰掛けたところで困難に直面した。
股の間に生えた男性器が大きすぎて、便器内に排尿できないのである。慌てて手で海綿体を抑えつけようと試みても、今までに味わったことのない強烈な違和感に圧倒されて垂直に折り曲げられない。結局、間に合わず尿は弧を描いて便器外の床に放出された。次いで、便意も訪れたためこれ以上の抵抗は難しい。とりたてて大きな問題ではない。次に解凍されてここに座る頃には自然に蒸発しているに違いない。
ちなみに水は流れない。このトイレの水洗装置は2回目の解凍の時以来、機能不全を起こしている。今回も試してみたが、やはり水は流れなかった。
準備の最終段階。巨大なディスプレイが据え置かれた空間でブリーフィングを受ける。質疑応答もここで答えてもらえる場合がある。中央に置かれた硬い椅子に座ると、特に重心を強くかけたつもりはないのに脚ごとひしゃげて壊れた。男性体の肉体の重さに耐えられなかったのか、ついに老朽化したのか定かではないがいずれにしても直立でのブリーフィングを余儀なくされた。スクリーンが点灯して文字が浮かぶ。いよいよ今回の任務が通達される。
ディスプレイ上に線が引かれて作図が開始された。左右には文字情報も並ぶ。真円に近い形状をしたそれは円周に沿って細かく溝が穿たれており、末端から中心点に至るまで継続している。色は黒、例外あり。直径は30センチメートルか17センチメートル、例外あり。中心点には穴が空いている。
〝指示:以上の外見的特徴を備えた音源記憶装置を収集せよ〟
「質問」
反射的に質問要求を投げかける。これまで与えられた指示とはずいぶん毛色が異なる。ディスプレイが暗転してこちらの音声入力を待ち受ける状態に遷移した。
「今回の指示の目的を尋ねたい」
情報空間満ち足りた世界だと聞いている。あらゆる知覚可能な情報が無尽蔵に手に入れられる世界だ。音源に不足する環境とは思えない。
回答は迅速に行われた。
〝回答:重大な障害により音声入出力システムに不備が生じている。外部から直接音源を取り入れることによって検証を図りたい〟
「質問」
「つまり、今そちらの世界には音がないということなのか」
〝回答:論理的に存在しているが我々には認識できない〟
音がない世界というのは想像してもしきれない。情報空間ではそれでもテキストコミュニケーションや直接のフィードバックによって意思疎通には困らないだろう。だが、今までなんら不自由のない世界を謳歌していた人間が突然に制約を課されるのは耐えがたい苦しみなのかもしれない。気を取り直して私は他の質問を繰り出した。
「質問、私の今の肉体は変化しているように感じられる。記憶の混濁でなければ意図を尋ねたい」
今度は回答の出力にやや時間がかかった。
〝回答:冷凍装置の不具合により、ハードウェア部分に不可逆的な機能不全が生じた。やむをえず不全箇所を切除、廃棄し、新たな肉体に移行を行った〟
平たく言えば、私の元の肉体は腐り落ちてしまったということだ。落胆すべきか安堵すべきか分からない。もし脳も一緒に腐っていたらこうして説明を聞く機会さえ得られなかった。
ほどなくしてブリーフィングが終わるとエレベータに乗って地上階に移動した。一回にひと一人しか通れないほど細長い通路の最奥には、見えないほど高い天井まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。まるで巨人用に設られたそれは情報体の側の操作によってしか開かない。通路の左右にはこれまた見えないほど深い漆黒の闇が広がっていて、何十回と行き交っても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。
私の到達を見計らったようにけたたましいブザー音が鳴り響き、ハンドルがゆっくりと回転しはじめた。扉の周りの警告灯がちかちかと鳴る。目を突くほどの真っ赤な光線はしかし、たちどころに漆黒の空や底に吸い込まれていく。やがてブザー音は負けず劣らず激しい歯車の駆動音に取って代わり、地鳴りに似た振動と共に扉が天井に向かって開きはじめた。振動に揺さぶられて落ちないよう手にますます力が入る。
たっぷり十数分もかけて扉が解放されると、もう一つの扉が現れる。そこだけ切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。先に進むと扉と扉に挟まれた狭い空間に閉じ込められる。機械的な走査処理だ。その先にまたロッカーがある。作業服が置かれている部屋とよく似ているが、ロッカーの中には銃器と弾薬が収められている。その中の一つを握り、弾薬をこめる。今まで一度も使った覚えはない。しかし、彼らはこの道具を〝汎用的ソリューション〟と呼称し、携行の命令を譲らなかった。
そして、ついに地上に出る。私にとっては昨日のことのようだが、きっと数百年ぶりの地上だ。分厚い鉄の扉が背後で固く閉ざされる。気の遠くなるほど長い階段をひたすら登り続けると、シェルターのどんな強力な蛍光灯も敵わない強力な光源ーーすなわち、陽の光が私の顔を眩く照らした。
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