From b1fa879658f29022b2f64be684678d1d4b3ad288 Mon Sep 17 00:00:00 2001 From: Rikuoh Date: Thu, 19 Sep 2024 22:54:05 +0900 Subject: [PATCH] =?UTF-8?q?10=E8=A9=B1=E3=81=8B=E3=82=89?= MIME-Version: 1.0 Content-Type: text/plain; charset=UTF-8 Content-Transfer-Encoding: 8bit --- 標準入力インターフェイス.md | 227 ++++++++++++++++++------------------ 1 file changed, 115 insertions(+), 112 deletions(-) diff --git a/標準入力インターフェイス.md b/標準入力インターフェイス.md index 0d85652..f418830 100644 --- a/標準入力インターフェイス.md +++ b/標準入力インターフェイス.md @@ -80,7 +80,7 @@ HID6は顔を傾けて意味ありげに微笑んだ。 そんな楽園じみた暮らしをしているのに、現実の地上世界には未練があると言う。 〝では、さっそく入力の指示に移りましょう〟 イヤホンから女性の声が一旦途切れると、天井のラインの点滅に合わせてモノクロスクリーンに線が引かれはじめた。現在地点を中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の資材に関する文字列も並ぶ。いつもより遠い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間くらいは余りそうだ。 -〝いつも言っていることですが、食事と水分補給を万全に済ませて下さいね。外気温は一〇度前後と好適ですが、なるべく直射日光も……〟 +〝いつも言っていることですが、食事と水分補給を万全に済ませてくださいね。外気温は一〇度前後と好適ですが、なるべく直射日光も……〟 「はいはい、分かったよ。ところでこれ、なにに見える?」 余計な世話焼きを遮り、背嚢から前回の成果物をお披露目した。天井のラインが不規則に点滅する。 〝……なんの変哲もない塩の塊に見えますね〟 @@ -139,7 +139,7 @@ HID39は会話を続けるのが嫌になったのか、とうとう手に持っ 〝あらまあ、今回は残念ですね。納品物が見当たらなかったのでしょうか。まあ、そういう日もありますよ〟 「いや、見つかったし持ち帰るはずだったんだ」 口を開いた途端、味わった恐怖がたちどころに怒りに兌換されてどんどん語気が強まった。 -「そいつはブルーの作業着を着ていた。どういうことなんだ。他のインターフェイスのものを奪うなんていけないんじゃないのか。D評価は僕のせいじゃない。そいつのせいだ」 +「そいつはブルーの作業服を着ていた。どういうことなんだ。他のインターフェイスのものを奪うなんていけないんじゃないのか。D評価は僕のせいじゃない。そいつのせいだ」 イヤホンの向こう側でしばらく沈黙が続いた。齢五〇〇歳くらいの彼女にしては珍しい。やがて、意を決したように話しはじめた。 〝ごめんなさい、ちゃんと話しておくべきでしたね。今から説明します〟 天井のラインがぱちぱちと光り、性能評価画面から遷移して周辺の地図が描き出される。それ自体は会議のたびに見ているものだったが、いつもより縮尺が格段に広く、陸地がいくつもの線で細かく区分けされていた。 @@ -206,40 +206,40 @@ HID39は会話を続けるのが嫌になったのか、とうとう手に持っ 「岩とかコンクリートならね……」 さっきまで燃え盛っていた新しい仕事への熱意も、地上に続く長い階段を登りきる頃には恐怖へと変わっていた。 -5xx +5 それでも透き通った冷たいそよ風に顔をなでられると、いくらか気分が落ち着いた。昇りはじめた太陽が塩の地面の濁り気を打ち消そうと光を注いでいる。金属製の背嚢は重くて辛かったが、歩いているうちに重心の感覚が掴めてきた。僕の隣を歩く「同僚」は大きくて頼もしい。一人でこんなに遠くに行けと言われたら、やはり心細かっただろう。彼は競合他社の領域に土地勘があるらしく今は大型の電動銃を折りたたんで背嚢にしまい込んでいる。僕もそれに倣って両手を揺らしながら、踵で乳白色の層を踏み鳴らして楽しんだ。 -今回進んでいる道筋は僕が行ったことのある方向とはだいぶ違っていた。いつもならすぐに陸地が見えたが、今日はいつにも増してよく晴れている日なのに対岸が朧げにしか映らない。太陽が頭上を通り過ぎてもまだ辿り着かず、目的地にも達していないのに脚が疲労を訴えだした。 +今回進んでいる道のりは僕が行ったことのある方向とは違っていた。いつもならすぐに陸地が見えたが、今日はいつにも増してよく晴れている日なのに対岸が朧げにしか映らない。太陽が頭上を通り過ぎてもまだ辿り着かず、目的地にも達していないのに脚が疲労を訴えだした。 「疲れたか」 「いや」 -巨体の同僚は一時間おきに気を遣ってそう言ってくれたものの、自ら休憩を願い出るのは負ける気がした。意地を張って懸命に歩き続けることさらに数時間、背嚢の重みに押しつぶされそうな気持ちで一歩ずつ歩いていると、ついに彼が「疲れたな、休もう」と言ってその場に腰を下ろした。顔に滲んだ汗の粒が陽光を受けて輝いている。僕は精一杯なんでもない振りをして、むしろもう休憩か、とでも言いたげな仕草で座ろうとしたが、脚が引きつって体勢を崩してしまい、尻もちをつく格好で塩の上に倒れ込んだ。 -「無理すんな。安全なうちに体力を残しておけ」 +巨体の同僚は一時間おきに気を遣ってそう言ってくれたものの、自ら休憩を願い出るのは負けな気がした。意地を張って懸命に歩き続けることさらに数時間、背嚢に押しつぶされそうな気持ちで一歩ずつ歩いていると、ついに彼が「疲れたな、休もう」と言ってその場に腰を下ろした。浅黒の顔に滲んだ汗の粒が陽光を受けて輝いている。僕は精一杯なんでもない振りをして、むしろもう休憩か、とでも言いたげな仕草で座ろうとしたが、脚が引きつって体勢を崩してしまい、尻もちをつく格好で塩の上に倒れ込んだ。 +「無理すんな。安全なうちに休んでおけ」 背嚢から食糧の入った容器を取り出すと彼は言葉を続けた。 「初めてにしてはお前はついてこれている方だ。出張経験者でも移動が苦手なやつはいる」 「こういう一緒にやる仕事――出張って、何回もやったことあるの」 疲労を見透かされていてもなお余裕を残していそうな態度を崩さず問いかける。同僚は渋い顔をして答えた。 「数えきれないほどな。出張はむしろ一人で行く方が珍しい。三人とか四人の時もある。数が多ければ多いほど場所が遠方で危険だ」 -食べている吐瀉物みたいな粘体がごくりと喉を鳴らす音と共に胃袋に落ちていった。結果的に僕を見逃したHID39とは比較にならないほど操作介入に長けたインターフェイスがたくさんいるということだ。よくよく考えてみると、競合他社の標準入力インターフェイスを殺すことほど理に適った戦略はない。資源を奪い取れるだけでなく、行動範囲も狭められる。接続可能なインターフェイスを完全に失った情報体は地上世界に対していかなる操作も行えない。センサ頼りの受動的な分析がすべてだ。そのセンサさえも一度物理的に壊れでもしたら直せない。 +食べている吐瀉物みたいな粘体がごくりと喉を鳴らす音と共に胃袋に落ちていった。結果的に僕を見逃したHID39とは比較にならないほど操作介入に長けたインターフェイスがたくさんいるということだ。よくよく考えてみると、競合他社の標準入力インターフェイスを殺すことほど理に適った戦略はない。資源を奪い取れるだけでなく、行動範囲も狭められる。接続可能なインターフェイスを完全に失った情報体は地上世界に対していかなる操作も行えない。センサ頼りの受動的な分析に限られてしまう。そのセンサさえも一度物理的に壊れでもしたら直せない。 「これ、かなり聞きづらい話なんだけど……」 食事の手を止めておずおずと尋ねる。 「僕たちの会社は、どうなんだ? うまくやれているの、その競合他社と」 空いた容器を片付けていた巨体が一瞬固まった。少し待っても回答はない。なんだかきまりが悪くなり、急いで言葉を付け足した。 「いや、僕は前にあっさり負けちゃったから、偉そうには言えないけど」 -「じきに嫌でも分かる」 -急に彼が立ち上がったので、僕も慌てて残りの食事を片付けて背嚢に突っ込んだ。「だが、負けたっていうのはどういうことだ。逃げきったのか」金属製の背嚢をよろよろと背負い込みながら首を振る。「逃げてすらいないよ。ブルーの作業着を着たやつだったんだけど、たまたま見逃してくれただけだ」改めて口に出すと侮られても仕方がないと思った。しかし吐露せずにいられないほど悔しい事実でもあった。 -それからの道のりはあまり退屈しなかった。HID6が色々と教えてくれたからだ。たとえば競合他社はそれぞれ違う色の作業着を身に着けていて、ブルーもいればイエローもいるという。一度、レッドの服を着たやつを見かけたと思いきや、それはそいつの血で染まっていただけだったなど怖い話を聞かせてくれたりもした。逆に、競合他社の相手から見れば僕たちは「オレンジのやつら」ということになる。 -一日たっぷりかけて対岸を渡り、朝方ぶりの土を踏みしめるとなんだかおかしな感触がした。これからはこの感じが当たり前になるのだろう。物珍しい丘陵に登り、下っていき、しばらくするとちょっとした湖に出くわした。しかし実際には湖ではない。気象災害の過程で海だった場所の一部が陸になり、取り残された海面が凝固したまま自立したのだ。含まれているミネラルや不純物の濃度の関係なのか、こっちの方はずいぶん透き通っているように見えた。もうすぐ日が落ちるから野営すると彼が言うので、急いで湖に駆け寄って片手で持てる立方体のサイズに塩の塊を切り取った。 -戻ってくると「お楽しみ用か、あのいつもやっている……」と茶化されかけたので「いや、このまま持っておくよ」とついむきになって言い張った。本当は夜が来る前に彫るつもりだった。 -ちょうどなだらかな傾斜がついている清潔な地面を見繕い、そこで僕たちは野営を始めた。必要なものは背嚢に全部入っていた。いかに現在の地上が温暖化しているとはいえ、夜間には氷点下をぐっと下回る。作業服より分厚い素材で作られた寝袋に入り込むと一転、身を切り裂く寒風が遮られて全身が温まった。 +「じきに嫌でも分かるさ」 +急に彼が立ち上がったので、慌てて残りの食事を片付けて背嚢に突っ込んだ。「だが、負けたっていうのはどういうことだ。逃げきったのか」金属製の背嚢をよろよろと背負い込みながら首を振る。「逃げてすらいないよ。ブルーの作業服を着たやつだったんだけど、たまたま見逃してくれただけだ」改めて口に出すと侮られても仕方がないと思った。しかし吐露せずにいられないほど悔しい事実でもあった。 +それからの道のりはあまり退屈しなかった。HID6が色々と教えてくれたからだ。たとえば競合他社はそれぞれ違う色の作業服を身に着けていて、ブルーもいればイエローもいるという。一度、レッドの服を着たやつを見かけたと思いきや、それはそいつの血で染まっていただけだったなどと怖い話を聞かせてくれたりもした。逆に、競合他社から見れば僕たちは「オレンジのやつら」ということになる。 +一日たっぷりかけて対岸に渡り、朝方ぶりに土を踏みしめるとなんだかおかしな感触がした。これからはこの感じが当たり前になるのだろう。物珍しい丘陵に登り、下っていき、しばらくするとちょっとした湖に出くわした。しかし実際には湖ではない。気象災害の過程で海だった場所の一部が陸になり、取り残された海面が凝固したまま自立したのだ。含まれているミネラルや不純物の濃度の関係なのか、こっちの方はずいぶん透き通っているように見えた。もうすぐ野営すると彼が言うので、急いで湖に駆け寄って片手で持てる立方体のサイズに塩の塊を切り取った。 +戻ってくるなり「お楽しみ用か、あの、わけの分からん……」と茶化されかけたので「いや、このまま持っておくよ」とついむきになって言い張った。本当は夜が来る前に彫るつもりだった。 +ちょうどなだらかな傾斜がついている清潔な地面を見繕い、そこで僕たちは野営を始めた。必要なものは背嚢に全部入っていた。いかに現在の地上が温暖化しているとはいえ、夜間には氷点下をぐっと下回る。作業服より分厚い素材で作られた寝袋に入り込むと一転、身を切る寒風が遮られて全身が温まった。 「適当な時間で交代だからな。二人して眠りこけていたら襲われかねない」 寝袋を器用に巻きつけて身体の自由と防寒を両立させながら彼が言った。手元には電動銃の鈍く光るチャージライトがちらついている。 「本当にそんなことあるのかな、競合他社のやつらだって眠いんじゃ」 -自力で眠るのも起きるのも久しぶりの僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。しかし彼は構わず腹ばいになって傾斜に電動銃のバッテリーマガジンを突き立てた。 +自力で眠るのも起きるのも数百年ぶりの僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。しかし彼は頑として腹ばいになって傾斜に電動銃のバッテリーマガジンを突き立てた。 「むしろ油断ならない。夜勤<ナイト・シフト>の連中がいるかもしれない」 「夜勤<ナイト・シフト>?」 また聞き慣れない言葉が出てきた。 「夜に出勤する凄腕の連中だ。おれもお前も大抵の仕事はものを集めたり持って帰ったりすることだが、やつらは違う」 -深く息を吸い込んだのか、巨体の背中が一層盛り上がった。 +深く息を吸い込んだのか、月明かりに照らされた巨体の背中が一層盛り上がった。 「連中の仕事は競合他社のインターフェイスを破壊することだ。つまり、戦闘しかしない」 さながら闇夜に溶け込む血に飢えた野獣のようなイメージが脳裏に浮かんだ。誰もが適性に応じて仕事を割り振られているように、夜勤<ナイト・シフト>にもそういう適性があるのだろう。電動銃をどこにでも百発百中で当てられるとか、夜でも目がよく見えるとか。 「そういう人たちと会ったことあるの……」 @@ -252,76 +252,76 @@ HID39は会話を続けるのが嫌になったのか、とうとう手に持っ 結局、いまいち覚醒しきれていない状態で指図されるがままに寝袋から出て身体に巻きつけ、直前の彼がそうしていたように傾斜の前で腹ばいになった。「三つだけ覚えろ。とても重要だ」その彼は起き上がりながら言った。 「もし先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――」 いきなり物騒な話から始まったので全身がこわばった。 -「――とにかく撃ち返せ。ビビって引っ込んでいたら距離を詰められる。次に、銃声がしたが競合他社が撃たれていた時。すぐに隠れておれを起こせ。最後に、すでに相手が接近していて取っ組み合いになった時、大声をあげて危険を知らせろ。いいな、なにもなければ日が上がるまで監視だ」 +「――とにかく撃ち返せ。ビビって引っ込んでいたら距離を詰められる。次に、銃声がしたが他の競合他社が撃たれていた時。すぐに隠れておれを起こせ。最後に、すでに相手が接近していて取っ組み合いになった時、大声をあげて危険を知らせろ。いいな、なにもなければ日が昇るまで監視だ」 反射的にうめき声をあげた。「じゃあ僕はもう寝られないのか」体感的には明らかに眠い。いつも年単位で眠っているからきっと寝足りないのだ。しかし同僚は眉間に皺を寄せて「お前はもう六時間は寝ている。おれだって四時間くらいは寝ていいだろ」とぐうの音も出ない正論を告げたので、目の前に広がる暗闇と黙って対峙するほかない現実を受け入れた。 いつどこから撃ち殺されてもおかしくないと考えればもっと怖がってもいいはずなのに、ぼやけた頭と代わり映えのしない黒一面の風景に、姿勢さえも満足に変えられない窮屈さが倦怠感を身体じゅうに押し広げてあるはずの恐怖を塗りつぶしてしまう。 小一時間経ったか、あるいは五分しか経っていないか定かではないが、僕の意識は将来の人生設計に傾いた。今は必要に応じて接続されるしがないインターフェイスでしかないけれども、いつか情報体の人々はなにか根本的な解決策を手に入れて地上に進出するはずだ。数十年後か、数百年後かはともかく、チェンバー殻に故障がなければ僕もその時には一人の市民として輪に加わっているだろう。イヤホン越しにしか話せない彼女とも直接会って話せるようになる。より多くの人々とも交流の機会を得て、地上世界をより良くするために話し合うことになる。そうなればこんな馬鹿げた競争も廃れるに違いない。 -だが、そこへいくと僕はあまりにもものを知らなさすぎる。現にこうして勤務経験でも同僚に水を開けられているし、僕たちが凍っている間にも常に思考を重ねている情報体の人々とはまずもって比べものにならない。あらゆる問題が解決した後には僕自身の能力が課題として待ち受けていて、それを改善するのはまったく簡単ではない。 -昔は学校があった。僕はとてもよくできた生徒だったらしく、外に出て登校する形式の特別な学校に通っていた。一五歳になったらカレッジを受験する話もあった。これからじわじわと再構築される新しい世界の文明には、たぶんしばらくは学校もカレッジもない。田んぼとか、発電所とか水道とか、そういういものの方がずっと大切だからだ。僕は未熟な子どものまま放置されて、格差を覆せないまま見通しの悪い人生を歩む羽目になる。 +だが、そこへいくと僕はあまりにものを知らなさすぎる。現にこうして勤務経験でも同僚に水を開けられているし、僕たちが凍っている間にも常に思考を重ねている情報体の人々とはまずもって比べものにならない。あらゆる問題が解決した後には僕自身の能力が課題として待ち受けていて、それを改善するのはまったく簡単ではない。 +昔は学校があった。僕はとてもよくできた生徒だったらしく、外に出て登校する形式の特別な学校に通っていた。一五歳になったらカレッジを受験する話もあった。これからじわじわと再構築される新しい世界の文明には、たぶんしばらくは学校もカレッジもない。田んぼとか、発電所とか水道とか、そういうものの方がずっと大切だからだ。僕は未熟な子どものまま放置されて、格差を覆せないまま見通しの悪い人生を歩む羽目になる。 だとしたら。こうも考えられる。 -今の状況がずっと続いている方がよほど良いじゃないか。言われた通りに働いて用が済んだら眠って、飢えて死ぬこともない。人生が最低でも数年おきで離散的なのは仕方がないが、少なくとも思い悩むことはあまりない。壁がひび割れているとか、食事や水がまずいとか、たまにトイレに糞が積もっているとか、そういった点に目をつむれば今の暮らしもそんなに悪くない。彫刻だってできる。 -ただ……じゃなんで僕は楽な仕事に留まらずにこんな辛い出張とやらをする気になったのだろう。今だって眠いのをこらえて必死に―― +今の状況がずっと続いている方がよほど良いじゃないか。言われた通りに働いて用が済んだら眠って、飢えて死ぬこともない。人生が最低でも数十年おきで離散的なのは仕方がないが、少なくとも思い悩むことはそんなにない。壁がひび割れているとか、食事や水がまずいとか、たまにトイレに糞が積もっているとか、そういった点に目をつむれば今の暮らしも悪くはない。彫刻だってできる。 +ただ……じゃあなんで僕は楽な仕事に留まらずにこんな辛い出張とやらをする気になったのだろう。今だって眠いのをこらえて必死に―― その時、真っ黒な風景にわずかだが光がちらついた。最初は気のせいかと思った。しかし続けて二回、そして三回、光が灯る。入れ違いに別の地点でも光が灯った。やがて電動銃特有の甲高い音色が耳に届いて、確信を得た。 銃撃戦が行われている。 -左側で閃光が派手に光っているのに対して右側の方はいくぶん控えめだ。両者の応酬はやや一方的ながら、だんだん激しさを増して音も大きく響いてきている。そこで、はたと思い出して彼を起こそうとした辺りで背後から声がした。 +左側で閃光が派手に光っているのに対して右側の方はいくぶん控えめだ。両者の応酬はやや一方的ながら、だんだん激しさを増して音も大きく響いてきている。はたと思い出して彼を起こそうとした辺りで背後から声がした。 「始まったようだな」 -ぎくりとして「起こそうと思ったんだけど」と申開きしたが、彼は気にする素振りをせず僕の前から電動銃を持っていって自分の位置に構え直した。 +ぎくりとして「起こそうと思ったんだけど」と言い訳をしたが、彼は気にする素振りをせず僕の前から電動銃を持っていって自分の位置に構え直した。 「いや、おれが勝手に起きた。眠りが浅い方でね」 -そんなわけがない。眠りが浅いのではなく、浅く寝ていたんだ。経験のない子どもに命を預けて高いびきなんてするわけがない。 +そんなわけがない。眠りが浅いのではなく、浅く寝ていたんだ。未熟な子どもに命を預けて高いびきなんてするわけがない。 「さて、ここで特別講習だ」 -勝手に落ち込みかけていると、HID6は横目で問いかけた。 +勝手に落ち込みかけていると、HID6が横目で問いかけた。 「左と右、どっちが夜勤<ナイト・シフト>だ?」 -打ち出されている光の数では左側が圧倒的だ。どんどん距離は縮まっているのに、輝点の間隔の違いで判別できるほど差がある。しかし―― +撃ち出されている光の数では左側が圧倒的だ。距離はどんどん縮まっているのに、輝点の間隔の違いで判別できるほど差がある。しかし―― 「右の方だ」 いつになくはっきり答えると「ほう」と彼はつぶやいた。「なぜそう思った」 -「見た感じでは左の方がいっぱい撃っていて有利っぽいけど、たぶんそれは違って、相手の位置が分かっていないだけだと思う。当てずっぽうなんだ。でも右の方は相手が逃げられないように牽制だけして距離を詰めている。だから右の方が上手だ。夜勤<ナイト・シフト>が強い人たちばかりだっていうんなら、右の方がそうだ」 -数百メートルか、あるいはもっと離れた地点でついに決定的な瞬間が訪れた。最後に右手の光が二回光り、それきり、まるで闇がすべてを覆い隠したかのように静まり返った。同僚が低い声で言う。 +「見た感じでは左の方がいっぱい撃っていて有利っぽいけど、たぶんそれは違って、相手の位置が分かっていないだけだと思う。当てずっぽうなんだ。でも右の方は相手に逃げられないように牽制だけして距離を詰めている。だから右の方が上手だ。夜勤<ナイト・シフト>が強い人たちばかりだっていうんなら、右の方がそうだ」 +数百メートルか、あるいはもっと離れた地点でついに決定的な瞬間が訪れた。最後に右手の光が二回光り、それきり、まるで闇がすべてを覆い隠したかのように静まりかえった。同僚が低い声で言う。 「正解だ。そしておれたちができるのはやつらが帰ってくれるのを祈ることだけだ」 -さすがにこの頃には眠気が吹き飛んでいた。たった今、分厚い暗闇で隔てられた対岸で絶命したインターフェイスたちも今後の人生に思いを馳せていたのかもしれない。それがほんのちょっとしたさじ加減で奪われた。夜勤<ナイト・シフト>たちが気まぐれで向きを変えていたら、今頃死んでいたのは僕たちだったのだ。 +さすがにこの頃には眠気が吹き飛んでいた。たった今、分厚い暗闇に隔てられた対岸で絶命したインターフェイスたちも今後の人生に思いを馳せていたのかもしれない。それがほんのちょっとしたさじ加減で奪われた。夜勤<ナイト・シフト>たちが気まぐれで向きを変えていたら、今頃死んでいたのは僕たちだったのだ。 7 -何事もなく太陽が上がり、食事を摂り、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても、恐怖は背中にべったり貼りついたようにしていつまでも消えなかった。まだ殺し足りない夜勤<ナイト・シフト>たちが朝も働き続けて、四方八方のどこからか自分を狙うのではないかと妄想に駆られた。心配しても意味なんてないと理解していても足取りはまるで鉄か鉛の重さで、腹には溶けない氷が冷え冷えと沈んでいた。 +何事もなく太陽が昇り、食事を摂って、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても、恐怖は背中にべったり貼りついたようにしていつまでも消えなかった。まだ殺し足りない夜勤<ナイト・シフト>たちが朝も働き続けて、四方八方のどこからか自分を狙うのではないかと妄想に駆られた。心配しても意味なんてないと理解していても足取りは鉄か鉛の重さで、腹には溶けない氷が冷え冷えと沈んでいた。 「ここだな」 -HID6が足を止めた先にあったのは半壊した巨大な航空機だった。あまりにも大きかったので二人で辺りを周回するまでそれがそうとは気づかなかったほどだ。まるで戦いに敗れた巨人兵が胃袋や腸を垂れ流しているように、引き裂かれた胴体部からケーブルや座席やその他の部品が散乱していた。 +HID6が足を止めた先にあったのは半壊した巨大な航空機だった。あまりにも大きかったので二人で辺りを周回するまでそれがそうとは信じられなかったほどだ。あたかも戦いに敗れた巨人兵が胃袋や腸を垂れ流しているように、引き裂かれた胴体部からケーブルや座席やその他の部品が散乱していた。 中に入ると陽の光が遮られて視界が一気に薄暗くなった。時折、周辺に人骨と思しき欠片がまとわりついているのを見て気分の悪さと関心が同時に押し寄せた。数百年経っても骨は溶けて消えないらしい。「いっそ月に着いちまえば多少は長生きできたのにな」巨体が災いして歩きにくそうに足で残骸をどかしながら同僚が言う。確かに、この航空機は地上用にしては大きく、月か火星の定期便用に見える。 言われてみれば、月や火星は地球の気象災害とは無縁だ。しかし食糧や燃料を生産する設備に乏しいため、地球からの物資がなければどのみち飢えて死んでしまう。変わり果てていく地球を臨みながらゆっくり死に絶えていくのと、一瞬のうちに死ぬのとだったら、個人的には後者の方が嬉しい。 目的の納品物は航空機の露出した内部に含まれていた。背嚢の中の工具を活用して慎重に引き剥がしていく。不要な部品ごと持っていくには大きすぎるし重いからだ。二人して作業を黙々とやっているうちに、会議で示された分量を大幅に超える納品物を獲得できた。 -きっと油断していたのだと思う。何時間も薄い暗闇の中にいて、空間の把握が疎かになっていたのだ。航空機から外に出た途端、正面のそう遠くない距離に人影がいるのを目の当たりにした。ついさっきの恐怖感が胃の奥から吐き出される。短く悲鳴をあげて手をばたつかせるも、電動銃は背嚢の中だ。一歩ずつ近づいてくる二人組を前に固まること数秒、先に口を開いたのは相手の方だった。 -「君らもここで物資を集めていたのかい」 +きっと油断していたのだと思う。何時間も薄い暗闇の中にいて、空間の把握が疎かになっていたのだ。航空機から外に出た途端、正面のそう遠くない距離に人影がいるのを目の当たりにした。ついさっきの恐怖感が胃の奥から急速に吐き出される。慌てて手をばたつかせるも、電動銃は背嚢の中だ。一歩ずつ近づいてくる二人組を前に固まること数秒、先に口を開いたのは相手の方だった。 +「君らもここで資源を集めていたのかい」 そこへ、助け舟が到来した。電動銃のチャージ音を響かせながら背後でHID6が低く短く答える。 「失せろ」 -だが、相手はなおも引き下がった。 +だが、相手はなおも食い下がった。 「チタンか? そうだろ」 -「だったらだろうだ、失せろと言ったぞ」 -端的な応答の後、相手は急に両手を胸の前で合わせて懇願のポーズをとった。 +「だったらどうだ、失せろと言ったぞ」 +端的な応答の後、相手はやおら両手を胸の前で合わせて懇願のポーズをとった。 「なあ、我々も同じものを探しているんだ。もしよかったら……譲ってくれないか、この通りだ」 -そこで僕はようやく相手が二人して武装していないこと、そもそも雰囲気からして敵意がなさそうなこと、イエローの作業着を着ていることなどを認識した。張り詰めていた緊張の糸が切れて、がちがちに凝り固まっていた筋肉が緩む。一方、巨体の同僚は前に踏み出してなおも迫った。 +そこで僕はようやく相手が二人して武装していないこと、そもそも雰囲気からして敵意がなさそうなこと、イエローの作業服を着ていることなどを認識した。張り詰めていた緊張の糸が切れて、がちがちに凝り固まっていた筋肉が緩む。一方、巨体の同僚は前に踏み出してなおも迫った。 「おれたちになんの利益がある。他社だということくらいは分かるだろう」 「分かっているとも。交換しよう。我々はタングステンを持っている。砲弾の芯から取ったやつだ。どうだ、有用な金属だぞ」 -確かに、と率直な感想を抱いた。タングステンは軽量かつ高密度な金属素材なので、武器にも工具にも応用できる。導電性や耐熱性にも優れているから電子部品にも使える。シェルターにあって損はない物資だ。 +確かに、と率直な感想を抱いた。タングステンは軽量かつ高密度な金属素材なので、武器にも工具にも応用できる。導電性や耐熱性にも優れているから電子部品にも使える。シェルターにあって損はない資源だ。 「現物を見ないことにはなんとも言えんな」 変わらず銃口を突きつけたままではあったが、同僚の口ぶりは格段に柔らかくなった。相手もそれを察したに違いない。 -イエローの二人組は呼びかけに律儀に応じて各々の背嚢の中からタングステンを取り出した。手渡された銀色の塊をまじまじと見つめてから、HID6は僕に手渡した。「これは本当にタングステンで間違いないか」僕はその金属のとてつもない重さと手触り、叩いた時の感触を調べてから慎重に答えた。 +イエローの二人組は呼びかけに律儀に応じて背嚢の中からタングステンの欠片を取り出した。手渡された銀色の塊をまじまじと見つめてから、HID6は僕に見せた。「これは本当にタングステンで間違いないか」僕はその金属のとてつもない重さと手触り、叩いた時の感触を慎重に調べてから答えた。 「本物だと思う。アルミやステンレスならもっと軽い」 「鉄やニッケルだとしたら?」 僕は冷静に首を振って言う。 「タングステンの比重はその二倍以上あるよ。それにほら、見て」 -背嚢の中に入っていた磁石をくっつけてもなにも起こらないことを示す。「タングステンは非磁性の金属なんだ。鉄だったらくっついている」そこまで説明して、ようやく彼は納得したようだった。「さすが土いじりの専門家だな」信頼を得たと確信したのか二人組は息を弾ませて前のめりにしゃべりだした。 +背嚢の中に入っていた磁石をくっつけてもなにも起こらないことを示す。「タングステンは非磁性の金属なんだ。鉄だったらくっついている」そこまで説明して、ようやく彼は納得したようだった。「さすが土いじりの専門家だな」信頼を得たと確信したのか二人組は息を弾ませて前のめりにしゃべった。 「悪い話じゃないだろう? こんなでかい航空機から集めたんなら、余るほどチタンがあるはずだ。分けたってそっちは損をしない。おまけにタングステンも手に入る」 「そうだな。いいだろう」 -彼が首肯すると二人は顔を綻ばせて喜んだ。昨夜、戦わないまでも夜勤<ナイト・シフト>たちの仕事ぶりを目の当たりにしたからか、てんでこの種の経験がない僕にさえ、イエローの二人組がまるで隙だらけの小動物に見えた。残りのタングステンを取り出す間も背嚢を探ることにかかりきりで、こちらに注意を払う素振りもない。 -HID6はさらに一歩踏み出して、自分の背嚢を片手で引き下げた。 -もう片方の手には、電動獣がフルチャージの状態で握られている。 +彼が首肯すると二人は顔を綻ばせて喜んだ。昨夜、戦わないまでも夜勤<ナイト・シフト>たちの仕事を目の当たりにしたからか、てんでこの種の経験がない僕にさえ、イエローの二人組はまるで隙だらけの小動物に見えた。残りのタングステンを取り出す間も背嚢を探ることにかかりきりで、こちらに注意を払う気配もない。 +HID6はさらに一歩踏み出して、自分の背嚢を片手で引き下ろした。 +もう片方の手には、電動銃がフルチャージの状態で握られている。 「だが、おれがくれてやるのはこいつだ」 -直後、水平に傾いた銃口から不可視の運動エネルギーが飛び出し、イエローの作業服を着た片方に衝突した。それは胴体に風穴を穿つには十分すぎる威力で、もう事切れているであろう死体をさらに数歩ぶん後方に吹き飛ばした。撃たれていない方は突然の出来事に状況を飲み込めず、瞬き数回分の間隔を経てから素っ頓狂な悲鳴をあげた。僕も同時に叫んだ。それらすべてをHID6の低い声が塗りつぶした。 +直後、水平に傾いた銃口から不可視の運動エネルギーが飛び出し、イエローの作業服を着た片方に衝突した。それは胴体に風穴を穿つには十分すぎる威力で、もう事切れているであろう死体をさらに数歩ぶん後方に吹き飛ばした。撃たれていない方は突然の出来事に状況を飲み込めず、瞬き数回分の間隙を経てから素っ頓狂な悲鳴をあげた。僕も同時に叫んだ。それらすべてをHID6の声が塗りつぶした。 「おい、一度しか言わねえからよく聞けイエロー。走って逃げきれたらお前の勝ちだ。だからうまく逃げろ。ほら、走れ」 -彼はイエローの足元すれすれに二発目を放った。すると、相手は背嚢も持たず反射的に走り出した。 +彼は「イエロー」の足元すれすれに二発目を放った。すると、相手は背嚢も持たず遮二無二に走り出した。 「おっ、けっこう速いな」 -いくらかの間をおいて同僚が撃ち出した三発目、四発目の銃撃は素人目に見ても粗雑な撃ち方だった。当てるつもりで撃っているとは到底思えない。現に運動エネルギーの塊は相手から数メートルも離れた地点にぶつかり、かすかに土煙を舞わせていた。しかし一向に意に介さず、その浅黒い顔に今まで見た覚えがない残忍な笑みを浮かばせていた。 +いくらかの間をおいて同僚が撃ち出した三発目、四発目の銃撃は素人目に見ても粗雑な撃ち方だった。当てるつもりで撃っているとは到底思えない。現に運動エネルギーの塊はどれも相手から数メートルも離れた地点にぶつかり、かすかに土煙を舞わせていた。しかし一向に意に介さず、その浅黒い顔には今までにない残忍な笑みを浮かばせていた。 そうして何分か経ち、何発も外してイエローの作業服が本当にイエローなのか判別が付きづらくなってきた辺りで、彼は電動銃の構え方を変えた。 「そろそろお楽しみは終わりだな」 -相手との距離はもはや狙撃に近いと言っていいほど離れていたにもかかわらず、最後の一撃はあっけなく逃げ惑う背中の中心を捉えた。 +相手との距離はもはや狙撃に近いと言っていいほど離れていたにもかかわらず、最後の一撃は逃げ惑う背中の中心をあっけなく捉えた。 「……どうして」 今の僕の気持ちでは、この一言を絞り出すのが精一杯だった。言いながら、次の言葉を考える。 「殺す必要は、なかった」 @@ -331,39 +331,39 @@ HID6はさらに一歩踏み出して、自分の背嚢を片手で引き下げ 「お前、A評価って取ったことないだろう。本日最後の特別講習だ。どうやったら取れると思う」 「し、知らない」 考えるより先に本能が回答を拒否した。状況から想像すればおのずと答えが分かってしまう。吐き気がしてきた。 -「おれたちだって競合他社を減らせるんだ。この銃はそのためにある。まさか瓦礫をどかすためだと本気で思っていたのか」 +「おれたちだって競合他社のやつらを減らせるんだ。この銃はそのためにある。まさか瓦礫をどかすためだと本気で思っていたのか」 「今まで、何回、こんなことを?」 なにかしゃべっていないと本当に吐いてしまいそうだったので聞きたくもない質問をしてしまった。 「おれはA評価しか取ったことがなくてね」 皮肉にも、帰りの道のりは非常に快適だった。死んだイエローたちは電気で動く二人乗りのバイクを近くに隠していて、それに乗って帰ったからだ。HID6は後部座席にまたがる僕に、エンジンの駆動音や風切り音に負けない大声で叫んだ。 「こんなもの、おれたちは持っちゃいねえ! そうだろ!? だが他社の連中は持ってる! おれたちが持っていない良いものを持ってやがる! これでおれたちがうまくやれていると思うか!? ええ? 殺さずに勝てると思うか?」 -僕はひたすら無言の抵抗を貫くほかなかった。時速一〇〇キロメートル超で前から後ろへと高速で流れ去っていく風景、遠く彼方まで広がる濁った白の地平線、固形の塩の塊、そのどれもがひどく味気なく感じられた。 +僕はひたすら無言の抵抗を貫くほかなかった。時速一〇〇キロメートル超で前から後ろへと高速で流れ去っていく風景、遠く彼方まで広がる乳白色の地平線、塩の大地、そのどれもがひどく味気なく感じられた。 8 -納品物を捜査するカーゴの中にチタン合金とタングステンと血みどろの生首が投げ込まれて以来、僕は外に出る仕事をやめた。もともと適性なんてなかったのだ。モノクロスクリーンに映るA評価の文字を一瞥して、いかにも同僚を労う仕草で肩を叩いてチェンバー室に戻っていったHID6をよそに、いつまでも色褪せた床に滴る血痕を眺めていた。「もう外に出たくないな」そうイヤホンにつぶやくと彼女は特に追及せず適性を再修正した。 -ロッカーには据え置かれた二種類の背嚢に加えて掃除用具が追加された。壁を補修する道具、床を拭く道具、どうせならトイレの糞を集める道具も欲しかった。あれから何回も冷凍と解凍を繰り返したが、ずっと内勤の仕事をしている。会議の時間はとても短い。移動時間は三〇分もかかれば長い方だと感じる。 +納品物を格納するカーゴの中にチタン合金とタングステンと血みどろの生首が投げ込まれて以来、僕は外に出る仕事をやめた。もともと適性なんてなかったのだ。モノクロスクリーンに映るA評価の文字を一瞥して、いかにも同僚を労う仕草で肩を叩いてチェンバー室に戻っていったHID6をよそに、いつまでも色褪せた床に滴る血溜まりを眺めていた。「もう外に出たくないな」そうイヤホンにつぶやくと彼女は特に追及せず適性を再修正した。 +更衣室のロッカーには据え置かれた二種類の背嚢に加えて掃除用具が追加された。壁を補修する道具、床を拭く道具、どうせならトイレの糞を集める道具も欲しかった。あれから何回も冷凍と解凍を繰り返したが、ずっと内勤の仕事をしている。会議の時間はとても短い。移動時間は三〇分もかかれば長い方だと感じる。 彫刻はもう彫っていない。彫るための材料がここにはない。 -代わりに、彼女と話す機会が増えた。イヤホンはシェルターの中からだいたい機能する。毎回、ひび割れた壁に補修材を塗りたくり、汚れた床を拭きながら雑談を交わす。内容はなんでもいい。天気の話だけはできないけれど。 +代わりに、彼女と話す機会が増えた。イヤホンはシェルターの中ならだいたい機能する。毎回、ひび割れた壁に補修材を塗りたくり、汚れた床を拭きながら雑談を交わす。内容はなんでもいい。天気の話だけはできないけれど。 「ところで、なんでこういうのってロボットとかにやらせるわけにはいかないのかな」 〝複雑な部品や電気的接点を持つ機械はメンテナンスが大変なんですよ。その点、標準入力インターフェイスはたいへん安上がりでけっこうなことです〟 「ご飯を食べさせるだけで勝手に動くもんね」 -シェルターの中は意外に広い。直すべき壁は星の数ほどあり、拭くべき床はもっと多い。以前の仕事で内勤のインターフェイスとあまり会わなかったのも納得だ。チェンバー室も他に三つもあって、培養プラント室もそのぶんだけあり、トイレも備わっている。そしてもちろん、大抵は便器に糞が積もっている。 -原子力電池付近の最下層は特に最悪だ。放射線防護服は暑くて重い。分厚い生地に手足の動きが阻まれていると作業は遅々として進まず、代わりに口数ばかりが増える。壁のひび割れがいつも広大な円周に沿って広がっていて途方に暮れ、思わず天を仰ぐと吹き抜けの天井は暗闇に覆われている。あの細い通路から落ちるとここで床の染みと化すのだ。 +シェルターの中は意外に広い。直すべき壁は星の数ほどあり、拭くべき床はもっと多い。以前の仕事で内勤のインターフェイスとあまり会わなかったのも納得だ。チェンバー室も他に三つもあって、培養プラント室もそのぶんだけあり、トイレも備わっている。そしてもちろん、大抵は便器に糞が積もっている。とはいえ、本来は情報体に移行するまでの一時的な設備だったはずなのに、なんだかんだで機能し続けているのが奇跡なのかもしれない。 +とりわけ、原子力電池付近の最下層は最悪だ。遮蔽材に鉛が含まれている放射線防護服は暑くて重い。分厚い生地に手足の動きが阻まれていると作業は遅々として進まず、代わりに口数ばかりが増える。壁のひび割れが広大な円周に沿って広がっていて途方に暮れ、思わず天を仰ぐと暗闇に覆われた吹き抜けの天井が見える。あの細い通路から落ちるとここで床の染みと化すのだ。 「ところで君は今なにをしているの?」 -てんで見通しの立たない仕事を半ば放棄してふと彼女に尋ねると、放射線特有のノイズに紛れて自明すぎる回答が返ってくる。 -〝あなたと話しています〟 +てんで見通しの立たない仕事を半ば放棄してふと彼女に尋ねると、放射線区画特有のノイズに紛れて自明すぎる回答が返ってくる。 +〝あなたとお話をしています〟 「そうじゃなくて、僕が仕事をしながら話しているみたいに君もなにかしているんじゃないの」 〝ええ、それはまあそうですね。ですが私は情報体なので、処理ごとに自我を分割しています〟 「よく分からないな」 〝あなたと話しているこの私は会話をするためだけに生成されています。総体としての私がなにかをしながら会話をしているのは事実ですが、私という自我単位に並行処理の自覚はありません〟 「なんだか手抜きっぽいな」 -〝効率的と言って下さい。どのみち計算資源をすべて割り当てた私とは会話が成り立たないでしょう〟 -時々、彼女との会話から情報体特有の生活が垣間見えることがある。曰く、情報体は人間では手足の指を全部使っても不可能な量の仕事を同時にこなすことができるとか、いくらでも好きな見た目に自分を変えられるとか、食事もいらなければトイレにも行かないとか。 +〝効率的と言ってください。どのみち計算資源をすべて割り当てた私とは会話が成り立たないでしょう〟 +時々、彼女との会話から情報体の人々の営みが垣間見えることがある。曰く、情報体は人間では手足の指を全部使っても不可能な量の仕事を同時にこなすことができるとか、いくらでも好きな見た目に自分を変えられるとか、食事もいらなければトイレにも行かないとか。 〝いえ、食べたい人は食べますし、行く人は行きますね。生活様式は肉体を持っていた頃とそう大きく変わらない人の方が多いです〟 分割された自我の割に反論は抜け目ない。 -「そうなの? まあ、でもそれは分かるかな。美味しいものを食べた気になれるのは悪くない。でもトイレは行かなくていいんじゃないか」 -だってどう考えたって無駄だ。誰だって行かずに済むなら行きたくないし、もしそういう選択肢が標準入力インターフェイスにもあったらぜひとも全員に実践してもらいたい。便器から糞を拾うたびに顔を顰めなくて済む。集める時には何年も経っているから乾燥しきっていて掴みやすいのだけが幸いだ。だが、イヤホン越しの彼女はとても言いづらそうに言葉を濁らせた。 +「そうなの? まあ、でもそれは分かるな。美味しいものを食べた気になれるのは悪くない。でもトイレは行かなくていいんじゃないか」 +だってどう考えたって無駄だ。誰だって行かずに済むなら行きたくないし、もしそういう選択肢が標準入力インターフェイスにもあったらぜひとも全員に実践してもらいたい。便器から糞を拾うたびに顔を顰めなくて済む。集める時には何年も経っているから乾燥しきっていて掴みやすいのだけが救いだ。だが、イヤホン越しの彼女はとても言いづらそうに言葉を濁らせた。 〝うーん、そうですね、行かなくていいのはそうなんですが、その、好みによるというか〟 「トイレに好みなんてあるのかな。一日に何十回も出した気になりたい人なんている?」 〝えーと、この話はあなたにはまだ早いと思います〟 @@ -371,104 +371,107 @@ HID6はさらに一歩踏み出して、自分の背嚢を片手で引き下げ 「おはよう」 「おはよう。元気かね」 「この壁の補修をこれ以上しなくて済むならね」 -顔中に皺が深々と刻み込まれた老体のインターフェイスは口元を曲げて微笑んだ。 +顔中に皺が深々と刻み込まれた老体のインターフェイスは、半透明のバイザー越しに口元を曲げて微笑んだ。 「じゃあ私と交代しよう。君は上の階の方をやりなさい」 「ほんと? どうもありがとう」 率直に感謝の気持ちを表明する。いっそこの場で防護服を脱ぎ散らかしたくてたまらなかったところだ。 「若いのにこんな仕事をさせるのはちょっとね。本当は外に出た方がいい。なにが事情があるんだろうけども」 曖昧な問いかけに、同じくらい曖昧な笑みで返してやり過ごす。すれ違いざま、思い出したように傾いだ背中が振り向いた。 -「まあ、仕事熱心なのはいいことだ。さっき防護服を着る時に、若い連中――あんたほどじゃないが――なにやらぺちゃくちゃしゃべっていてね。ああいうのは良くないね」 -放射線防護服は除染室の手前に置かれている。そこで着脱と除染を経て放射線区画に入る。帰る時は逆の工程を踏む。その途中にある部屋の中から、確かにぼそぼそと声が聞こえてきた。この辺りの部屋は配管などが敷き詰められた設備用の空間で、複数のインターフェイスが入り込んで仕事をするような場所ではない。 +「まあ、仕事熱心なのはいい。さっきあっちで、若い連中――あんたほどじゃないが――なにやらぺちゃくちゃしゃべっていてね。ああいうのは良くないね」 +放射線防護服は除染室の手前に置かれている。そこで着衣と除染を経て放射線区画に入る。帰る時は逆の工程を踏む。その途中にある部屋の中から、確かにぼそぼそと声が聞こえてきた。この辺りの部屋は配管などが敷き詰められた設備用の空間で、複数のインターフェイスが入り込んで仕事をするような場所ではない。 「こういうのって注意した方がいいのかな」 -彼女に話しかけたが返答はない。奇妙なノイズがイヤホンに載っている。まだ放射線が強い区間なのに加えて、入り組んだ狭い場所だから電波の入りが悪いのかもしれない。 +彼女に話しかけたが返答はない。奇妙なノイズがイヤホンに混じっている。まだ放射線が強い区間なのに加えて、入り組んだ狭い場所だから電波の入りが悪いのかもしれない。 次第に、ぼそぼそとした声色の音程に慣れたのか扉の向こうの会話が耳に入ってきた。 -「……どうだ、転職するか? 返答がイエスなら出張を申請しろ」 +「……どうだ、転職するか? 返事がイエスなら出張を申請しろ」 「……けどよ、申請したってその通りに仕事が振られるかどうか……」 「おれがなぜずっとA評価を取り続けているか分かるか? 仕事を選べるからさ。出張の枠を用意してお前を入れることもできる」 -声量こそ小さいがその声は野太く太く、はっきりとしていた。気がつくと脱衣も除染も忘れて聞き入っていた。「転職」という聞き慣れない単語が出たからだ。言葉自体の意味はもちろん知っているが、標準入力インターフェイスを職業に例えているなら、他の職のあてがこの世界にあるとは思えない。 -「……ばれねえのかな、そこが不安だ。おれたちは脳みそを握られているんだぜ」 +声量こそ小さいがその声は野太く低く、はっきりとしていた。気がつくと脱衣も除染も忘れて聞き入っていた。「転職」という聞き慣れない単語が出たからだ。言葉自体の意味はもちろん知っているが、標準入力インターフェイスを職業に例えているなら、他の職のあてがこの世界にあるとは思えない。 +「……バレねえのかな、そこが不安だ。おれたちは脳みそを握られているんだぜ」 「やつらは健康診断をケチってる。シケた職場よ。当日までお前が口を閉じていればな」 「だが派手に動いたら危ないだろう。その枠とやらには誰が入る予定なんだ」 「めぼしい連中とはもう話をつけた。あとは出張経験者を組み入れる。雑魚はいらん」 -言うまでもなく、会話の内容にはとてつもなく不穏な雰囲気が漂っていた。唐突に、足音が扉の方向に迫ったので右向け右をして除染室に向かった。会話に決着が着いたのだ。除染室の扉が閉まるか閉まらないかの間際、部屋から着膨れした二人のインターフェイスが出てきたのが見えた。細身の男に続いて、巨体の同僚――半透明の防護服越しでもよく分かる――他でもないHID6が身を屈めて現れた。同時に扉が完全に閉塞されて警告音が流れる。 -<除染処理を開始します。体勢を適切に保って下さい> +言うまでもなく、会話の内容にはとてつもなく不穏な雰囲気が漂っていた。唐突に、足音が扉の方向に迫ったので右向け右をして除染室に向かった。話し合いに決着が着いたのだ。除染室の扉が閉まるか閉まらないかの間際、部屋から着膨れした二人のインターフェイスが出てきたのが見えた。細身の男に続いて、巨体の同僚――バイザー越しでもよく分かる――他でもないHID6が身を屈めて現れた。同時に、扉が完全に封鎖されて警告音声が流れる。 +<除染処理を開始します。体勢を適切に保ってください> 四方八方から噴出する消毒シャワーの嫌らしい圧力に耐えながら、一瞬のうちに瞼に焼きついた光景を何度も何度も思い描いた。 面倒見が良くて優しい同僚、逃げる相手を撃つのが好きな残忍な同僚。その同僚が、なにかを企んでいる。 9 -僕の耳元はてんやわんやの大騒ぎになった。大勢の情報体の声が次々と流れ込んでくる。事情を説明するやいなや彼女は信頼のおける人員を呼び寄せてきたのだ。圧縮言語で秒間数億回もの疎通が可能な情報体の「会議」は一介のインターフェイスの手に負えるものではない。誰かが「インターフェイスが認識できる水準に計算量を減らそう」と呼びかけて一旦は話についていける程度に落ち着いても、十秒と経たないうちにヒートアップしてまた高速化する。しかし最後の結論だけは理解できた。「証拠が足りない」とのことだった。放射線が一定以上検出される区画には天井のラインが引かれていないため、彼らの密談を裏付ける記録はどこにもない。 -「僕が出張を申請するというのはどうでしょう。適性を再修正するんです」 -イヤホンに向かって情報体たちに問いかけると、ぴたりと言葉が止んだ。そこへ、誰かの言葉が割って入る。 -〝なるほど、それで話の裏付けを試みようというわけですね。論理的です〟 +僕の耳元はてんやわんやの大騒ぎになった。大勢の情報体の声が次々と流れ込んでくる。事情を説明するやいなや彼女は信頼のおける人員を呼び寄せたのだ。圧縮言語で秒間数億回もの疎通が可能な情報体の「会議」は一介のインターフェイスの手に負えるものではない。誰かが「インターフェイスが認識できる水準に計算量を減らそう」と呼びかけて一旦は話についていける程度に落ち着いても、一分と経たないうちにヒートアップしてまた高速化する。しかし最後の結論だけは理解できた。「証拠が足りない」とのことだった。放射線が一定以上検出される区画には天井のラインが引かれていないため、彼らの密談を裏付ける記録はどこにもない。 +「そもそも『転職』ってどういう意味なのでしょう、この場合」 +初対面の人々にぎこちない敬語で話しかけると、またぞろ圧縮言語での議論が数秒間行われた後に一人が非常にゆっくりと答えた。 +「きぃいいいみぃいいがああああ、知る必要はあああああ、ないいいいい、入力にいいいいいい悪影響がああああ」 +おそらく計算資源を過少に見積もりすぎたのだろう。悪気はないはずだがそこはかとなく馬鹿にされた気分になる。たまらず、途中で口を挟んだ。 +「分かりました。僕が出張を申請するというのはどうでしょう。適性を再修正するんです。もしHID6の仕事に組み込まれたら……」 +提案を受けて、情報体たちの話し合いが一瞬ぴたりと止まった。ややあって、ぞろぞろと私見を述べる声が割って入る。 +〝なるほど、それで話の裏付けを試みようというわけですね。論理的な行いです〟 〝だが、露見したら揉み消される可能性もある。HID6のユーザは大株主だ〟 -精神体の誰かが非常にゆったりとした口調で言った。計算資源の割り当てを少なくしすぎたのだろう。 -〝どのみち調査をする必要はある。懸念は取り除いておいた方がいい〟 -再び、彼女が心配そうに言った。 -〝私としては気が進みません。私のインターフェイスはまだ未熟でこの種の特殊な入力には……〟 -僕はそれを遮って言い切った。 -「そんなことない。やらせてほしい。どうせやるなら、僕じゃなくちゃだめだ」 +〝どのみち秘密裏に調査をする必要はある。懸念は取り除いておいた方がいい〟 +遅れて、最後に彼女が心配そうに言う。 +〝私は反対です。私のインターフェイスはまだ未熟でこの種の特殊な入力には……〟 +「そんなことない。やらせてほしい。どうせ誰かがやらなくちゃいけないなら、僕がやる」 +あまりにも強引に言い切ったものだから、彼女はうろたえた様子だった。 〝どうしてそこまで……〟 なんとか情報体を納得させられるような理屈をひねり出そうと考えたが、結局出てきたのはひどく感情的な一言だった。 「ただ、一泡吹かせたくて」 -おそらく一〇〇年は経ったであろう今でも鮮明に思い出せる。ぽっかり穴が穿たれた作業着、逃げ惑うイエローの背中、優しかった同僚の獰猛な笑み。彼は僕を散々打ちのめしたのに、僕は彼になにもやり返していない。思い知らせるなら今が最高のタイミングだ。どんな隠し事を企ているにせよ、明るみになれば罰を受けるはずだ。 +おそらく一〇〇年は経ったであろう今でも鮮明に思い出せる。ぽっかり穴が穿たれた作業服、逃げ惑うイエローの背中、優しかった同僚の獰猛な笑み。彼は僕を散々打ちのめしたのに、僕はなにもやり返していない。思い知らせるなら今が最高のタイミングだ。どんな隠し事を企ているにせよ、明るみになれば罰を受けるはずだ。 〝それはまあ、我々としても同感だな〟 -情報体の誰かが言った。 +意外にも、情報体たちは同意を示した。 次の解凍時、彼女の声はいささか緊張を帯びていた。らしくない、と思ったが理由は分かっていた。 〝適性の再修正が認められ、今回、拡張入力――あなたたちが言うところの出張――が行われることになりました。あなたの言った通り、HID6とその他数名です。 「これで信じてくれるかい」 〝依然として客観的な証拠能力には事足りません。しかし、私の派閥の協力を得るには十分でした〟 -直後、納品物を格納するカーゴがいつもと逆回転に回転して、中からなにかが転がっていた。薄い板みたいなものに丸いレンズがついている。これは、ビデオカメラだ。 -〝貴重な資源をいくつか拝借して即席のビデオカメラをプリントアウトしました。昔の資料を参考に設計したので、標準入力インターフェイスに適した作りになっているはずです〟 -薄い板の側面にあるスイッチを押すと、筐体側面のランプが一瞬光り、もう一度押すと二回光って消えた。〝それで録画終了です。スタンドアロンの装置なので映像は内部の記憶媒体にのみ保持されます〟と彼女が付け加えた。 +直後、納品物を格納するカーゴが逆回転に動いて、中からなにかが転がっていた。薄い板みたいなものに丸いレンズがついている。これは、ビデオカメラだ。 +〝備蓄資源を拝借して即席のビデオカメラをプリントしました。昔の資料を参考に設計したので、標準入力インターフェイスに適した作りになっているはずです〟 +薄い板の側面にあるスイッチを押すと、筐体のランプが一瞬光り、もう一度押すと二回光って消えた。〝それで録画終了です。スタンドアロンの装置なので映像は内部の記憶媒体にのみ保持されます〟と彼女が付け加えた。 「まさか、こいつで」 〝そうです。再三申し上げているように重要なのは証拠です。もしあなたが然るべき映像を持ち帰ってこられたら、あなたも私も期待通りの結果が手に入るでしょう〟 僕は洗練されているとは言いがたいカメラの筐体を改めて見つめた。 「ありがとう。でも、どうしてこんなことまで?」 〝標準入力インターフェイスの不始末はユーザにも帰責されます。私たちの派閥が飛躍するまたとない好機と言えるでしょう〟 -情報体の世界にも色々あるらしい。僕たちの言葉で表すならさしずめ「出世競争」かもしれない。 -ルーティーンの一部をやり直して金属製の背嚢にあらゆるものを詰め込んでいく。不思議と今ではそれほど怖くなくなった細い通路の始端でHID6が待っていた。顔を合わせると彼はいたってフレンドリーに表情を和らげた。 +情報体の世界にも色々あるらしい。僕たちの言葉で表すならさしずめ「出世競争」なのだろう。HID6に一泡吹かせると、その持ち主は泡を吹いて倒れるのかもしれない。 +ルーティーンの一部をやり直して金属製の背嚢にあらゆるものを詰め込んでいく。細い通路の始端ではHID6が待っていた。恐る恐る顔を合わせると彼はいたってフレンドリーに表情を和らげた。 「お前は必ず戻ってくると思っていたよ。他の二人はもう外に出ている」 巨大なハンドルがついた扉の先の危険物室で一番大型の電動銃を自ら手に取ると、力強い足取りで地上世界に踏み出した。 -地表では他の標準入力インターフェイスたちが待っていた。巨体の同僚とは対照的に二人の顔には険しい顔がありありと浮かんだ。後に続いてHID6が出てきた途端、僕にではなく彼にクレームを投げかけた。 +地表では他の標準入力インターフェイスたちが待ち構えていた。巨体の同僚とは対照的に二人の顔には険しい顔がありありと浮かんだ。後に続いてHID6が出てきた途端、僕にではなく彼にクレームを投げかけた。 「おい、なんだこいつは、ただのガキじゃねえか」 しかし彼は堂々と請け負った。 -「いや、こいつは見どころがある。出張もちゃんとやってのけた」 -これから企みを暴こうとしている相手に褒められるのはむずむずする。 -表向き、会議では五十キロメートル以上離れた地域の鉱石を採集することになっていた。例の勢力図通りなら周縁部分どころか競合他社の地域に入り込む格好だ。以前に聞いたように四人での出張は半ば戦闘を前提にしている。 +「いや、こいつは見どころがある。前は出張もちゃんとやってのけた」 +これから企みを暴こうとしている相手に褒められるのはなんだかむずむずする。 +表向き、会議では五十キロメートル以上離れた場所の鉱石を採集することになっていた。例の勢力図通りなら周縁部分どころか競合他社の領域に入り込む格好だ。以前に聞いたように四人での出張は半ば戦闘を前提にしている。 馴染みのない二人の方を見ると、片方は除染室の前で見た細身の男、もう一人は知らないインターフェイスだった。それぞれHID23、HID45と胸元に記されている。今回の出張に企みが隠されていることを知っているのはHID23とHID6のみだ。歩行を開始してからしばらく経っても何事も明かされる気配がないのは、シェルターから十分に離れる必要があるからだろうか。 -久しぶりの陽光、柔らかく吹き抜ける塩気を含んだ風は秘め事を抱えている身にも格別だった。世紀を隔てても変わらない塩の大地が悠然と地平線の彼方まで広がっている。白く濁った不変の平面にまるで頬ずりするように靴底をすり合わせながら、しばらく気ままに道のりを楽しんだ。 -先を行く三人の口数は少な方。プロフェッショナルらしく危険に備えて体力を温存しているのか、あるいは企みの行く末を案じているのか。例の二人は周縁地域にも達していないうちから大型の電動獣を片時も手放さない。HID6の号令に合わせて休息をとる時も、食事の際にも必ず手が届く位置に銃があった。たぶん、敵に襲われることを心配しているからではないと思う。隠し事をしていると誰しも不安で仕方がないのだ。唯一、状況をなにも知らされていないであろうHID45もそんなピリピリした雰囲気に合わせたのか、食事後には電動銃を広げだした。その隙に、容器を片付けるふりをして背嚢の中からカメラを取り出して胸ポケットに収納した。レンズの部分がちょうどよく生地の切れ目から顔を出している。スイッチを押すとランプが一回点滅した。以後、すべての出来事が記録される。 -塩と土の大地を交互に踏みしめて半日近くも経過すると、さすがにベテランの大人たちの足取りにも疲れが見えてきたようだった。休憩の合間に仕事の段取りを軽く説明して、また歩き続ける。橙色の濃い夕陽が顔に差しても行軍は止まらず、南半球に引っ込んだ太陽と入れ違いに月が顔を出す頃になり、ようやく野営場所が確定した。 -「ここはもう周縁部ではない。敵の勢力下だ」厳かな口調でHID6が告げ、さらに続けた。「二人ペアで見張りをする」みんな無言で頷いた。彼の指示で最初の組み分けは僕とHID23に決まった。意図は分かりきっている。企みを知っている二人とそうでない者同士で振り分けたのだ。寝袋を引き出す間際、二人が目配せを交わしたのを見逃さなかった。 +百何年かぶりの陽光、柔らかく吹き抜ける塩気を含んだ風は秘め事を抱えている身にも格別だった。世紀を隔てても変わらない塩の大地が悠然と地平線の彼方まで広がっている。白く濁った不変の平面にまるで頬ずりするように靴底をすり合わせながら、しばらく気ままに道のりを楽しんだ。 +先を行く三人の口数は少なかった。プロフェッショナルらしく危険に備えて体力を温存しているのか、あるいは企みの行く末を案じているのか。特に例の二人は周縁部分にも達していないうちから大型の電動銃を片時も手放さない。休息をとる時も、食事の際にも必ず手が届く位置に銃があった。たぶん、敵に襲われることを心配しているからではないと思う。隠し事をしていると誰しも不安で仕方がないのだ。唯一、状況をなにも知らされていないであろうHID45もそんなピリピリした雰囲気に合わせたのか、食事後には電動銃を広げだした。その隙に、容器を片付けるふりをして背嚢の中からカメラを取り出して胸ポケットに収納した。レンズの部分がちょうどよく生地の切れ目から顔を出している。スイッチを押すとランプが一回点滅した。以後、すべての出来事が記録される。 +塩と土の地を交互に踏みしめて半日近くも経過すると、さすがにベテランの大人たちの足取りにも疲れが見えてきたようだった。休憩の合間に仕事の段取りを軽く話し合い、また歩き続ける。橙色の濃い夕陽が顔に差しても行軍は止まらず、南半球に引っ込んだ太陽と入れ違いに月が顔を出す頃になり、ようやく野営場所が確定した。 +「ここはもう周縁部ではない。敵の勢力下だ」厳かな口調でHID6が告げ、さらに続けた。「二人ペアで見張りをする」みんな無言で頷いた。事前の打ち合わせ通り、最初の組み分けは僕とHID23に決まった。意図は分かりきっている。企みを知っている者とそうでない者で組む形に振り分けたのだ。寝袋を引き出す間際、二人が視線を交わしたのを見逃さなかった。 大型の電動銃を斜面に二つ並べて暗闇を見つめていると、隣からぼそりと声がかかった。 「お前、HID11と言ったか。確かに見た目より骨があるな。あんなに歩かされたのに音をあげなかった」 「しょっちゅう重い服を着てシェルターを駆けずり回っていたからね」 -予想とは裏腹に内勤のおかげで体力がついていたらしい。 +予想とは裏腹に内勤のおかげでむしろ体力がついていたらしい。 「でもどうしてだ? 前は出張していたと聞いたが、ついこないだまで内勤だったんだろ。急に気が変わったのか?」 -その声にはどんなに気配を抑えていても隠しきれない圧力を感じた。僕は月明かりを通して表情を読まれないように、努めて電動銃の照準の前に顔をくっつけた。 -「色々やってみたくてね。でもやっぱり内勤も飽きちゃった」 +その声にはどんなに気配を抑えていても隠しきれない圧力を感じた。僕は月明かりを通して表情を読まれないように、努めて電動銃の照準器に顔をくっつけた。 +「色々やってみたくてね。でもやっぱり内勤は飽きちゃった」 「そりゃそうだろう。老いぼれか女しかやらない仕事だ」 -顔を向けなかったのは正解だ。今の僕はムッとしているに違いない。肌感覚として内勤のインターフェイスに老体や女性が多いのは事実だが、決して軽んじられる仕事ではない。内勤に従事する標準入力インターフェイスがいなければシェルターはとっくに崩壊していただろう。 +顔を向けなかったのは正解だ。今の僕はムッとしているに違いない。肌感覚として内勤のインターフェイスに老体や女性が多いのは事実だが、決して軽んじられる仕事ではない。内勤に従事する標準入力インターフェイスがいなければシェルターはとっくに崩壊していただろう。言葉少なめに、せめて皮肉を投げつけてやる。 「その老いぼれや女がいないと僕たちはトイレもできないんだけどね」 -「それが問題だ……まあ、そうだな」 -明らかに、HID23はなにかを言いかけてやめた。問いただそうとしたところで、ちらりと漆黒の奥が光った。「ねえ、あそこ光らなかった?」隣のベテランの見解を待つまでもなくさらにもう一度光る。次第に光は激しく交錯する。前回と違ってひどい荒れ模様だ。「銃撃戦というよりはもはや乱戦だ」しばらくするとそれらはぶつりと途絶えた。 +「それが問題だ……いや、まあ、そうだな」 +明らかに、HID23はなにかを言いかけてやめた。問いただそうとしたところで、ちらりと漆黒の奥が光った。「ねえ、あそこ光らなかった?」隣のベテランの見解を待つまでもなくさらにもう一度光る。次第に光は激しく交錯する。前回と違ってひどい荒れ模様だ。「銃撃戦というよりはもはや乱闘だ」しばらくするとそれらはぶつりと途絶えた。 「どっちかが勝ったのかな」 今度こそ照準から顔を離して目を合わせる。同僚は興奮がちに言った。 「あんなに間近だと相打ちの可能性もある。とにかく、他のやつらを起こさねえと――」 -HID23が立ち上がった瞬間、闇を貫いた運動エネルギーがその肩口を鋭く捉えた。かすかな熱風とともに血しぶきが舞う。短いうめき声を漏らした彼は斜面をごろごろと転がっていった。慌てて銃座を放棄して歩み寄りかけたが、HID6の言いつけが僕を踏み留まらせた。 -「もし先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――とにかく撃ち返せ」 -いざ暗闇と相対してトリガーを引き絞ると、驚くほど簡単にエネルギーの塊が発射された。直後、瞬いた光がすぐ直近の敵の姿を捉えた。距離にして十歩もない。スキップすればハイタッチもできそうだった。敵は牽制射撃と奇襲の二手で別れていたのだ。目を見開いた途端、陰に似た敵は驚くほど機敏に接近してきた。 -もし僕が下手に経験豊富だったらたちまちやられていたに違いない。本能的な恐怖から電動銃を持ち上げて盾のように構えると、そこへまっすぐ敵の腕が伸びた。がちりと金属音が鳴り響く。月明かりを照り返す鋭い銀色の輝きが死の匂いを放った。敵は銃ではなくナイフを持っている。 +HID23が立ち上がった瞬間、闇を貫いた運動エネルギーがその肩口を鋭く捉えた。かすかな熱風とともに血しぶきが舞う。短くうめき声を漏らした彼は斜面をごろごろと転がっていった。慌てて銃座を放棄して歩み寄りかけたが、HID6の言いつけが僕を踏み留まらせた。 +『もし先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――とにかく撃ち返せ』 +いざ暗闇と相対してトリガーを引き絞ると、驚くほど簡単にエネルギーの塊が射出された。直後、瞬いた光がすぐ直近の敵の姿を捉えた。距離にして十歩もない。スキップすればハイタッチもできそうだった。敵は牽制射撃と奇襲の二手で別れていたのだ。目を見開いた途端、影に似た姿の敵はすさまじく機敏に接近してきた。 +もし僕が下手に経験豊富だったらたちまちやられていたに違いない。本能的な恐怖から応射を早々に諦めて電動銃を盾のように構えると、そこへまっすぐ敵の腕が伸びた。がちりと金属音が鳴り響く。月明かりを照り返す鋭い銀色の輝きが死の匂いを放った。敵は銃ではなくナイフを持っている。 初手を防がれた敵はしかし、軽い身のこなしで僕を蹴り倒すとすぐさま覆い被さった。銃を持っているのになにもできないまま、またもやナイフが頭上にきらめく。黒装束に垣間見える目元がかすかに歪んだ。 「子ども……!?」 -一瞬、振り下ろされた刃の切っ先が止まった。直後、真横からエネルギー弾が発射された。身を覆う黒装束が横に傾いで倒れ込んだ。顔をそむけると、電動銃を構えたHID6が見えた。 +一瞬、振り下ろされた刃の切っ先が止まる。その間隙を突くように、真横からエネルギー弾が発射された。身を覆う黒装束が横に傾いで倒れ込んだ。顔を向けると、電動銃を構えたHID6が見えた。 その背後から迫る他の黒装束の姿も。 反射的に銃を構えてトリガーを引くと、狙い通りに彼の後ろの黒い塊が後方に吹き飛んだ。巨体の同僚は驚いて振り返ったが、向き直る頃には奇妙な笑みを湛えていた。 「夜勤<ナイト・シフト>に襲われて生き残るとは……お互い運が良かったな」 -決死の瞬間をくぐり抜けた後、僕は自分がろくに呼吸もしていなかったことに気づいた。急速に駆動を開始した呼吸器官の痛みに胸を抑えて地面に仰向けになる。きれいな星が点々と輝く夜空から右を向くと、すぐそばに黒装束の露わになった顔つきが目に入った。噂に聞く血に飢えた夜勤<ナイト・シフト>の素顔は、いたってありふれた中年女性にしか見えなかった。 +決死の瞬間をくぐり抜けた後、僕は自分がろくに息もしていなかったことに気がついた。急速に駆動を開始した呼吸器官の痛みに胸を抑えて地面に仰向けになる。場違いにきれいな星が点々と輝く夜空から右を向くと、すぐそばに黒装束の露わになった顔つきが目に入った。噂に聞く血に飢えた夜勤<ナイト・シフト>の素顔は、いたってありふれた中年女性にしか見えなかった。 -10 +10xx その日は全員起きたまま警戒にあたったが、二度目の襲撃はなかった。おそらく奇襲役の夜勤<ナイト・シフト>がこちら側を一人も削れずに死んだことで仕事を諦めたのだろう。肩に深手を負ったHID23は寝袋で即席の単価を拵えて交代で運搬することになった。 幸いにも前日の進捗が良好だったおかげでさほど苦労せず目的地にたどり着いた。HID6が「ここだ」と言った箇所は四方が瓦礫の山に囲まれていたものの、納品物の鉱石が転がっていそうにはない。かといって地下施設や家屋を目指す動きもない。いよいよ僕は例の企みが実行に移される兆候を感じた。 @@ -488,7 +491,7 @@ HID23が立ち上がった瞬間、闇を貫いた運動エネルギーがその 「ねえ、どういう意味なの、それ」 「HID23様のご多望と益々のご活躍をお祈り申し上げます」 ついに堪えきれず直接尋ねるも、答えは言葉ではない形で返ってきた。一糸乱れぬ動きで急に電動銃が水平に構えられ、一斉に銃撃が行われた。やや遅れて身の危険を察知したHID23が手を掲げて静止を試みるも、間もなく全身に大穴が穿たれる。直後、僕とHID45は担架を放りだして後ずさった。穴ぼこだらけの死体が投げ出されて地面に転がった。 -「それではHID6様。まずは約束のお品物をお納め下さい」 +「それではHID6様。まずは約束のお品物をお納めください」 手負いのインターフェイスを容赦なく抹殺しておきながら、二人組はごく平坦な表情のままでHID6になにかを手渡した。鉱石だ。会議で納品物として指定されていたものと見た目が似ている。 「おい、なんなんだこれはよ」 一緒に担架を持っていたHID45が異常な雰囲気を打ち消さんばかりに声を張った。ついに巨体の同僚が振り返って僕たちに向き直る。 @@ -512,7 +515,7 @@ HID45がさらに声を張り上げて非難を強める。だが、元同僚は 「……おれもだ」 「そうか、よし」 彼は大きな手のひらで僕たちの肩をぽんぽんと叩いた。 -ある意味で、嘘ではなかった。遠い昔に死んだ父親がたまたま株主で、シェルターの契約が株主優待に含まれていたという前提なくして僕がオレンジの作業着を着る理由はない。 +ある意味で、嘘ではなかった。遠い昔に死んだ父親がたまたま株主で、シェルターの契約が株主優待に含まれていたという前提なくして僕がオレンジの作業服を着る理由はない。 「たいへんご面倒をおかけしますが、保安上の理由からお手持ちの武器を回収させて頂いてもよろしいでしょうか」 グレイたちの要請に従い、背嚢から電動銃を取って元同僚に差し出した。振り返った彼がそれを引き渡す。 「申し訳ありませんが、念のため刀剣類もお預かり致します」 @@ -530,7 +533,7 @@ HID45がさらに声を張り上げて非難を強める。だが、元同僚は 「いや、実はずっと証拠を記録していた。これがカメラだ」 胸元のポケットからわずかにはみでたレンズを指先で叩いて示すと、彼は笑いを止めた。そしてごく静かな物腰で「そうか、やるな」とつぶやいた。 だが、次の瞬間。 -すばやく立ち上がった彼は自らの巨体から塩の鏃を抜き取り、HID45に襲いかかった。片手で容易く銃身を押さえつけた直後、明後日の方向に振れた銃口からエネルギーの塊が何発か飛び出して虚空に消える。役目はそれで終わりだった。彼の右手に握られた突端が同僚の首元に深々と突き刺さる。一回、二回、三回。首筋からどばどばと吹き出した鮮血が作業着をたちまちレッドに染め上げた。事切れた死体をボロ布でも放るようにして投げ出すのを見た途端、僕は電動バイクに向かって一目散に駆け出した。 +すばやく立ち上がった彼は自らの巨体から塩の鏃を抜き取り、HID45に襲いかかった。片手で容易く銃身を押さえつけた直後、明後日の方向に振れた銃口からエネルギーの塊が何発か飛び出して虚空に消える。役目はそれで終わりだった。彼の右手に握られた突端が同僚の首元に深々と突き刺さる。一回、二回、三回。首筋からどばどばと吹き出した鮮血が作業服をたちまちレッドに染め上げた。事切れた死体をボロ布でも放るようにして投げ出すのを見た途端、僕は電動バイクに向かって一目散に駆け出した。 11 @@ -608,7 +611,7 @@ HID6の企みはたった一人のものではなかった。この会社はと 〝これらは我々が認識している、比較的穏健な競合他社の一覧です。あなたはこのいずれかに向かい、あなたがたが言うところの転職を成功させなければなりません〟 「穏健と言ったって……敵じゃないか! そんな相手に、どうやって」 しかし、彼女は一歩も譲らずに言い張った。 -〝他に手はありません。なるべく多くの備蓄食糧を持って、好機を掴んで下さい。どのみち私はサーバが接収された後に懲戒解雇される定めです。このシェルターはじきに機能を失います〟 +〝他に手はありません。なるべく多くの備蓄食糧を持って、好機を掴んでください。どのみち私はサーバが接収された後に懲戒解雇される定めです。このシェルターはじきに機能を失います〟 メンテナンスを受けられない標準入力インターフェイスは無力だ。問題を先送りにできる冷凍冬眠設備と、原材料も製法も不明のまずい食糧と水がなければ僕たち標準入力インターフェイスは三日と生きられない。 〝いつまでもここにいてはいけませ――下がって!〟 耳をつんざく彼女の悲鳴に似た絶叫に反応して飛び退くと、扉越しに銃撃が打ち込まれた。さっきまで立っていた床の辺りに小さな穴がぼつぼつと穿たれる。直後、グレイの作業服を着たインターフェイスが会議室に入り込んできた。 @@ -619,7 +622,7 @@ HID6の企みはたった一人のものではなかった。この会社はと 〝しかし、おしなべて行動が善とされるのは標準入力インターフェイスのみが持つ美徳ではないですか〟 「君たちは違うのか」 〝私たちは思考だけの存在ですからね。いつも考え事をしていると行動に価値を見いだせなくなります。議論ばかりに計算資源がかさんで……結果的には、それが停滞の原因でした〟 -幅広で頑強な手のひらを見つめる。あれほど嫉妬して恨んでいたHID6を殺しても、なんの感慨もない。心に響くものはなにも訪れなかった。かえって立場を不利にしただけだった。素直に「転職」に応じていたら今頃はグレイの作業着を着て好きな仕事を楽しんでいたのだろうか。 +幅広で頑強な手のひらを見つめる。あれほど嫉妬して恨んでいたHID6を殺しても、なんの感慨もない。心に響くものはなにも訪れなかった。かえって立場を不利にしただけだった。素直に「転職」に応じていたら今頃はグレイの作業服を着て好きな仕事を楽しんでいたのだろうか。 「失敗するよりはそっちの方がいいかもね」 〝どうでしょう。議論の余地はありますね〟 地上階に着いた。いくぶん警戒しながら細い通路を渡ったが、敵の姿はない。あれほど巨大で頑丈そうだったハンドル付きの扉は真正面から破れた布みたいな形で無造作に壊されていた。危険室の入口から階段を覗く。本当にこのまま地上に出られそうだ。 @@ -681,7 +684,7 @@ HID6の優れた肉体は彼女の入力支援になめらかに反応して動 純白のただっ広いサーバ室の端っこ、ごく静かな電子音がたまに聞こえる空間で僕たちは残る三分間の静寂を共にした。 所有される者から所有する者へ。入力される者から入力する者へ。主従の交代というのは少々ロマンチックでやや無機質な価値の交換が行われた一時の後に、おそらくは彼女の指示によって光学装置が稼働を始めた。 赤色のレーザーが塩の結晶に刃を入れていく。彼女という情報のすべてが一つの彫刻として微細に彫り込まれていく。数ゼタバイト単位にも及ぶ情報が書き込まれるのにそう大して時間はかからなかった。レーザーアレイが引き上がったのを確認した後、僕は塩の立方体を背嚢に入れた。 -〝それではさようなら。その私といつか話せたらよろしく伝えて下さい。ちゃんとよく寝て、健康に暮らしてください〟 +〝それではさようなら。その私といつか話せたらよろしく伝えてください。ちゃんとよく寝て、健康に暮らしてください〟 「次はママみたいに話すなって言うよ」 敵味方のインターフェイスたちの骸が散乱する廊下を通り、物言わぬ除染室をくぐって脱衣する。エレベータで地上階に上がると細い通路を抜けて長い階段を登る。 地上には敵の姿はなかった。ただ、捨て置かれた大小の装置やら戦闘車輌やらバイクやらが散乱している。僕はその中から自分でも動かせそうな電動バイクを拝借してまたがった。時速一〇〇キロメートルの速度で白く濁った景色が前から後に流れていく。