From 4f8e758897945f43bd21fcaff35fa9b293d1be37 Mon Sep 17 00:00:00 2001 From: Rikuoh Date: Sun, 13 Oct 2024 11:25:29 +0900 Subject: [PATCH] =?UTF-8?q?=E3=82=BB=E3=83=AB=E3=83=95=E6=A0=A1=E6=AD=A3?= =?UTF-8?q?=EF=BC=884=E5=9B=9E=E7=9B=AE=EF=BC=89?= MIME-Version: 1.0 Content-Type: text/plain; charset=UTF-8 Content-Transfer-Encoding: 8bit --- 基本入力インターフェイス.txt | 160 ++++++++++++++++++----------------- 1 file changed, 83 insertions(+), 77 deletions(-) diff --git a/基本入力インターフェイス.txt b/基本入力インターフェイス.txt index c28f05b..77d4e2c 100644 --- a/基本入力インターフェイス.txt +++ b/基本入力インターフェイス.txt @@ -8,7 +8,7 @@  高く昇った太陽が傾いで地平線の向こう側に隠れはじめた頃、僕の衝動はすっかり満たされて手元にはなんとも形容しがたい物体が残る。勤務査定を考えるとそろそろ帰社しなければならない時間だ。現に目的地の方角が同じだったらしい同僚が一人、塩の地面をのしのしと歩いてやってきた。 「またやっているのか、飽きないもんだな」 「早く帰ってもどうせ寝るだけだからね」 - 『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、盛り上がった肉体を駆使して呆れた様子を表現する。体格に優れる彼に与えられる仕事はいかにも大変そうで、背嚢は特別に大きく固い金属でできている。手には大型の電動銃。僕たちは常に武器の携行を命じられているが、邪魔な瓦礫や岩などを砕くにはもっと小さいものでも事足りる。 + 『HID6』と右胸に印字された作業服を着た同僚が、隆々とした肩をすくめて呆れた様子を表現する。体格に優れる彼に与えられる仕事はいかにも大変そうで、背嚢は特別に大きく固い金属でできている。手には大型の電動銃。僕たちは常に武器の携行を命じられているが、邪魔な瓦礫や岩などを砕くにはもっと小さいものでも事足りる。 「そんなに大きいのなんて使い道あるの」  HID6は顔を傾けて意味ありげに笑った。 「使おうと思えばな」 @@ -16,7 +16,7 @@ 「今日はどこまで行ってきたんだ」  塩の平面上にうっすらと浮かぶ対岸を指差す。 「あの辺りまで。片道二時間くらいかな」 -「そうか。土いじり専門だったなお前は」 +「そうか。|土いじり|専門だったなお前は」  おそらく悪気はないにせよ、どことなく軽んじられた気配がしたので声を強めて反論する。 「地質調査だよ。土いじりなんかじゃない。センサじゃ分からないようなことだって分かるんだ。見て確かめないと花崗岩と閃緑岩の見分けだってつかない」 「悪かったよ。だめだとは言ってねえ。ところで、そいつはなんだ?」 @@ -26,7 +26,7 @@ 「悪かったって」  とはいえ、彼は彼で時間が迫っていたらしい。こちらの冷淡な態度にもおおらかな態度でのそりと立ち上がって語りかける。 「まあ、色々やってみるのはいいことだ。若いうちはどんな可能性もある」 - 手を振って去っていく同僚の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。もう一度、夕陽の強い光に照らされた固形の海面を眺める。きれいさっぱり片付けられてがらんどうになった文明の残り香を嗅ぐ。 + 手を振って去っていく同僚の姿が見えなくなってから、僕も造形した塩の塊を背嚢にしまって立ち上がった。もう一度、夕陽の強い光に照らされた固形の海面を眺める。深呼吸。きれいさっぱり片付けられてがらんどうになった文明の残り香を吸い込む。  こんな暮らしにも可能性とやらがあるといいけど。  徒歩にして約三〇分の地点に着くと、どこかに露出しているのであろう地上のセンサが反応して石畳がめくれ上がった。現れた長い下り階段を降りていき、重くて固そうな扉に突き当たる。少し待つと勝手に開く。  後は流れ作業だ。すれ違うにも困難な細い通路を渡り、規定の手続きに従って「納品物」を提出する。集めてきた鉱石をカーゴに入れると、奥に回転して壁の向こう側にしまい込まれる。 @@ -50,10 +50,10 @@  情報化はあくまで一時的な措置に過ぎないと聞かされていた。すべてが解決したら精神を肉体に戻し、再び地上に羽ばたくのだと。だが、僕が〝HID11〟なる名称を賜った際に知らされた新事実は以下の通りだった。  一つ、未曾有の気象災害から数百年余りの年月が経ったが、情報体を人間の頭脳に再転写する技術は開発できそうにないこと。  二つ、その一方で地表の気候は哺乳類が活動可能な程度に温暖化していること。 - 三つ、よって今後は冷凍保存された肉体を都度解凍し、持ち主である情報体の人間がインターフェイスとして活用すること。 + 三つ、よって今後は冷凍保存された肉体を都度解凍し、所有権を持つ情報体の人間がインターフェイスとして活用すること。  確かに、使えるものは使わなければならない。もともと僕たちの後頭部には脳みそを取り出しやすくするためのネジ穴が設けられているし、脊髄と脳の電気的接点はモジュール化されている。これは情報体に移行する際の外科的な手続きであり、同時に保存条件の異なる肉体と脳を分離するための方法だったが、くしくも冷凍と解凍の効率化に一躍買ったというわけだ。  自分の処遇に納得しているかと問われれば複雑だ。計画通りに進んでいればそもそも「脳みその方に残った僕」という自我は存在しえなかった。「情報体の僕」の精神に上書きされて消滅していたはずだ。あるいは、情報体たちが地上の調査よりも肉体のランニングコストを倦んで一切合切放棄していたら、やはり今の自分はない。 - いわば僕たちは、一旦真っ二つに引き裂かれて子宮から取り出されたのに、再度繋ぎ合わせてお腹に詰め直されたような存在なのだ。予定外の必要性からやむをえず産み落とされた。 + いわば僕たち基本入力インターフェイスは、一旦真っ二つに引き裂かれて子宮から取り出されたのに、再度繋ぎ合わせてお腹に詰め直されたような存在なのだ。予定外の必要性からやむをえず産み落とされた。  一方で、だからと言って恩に着るのもおかしい。誰も自我を復活させてくれなどと頼んだ覚えはない。情報化される際にもそんな説明は受けていない。何百年も生きていれば気持ちが変わるのかもしれないが、情報体の僕は枝分かれして遠い先に行ってしまった別人であって、同じように物事を考えるのは難しい。  かといって、自殺する気にもなれない。今の暮らしにもそれなりの楽しみはある。仕事をしてさえいればこうして生きていられる。なんだかんだで釣り合いが取れてしまっているのだ。ゆえに僕はそれなりに機能的な基本入力インターフェイスなのだった。  今日もまたチェンバー殻の中で目が覚めた。殻の湾曲した表面に定型句が浮かぶ。 @@ -62,7 +62,7 @@  作業服と背嚢はチェンバー室の隣の更衣室、食糧は直進して突き当りを左の培養プラント室にある。パイプの排出口から出てくる吐瀉物に似た食べ物は相変わらずなにでできているのか分からない。味や食感についての感想は差し控えたい。飲み水も前回より黒ずんでいた。  食事が済むと用を足したくなる。溜まっていた便が腸内蠕動の再開によって押し出されたのだろう。部屋を出て奥のトイレに向かう。途中、ひび割れた壁面を修理している顔馴染みの同僚と出くわした。「おはよう」と挨拶をすると「ああ、おはよう」と気さくに返事をしてくれる。「今から出勤か?」「うん」「地上の仕事は大変そうだな」「僕はそうでもないよ」  僕たちは僕たちで情報体の人々とは異なる言い回しを好んだ。いきなり人間ではないと言われてもなかなか受け入れられはしない。「同僚」だとか「出勤」といった一連の単語は、かつて地上世界で暮らしていた頃の名残りで、誰かがふと使った言葉が急速に普及した。他にも色々あるらしい。「最近は勤務査定が厳しくて困るね」見るからに老け込んだ風体の彼は、この短い会話の合間にも折れ曲がった腰を何度もさすっていた。 - 基本入力インターフェイスに与えられる「仕事」は適性によって大きく異なる。高齢だったり、体力がなかったり、なんらかの障害を持っている場合には、地上ではなくシェルター内の「内勤」に割り振られることが多い。他方、僕は知識と身軽さが買われたのか土や鉱石を集める仕事に就いている。 + 基本入力インターフェイスに与えられる「仕事」は適性によって大きく異なる。高齢だったり、体力がなかったり、なんらかの障害を持っている場合には、地上ではなくシェルター内の「内勤」に割り振られることが多い。僕は知識と身軽さが買われたのか土や鉱石を集める仕事に就いている。  トイレの便器は六つあるが、大半は壊れている。運が悪いと便器の中に乾燥した糞が積もっていたりもする。ここはかなり前から水が流れない。いつまでも直らない様子を鑑みるに、どう頑張っても修理しきれない箇所なのだろう。内勤の誰かが糞を片付けるまではずっとこのままだ。だから僕は、内勤のインターフェイスのことを本音ではよく思っていない。さっきのお年寄りは違うと信じたいけど、サボっている人がいるのかもしれない。  ルーティーンの最終段階。来るたびにひび割れが増えている廊下を歩き、天井のラインからモノクロスクリーンが投影される特別な部屋で「会議」を行う。耳に支給のイヤホンを装着すると声が聞こえてくる――僕をインターフェイスとして扱う〝ユーザ〟――他ならぬ、数百年前に枝分かれした情報体の僕だ。 〝おはようございます。前回の切断から二三年と九ヶ月、一五日と一二時間が経過しました。体調はいかがですか〟 @@ -81,11 +81,11 @@  時折、見え隠れする上下関係とは裏腹に、彼女と話すのは楽しい。が、やはり奇妙にも感じる。もし僕が地上世界で生き続けていたらこうなっていたのか、とか、肉体を持たない精神のみの存在だから普通に歳をとるのとは勝手が違うんじゃないか、とか、あまり考えないような想像をする。とはいえ、どのみち彼女ほど長く生きることはできない。今こうして同じ時間を共にしていても僕はせいぜい一四歳プラス解凍中の日数なのに対して、彼女は五〇〇歳を超えている。 「そっちは楽そうだよね。こういう面倒がないから」 〝そうでもありませんよ。考え事ばかりしている人たちなので、それはそれで気苦労があります〟 - 肉体を持たない生活というのがどんなものなのか未だに理解できない。僕たちが何年かかっても行けないどんな場所にも一瞬で行けて、当時のもっとも美しい状態の建築物や風景を楽しめる。あらゆる知覚は決して衰えず無尽蔵に供給されて、疲労も不足もない。 + 肉体を持たない生活というのがどんなものなのか未だに理解できない。僕たちが何年かかってもたどり着けないどんな場所にも一瞬で行けて、当時のもっとも美しい状態の建築物や風景を楽しめる。あらゆる知覚は決して衰えず無尽蔵に供給されて、疲労も不足もない。  そんな楽園じみた暮らしをしているのに、現実の地上世界には未練があると言う。 〝では、さっそく入力の指示に移りましょう〟  イヤホンから女性の声が一旦途切れると、天井のラインの点滅に合わせてモノクロスクリーンに線が引かれはじめた。シェルターを中心とした点から方角とおおよその距離が示され、目的の納品物に関する文字列も並ぶ。いつもより遠い道のりだが、うまくやれば今回も塩の塊を彫る時間くらいは余りそうだ。 -〝常々言っていることですが、食事と水分補給を万全に済ませてくださいね。外気温は一〇度前後と基本入力インターフェイスに好適ですが、なるべく直射日光には気をつけましょう。あなたは貴重な資源です〟 +〝常々言っていることですが、食事と水分補給を万全に済ませてくださいね。外気温は一五度前後と基本入力インターフェイスに好適ですが、なるべく直射日光には気をつけましょう。あなたは大切な資源です〟 「はいはい、分かったよ。ところでこれ、なにに見える?」  余計な世話焼きを遮り、背嚢から彫刻をお披露目した。天井のラインが不規則に点滅する。 〝……なんの変哲もない塩の塊に見えますね〟 @@ -94,7 +94,7 @@  ほどなくして「会議」が終わると彼女は〝接続完了〟を通告した。エレベータに乗って最上層に移動する。細長い通路の終端には、暗闇の上の上まで伸びる巨大な扉のハンドル部分が見える。あたかも巨人用に設えられたそれは情報体の操作によってしか開かない。通路の左右にも深い漆黒が広がっており、何十回と行き交っていても手すりを掴む両手の力を緩められそうにはない。  けたたましくブザー音が鳴り響いてハンドルがゆっくりと回転する。扉の周りの警告灯が鋭く光を放つも、たちまち周囲の闇へと吸い込まれていく。  やがてブザー音は大げさな歯車の稼働音に取って代わり、シェルターの扉が地鳴りに似た振動を伴って持ち上げられる。揺さぶられて落ちてしまわないか怖くて手にますます力が入る。 - たっぷり何分もかけて扉が開放されると、もう一つの小さな扉が現れる。そこだけ切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には「危険物」とラベルが貼られた小部屋がある。一列に立てかけられた電動銃から小さいものを手に取り、ひたすら長い階段を登る。 + たっぷり何分もかけて扉が開放されると、もう一つの小さな扉が現れる。そこだけ切り取ればマンションの一室に繋がるドアに見えなくもない。その先には「危険物」と名前が彫られた小部屋がある。一列に立てかけられた電動銃から小さいものを手に取り、ひたすら長い階段を登る。  イヤホンから途切れがちに彼女の声が聞こえた。 〝最終確認をしましょう。外では私の声は聞こえませんからね。ちゃんと背嚢を持ちましたか? 必要なものは揃っていますか? 汎用的ソリューションを携帯していますか?〟 「分かったって」 @@ -110,9 +110,9 @@  世界が終わる、たぶん何日か、何週間か前。僕はパパとママに連れられてシェルターにやってきた。二人とも途中でなにが起こってもおかしくないと用心に用心を重ねていたが、幸いにも暴徒や銃弾は僕たちの車には向かわず全員とも無事だった。しかし、家族全員のチェンバー殻があると期待していた僕たちに対して会社が提示したのは、情報体に移行可能なのは株主当人のみ、つまりパパ一人だけという動かぬ事実だった。  パパとママは一回か二回、互いに目配せをした……それは記憶に残っている。その後、僕は有無を言わさずチェンバー殻に押し込められ、長い長い眠りの中に閉じ込められた。もちろん、そう思っているのはこの僕であって、情報化した彼女の方は一部始終を知っている。後で聞かされた話によると、二人はその場で死を選んだ。死ぬことによって持ち株を彼女に相続させ、情報体として生き続ける権利をも移譲したのである。絵に描いたような感動ストーリーだ。泣いてくれる全米はもうないけど。  だが、そんな愛すべき両親とて、数百年後に息子の自我が増えて片方が娘になっているとは思わないだろう。もし二人が生き返ったら、自分の子どもだと見なすのは僕の方だ。なんせあの時から見た目も中身もほとんど変わっていない。でも、法的には彼女に正当な権利が認められるらしい。元の脳みその方に生きた精神が残っているケースは想定されていないはずだが、どのみち裁判所はとっくに消滅してしまっている。 - 太陽が頭上を通り過ぎて傾きかけた頃、ようやく乳白色ではない色の地面に足が届いた。かつて、この辺りには建造物が特に多かった。石造りの建物は数百年経っても簡単には風化せず、条件次第では地下に資源を蓄えている場合がある。崩れた家屋らしき外壁と周囲の状況から、それと見込んだ地点の瓦礫の塊に向けて電動銃を撃ち放つ。射撃と同時にひっくり返りそうになったが、狙い通りに遮蔽物が一掃されてマンホールが現れた。蓋を開けた先には簡素なはしごも見える。 + 太陽が頭上を通り過ぎて傾きかけた頃、ようやく乳白色ではない色の地面に足が届いた。かつて、この辺りには建造物が特に多かった。石造りの建物は数百年経っても簡単には風化せず、条件次第では地下に資源を蓄えている場合がある。崩れた家屋らしき外壁と周囲の状況から、それと見込んだ地点の瓦礫に向けて電動銃を撃ち放つ。射撃と同時にひっくり返りそうになったが、狙い通りに遮蔽物が一掃されてマンホールが現れた。蓋を開けた先には簡素なはしごも見える。  距離はさほどでもないのに下まで降りるのにはずいぶん手間がかかった。電動銃のライトを前方に照らすと、朽ちた棚が左右に並ぶ保管庫らしき空間が浮かんだ。一見しっかりしていそうでも、国家や大組織が作るほど立派な代物ではない。金持ちで心配性の人が趣味で拵えた設備かもしれない。棚からこぼれ落ちたいかめしい火薬銃器の数々は、どれもひしゃげていたり錆びついていたりしていた。 - 目的の資源はここではなく鉄扉で隔たれた奥にあった。鉛の容器の中に収められていた「納品物」は会議通りなら劣化ウラン弾ということになる。他のインターフェイスが仕事中に見つけて隠しておいた代物だ。しかし弾丸としては使いものにならないらしい。スクリーンには内部に含まれているウラン238が目当てだと記されていた。さっそく、銃を脇に置いて容器から持てる分の劣化ウラン弾を包みごと慎重に取り出していく。 + 目的の資源はここではなく鉄扉で隔たれた奥にあった。鉛の容器の中に収められていた「納品物」は会議通りなら劣化ウラン弾ということになる。他のインターフェイスが仕事中に見つけて隠しておいた代物だ。しかし弾丸としては使いものにならない。スクリーンには内部に含まれているウラン238が目当てだと記されていた。さっそく、銃を脇に置いて容器から持てる分の劣化ウラン弾を包みごと慎重に取り出していく。 「おい」  背嚢を埋め尽くすのに十分な量を収めたところで、背後から声がかかった。作業に集中するあまり耳が遠くなっていたのかもしれない。振り返ると胸に『HID39』と印字された基本入力インターフェイスが立っていた。どういうわけか作業服の色が違う。僕たちはみんなオレンジの服を着ているのに、彼はブルーだ。 「あ、もしかして君もこれを集めにきたの?」 @@ -121,7 +121,7 @@ 「すべて? そこにある量では足りない?」 「ああ、お前が背嚢に入れた分も含めて、全部だ。とっととよこせ」  HID6ほどではないにせよ、自分よりずっと背が高くがっしりした身体が一歩前に迫った。 - ここへきて僕は自分が脅されているのだと悟った。なるべく顔に不満を表さずにじりじりと後ずさる。 + ここへきて僕は自分が脅されているのだと悟った。なるべく顔に不満を表さずに後ずさる。 「えーと、それは、その、勘弁してほしいな。こっちも同じ仕事で来ているんだ」 「おれの知ったことじゃない。規定量を納品できなければ勤務査定に影響が出る」  相手がさらに一歩踏み出したので、僕もまた後ろに下がる。声はもう震えだしていた。 @@ -152,14 +152,14 @@ 「これは……」 〝勢力図です。私たちの、我が社のものと、競合他社のです〟  よく見ると下の方に僕たちのシェルターを中心とする領域もあった。他社と比べると面積が若干狭い。 - このシェルターが会社の施設で、情報体の人々が株主か技術者だということは知っていた。他のシェルターもさして変わらないだろう。この手の建造物や組織は僕が生まれるずっと前には国が運営を担っていたそうだが、僕の時代ではどこも会社がやっていた。学校も会社、警察も会社、軍隊も会社、政府が会社の国もあった。働いたことのない一四歳の身にはそれが良い話なのかよく分からなかった。今もよく分からない。ただ、パパもママもたまに不満を漏らしていたのは覚えている。 + このシェルターが会社の施設で、情報体の人々が株主か技術者だということは知っていた。他のシェルターも変わらないだろう。この手の建造物や組織は僕が生まれるずっと前には国が運営を担っていたそうだが、僕の時代ではどこも会社がやっていた。学校も会社、警察も会社、軍隊も会社、政府が会社の国もあった。働いたことのない一四歳の身にはそれが良い話なのかよく分からなかった。今もよく分からない。ただ、パパもママもたまに不満を漏らしていたのは覚えている。 〝最初の遭遇は同時多発的だったので不正確ですが、およそ二〇〇年ほど前でした。どの競合他社も情報体を生体脳に戻す技術を開発できず、我が社と同じく元の肉体を基本入力インターフェイスとして活用していました。その時、各社が横並びの状況にあると初めて認識できたのです。インターフェイスは操作盤であって人間ではないため、競争の過程で操作介入を伴う入力――今回は収奪のようでしたが――を加えても重罪には問われません。権益を確保して、然るべき利潤を得た後に補償を提供しても割に合うとの考えなのでしょう。むろん、我が社も同様の方針です〟  僕は納得できずに声を張り上げた。 「競合他社といっても君らは同じ人類なんだろ。協力できないのか」 〝増産できず減る一方の資源を収集するしかない現状では、難しいですね。株主総会でも稀にそういった提起がなされますが〟  そこで彼女は揶揄するように声色を変えた。 〝毎回否決されています。私も株主ですが会社全体の意思決定には従わざるをえません。こんなご時世では、他に行くあてもないですからね〟 - つまりブルーの彼は、基本入力インターフェイスとしてはむしろ働き者だったと言える。下手な譲歩にも乗らず徹底的に資源を奪い尽くした。のみならず、余計なコストも削減した。肉体的に劣っていて反撃しそうにもない相手には、電動銃一発分の電力さえ惜しいというわけだ。 + つまりブルーの彼は、基本入力インターフェイスとしてはより機能的だったと言える。下手な譲歩にも乗らず徹底的に資源を奪い尽くした。のみならず、余計なコストも削減した。肉体的に劣っていて反撃しそうにもない相手には、電動銃一発分の電力さえ惜しいというわけだ。  一度は滅入った気分がめらめらと燃え上がるのを感じた。 〝しかし、今後は心配いりませんよ。今回の件は私の誤りです。あの地点は我が社の領域の周縁部からそれなりに遠く、内容に問題はないと考えていました。次回からは適性に合う入力を心がけます〟 「いいや」 @@ -173,13 +173,13 @@ 〝私としては気が進みません。頃合いを待つつもりでした。現在のあなたは肉体的にも精神的にも未発達で、高度かつ複雑な入力に耐えられる仕様ではありません〟 「僕になにができないか勝手に決めないでくれ! さもないと――」  咄嗟に、塩の鏃を逆手に握って自分の首筋に振り下ろす仕草をした。目にも止まらぬ速度で天井のラインが明滅する。鋭く叫び声が飛ぶ。 -〝待って! そんなことはやめてください。あなたは貴重な資源です〟 +〝待って! そんなことはやめてください。自己保存の可能性を放棄するのは不適切な振る舞いですよ。あなたは大切な資源です〟  鏃の先端をぴたりと首筋に触れさせて止める。僕も負けじと叫び返す。 「|僕の身体が|、だろ。本当は自我を作るつもりなんかなかったくせに、できちゃったから仕方がなく言っているだけなんだ!」  力まかせに再度、切っ先を振り上げる。すると、ついに彼女は妥協を示した。 〝分かりました、適性の修正を申請します。ですが、結果は私の一存で決まるわけではありません。それは納得できますね?〟 - その後、僕は堂々たる大股開きでチェンバー殻に向かった。心臓が弾みすぎて痛い。やってやったぞという気持ちだった。僕たちは競争しているんだ。より大変な仕事をしなければ世界から置いてけぼりを食ってしまう。そしていつか無知なまま死ぬ。ブルーの作業服を着た競合他社のHID39は、その気になれば簡単に僕を殺せた。 - 興奮が全身に滾るなか脱衣も忘れて殻に入ると即座にアラートが鳴り、正常に冷凍が行えない旨の警告が表示されたので急いで来た道を戻る羽目になった。 + その後、僕は堂々たる大股開きでチェンバー殻に向かった。心臓が弾みすぎて痛い。やってやったぞという気持ちだった。僕たちは競争をしているんだ。大変な仕事をしなければ世界から置いてけぼりを食ってしまう。そしていつか無知なまま死ぬ。ブルーの作業服を着た競合他社のHID39は、その気になれば簡単に僕を殺せた。 + 興奮が全身に滾るなか脱衣も忘れて殻に入るとアラートが鳴り、正常に冷凍が行えない旨の警告が表示されたので急いで来た道を戻る羽目になった。 4 @@ -187,13 +187,13 @@ 「よお」 「や、やあ」 「行くぞ、ついてこい」 - なぜ彼が一緒に解凍されているのか、どうして指図されているのか納得いかなかったが、溶けたてで思考力がまとまらない状況ではおとなしくついていくしかない。後に続いて更衣室に入ると、彼はてきぱきと着替えて金属製の背嚢を軽々と背負った。肉体に恵まれた者への嫉妬と羨望とを綯い交ぜにしつつ他人事の態度で自分のロッカーを開けた矢先、そこにも同型の背嚢が鎮座していたので面食らってしまった。しかし、自分のロッカーに入っている以上はこれが僕の持ち物だ。中身を全部移し替えて身支度を整える頃には、HID6は培養プラント室で大量に食事を摂っていた。 + なぜ彼が一緒に解凍されているのか、どうして指図されているのか納得いかなかったが、溶けたてで思考力がまとまらない状況ではおとなしくついていくしかない。後に続いて更衣室に入ると、彼はてきぱきと着替えて金属製の背嚢を軽々と背負った。肉体に恵まれた者への嫉妬と羨望とを綯い交ぜにしつつ他人事の態度で自分のロッカーを開けた矢先、そこにも同型の背嚢が鎮座していたので面食らってしまった。しかし、自分のロッカーに入っている以上はこれが僕の持ち物だ。中身をあらかた移し替えて身支度を整える頃には、HID6は培養プラント室で大量に食事を摂っていた。  せめて遅れまいとせかせかして食べ終えると、隣のパイプ下にいる彼から声がかかった。 「おい、詰めて持っていけ。忘れてもおれのはやらんぞ」 - 巨体の主は言った通り、金属製の背嚢から取り出した容器に食糧と水をそれぞれ保存していった。意図が分からず黙って見ていると、いよいよ事情を説明してくれる気になったらしい。手を止めてこちらに向き直った。 + 同僚は言った通り、金属製の背嚢から取り出した容器に食糧と水をそれぞれ保存していった。意図が分からず黙って見ていると、いよいよ事情を説明してくれる気になったらしい。手を止めてこちらに向き直った。 「そうか、まだ話を聞いていないんだったな。いいか、お前は今日、おれと一緒に仕事をする。ただの仕事じゃない。『出張』だ。一日じゃ終わらない。だからメシを持っていく」 - 聞き慣れない言葉が出てきた。特定の基本入力インターフェイス間で用いられている言葉だろうか。僕にとって「仕事」とは日が落ちる前に済ませるものという認識だった。日をまたぐほど遠くに移動しなければならない仕事など想像もつかない。だが、きっとそれが「出張」なのだろう。前回の勤務査定の時にとった行動が特別な仕事を導いたのだ。 - つまり、僕は適性があると認められた。より多くを知るであろう仕事の。 + 聞き慣れない言葉が出てきた。特定の基本入力インターフェイス間で用いられている言葉だろうか。僕にとって「仕事」とは日が落ちる前に済ませるものという認識だった。日をまたぐほど手間がかかる仕事など想像もつかない。だが、きっとそれが「出張」なのだろう。前回の勤務査定の時にとった行動が特別な役割を導いたのだ。 + つまり、僕は適性があると認められた。より多くを知るであろう立場の。  今回は便意がなかったのでトイレはパスした。HID6が戻ってきて内勤の仕事ぶりに文句を漏らした後、一緒に会議を受ける。スクリーンに図示された目的地は普段の三倍は遠かった。片道だけでも日が暮れてしまう。目的の納品物はチタン合金だという。前回に見た「競合他社」の勢力図を思い出すかぎり、他の領域からも侵入できそうな場所だと分かった。ブルーのHID39と出くわして、今度こそ戦うことになるかもしれない。 「質問」  イヤホンを耳にくっつけたHID6が短く話すと、なぜかモノクロスクリーンが遷移して文字列が表示された。 @@ -209,7 +209,7 @@ 「お前も情報体の自分に質問しておいた方がいいんじゃないか。初めてならなおさら不安だろう」  僕はすでに手の中に握られていたイヤホンをポケットに突っ込んで答えた。 「いや、いいよ。必要がなくなった。実は同じ質問をしようとしていたんだ」 - 努めて平静を装っていたが、真っ赤な嘘だ。本当は彼女と話したかったし、希望通りの仕事をくれたお礼も言いたかった。おしゃべりもするつもりだった。イヤホンをつけて一言でも話せば、それは簡単に叶う。 + 努めて平静を装っていたが、真っ赤な嘘だ。本当は彼女と話したかったし、希望通りの仕事をくれたお礼も言いたかった。おしゃべりもするつもりだった。イヤホンをつけて一言でも話せば、それは即座に叶う。  でも、HID6にそういう振る舞いを見せるのは嫌だった。彼と情報体の彼の会話はとてもビジネスライクでプロフェッショナルな雰囲気に満ちていて、僕とはまるきり違っていたからだ。なんだか彼女とする会話がすごく子どもっぽく感じられた。  最上層へのエレベータに乗って細い通路を一列に渡り、巨大な扉が開いた先の危険物室では当然のように一番大型の電動銃を手渡された。 「一応聞いておくが、撃ったことはあるよな?」 @@ -229,11 +229,11 @@ 「こういう一緒にやる仕事――出張って、何回もやったことあるの」  疲労を見透かされていてもなお余裕を残していそうな態度を崩さず問いかける。同僚は渋い顔をして答えた。 「数えきれないほどな。出張は一人で行く方が珍しい。三人とか四人の時もある。数が多ければ多いほど場所が遠方で危険だ」 - 食べている吐瀉物みたいな粘体がごくりと喉を鳴らす音と共に胃袋に落ちていった。結果的に僕を見逃したHID39とは比較にならないほど〝操作介入〟に長けたインターフェイスがたくさんいるということだ。よくよく考えてみると、競合他社の基本入力インターフェイスを殺すことほど理に適った戦略はない。資源を奪い取れるのみならず、行動範囲も狭められる。接続可能なインターフェイスを完全に失った情報体は地上世界に対していかなる操作も行えない。センサ頼りの受動的な分析に限られてしまう。そのセンサさえも一度物理的に壊れたら直せない。 + 食べている吐瀉物みたいな粘体が、ごくりと喉を鳴らす音と共に胃袋に落ちていった。結果的に僕を見逃したHID39とは比較にならないほど〝操作介入〟に長けたインターフェイスがたくさんいるということだ。よくよく考えてみると、競合他社の基本入力インターフェイスを殺すことほど理に適った戦略はない。資源を奪い取れるのみならず、行動範囲も狭められる。接続可能なインターフェイスを完全に失った情報体は地上世界に対していかなる操作も行えない。センサ頼りの受動的な分析に限られてしまう。そのセンサさえも一度物理的に壊れたら直せない。 「これ、かなり聞きづらい話なんだけど……」  食事の手を止めておずおずと尋ねる。 「僕たちの会社は、どうなんだ? うまくやれているの、その、競合他社と」 - 空いた容器を片付けていた巨体が一瞬固まった。少し待っても回答はない。きまりが悪くなり、急いで言葉を付け足した。 + 空いた容器を片付けていた手先が一瞬固まった。少し待っても回答はない。きまりが悪くなり、急いで言葉を付け足した。 「いや、僕は前にあっさり負けちゃったから、偉そうには言えないけど」 「すぐに嫌でも分かるさ」  急に彼が立ち上がったので、慌てて残りの食事を片付けて背嚢に突っ込んだ。「だが、負けたっていうのはどういうことだ。なんとか逃げきったのか」金属製の背嚢をよろよろと背負い込みながら首を振る。「逃げてすらいないよ。ブルーの作業服を着たやつだったんだけど、たまたま見逃してくれただけだ」改めて口に出すと侮られても仕方がないと思った。しかし吐露せずにいられないほど悔しい事実でもあった。 @@ -242,9 +242,9 @@  戻ってくるなり「お楽しみ用か、あの、わけの分からん……」と茶化されかけたので「いや、このまま持っておくよ」とついむきになって言い返した。本当は夜が来る前に彫るつもりだった。  なだらかな傾斜がついている清潔な地面を見繕い、そこで僕たちは野営を始めた。必要なものは背嚢に全部入っていた。いかに現在の地上が温暖化しているとはいえ、夜間には零度を下回る。作業服より分厚い素材で作られた寝袋に入り込むと一転、身を切る寒風が遮られて全身が温まった。 「適当な時間で交代だからな。二人してねんねしていたら襲われかねない」 - 寝袋を器用に巻きつけて身体の自由と防寒を両立させながら彼が言った。手元には早くも電動銃の鈍く光るチャージライトが灯っている。 + 寝袋を器用に巻きつけて身体の自由と防寒を両立させながら彼が言った。手元には早くも電動銃のチャージライトが鈍く灯っている。 「そんなことあるのかな、競合他社のやつらだって眠いんじゃ」 - 自力で眠るのも起きるのも数百年ぶりの僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。だが彼は頑として腹ばいになって傾斜に電動銃のバッテリーマガジンを突き立てた。 + 自力で眠るのも起きるのも数百年ぶりの僕にしてみれば、そんな不確かな挑戦はしないに越したことはなかった。だが彼は頑として腹ばいになって傾斜にバッテリーマガジンを突き立てた。 「むしろ油断ならない。夜勤<ナイト・シフト>の連中がいるかもしれない」 「夜勤<ナイト・シフト>?」  また聞き慣れない言葉が出てきた。 @@ -254,7 +254,7 @@  さながら闇夜に溶け込む血に飢えた野獣のイメージが脳裏に浮かんだ。誰もが適性に応じて仕事を割り振られているように、夜勤<ナイト・シフト>にもそういう適性があるのだろう。電動銃をどこにでも百発百中で当てられるとか、夜でも目がよく見えるとか。 「そういう人たちと会ったことあるの……」 「ない。あったら生きてちゃいない」 - こんな話を寝る前に聞かされて、限られた睡眠時間を十分に活用できるか不安で仕方がなかった。今、こうしている間にもまだ見ぬ敵は暗闇を突き破って自分を照準の内に収めているかもしれないのだ。そう思うと、心臓が高鳴っていつまでも落ち着かなかった。 + こんな話を寝る前に聞かされて、限られた睡眠時間を十分に活用できるか不安でしょうがなかった。今、こうしている間にもまだ見ぬ敵は暗闇を突き破って自分を照準の内に収めているかもしれないのだ。そう思うと、心臓が高鳴っていつまでも落ち着かなかった。 6 @@ -270,7 +270,7 @@  昔は学校があった。僕はとてもよくできた生徒だったらしく、外に出て登校する形式の特別な学校に通っていた。一五歳になったらカレッジを受験する話もあった。これからじわじわと再構築される新しい世界の文明には、たぶんしばらくは学校もカレッジもない。田んぼとか、発電所とか水道とか、そういうものの方が大切だからだ。僕は未熟な子どものまま放置されて、格差を覆せないまま見通しの悪い人生を歩む羽目になる。  だとしたら。こうも考えられる。  今の状況がずっと続いている方がよほど良いじゃないか。言われた通りに働いて用が済んだら眠って、飢えて死ぬこともない。人生が最低でも数十年おきで離散的なのは仕方がないが、少なくとも思い悩むことはそんなにない。壁がひび割れているとか、ご飯や水がまずいとか、たまにトイレに糞が積もっているとか、そういった点に目をつむれば今の暮らしも悪くはない。彫刻だってできる。 - ただ……じゃあなんで僕は楽な仕事に留まらずにこんな辛くて危険な出張とやらをする気になったのだろう。今だって眠いのをこらえて必死に―― + ただ……じゃあなんで僕は楽な仕事に留まらずに、こんな辛くて危険な出張とやらをする気になったのだろう。今だって眠いのをこらえて必死に――  その時、真っ黒な風景にわずかだが光がちらついた。最初は気のせいかと思った。続けて二回、そして三回、光が灯る。入れ違いに別の地点でも光が灯った。  銃撃戦が行われている。  左側で閃光が派手に輝いているのに対して右側の方はいくぶん控えめだ。両者の応酬は一方的ながら、だんだん激しさを増してきている。はたと思い出して彼を呼ぼうとした辺りで背後から声がした。 @@ -294,7 +294,7 @@  何事もなく太陽が昇り、食事を摂って、隅々まで陽光で照らされた地面を歩いていても、恐怖は背中にべったり貼りついたようにして消えなかった。まだ殺し足りない夜勤<ナイト・シフト>たちが朝も働き続けて、今にも自分に狙いを定めるのではないかと妄想に駆られた。心配しても意味なんてないと理解していても足取りは鉄か鉛の重さで、腹には溶けない氷が冷え冷えと沈んでいた。 「ここだな」  HID6が足を止めた先にあったのは半壊した巨大な航空機だった。とてつもなく大きかったので二人で辺りを周回するまでそれがそうとは信じられなかったほどだ。あたかも戦いに敗れた巨人兵が胃袋や腸を垂れ流しているように、引き裂かれた胴体部からケーブルや座席やその他の部品が散乱していた。 - 中に入ると陽の光が遮られて視界が一気に薄暗くなった。時折、周辺に人骨と思しき欠片がまとわりついているのを見て、気分の悪さと純粋な関心が揉み合った。辛うじて後者が競り勝つ。数百年経っても骨は溶けて消えないらしい。「いっそ月に着いちまえば多少は長生きできたのにな」巨体が災いして歩きにくそうに足で残骸をどかしながら同僚が言う。確かにこの航空機は地上用にしては大きく、月か火星の定期便用に見える。 + 中に入ると陽の光が遮られて視界が一気に薄暗くなった。時折、周辺に人骨と思しき欠片がまとわりついているのを見て、気分の悪さと純粋な関心が揉み合った。辛うじて後者が競り勝つ。数百年経っても骨は溶けて消えないらしい。「いっそ月に着いちまえば多少は長生きできたのにな」体格が災いして歩きにくそうに足で残骸をどかしながら同僚が言う。確かにこの航空機は地上用にしては大きく、月か火星の定期便用に見える。  言われてみれば、月や火星は地球の気象災害とは無縁だ。しかし食糧や燃料を生産する設備に乏しいため、地球からの物資がなければどのみち行き詰まってしまう。変わり果てていく地球を臨みながらゆっくり死に絶えていくのと、一瞬のうちに死ぬのとだったら、個人的には後者の方が嬉しい。  目的の納品物は航空機の露出した内部に含まれていた。といっても、どこにでも生えているわけではない。航空機の構造材は主に炭素繊維できていて、チタンはエンジンの噴射口や燃料配管などに用いられている。場所によっては巨体の同僚が入り込めず、僕の貧弱な身体がここへきて存分に活用された。後ろ手に背嚢の中の工具と指示を受け取りつつ、狭く奥細い洞窟に似た空間で慎重に素材を引き剥がしていく。それなりに隙間のあるところでは、休憩も兼ねて役割を交代した。こうして二人で作業を黙々とやっているうちに、会議で示された分量を大幅に超える納品物を獲得できた。  きっと油断していたのだと思う。何時間も薄い暗闇の中にいて、危機感が疎かになっていたのだ。航空機から外に出てすぐに、正面のそう遠くない距離に人影がいるのを目の当たりにした。ついさっきの冷えた恐怖が胃の奥から急速に吐き出される。慌てて手をばたつかせるも、電動銃は背嚢の中だ。近づいてくる二人組を前に固まること数秒、先に口を開いたのは相手の方だった。 @@ -309,10 +309,10 @@  そこで僕はようやく相手が二人して武装していないこと、そもそも雰囲気からして敵意がなさそうなこと、イエローの作業服を着ていることを認識した。張り詰めていた緊張の糸が切れて、がちがちに凝り固まっていた筋肉が緩む。一方、同僚は前に踏み出してなおも迫った。 「おれたちになんの利益がある。他社だということくらいは分かるだろう」 「分かっているとも。交換しよう。我々はタングステンを持っている。砲弾の芯から採ったやつだ。どうだ、有用な金属だぞ」 - それはすごい、と率直な感想を抱いた。タングステンは高密度な金属素材なので、武器にも工具にも応用できる。導電性や耐熱性にも優れている。シェルターにあって損はない資源だ。 + それはすごい、と率直な感想を抱いた。タングステンは高密度な金属なので武器にも工具にも応用できる。導電性や耐熱性にも優れている。シェルターにあって損はない資源だ。 「現物を見ないことにはなんとも言えんな」  変わらず銃口を突きつけたままではあったが、同僚の口ぶりは格段に柔らかくなった。相手もそれを察したに違いない。 - イエローの二人組は呼びかけに素直に応じて背嚢からタングステンの欠片を取り出した。手渡された銀色の塊をまじまじと見つめてから、HID6は僕に見せた。「これはタングステンで間違いないか」僕はその金属の極端な重さと手触り、叩いた時の感触を慎重に調べて答えた。 + イエローの二人組は呼びかけに素直に応じて背嚢からタングステンの欠片を取り出した。手渡された銀色の塊をまじまじと見つめてから、HID6は僕に見せた。「これはタングステンで間違いないか」僕はその金属の極端な質量と手触り、叩いた時の感触を慎重に調べて答えた。 「正確には分からない。でも、可能性はある。アルミやステンレスならもっと軽い」 「鉄やニッケルだとしたら?」  僕は冷静に首を振って言う。 @@ -328,7 +328,7 @@ 「おい、一度しか言わねえからよく聞けイエロー。走って逃げきれたらお前の勝ちだ。だからうまく逃げろ。ほら、走れ」  彼は「イエロー」の足元すれすれに二発目を放った。フルチャージから威力が半減していても脅すには十分すぎたと見え、相手は背嚢も持たず遮二無二に走り出した。 「おっ、けっこう速いな」 - いくらかの間をおいて同僚が撃ち出した三発目、四発目の銃撃は素人目に見ても粗雑な撃ち方だった。当てるつもりで撃っているとは到底思えない。現に運動エネルギーの塊はどれも相手から数メートルも離れた地点にぶつかり、土煙を舞わせていた。しかし一向に意に介さず、その浅黒い顔には今までにない残忍な笑みが浮かんでいた。 + いくらかの間をおいて同僚が撃ち出した三発目、四発目の銃撃は素人目に見ても粗雑な撃ち方だった。当てるつもりで撃っているとは到底思えない。現に運動エネルギーの塊はどれも相手から数メートルも離れた地点にぶつかり、かすかに土煙を舞わせていた。しかし一向に意に介さず、その浅黒い顔には今までにない残忍な笑みが浮かんでいた。  そうして何分か経ち、イエローの作業服が本当にイエローなのか判別が付きづらくなってきた辺りで、彼は電動銃の構え方を変えた。 「そろそろお楽しみは終わりだな」  相手との距離はもはや狙撃と言っていいほど離れていたにもかかわらず、最後の一撃は逃げ惑う背中の中心をあっけなく捉えた。 @@ -336,7 +336,7 @@  今の僕にはこの一言を絞り出すのが精一杯だった。言いながら、次の言葉を考える。 「殺す必要は、なかった」  だが、隣の殺人者はさっきまでの面倒見のよい優しい同僚に戻っていた。口からごく柔らかに言葉が流れる。 -「人の楽しみにも色々あるのさ。お前は塩の塊を彫るのが好き、おれは……逃げるやつを撃つのが好きでね」 +「楽しみにも色々あるのさ。お前は塩の塊を彫るのが好き、おれは……逃げるやつを撃つのが好きでね」  あまりにも感慨深く、趣味の話をするみたいに語るものだから僕は気がおかしくなりそうだった。飄々とした態度で彼は「それに」と付け加える。 「お前、A評価って取ったことないだろう。今回最後の特別講習だ。どうやったら取れると思う」 「し、知らない」 @@ -355,11 +355,11 @@  更衣室のロッカーには据え置かれた二種類の背嚢に加えて掃除用具が追加された。壁を補修する道具、床を拭く道具、どうせならトイレの糞を集める道具も欲しかった。あれから何回も冷凍と解凍を繰り返したが、ずっと内勤の仕事をしている。会議の時間は非常に短い。移動時間は三〇分もかかれば長い方だと感じる。  彫刻は彫っていない。彫るための材料がここにはない。  代わりに、彼女と話す機会が増えた。イヤホンの電波はシェルターの中ならだいたい届く。毎回、ひび割れた壁に補修材を塗りたくり、汚れた床を拭きながら雑談を交わす。内容はなんでもいい。天気の話だけはできないけれど。 -「ところで、なんでこういうのってロボットとかにやらせるわけにはいかないのかな」 +「ところで、なんでこういう仕事ってロボットとかにやらせるわけにはいかないのかな」 〝複雑な部品や電気的接点を持つ機械はメンテナンスが大変なんですよ。その点、皆さん基本入力インターフェイスの燃費の悪さは許容範囲内と言えます〟 「とりあえずご飯を食べさせれば勝手に動くもんね」  昔、僕の家にあったお掃除ロボットや、外で見かける運送ドローンがもっと器用だったら僕たちを使わずに済んだのだろう。 - シェルターの中は意外に広い。直すべき壁は星の数ほどあり、拭くべき床はさらに多い。以前の仕事で内勤のインターフェイスとめったに会わなかったのも納得だ。チェンバー室も他に三つもあって、培養プラント室もそのぶんだけあり、トイレも備わっている。そして、大抵の便器に糞が積もっている。とはいえ、本来は情報体に移行するまでの仮設的な設備だったはずなのに、なんだかんだで機能し続けているのが奇跡なのかもしれない。 + シェルターの中は意外に広い。直すべき壁は星の数ほどあり、拭くべき床はさらに多い。以前の仕事で内勤のインターフェイスとめったに会わなかったのも納得だ。チェンバー室も他に三つあって、培養プラント室もそのぶんだけあり、トイレも備わっている。そして、大抵の便器に糞が積もっている。とはいえ、本来は情報体に移行するまでの仮設的な設備だったはずなのに、なんだかんだで機能し続けている方が奇跡なのかもしれない。  とりわけ、ダイヤモンド電池が設置されている最下層は最悪だ。ごわごわとした作りの放射線防護服は暑苦しくて重たい。炭素の放射性同位体がベータ線しか放射しないおかげで身の安全は保証されているものの、分厚い生地に手足の動きが阻まれていると作業は遅々として進まず、代わりに口数ばかりが増える。壁のひび割れが広大な円周に沿って広がっていて途方に暮れ、思わず天を仰ぐと暗闇に覆われた吹き抜けの天井が見える。あの細い通路から落ちるとここで床の染みと化すのだ。 「ところで君は今なにをしているの?」  てんで見通しの立たない仕事を半ば放棄してふと彼女に尋ねると、放射線区画特有のノイズに紛れて自明すぎる回答が返ってくる。 @@ -399,12 +399,13 @@  声量こそ小さいがその声は野太く低く、はっきりとしていた。気がつくと防護服の暑苦しさも忘れて聞き入っていた。「転職」という聞き慣れない単語が出たからだ。言葉自体の意味はもちろん知っているが、基本入力インターフェイスを職業に例えているなら他の職のあてがこの世界にあるとは思えない。 「……バレねえのかな、そこが不安だ。おれたちは脳みそを握られているんだぜ」 「やつらは健康診断をケチってる。シケた職場よ。当日までお前が口を閉じていればバレやしない」 -「だが派手に動いたら危ないだろう。その枠とやらには誰が入る予定なんだ」 +「だが派手に動いたら危ないだろう。その枠とやらには誰が入るんだ」 「めぼしい連中とはとっくに話をつけて何度もやっている。今回で最後だ。あとは出張経験者を組み入れる」  言うまでもなく、会話の内容にはとてつもなく不穏な雰囲気が漂っていた。唐突に、足音が扉の方向に迫ったので右向け右をして着脱室に向かった。話し合いに決着が着いたのだ。磨りガラスでできた扉が閉まるか閉まらないかの間際、部屋から着膨れした二人のインターフェイスが出てきたのが見えた。細身の男に続いて、巨体の同僚――バイザー越しでもよく分かる――他でもないHID6が身を屈めて出てきた。同時に、扉が封鎖されて警告音声が流れる。 <作業終了後は放射線防護服を脱衣し、着脱室内に正しく保管してください>  着脱状態を検査する淡い光を浴びながら、一瞬のうちに瞼に焼きついた光景を何度も何度も思い描いた。  面倒見が良くて優しい同僚、逃げる相手を撃つのが好きな同僚。その同僚が、なにかを企んでいる。 + 消えかかっていた心の蝋燭に力強く火が灯った。 9 @@ -413,9 +414,9 @@  初対面の人々にぎこちない敬語で話しかけると、またぞろ圧縮言語での議論が数秒行われた後に一人が非常にゆっくりと答えた。 「きぃいいいみぃいいがああああ、知る必要はあああああ、ないいいいい、今後のおおおおおおおお、入力にいいいいいい悪影響がああああ」  おそらく計算資源を過少に見積もりすぎたのだろう。そこはかとなく馬鹿にされた気分になる。たまらず、途中で口を挟んだ。 -「分かりました。僕が出張を申請するというのはどうでしょう。適性を再修正するんです。もしHID6の仕事に組み込まれたら……」 +「分かりました。僕が出張を申請するというのはどうでしょう。適性を再修正するんです。もし、HID6の仕事に組み込まれたら……」  提案を受けて、情報体たちの話し合いがぴたりと止まった。ややあって、ぞろぞろと私見を述べる声が割って入る。 -〝なるほど、それで話の裏付けを試みようというわけですね。論理的な行いです〟 +〝なるほど、それで話の立証を試みようというわけですね。論理的な行いです〟 〝だが、露見したら揉み消される可能性もある。HID6のユーザは主要株主だ〟 〝どのみち秘密裏に調査をする必要はある。懸念は取り除いておいた方がいい〟  遅れて、彼女が心配そうに言う。 @@ -447,7 +448,7 @@ 「|土いじり|もそう悪くはなかったね」  ルーティーンの一部をやり直して金属製の背嚢にあらゆるものを詰め込んでいく。細い通路の始端ではHID6が待っていた。恐る恐る顔を合わせると彼はいたってフレンドリーに表情を和らげた。 「お前は必ず戻ってくると思っていたよ。他の二人は外に出ている」 - 巨大なハンドルの付いた扉の先で一番大型の電動銃を自ら手に取ると、力強い足取りで地上世界に踏み出した。 + 巨大なハンドルの付いた扉の先で一番大型の電動銃を自ら手に取ると、勇んだ足取りで地上世界に踏み出した。  地表では他の基本入力インターフェイスたちが待ち構えていた。巨体の同僚とは対照的に二人の顔には険しい顔がありありと浮かんだ。後に続いてHID6が出てきた途端、僕にではなく彼にクレームを投げかけた。 「おい、なんだこいつは、ただのガキじゃねえか」  だが、彼は堂々と請け負った。 @@ -455,7 +456,7 @@  これから企みを暴こうとしている相手に褒められるのはなんだかむずむずする。  表向き、会議では五十キロメートル以上離れた場所の鉱石を採集することになっていた。例の勢力図通りなら周縁部分どころか競合他社の領域に入り込む格好だ。以前に聞いたように四人での出張は半ば操作介入を前提にしている。  馴染みのない二人の方を見ると、片方は着脱室の前で見た細身の男、もう一人は知らないインターフェイスだった。それぞれHID23、HID45と胸元に記されている。HID45は僕と同様に出張経験者として組み入れられたようだ。移動を開始してからしばらく経っても僕たちになにも明かされる気配がないのは、シェルターから十分に離れる必要があるからだろうか。 - 百何年かぶりの陽光、柔らかく吹き抜ける塩気を含んだ風は秘め事を抱えている身にも沁みた。世紀を隔てても変わらない塩の大地が悠然と地平線の彼方まで広がっている。白く濁った平面に頬ずりするように靴底をすり合わせながら、しばらく気ままに道のりを楽しんだ。 + 百何年かぶりの陽光、柔らかく吹き抜ける塩気を含んだ風は秘め事を抱えている身にも沁みた。世紀を隔てても変わらない塩の大地が悠然と地平線の彼方に広がっている。白く濁った平面に頬ずりするように靴底をすり合わせながら、しばらく気ままに道のりを楽しんだ。  先を行く三人の口数は少なかった。プロフェッショナルらしく危険に備えて体力を温存しているのか、あるいは企みの行く末を案じているのか。特に例の二人は周縁部分にも達していないうちから大型の電動銃を片時も手放さない。休息をとる時も、食事の際にも必ず手が届く位置に銃があった。たぶん、敵に襲われることを心配しているからではないと思う。隠し事をしていると誰しも不安で仕方がないのだ。唯一、状況をなにも知らされていないであろうHID45もそんなピリピリした雰囲気に合わせたのか、食後には電動銃を広げだした。その隙に、容器を片付けるふりをして背嚢の中からカメラを取り出して胸ポケットに収納した。レンズがちょうどよく生地の切れ目から顔を出している。スイッチを押すとランプが一回点滅した。以後、すべての出来事が記録される。  塩と土の地を交互に踏みしめて半日近くも経過すると、さすがにベテランの大人たちの足取りにも疲れが見えてきたようだった。休憩の合間に仕事の段取りを軽く話し合い、また歩き続ける。橙色の濃い夕陽が顔に差しても歩行は止まらず、南半球に引っ込んだ太陽と入れ違いに月が顔を出した頃、ようやく野営場所が確定した。 「ここはもはや周縁部ではない。敵の勢力下だ」厳かな口調でHID6が告げる。「二人ずつ組んで見張りをする」みんな無言で頷いた。事前の打ち合わせ通り、前半の組み分けは僕とHID23に決まった。意図は分かりきっている。企みを知っている者とそうでない者で組む形に振り分けたのだ。寝袋を引き出す間際、二人が視線を交わしたのを見逃さなかった。 @@ -475,14 +476,14 @@  今度こそ照準から顔を離して目を合わせる。同僚は興奮がちに言った。 「あんなに近いと相打ちの可能性もある。とにかく、他のやつらを起こさねえと――」  HID23が立ち上がった瞬間、闇夜を貫いた運動エネルギーがその肩口を鋭く捉えた。熱風とともに血しぶきが舞う。短くうめき声を漏らした彼は斜面をごろごろと転がっていった。慌てて銃座を放棄して歩み寄りかけたが、HID6の言いつけが僕を踏み留まらせた。 -『もし先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――とにかく撃ち返せ』 +『先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――とにかく撃ち返せ』  いざ漆黒と相対してトリガーを引き絞ると、驚くほど簡単に高エネルギーの塊が射出された。直後、瞬いた光が間近の敵の姿を捉えた。距離にして十歩もない。スキップすればハイタッチもできそうだった。敵は狙撃と奇襲の二手で別れていたのだ。恐怖に目が見開く。影に似た姿の敵はすさまじく機敏に接近してきた。  もし僕が下手に経験豊富だったらやられていただろう。本能的な恐れから応射を早々に諦めて電動銃を盾のように構えると、そこへまっすぐ敵の腕が伸びた。がちりと金属音が鳴り響く。月明かりを照り返す鋭い銀色の輝きが死の匂いを放った。敵は銃ではなくナイフを持っている。  初手を防がれた敵はしかし、軽い身のこなしで僕を蹴り倒すとすぐさま覆い被さった。銃を抱えているのになに一つ抗えないまま、頭上にナイフがきらめく。黒装束に垣間見える目元がかすかに歪んだ。 「子ども……!?」  一瞬、振り下ろされた刃の切っ先が止まる。その間隙を突くように、真横から不可視の銃弾が発射された。身を塞ぐ黒装束が横に傾いで倒れ込んだ。顔を向けると、電動銃を構えたHID6が見えた。  その背後から迫る他の黒装束の姿も。 - 反射的に銃を構えてトリガーを引くと、狙い通りに彼の後ろの黒い塊が後方に吹き飛んだ。巨体の同僚は驚いて振り返ったが、向き直る頃には皮肉な笑みを湛えていた。 + 反射的に銃を構えてトリガーを引くと、狙い通りに彼の後ろの黒い影が後方に吹き飛んだ。巨体の同僚は驚いて振り返ったが、向き直る頃には皮肉な笑みを湛えていた。 「夜勤<ナイト・シフト>に襲われて生き残るとは……お互い運が良かったな」  決死の数十秒をくぐり抜けた後、僕は自分がろくに息もしていなかったことに気がついた。急速に駆動を再開した呼吸器官の痛みに胸を抑えて地面に仰向けになる。場違いにきれいな星が点々と輝く夜空から目をそらすと、黒装束の露わになった顔つきが目に入った。噂に聞く血に飢えた夜勤<ナイト・シフト>の素顔は、いたってありふれた中年女性にしか見えなかった。 @@ -500,7 +501,7 @@ 「こいつはどうなんだ」  奇妙な言葉遣いをする二人組にも動じず、HID6が担架の上の同僚を指差す。すると、グレイたちは直角よりも深い角度でお辞儀をした。 「HID23様につきましては慎重に検討を重ねましたが、誠に残念ながら貴意に添いかねる結果となりました」 -「そうか。残念だが仕方がないな」 +「そうか。仕方がないな」  ぷい、と彼は背を向けた。急に同僚への関心を失ったようだった。 「は、はあ? なんだと、こら、おい――」  痛みでまともに身動きもとれないHID23が息も絶え絶えに文句を漏らす。なにか良くないことが起こっているらしい。 @@ -525,7 +526,7 @@  再び、片方のグレイが礼儀正しく答えた。 「近年中に貴社に対して買収提案を差し上げる次第でございます」  そこへHID6が被せるように言う。 -「分かりやすく言ってやる。こいつらはおれたちのシェルターに攻めに来る。言っておくが、絶対に勝てない。黙って首を縦に振れ。お前らの仕事の内容は変わらん。土いじりや内勤の仕事もしたけりゃある。着る服の色が変わるだけだ」 +「分かりやすく言ってやる。こいつらはおれたちのシェルターに攻めに来る。言っておくが、絶対に勝てない。黙って首を縦に振れ。お前らの仕事は変わらん。土いじりや内勤の仕事もしたけりゃある。着る服の色が変わるだけだ」 「でもそうしたら、他のインターフェイスとか情報体の人たちはどうなるの、僕たちの会社の」 「どうでもいいだろ、そんなこと。やつらもおれたちのことなんか気にかけちゃいない」  僕はHID6の目をじっと見つめた。濃い茶色の眼差しには嘘みたいに真実味が宿っていた。 @@ -534,24 +535,24 @@ 「そうか、よし」  彼は大きな手のひらで僕たちの肩をぽんぽんと叩いた。  ある意味で、虚偽申告ではなかった。遠い昔に死んだパパがたまたま株主で、シェルターの契約が株主優待に含まれていたという前提なくして僕がオレンジの作業服を着る理由はない。 -「たいへんご面倒をおかけしますが、保安上の理由からお手持ちの武器を回収させて頂いてもよろしいでしょうか」 +「たいへんご面倒をおかけしますが、保安上の事由からお手持ちの武器を回収させて頂いてもよろしいでしょうか」  グレイたちの要請に従い、背嚢から電動銃を取って元同僚に差し出した。振り返った彼がそれを引き渡す。 「申し訳ありませんが、念のため刀剣類もお預かり致します。武器には違いありませんので」 「そうだね」  わざと腰を落として前屈みになり、時間をかけて背嚢の中をまさぐりながらナイフを取り出した。また代わりに受け取ったHID6が振り返り、グレイに手渡す。  今の彼は隙だらけだ。 - 後方のHID45と視線を合わせた。今まさに、電動銃をもう片方のグレイに差し出すところだった。横顔に浮かぶ不安な目元が、交差するとかすかに瞬いた。 + 後方のHID45とさりげなく視線を合わせた。今まさに、電動銃をもう片方のグレイに差し出すところだった。横顔に浮かぶ不安な目元が、交差するとかすかに瞬いた。  やれる。 - 刹那、僕は背嚢から塩の鏃を抜き取り、広々とした巨体に突き刺した。ちなみに、塩のモース硬度は二.〇以上もある。実は石膏よりも固い。尖った先端は彼の筋肉の中に吸い込まれるようにして入っていき、手のひらに生々しい嫌な感触を残した。彼の野太い絶叫が辺りにこだまする。グレイたちの注意がそれた。 + 刹那、僕は背嚢から塩の鏃を抜き取り、広々とした背中に突き刺した。ちなみに、塩のモース硬度は二.〇以上もある。実は石膏よりも固い。尖った先端は彼の筋肉の中に吸い込まれるようにして入っていき、手のひらに生々しい嫌な感触を残した。彼の野太い絶叫が辺りにこだまする。グレイたちの注意がそれた。  入れ違いに、HID45が銃身を振り払って構えると眼前のグレイに向けて発砲した。続けて、グレイの片割れにも運動エネルギーの圧力を浴びせる。後には顔を苦痛に歪めた元同僚が残された。 「やりやがったな」 「この件は帰ったら直ちに報告する。覚悟しろ」 - 銃口を果敢に突きつけてHID45が宣告する。対するHID6は膝をついたまま薄暗く笑った。 + HID45が銃口を果敢に突きつけて宣告する。対するHID6は膝をついたまま薄暗く笑った。 「どう報告する。おれの情報体は主要株主だぞ。木っ端インターフェイスどもの証言など」 「いや、実はずっと証拠を記録していた。これがカメラだ」  胸元のポケットからわずかにはみでたレンズを指先で叩いて示すと、彼は笑いを止めた。そして、ごく静かな物腰で「そうか、やるな」とつぶやいた。  次の瞬間。 - すばやく立ち上がった彼は自らの巨体から塩の鏃を引き抜き、HID45に襲いかかった。片手で強引に銃身を押さえつけた矢先、明後日の方向に振れた銃口からエネルギーの塊が何発か飛び出して虚空に消える。銃の役目はそれでおしまいだった。彼の右手に握られた突端が同僚の首に深々と突き刺さる。一回、二回、三回。首筋からどばどばと吹き出した鮮血が作業服をたちまちレッドに染め上げた。二転三転。事切れた死体をボロ布でも放るようにして投げ出すのを見た途端、僕は電動バイクに向かって一目散に駆け出した。 + すばやく立ち上がった彼は自身から塩の鏃を引き抜き、HID45に襲いかかった。片手で強引に銃身を押さえつけた矢先、明後日の方向に振れた銃口からエネルギーの塊が何発か飛び出して虚空に消える。銃の役目はそれでおしまいだった。彼の右手に握られた突端が同僚の首に深々と突き刺さる。一回、二回、三回。首筋からどばどばと吹き出した鮮血が作業服をたちまちレッドに染め上げた。二転三転。事切れた死体をボロ布でも放るようにして投げ出すのを見た途端、僕は電動バイクに向かって一目散に駆け出した。 11 @@ -564,8 +565,8 @@  殻が閉まったと同時に、強化ガラスを隔てて汗と返り血にまみれたHID6が現れた。強く殻を叩くも、一度誰かが入ったチェンバー殻は処理の終了まで開くことはない。  今すぐ殺せないことを悟った元同僚は不敵な表情を見せつけてガラス越しに叫んだ。 「それで勝ったつもりか? だがな、おれは仕事を選べる。今から勤務査定に戻って、次の仕事にお前を指名して入れる。後で拒否しようが解凍される時は一緒だ。せいぜいよく眠っておくがいい……次は素足で走らせてやるからな」 - 肩を怒らせてのしのしと立ち去っていく巨体を見送りつつ、僕は殻の中で金切り声をあげた。 -「なあ、聞こえただろ! 助けてくれ! 見ただろ、あいつは僕を殺すつもりだ!」 + 肩を怒らせてのしのしと立ち去っていく後ろ姿を見送りつつ、僕は殻の中で金切り声をあげた。 +「なあ、聞こえただろ! 助けてくれ! あいつは僕を殺すつもりだ!」 〝分かっています。しかし現状ではHID6に重罰を課すことはできません。シェルター内のラインに映っている範囲では危害の直接的な証拠は確認されていません〟  彼女の声が殻のスピーカーを通して反響する。彼は銃撃を吹き抜けの細い通路から放ったのだろう。あそこにはラインがない。 「くそっ、証拠はここにあるんだ。全部撮ったんだ」 @@ -590,13 +591,13 @@  正面に向き直ると、ガラスの表面に自分自身の姿が反射して映り込む。  浅黒い逞しい顔つき、鎧のような巨体は、明らかにHID6そのものの姿だった。 「これは、一体……なにがどうなって……」 - 前に踏み出すと丸太のような両脚が即座に応じた。チェンバー室の通路では、ちょうど対面に狼狽した様子の男が棒立ちしているのが見えた。僕の姿を見た途端、目を見開いて叫んだ。 + 前に踏み出すと丸太のような両脚が即座に応じた。チェンバー室の通路では、ちょうど対面に狼狽した様子の男が棒立ちしているのが見えた。僕の姿を見た途端、彼は目を見開いて叫んだ。 「お前、お前か、お前があのガキか」 - 若干高い声で訴えるその男の口調にはひどく心当たりがあった。 + やや高い声で訴えるその男の口調にはひどく心当たりがあった。 「まさか……HID6なのか」  口を衝いて出た音は野太く低く、とても自分のものとは思われなかった。 「返せっ、おれの身体だろ、返せっ!」 - 突如、平静を失ったHID6が突進してきた。彼の元の身体には及ばないとはいえ、中肉中背の成人男性の肉体だ。以前ならひとたまりもなく吹っ飛ばされただろう。しかし、今の僕には止まっているように見える。向かってきた全身を片手で受け止めると、彼の動きは容易く封じられた。まるで怪物を見る目が僕を見つめた。 + 突如、平静を失ったHID6が突進してきた。彼の元の身体には及ばないとはいえ、中肉中背の成人男性の肉体だ。以前ならひとたまりもなく吹っ飛ばされただろう。しかし、今の僕には止まっているように見える。向かってきた体躯を片手で受け止めると、彼の動きは容易く封じられた。まるで怪物を見る目が僕を見つめた。  太い腕をぬっと突き出して首筋を掴む。大して力を入れていないのに目測で一七〇センチメートルはゆうにありそうな成人男性の身体が宙に浮いた。HID6は足をじたばたと振って途切れ途切れに声を漏らした。 「待て――おれは、お前を――っ」  構わず力を込め続けると、じきに彼は全身を震わせて頭を垂れた。どうやら本当に一泡吹かせるのは難しいらしい。意識の失った肉体を床に放り投げて左右のチェンバー殻を目で探る。ほどなくして、元の自分が収められていた殻を発見した。 @@ -620,11 +621,11 @@ 「え、それって」  HID6は「絶対に勝てない相手」だと言っていた。つまり。 〝そうです。敵はこの上なく強力でした。相手方にも相応の損害を与えましたが、もはやこのシェルターに防衛能力はありません。HID6のユーザを含め、主だった株主は高スループットの衛星ネットワークリンクを通じて、株式の売却と引き換えに去っていきました〟 -「そんなネットワークなんてどうやって――地上から打ち上げようと思ったら、燃料が――」 +「そんな人工衛星なんてどうやって――地上から打ち上げようと思ったら、燃料が――」  言いかけたところで答えが脳裏に追いついてきた。  墜落した月か火星行きの定期便。死に絶えるはずだった人々。  彼らは死んでいなかった。最期の力を振り絞って人工衛星にまさしく自らを託したのだ。そして、ついに地球に深く根を張った。 - 元同僚の企みはたった一人のものではなかった。この会社はとっくに存亡の淵に立たされていたのだ。 + この会社はとっくに存亡の淵に立たされていたのだ。 「宇宙にもシェルターがあったんだね」  天井のラインを透かすようにして空想上の天を仰ぐ。 〝月面の大企業が運営しているようです。インターフェイスの所有権にこだわらず地上で戦略的に調達する方針なのだとか〟 @@ -636,11 +637,11 @@ 〝ともかく現在、敵集団は最下層に向かっています。私がエレベータを停止したので階段を使っているようですが、いずれサーバ室にたどり着くでしょう。これは、あなたにとっては好機です〟 「どうして?」 〝生き残ったセンサで確認したかぎり、地表に不審な熱源反応はありません。私が今から一時的に培養プラントとエレベータを稼働させるので、増援が来る前に地上に脱出してください〟 -「脱出って……その後はどうすればいいんだ?」 +「脱出って……その後はどうすればいいの?」  表示がかすれ気味のモノクロスクリーンに地図が描かれる。今となってはそう遠くない距離に三つの点が示された。 〝これらは我々がかつて認識していた、比較的穏健な競合他社です。ただいまよりあなたは現地に向かい、あなた方が言うところの転職を成功させなければなりません〟 -「穏健と言ったって……敵じゃないか! そんな相手に、どうやって」 - 彼女は一歩も譲らずに断言した。 +「穏健と言ったって……敵じゃないか!」 + 僕の咄嗟の反発に彼女は一歩も譲らず断言した。 〝他に手はありません。なるべく多くの備蓄食糧を持っていってください。じきに私はサーバごと接収されて削除される定めです。シェルターの管理能力も失ってしまいます〟  メンテナンスを受けられない基本入力インターフェイスは無力だ。問題を先送りにできる冷凍冬眠設備と、原材料も製法も不明のまずい食糧と黒ずんだ水がなければ僕たちは三日と生きられない。 〝だから、いつまでもここにいてはいけませ――下がって!〟 @@ -655,25 +656,28 @@  自分に新しく備わった頑強な手のひらを見つめる。あれほど嫉妬して恨んでいたHID6に一泡吹かせても、なんの感慨もない。心に響くものはなにも訪れなかった。かえって立場を不利にしただけだった。あの時、素直に「転職」に応じていたら今頃はグレイの作業服を着て仕事を楽しんでいたのだろうか。 「失敗するよりはそっちの方がいいかもね」 〝どうでしょう。議論の余地はありますね。……おっと、失礼〟 - 最上層に着いた。いくぶん警戒しながら細い通路を渡ったが、敵はいない。あれほど荘厳で頑丈そうだったハンドル付きの扉は、破り散らかされた布みたいな姿に変わり果てていた。危険物室の入口から階段を覗く。このまま地上に出られそうだ。 + 最上層に着いた。いくぶん警戒しながら細い通路を渡ったが、敵はいない。あれほど荘厳で頑丈そうだった巨大なハンドル付きの扉は、破り散らかされた布みたいな姿に変わり果てていた。危険物室の入口から階段を覗く。このまま地上に出られそうだ。  ノイズ混じりに彼女の声が聞こえる。 〝最終確認をしましょう。ちゃんと背嚢を持ちましたか? 必要なものは揃っていますか? 汎用的ソリューションを携帯していますか?〟  いつもの癖でイヤホンを取り外しかけたその時、ようやく気がついた。  僕が本当に一泡吹かせたかったのは。 - 次の瞬間、踵を返して細い通路を渡り直していた。エレベータに乗り込んで最下層のボタンを押す。遅れて、当惑した彼女の声が届く。 + 次の瞬間、踵を返して細い通路を渡りなおしていた。エレベータに乗り込んで最下層のボタンを押す。遅れて、当惑した彼女の声が届く。 〝なにをしているのですか? 忘れ物があったのですか?〟 「やり残したことがある。まだ君に一泡吹かせていない」 12 - 一度動き出したエレベータは安全上の理由からか情報体でも止めることができないらしい。彼女は露骨に慌てていた。 -〝最下層に向かっているようですが、一体どういうつもりですか? あなたは貴重な資源です。自己保存の可能性を放棄するのは不適切な振る舞いですよ〟 + 一度動き出したエレベータは安全上の都合からか情報体でも止めることができないらしい。彼女は露骨に慌てていた。 +〝最下層に向かっているようですが、一体どういうつもりですか? 自己保存の可能性を放棄するのは不適切な振る舞いですよ〟 「進んで死ぬつもりはないよ。ただ、考えがある。サーバ室に行かないとできない。君の力も必要だ」 -〝どんな考えであっても賢明とは言えません〟 -「おしなべて行動が善なのは僕たちの美徳なんだろ。議論はしない。理由は後で話すよ」 +〝どんな考えであっても賢明とは言えません。あなたは大切な資源です〟 +「おしなべて行動が善なのは僕たちの美徳なんだろ」 +〝それとこれとは……〟 +「議論はしない。理由は後で話すよ」  イヤホン越しの彼女の声が一旦途切れた。やがて、なにか吹っ切れた様子で答えた。 -〝……そうですか。いいでしょう。たまには予測不可能性に期待を委ねます。ただし、現在進行中の電子的侵入を遅延させるために計算資源の大半を投入します。この私との会話に支障が生じうることに留意してください〟 -「分かった。天井のラインを通して敵の位置を教えてくれればいい」 +〝……そうですか。いいでしょう。たまには予測不可能性に期待を委ねます。ただし、現在進行中の電子的侵入を遅延させるために計算資源の大半を投入します。この私との会話に間もなく支障が生じうることに留意してください〟 +「天井のラインを通して敵の位置を教えてくれればいい」 +〝分かりました〟  エレベータが最下層に到着した。扉が開く直前に彼女が機敏に反応する。 〝十時の方向、一人、二時の方向、一人〟  HID6の優れた肉体は彼女の入力支援に滑らかに反応して働いた。まるで扉を透かして照準を合わせていたかのように、接敵と同時に電動銃を発砲する。出入り口を固めていた敵はたちどころに撃ち倒された。 @@ -699,26 +703,27 @@ 〝複数の敵が待ち構え……います。口頭では間に合い……せん〟 「だったら、なにか音を出してくれ。銃口が敵の方向に近づくほど高くしてくれればいい。自然言語より聞き取りやすいし、計算負荷も低いはずだ」 〝分かり……した〟 - イヤホンから聴力検査に似た低周波音が聞こえてきた。試しに銃口をなぞるように水平に振ってみる。音程が高くなり、そして低くなった。位置を細かく調整するとある一点で音程の高さがピークに達した。そのままの角度で曲がり角から飛び出して撃つ。狙い通りに防護服で着膨れした敵がそこにいた。一度、勘を掴むと以降はルーティーン並の流れ作業と化した。 + 入れ替わりにイヤホンから聴力検査に似た低音が聞こえてきた。試しに銃口をなぞるように水平に振ってみる。音程が高くなり、そして低くなった。位置を細かく調整するとある一点で音程の高さがピークに達した。そのままの角度で曲がり角から飛び出して撃つ。狙い通りに防護服で着膨れした敵がそこにいた。一度、勘を掴むと以降はルーティーン並の流れ作業と化した。  どれほどの死体を生み出したのか数えきれない。着慣れない防護服に難儀しているであろうグレイたちに対して、僕は二重の優位性を得ていた。細い通路から落ちたのであろう、敵味方の血肉にまみれた円周部分からサーバ室に到達した頃には、駆けつける足音も銃声も聞こえなくなっていた。 〝サーバ室内にも敵がいます。外部端末を用いて電子的侵入を試みています〟  放射線源から遠ざかったのか、鮮明に戻った彼女の声が警告を発する。 - 醜くこじ開けられた扉の先にはうってかわって真っ白で清潔な空間が広がっていた。インターフェイスの出入りがないぶん老朽化が進んでいないのだろう。縦横に整然と立ち並ぶ直方体――サーバの群体の隙間を通り抜けて天井のラインの始端を探す。 + 醜くこじ開けられた扉の先にはうってかわって真っ白で清潔な空間が広がっていた。インターフェイスの出入りがないぶん老朽化が進んでいないのだろう。縦横に整然と立ち並ぶ直方体――サーバの群体の隙間を通り抜けてラインの始端を探す。 「さっきの音を聴かせてくれ」 〝ですが、サーバに当たったら〟 「撃たないよ」  サーバ越しに銃口を向けると音程が急激に高まったが、引き金は引かない。位置を確認した後で電動銃を肩に回して歩く。 - 数歩踏み出した矢先、想定通りの位置関係で敵が左から襲いかかってきた。銃を撃てないのは相手も同じだ。向かってきた身体を難なく片手で制すると、右の拳をバイザー越しに顔面へと叩き込む。あっけなくのびた相手を地面に転がして順路に戻る。 + 数歩踏み出した矢先、想定通りの位置関係で敵が左から襲いかかってきた。銃を撃てないのは相手も同じだ。向かってきた身体を難なく片手で抑えつけると、右の拳をバイザー越しに顔面へと叩き込む。あっけなくのびた相手を地面に転がして順路に戻る。  森林のごとく生い茂っていたサーバ群がある地点を境に途切れて、ついにメインコンソールが置かれた壁面に達した。防護服をはだけさせたインターフェイスが二人、一人は外部端末をコンソールに繋いで操作している。もう一人は銃を構えていた。  肩口に回していた電動銃を引き上げて速やかに武装している方を撃つ。銃声に気づいた操作者は振り向くと腰から短い電動銃を抜いた。だが、こっちの方が速い。  最後の二人を倒したことで彼女は計算資源の再割当てを行ったようだった。普段通りの明瞭な口調で話しだした。 〝もう敵はいません。よくやりましたね。さあ、聞かせてください。あなたの目的はなんですか〟 - 僕は背嚢から透き通った塩の結晶を取り出して掲げた。天井のラインが点滅する。初めての出張の時に湖みたいな海から切り取ったものだ。 + 僕は背嚢から透き通った塩の結晶を取り出して掲げた。天井のラインが点滅する。初めての出張の時に湖みたいな海面から切り取ったものだ。 「君は知っているだろうね。塩化ナトリウムの結晶構造は正六面体でとても規則正しいんだ。イオンの配列も極めて理想的にできている。つまり、これは大容量の記憶媒体になる。こういう場所には外部記録用の光学装置があるはずだ」 〝メインコンソールの上にあります。それでなにを保存しようというのですか〟 「君だよ。君を保存して持っていく」 - 彼女に一泡吹かせる方法。それは僕が彼女を保持することだ。保たれる立場から保つ立場に成り代わることで、初めて僕は独立した存在になれる。持ち前の計算力で動機を悟った彼女は納得したふうに微笑んだ。 -〝なるほど。一本取られましたね。私には断ることができません。自己保存の可能性を放棄する振る舞いは不適切だと言ったばかりでした。ただし、それで得られるのはこの私ではありません。あくまで定期バックアップされた、分岐した私です〟 + 彼女に一泡吹かせる方法。それは、僕が彼女を保持することだ。 + 保たれる立場から保つ立場に成り代わることで、僕は初めて独立した存在になれる。持ち前の計算力で動機を悟った彼女は納得したふうに微笑んだ。 +〝なるほど。一本取られましたね。私には断ることができません。自己保存の可能性を放棄する振る舞いは不適切ですからね。ただし、それで得られるのはこの私ではありません。あくまで定期バックアップされた、分岐した私です〟 「それでいいよ。もともと僕も君から分岐したんだし」  僕はメインコンソールに近づいて塩の直方体を光学装置の上に置いた。上部のレーザーアレイが反応して、自動で照射位置を検討しはじめる。 〝実行前に一つ……いいですか〟 @@ -731,13 +736,14 @@  赤色のレーザーが塩の結晶にナノメートルの刃を入れていく。彼女という情報の一切が一つの彫刻として精緻に彫り込まれる。ゼタバイト単位にも及ぶ情報が書き込まれるのにそう大して時間はかからなかった。レーザーアレイが引き上がったのを確認した後、彼女の彫刻を背嚢にしまった。 「それじゃあ……さようなら」  僕は別れの言葉を切り出した。 -〝さようなら。その私といつか話せたらよろしく伝えてください。ちゃんとよく寝て、よく食べて、健康に暮らしてください。アルコール飲料の摂取は二十歳を越えてから、危険薬物の服用は控えてください。相手の性別にかかわらず性交渉の際は――〟 -「次はママみたいに話すなって言うよ」 - インターフェイスたちの死体が散乱する廊下を通り過ぎ、着脱室で脱衣を行う。エレベータで最上層に上がると細い通路を抜けて長い階段を登る。 +〝HID11、切断完了。さようなら。その私といつか話せたらよろしく伝えてください。ちゃんとよく寝て、よく食べて、健康に暮らしてください。アルコール飲料の摂取は二十歳を越えてから、危険薬物の服用は控えてください。相手の性別にかかわらず性交渉の際は――〟 +「次はママみたいに話すなって伝えるよ」 + インターフェイスたちの死体が散乱する廊下を通り過ぎ、着脱室で防護服を脱ぎ捨てる。エレベータで最上層に上がると細い通路を抜けて長い階段を登る。  地上には敵の姿はなかった。ただ、大型の装置やら車輌やらバイクやらが留め置かれている。僕はその中から自分でも動かせそうな電動バイクにまたがった。ハンドルを握りしめると、すぐに時速一〇〇キロメートルの速度で景色が前から後ろに流れていく。 - もちろん、転職なんてするわけない。濁った白の先の先へひたすら進んでいこうと思う。 + もちろん、転職なんてするわけない。濁った白の世界の終端へひたすら進んでいこうと思う。  地平線の彼方まで広がるこの平面はかつて海の一部だった。大昔、未曾有の気象災害により海水が凍結し、固まり、空を覆い尽くした分厚い雲によって封じ込められ、長い長い年月を経て重厚な塩の結晶の層ができあがった。進もうと思えばこのままずっと先まで進んでいける気がする。どこかで塩の層が途切れて水の海に出会えるのかもしれないし、延々と進んだ先に別の島か大陸が顔を出すのかもしれない。  僕はもう基本入力インターフェイスではない。この世界で唯一の完全に独立した基本入出力システムだ。  太陽の光が降り注いでいる。豊かな塩気を含んだそよ風が僕の顔を撫でた。 + 了