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標準入力インターフェイス.md
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標準入力インターフェイス.md
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@ -411,7 +411,7 @@ HID6はさらに一歩踏み出して、自分の背嚢を片手で引き下げ
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久しぶりの陽光、柔らかく吹き抜ける塩気を含んだ風は秘め事を抱えている身でも格別だった。世紀を隔てても変わらない塩の大地が相も変わらず悠然と地平線の彼方まで広がっている。その白く濁った表面にまるで頬ずりするように靴底をすり合わせながら、しばらく道のりを楽しんだ。
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久しぶりの陽光、柔らかく吹き抜ける塩気を含んだ風は秘め事を抱えている身でも格別だった。世紀を隔てても変わらない塩の大地が相も変わらず悠然と地平線の彼方まで広がっている。その白く濁った表面にまるで頬ずりするように靴底をすり合わせながら、しばらく道のりを楽しんだ。
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先を行く三人の口数はおしなべて少なかった。プロフェッショナルらしくこの先の危険に備えて体力を温存しているのか、あるいは企みの行く末を案じているのか。例の二人は周縁地域にも達していないうちから大型の電動銃を片時も手放さなかった。HID6の号令に合わせて休息をとる時も、食事の際にも必ず手が届く位置に電動銃があった。必ずしも予期せぬ敵の襲来を危惧してのことではない。たぶん味方も信じていないのだ。唯一、状況をなにも知らされていないであろうHID45もそんなピリピリした雰囲気を察知したのか、食事後には電動銃を広げだした。その隙に、僕は容器を片付けるふりをして背嚢の中からカメラを取り出して胸ポケットに装着した。レンズの部分がちょうどよく生地の切れ目から顔を出す格好だ。スイッチを押す。以降、すべての出来事が記録される。よほど注意して見られなければこれがカメラだとは気づかれないだろうが、念のためにあまり正面で向き合わない方が望ましい。幸いにも歩行中、僕の位置はずっと最後尾だった。
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先を行く三人の口数はおしなべて少なかった。プロフェッショナルらしくこの先の危険に備えて体力を温存しているのか、あるいは企みの行く末を案じているのか。例の二人は周縁地域にも達していないうちから大型の電動銃を片時も手放さなかった。HID6の号令に合わせて休息をとる時も、食事の際にも必ず手が届く位置に電動銃があった。必ずしも予期せぬ敵の襲来を危惧してのことではない。たぶん味方も信じていないのだ。唯一、状況をなにも知らされていないであろうHID45もそんなピリピリした雰囲気を察知したのか、食事後には電動銃を広げだした。その隙に、僕は容器を片付けるふりをして背嚢の中からカメラを取り出して胸ポケットに装着した。レンズの部分がちょうどよく生地の切れ目から顔を出す格好だ。スイッチを押す。以降、すべての出来事が記録される。よほど注意して見られなければこれがカメラだとは気づかれないだろうが、念のためにあまり正面で向き合わない方が望ましい。幸いにも歩行中、僕の位置はずっと最後尾だった。
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塩と土の大地を交互に踏みしめて半日近くも経過すると、さすがにベテランの大人たちの足取りにも疲れが見えてきたようだった。休憩の合間に仕事の段取りを軽く説明して、また歩き続ける。橙色の濃い夕陽が顔に差しても行軍は止まらず、南半球に引っ込んだ太陽と入れ違いに月が顔を出す頃になり、ようやく野営場所が確定した。
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塩と土の大地を交互に踏みしめて半日近くも経過すると、さすがにベテランの大人たちの足取りにも疲れが見えてきたようだった。休憩の合間に仕事の段取りを軽く説明して、また歩き続ける。橙色の濃い夕陽が顔に差しても行軍は止まらず、南半球に引っ込んだ太陽と入れ違いに月が顔を出す頃になり、ようやく野営場所が確定した。
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「ここはもう周縁部ではない。敵の勢力下だ」厳かな口調でHID6が口火を切り、さらに続けた。「二人ペアで見張り番をする。四時間おきに交代する」みんなは無言で頷いた。彼の指示で最初の組分けは僕とHID23に決まった。言うまでもなく意図は分かっている。企みを知っている者とそうでない者同士で振り分けたのだ。寝袋を引き出す間際、二人が目配せを交わしたのを見逃さなかった。
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「ここはもう周縁部ではない。敵の勢力下だ」厳かな口調でHID6が口火を切り、さらに続けた。「二人ペアで見張り番をする」みんなは無言で頷いた。彼の指示で最初の組分けは僕とHID23に決まった。言うまでもなく意図は分かっている。企みを知っている者とそうでない者同士で振り分けたのだ。寝袋を引き出す間際、二人が目配せを交わしたのを見逃さなかった。
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大型の電動銃を斜面に二つ並べて暗闇をしばらく見つめていると、隣からぼそりと声がした。
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大型の電動銃を斜面に二つ並べて暗闇をしばらく見つめていると、隣からぼそりと声がした。
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「お前、HID11と言ったか。確かに見た目より骨があるな。あんなに歩かされたのに音を上げなかった」
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「お前、HID11と言ったか。確かに見た目より骨があるな。あんなに歩かされたのに音を上げなかった」
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「しょっちゅう重い服を着てシェルターを駆けずり回っていたからね」
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「しょっちゅう重い服を着てシェルターを駆けずり回っていたからね」
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@ -421,153 +421,158 @@ HID6はさらに一歩踏み出して、自分の背嚢を片手で引き下げ
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「あの時は少し疲れてね。でもやっぱり内勤も飽きちゃった」
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「あの時は少し疲れてね。でもやっぱり内勤も飽きちゃった」
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「そりゃそうだろう。老いぼれか女しかやらないような仕事だ」
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「そりゃそうだろう。老いぼれか女しかやらないような仕事だ」
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顔を向けなかったのは正解だ。きっと今の僕はムッとしているに違いない。肌感覚として、内勤のインターフェイスに老体や女性が多いのは事実だが、決して見下されるような仕事ではない。内勤に従事する標準入力インターフェイスがいなければシェルターはとっくに崩壊しているだろう。
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顔を向けなかったのは正解だ。きっと今の僕はムッとしているに違いない。肌感覚として、内勤のインターフェイスに老体や女性が多いのは事実だが、決して見下されるような仕事ではない。内勤に従事する標準入力インターフェイスがいなければシェルターはとっくに崩壊しているだろう。
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「おじさんは出張が多いのかな」
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「おじさんは出張が多いの?」
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なんとか平静を装って水を向けると、HID23は自慢げに答えた。
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なんとか平静を装って水を向けると、HID23は自慢げに答えた。
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「まあな。一度慣れると他の仕事は退屈で仕方がねえ」
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「まあな。一度慣れると他の仕事は退屈で仕方がねえ」
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「じゃあもう何人も殺……やっつけたんだね」
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せめて非難がましく聞こえないように言い回しを変える。すると、ますます大胆な態度が口ぶりに表れた。
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「メシを食うのとさして変わらないね、俺にとっちゃ」
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その時、ちらりと漆黒の奥が光った。「ねえ、あそこ光らなかった?」隣のベテランの見解を待つまでもなくさらにもう一度光る。「本当だ」次第に光は激しく交錯し合う。前回とは違ってひどい荒れ模様だ。「銃撃戦というよりはもはや乱戦だ」しばらくするとそれらはぷつりと途絶えた。
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「どっちかが勝ったのかな」
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今度こそ照準から顔を離して合わせる。同僚は興奮がちに言った。
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「あんなに間近だと相打ちの可能性もある。だが一応、他のやつらを起こさねえと――」
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HID23が立ち上がって振り返った途端、不可視のエネルギーがその肩口を鋭く捉えた。かすかな硝煙とともに血飛沫が舞う。短いうめき声を漏らした彼は斜面を転がっていく。慌てて銃座を放棄して駆け寄りかけたが、同時にHID6の言いつけを思い出した。
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〝もし先にどこからか撃たれて、運良くお前が死んでいなかった場合――とにかく撃ち返せ〟
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いざ暗闇と相対してトリガーを引き絞ると、驚くほど簡単にエネルギー弾が発射された。直後、瞬いた光がすぐ直近の敵の姿を捉えた。距離にして一〇歩もない。スキップすればハイタッチもできそうだった。敵は牽制射撃と奇襲で二手に別れていたのだ。目を見開いた途端、影に似た敵は驚くほど俊敏に接近してきた。
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もし僕が下手に経験豊富な大人だったらきっとやられていたに違いない。本能的な恐怖から電動銃を持ち上げて盾のように構えると、そこへまっすぐ敵の腕が迫った。がちりと金属音が鳴り響く。月明かりを照り返す鋭い銀色の輝きが死の匂いを感じさせる。敵は電動銃ではなくナイフを持っている。
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初手を防がれた敵はしかし、軽い身のこなしで僕を押し倒すとすぐさま覆い被さった。再度、ナイフが頭上にきらめく。黒装束に覆われた目元がかすかに歪んだ。
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「子ども……!?」
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一瞬、振り下ろされかけた刃の切っ先が止まった。直後、真横からエネルギー弾が発射された。胴体を塞ぐ黒い塊が横に傾いで倒れ込んだ。入れ替わりに、HID6の顔が現れる。
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「夜勤<ナイト・シフト>を見て生き残るとは運のいいやつだ」
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決死の瞬間をくぐり抜けて、ようやく僕は自分がろくに呼吸もしていなかったことに気づいた。急速に駆動を再開した呼吸器官の痛みに胸を抑えながら地面を転がる。胴体に風穴が空いた敵の死体が見えた。噂に聞く残忍な夜勤<ナイト・シフト>の素顔はいたってありふれた中年女性だった。
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ひゅっと甲高い音がして、自分の真横を運動エネルギーの塊が通過していった。瓦礫の壁が砕けて砂塵が舞う。あげかけた悲鳴を喉元で抑え込んだが、どのみち意味はなかったようだ。たぶん、彼は最初から気づいていたのだ。それどころか、ここについてくるように仕向けていた。
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「おーい、坊主! 出てこいよ! いい話がある!」
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牽制射撃で動きを封じておきながら、彼の声はぞっとするほど朗らかだった。それでも懸命に気取られまいと僕は物見遊山のふりをしてふらふらと近づいていく。
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「なんだ分かっていたのかあ、実は挨拶しようと思ってたんだ、たまたま材料を探していて……」
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「そうか、まあ久しぶりだな。見ての通り、こいつらは他社の標準入力インターフェイスだ」
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こちらの言い分をまるで信じていない態度で彼は横に立つ人物を紹介した。抜け目ない狡猾そうな表情をした二人は口も利かずに黙って会釈をする。僕も努めて明るく返す。
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「君、話し合いとかできたんだな。てっきり撃ち殺してばかりなのかと」
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皮肉を交えて石を投じてやるも、HID6に気を払う様子はなかった。横の二人も平然としている。
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「普通はな。昨日もやってきたばかりだ。背嚢に首が入ってる。見るか?」
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「……それで、いい話というのは?」
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口を開いたのはグレイの作業服を着た方だった。
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「正直、我々にとって貴殿の介入は想定外なのだが……」
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「いや、いいよ。おれが推薦する。こいつは成体未満だ」
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無表情のまま渋る二人に対して彼が顎でしゃくると「確かに」ともう片方が納得した。
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「成体じゃなかったからどうだっていうんだ」
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「成体でなければ成長余力が見込まれる。つまり適性の修正幅が大きい」
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グレイの一人が手短に説明した。これまでずっと他の標準入力インターフェイスより背が低く、膂力も小さく、肉体性能に劣っていることに気後れしていたが、視点を変えればそういう見方もできるらしい。
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「じゃあおれとこいつが転職ってことでいいな」
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「……いいだろう。シェルターの座標と武装の概要は把握した」
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「転職? 転職ってなんだ」
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また知らない単語が出てきた。もちろん地上に人類がいた頃の単語としては理解している。昔の社会には様々な職業があり、個人の希望と需要に合わせてそれを変えることができた。だが、今のご時世に標準入力インターフェイス以外の生き方が肉体を持つ者にあるとは思えない。
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HID6は僕の背丈に合わせて少し屈み、噛んで含めるように言った。
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「おれたちのシェルターはもう終わりだ。開発競争で負けているし、持っている情報量も少ない。おまけに便器はいつも糞まみれ。このまま所属していてもジリ貧だ。だから、転職する」
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「え、それは、つまり――」
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「我が社の標準入力インターフェイスに移り変わるということだ。代わりにシェルターの位置、セキュリティ、武装、施設内の構造について教えてもらった。近年中に襲撃する予定だ」
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それは、つまり、産業スパイじゃないか。背任行為だ。
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グレイの二人のうち片方が背嚢から電動銃を取り出した。口で言わなくても態度は伝わる。心なしか僕たちの武器よりも洗練されているように見えた。そこへ、巨体の彼が割って入る。
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「悪いことは言わねえ、黙って首を縦に振れ。お前が土いじりを続けたいっていうんならしばらくは構わない。グレイの作業服を着てやればいい。どうせそのうち気が変わる。おれの目は確かだ」
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「分かった、分かったよ。待遇が確かなら転職する。僕は会社にこだわりはない」
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それ自体は、嘘ではなかった。遠い昔に死んだ両親が少数株主で、たまたま契約していたシェルターだったからという理由なくして僕がオレンジの作業服を着る意味はない。なにか一つでも前提条件が違えば、僕は喜んで今いる会社の全員を死に追いやっただろう。
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しかし。
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ただ僕は彼が許せなかった。巨体で親身な彼が喜んで人殺しをしていたこと、それでも会社の利益のためだと思い込もうとしていた信頼を再び裏切られたこと。そこに始末をつけることが僕にとっての最優先で、他の事柄は些事でしかなかった。
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「念のために武器を押収したい。これからシェルターの付近まで同行してもらう。一応確かめておかなければ」
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「こいつは武器を持たないやつなんだ」
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「いや、彫刻を掘るためにナイフを持ち歩いている」
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「たかがナイフだろ」
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グレイの片方は首を振って手を突き出した。「ナイフも武器には違いない」僕は腰を落として背嚢を前に回し、ナイフを差し出した。代わりに受け取ったHID6が振り返ってグレイの片方に手渡す。
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今の彼は隙だらけだ。
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僕はすばやく背嚢から塩でできた鋭い彫刻を抜き取り、広々とした巨躯の肩に突き刺した。ところで、塩のモース硬度は二.〇以上もある。石膏より固い。尖った先端は筋肉の中に吸い込まれるように入り込んでいき、僕の手元に生々しい嫌な感触を残した。彼の野太い絶叫が辺りにこだまする。そうして抜き取った塩の塊を、痛みから膝をついた巨体の向こう側――グレイの片割れに向かってまっすぐ投げつけた。今度は刺さりはせず手にぶつかって落ちる。それでも電動銃を放り出させるには十分だった。
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未発達な肉体に有利な点があるとすれば身軽なところだ。前に放り投げられた電動銃を前に踏み出して拾い上げると、ろくに照準も合わせずグレイの作業服に向かって発砲した。洗練された外見に相応しい洒落た音をたててエネルギーの弾丸が相手の胴を貫く。続けて、わずかに銃身を水平にずらしてもう片方も始末する。
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なにも頭で考えてやってのけたわけではない。彼に塩の彫刻を刺してから先のことは行き当たりばったりだった。
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「くっ、このガキ……」
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振り返ると顔を激情に歪めた同僚が肩を抑えて立ち上がっていた。今度こそ、逃げるしかない。
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僕はありったけの力を込めて美しい作りの電動銃を瓦礫の山の遠方に打ち捨てた。直後、背嚢を手に取って脱兎のごとく駆け出す。走り出して少し経つと滑稽な雰囲気の銃声が背後から聞こえてきた。彼が自分の電動銃を撃っているのだろう。瓦礫の壁の間をすりぬけるように走ってやり過ごす。ほどなくして振り返ると、山のような巨体が必死で追いすがってくるのが見えた。
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毒々しい夕暮れの強い日差しが乳白色の地面を照らす。その合間を二つの人影が通り過ぎて大きく間延びした影を作る。それはさながら巨人同士の戯れに見えた。だが、現実、僕は殺人者に追われていて僕も今では殺人者になってしまった。正当防衛を主張する論拠は乏しい。彼の言う通り黙って頷いていれば危害を加えられないであろう確信はあった。長距離走に特有の脇腹の痛みに苛まれながら、今になってなぜこんなことをしでかしたのか後悔の念が湧く。突沸した熱湯のごとく湧き出した怒りが僕を動かしたのだ。あえて平易に表現するならこれを反抗、と呼ぶ。
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当初のリードは僕の体力的限界に応じてみるみるうちに縮んでいった。ちらと振り返ると彼も決して気楽そうではなかったものの、それでも一〇〇メートルも間隔はない。一気にペースを上げて距離を詰めないのは追いついた後の取っ組み合いを想定してのことだろう。彼は背嚢も武器も置いてけぼりにしてきたので丸腰だが、こっちは背嚢を背負っている。むろん、唯一の正規の武器であるナイフを差し出し、塩の結晶の塊も電動銃も投げ出した今では同じく丸腰だったが、中身が不明な荷物を持っているというだけで相手は手を出しにくい。
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ここへきて今さら話し合いは通じないだろう。捕まったら素手でも殺される。なぜなら彼には僕がしようとしていることが分かっているからだ。僕もまた彼の殺意を認めているからすべきことが決まっている。このままシェルターに直進して、競合他社による襲撃を情報体の人々に知らせなければならない。
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やがて距離間隔は五〇メートル、三〇メートルへと縮まり、シェルターの階段が石畳から引き出される頃には一息で追いつかれそうな位置にまで近づいていた。転がるようにして階段を降りてドアをくぐる。シェルターの大きなハンドル付きの扉はしばらくすると勝手に閉じてまた開くまでに時間がかかるが、今回の場合は手近すぎて彼を押し止める役には立たない。暗闇を左右に湛えた細い通路をなるべく急いで移動する。もう彼の黒々とした顔つきがはっきり見えるほどの間隔しかない。勤務評価室で彼女を呼び出している暇などない。シェルター内での標準入力インターフェイス同士の殺傷をどう扱うのか未知数だが、少なくともA評価常連の彼をいきなり懲戒解雇にはしないだろう。せいぜいしばらく謹慎として冷凍させておくだけで、襲撃後にはグレイの連中が彼を解凍している。ここに逃げ込めたことは僕にとってなんの安全も保証しない。
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通路を抜けたあたりで背後から銃声がした。ただでさえひび割れた壁面に弾痕が穿たれる。危険物室から別の電動銃を取ってきたのだろう。ついに追いかけっこに業を煮やしたのだ。三発目の銃声が響いたあたりで、僕は肩口に鋭い衝撃を感じて横の壁に身を叩きつける結構となった。まるで鋭利な熱湯の塊を浴びせられたような鮮烈な痛みが押し寄せて、声にならない悲鳴をあげる。噴き出した血漿が薄汚れた壁面や床に血溜まりを作った。
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それでもチェンバー室は目の前だった。走っているとはとても言いがたい足取りで追手から逃げ惑う僕に残された手は、もう一つしかない。血で汚れた手でチェンバー殻の湾曲した表面を叩いて内部に転がり込む。殻が閉じきったあたりで電動銃を手にしたHID6が目の前に立ちふさがった。さしもの彼も長距離走はさすがに堪えたようで、顔いっぱいに汗をかいて息を切らしている。無言のまま電動銃を構えてチェンバー殻に向けた。
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だが、電動銃はオレンジの警告灯を表示して発射機構を閉じた。
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やはり、シェルター内の設備を破壊されないよう予め規制登録してあるのだ。強化ガラス越しでも分かる仕草で舌打ちすると、彼は大仰に電動銃を投げ捨てた。そして、これまたガラス越しでもよく通る大声で言う。
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「ふん、そのまま寝たければ寝るがいい。起きた瞬間に首をひねって殺してやるからな」
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まるで研ぎ澄まされた肉体を見せつけるようにその場で脱衣した彼は、大股開きで近くのシェルター殻に入り込んだ。僕より先に解凍されるつもりだ。
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シェルター殻の内部で警告音が鳴り響いた。湾曲した表面に文字列が二行ぶん並ぶ。
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〝警告。着衣状態では正常な冷凍が行われません〟
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〝警告。バイタルに異常を検知。正常な冷凍が行われません〟
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一体、誰に聞こえるのかも定かでない状況で、僕は叫んだ。
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「構わない、強制的に冷凍してくれ! それで、あいつよりも、HID6よりも早く解凍してほしい!」
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〝その要請には従えません。解凍処理は接続要請が行われた時にのみ行われます〟
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「なんでもいい! なにか、理由を、考えて……」
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〝強制冷凍シークエンス開始。当社の保証範囲外です。問題発生時につきましてはお客様の……〟
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シューッとガスが吹き込む音がして、徐々に僕の意識は遠のいていった。不出来で未発達でおまけに流血もしている肉体の頭部にドライバが差し込まれる……。
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夢は見ない。冷凍されている間の脳は当然ながら細胞レベルで活動が停止しているため電源を落としたコンピュータとなんら変わりはない。電源がないコンピュータが電気羊の夢を勝手に見ないように、我々の意識もまた諸神経の活動レベルに合わせて連続的に再開される。次に目が覚めた時、湾曲したガラスの表面に示された文字列がにわかに僕の恐怖を細胞レベルで呼び覚ました。胸の高鳴りが警告音と並走する。
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〝標準入力インターフェイス11:接続処理中〟
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「待て、待ってくれ、出さないでくれ」
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哀願を無視してシェルター殻が前にせり出す、ガラスを引き戻そうと突き出した腕が無慈悲にも空を掻く。
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そこで僕は違和感に気がついた。浅黒い隆々とした腕はどう見ても自分のそれではない。顔を傾けると、腕の付け根の肩口にはさらに盛り上がった筋肉が配されていて、なにか鋭いもので刺されたような傷跡があった。
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正面を向くと、ガラスの表面に蛍光灯の光が差して自分自身の姿が映り込む。黒々とした逞しい顔、鎧のような肉体は、明らかにHID6そのものだった。
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「これは……」
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〝解凍処理の失敗につき、ハードウェアの換装を行いました〟
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前に踏み出すと太ましい両脚が即座に応じた。チェンバー室の中央には見慣れない中肉中背の男が立っている。僕の姿を見た瞬間、狼狽を隠せない様子で叫んだ。
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「お前、お前……返せっ、おれの身体……」
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「君、まさか、HID6なのか」
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口を衝いて出た音は野太く低く、とても自分のものとは思われなかった。状況から推察して、僕の本来の肉体は死んだのだろう。着衣のまま出血も多量にしていてはスシ・レストランの下働きが下処理を誤ったツナのように腐敗してもおかしくない。しかし、取り出された脳は生きていた。保存されている肉体の中でもっとも適合性の高いものが自動的に選択されたのだ。それが、HID6の肉体だった。
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||||||
HID6が突進してきた。なるほど中肉中背の身体でも元の僕だったらきっとひとたまりもなかっただろう。しかし、今の僕にとってはまるで止まっているように見える。難なく向かってきた相手の首筋を片手で掴むと、そのまま真上に持ち上げた。目測で一八〇センチメートル近くはありそうな成人の裸体が宙に浮く。首を強く締め上げているので彼の口からは声にならないうめき声が漏れた。
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||||||
自分の身体に絞め殺されるかもしれないというのはどんな気持ちなのだろう。しばらく逡巡した後、僕は手近なチェンバー殻に彼を文字通り片手で持ち運んでいき、そのまま投げ飛ばした。彼が起き上がる前に殻の表面を叩いて再び冷凍シークエンスを開始させる。いずれにしても、処分を決めるのは情報体の仕事だ。
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||||||
巨躯を駆って人生最後になるかもしれないモーニングルーティーンを済ませる。食事と水分補給はこの身体だといつもの三倍は食べないと満足しなかった。ブリーフィング室に着くとさっそく、立体映像の彼女を呼び出す。彼女は姿が変わってしまった僕に少々驚き、また痛み入るような眼差しで見つめたが、怯まずに堂々と物申した。
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||||||
「今すぐ稼働可能な標準入力インターフェイスをすべて起こしてほしい。緊急事態だ」
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||||||
冷凍されてから何年経ったが分からないが、グレイの連中がいつ攻めてくるか定かではない。
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〝一体なにが……〟
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「今回は全員休日出勤だ」
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10
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10
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僕の証言と突き合わせて被疑者とされたHID6の半解凍大脳を走査して、これから迫りくる脅威の真実性が明らかとなると情報体の間で直ちに緊急の会合が持たされた。地上に露出したセンサ類は紛うことなく隊列をとって移動する集団の姿を捉えている。
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その日は全員起きたまま警戒にあたったが、二度目の襲撃はなかった。おそらく奇襲役の夜勤<ナイト・シフト>がこちら側を一人も削れずに死んだことで仕事を諦めたのだろう。肩に深手を負ったHID23は僕とHID45で運搬することになった。寝袋を使って即席の担架を拵えたのだ。
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||||||
聞いたこともないような警告音がシェルター内に鳴り響き、危険物室の中身が一切合切取り払われ、すべての標準入力インターフェイスが武器を手に持って一堂に会した。これほどの人数が同じ勤務シフトを組むことになったのは例を見ない。中でも目を見張るのは夜勤<ナイトシフト>の面々だった。意外にも老若男女の多彩な顔ぶれが並ぶ列に武器が手渡されると、もうすでに戦闘の検討が済んだとでも言いたげに各々の持ち場へと向かいはじめる。
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幸いにも前日の進捗が良好だったおかげでさほど苦労せずに目的地にたどり着いた。HID6が「ここだ」と言った箇所は四方が瓦礫の山に囲まれていたものの、納品物の合金が転がっていそうには見えなかった。かといって地下施設や家屋を目指す気配もない。いよいよ僕は例の企みが実行に移される気配を感じた。
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陣頭指揮は僕が取る形となった。皮肉にもA評価常連の巨体は人々を従わせる上で相当な効力を発揮した。元の肉体ではとてもうまくいかなかっただろう。
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「ちょうど予定時刻だ」
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競合他社はおそらくHID6が直前にシェルターの扉を開放して招き入れることを念頭に置いているはずだが、かといってそれに依存して計画を立てるとも思えない。強襲の日に扉が閉まっていれば、それはそれで破壊する技術をすでに持っていると考えられる。したがって扉は予め開けて待ち受ける方針が支持された。たとえ最終的に防衛に成功しても破損した扉を修繕する能力を我々は持っていない。不正侵入を防げないシェルターは無力だ。せいぜいスパイが活躍していると思わせて、油断して入り込んできた初期投入戦力を削るのが手っ取り早い。
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彼がそう言うが早いか、瓦礫の隙間の奥から徐々に走行音がうなりをあげ、標準入力インターフェイスたちが電動バイクを駆って現れた。二人ともグレイの制服を着ている。競合他社の人間だ。退路を塞ぐように僕たちの来た道にバイクを止めると、慣れた仕草で降りてすぐさま洗練されたデザインの電動銃を突き出す。担架に両手を塞がれている僕たちは早くも形勢を失った。HID45が「なんだこいつらは」と声をあげたが、HID6は無視して二人に話しかけた。
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勤務開始から八時間が経過してすでに時間外労働に入りはじめた頃、センサが石畳の上に人影を察知した。相手の計画ではシェルターに帰還するHID6に続いて競合他社が侵入する手はずになっていたが、こちらの都合上、HID6に擬態した僕がシェルターから出て直接出迎える形をとった。
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「誰も武装していない。銃を下ろしてくれ」
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細い通路の対岸に多数の標準入力インターフェイスが潜む中、軋みながら開く巨大な扉の向こうの階段を昇り、地表に立った。さっそく僕を産業スパイと認めたグレイの作業服たちが四方八方から現れて電動銃を突きつける。隊列の一群はそれぞれ電動バイクを持ち、さらにひときわ大きな中世の破城槌に似た台車や、その他の兵器を積載した車輌を伴っていた。
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グレイの二人は能面のような表情の読めない顔でしばらく見つめた後、わずかに銃身の角度を下に傾けた。
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「HID6で間違いないな」
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「転職希望者で間違いないな」
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僕はできるかぎり低く声を出そうと努めたが、実際には杞憂だった。彼の声はもともと低い。
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「そうだ」
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「そうだ」
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「施設内に稼働中の標準入力インターフェイスはいるか」
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「では面接を始める」
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まったくいない、と言うのも嘘くさいので工夫を施した。
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淡白な応答の後に二人はポケットから取り出した小型の端末を僕たちにかざした。どういう意図があるのか分からないが、片手にちらつく電動銃のせいで抵抗はできない。最後に担架の上のHID23に端末をあてると、グレイの片方が言った。
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「内勤適性の者が数名いるのを見た。なに、どうせなにもできやしないさ」
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「以上で面接を終了する。お前とこいつはいいが、この傷ものはだめだ」
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グレイたちの何名かが顔を見合わせて頷くと、僕の方を向いて案内を命じた。
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「そうか、じゃあしょうがないな」
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ぞろぞろと階段を下って、シェルター扉が再び閉まる前に隊列を招き入れる。
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HID6が頷くとグレイたちはあたかも日常の動作みたいに電動銃を持ち上げ、担架の上の同僚に照準を合わせた。身の危険を察知したHID23が手を掲げて静止を呼びかけるも、間もなく頭蓋に大穴が穿たれる。直後、僕とHID45は担架を手放して後ずさった。顔のない死体が投げ出されて地面に転がった。
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細い通路の前で一旦制止して「ここは狭いから一列に並んだ方がいい」と丁寧な助言を申し出る。
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「この子どもはどうする」
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先頭の僕が渡りきったところで、突如、片手を大きくあげて味方に支持を出す。と同時に、射線から外れるように急いで先に進む。哀れにも身動きのとれない通路上に取り残されたグレイたちは、直後に不細工な電動銃の慟哭に包まれて瞬く間に絶命する次第となった。過剰な銃撃の余波でちぎれ飛んだ腕が暗闇へと消えていく。
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「あまり性能は良くない」
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戦闘開始だ。
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「じゃあ殺すか」
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大した間を置かず、銃声を聞きつけた後続の部隊が押し寄せてくる。巨大なシェルター扉を遮蔽にグレイたちが放つ応射は、その洗練された銃声もさることながら少なからずこちらの戦力をすり減らした。先に殲滅した隊列は全体の一部に過ぎない。その時、巨大な擦過音が虚空に響いて老朽化した壁面を炸裂させた。敵の高威力兵器だ。二発目の爆撃に捕らわれたこちらの隊列が瞬時に砕け散った。
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引き起こした惨劇をものともせず会話を始めたグレイたちに、HID6が割って入った。
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いよいよ敵の優勢が鮮明と化したところで、情報体から一斉に退却命令が発布される。これ以上はより狭い空間に引き込んで戦況の泥沼を誘うしかない。
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「待て、こいつはおれの会社で何度も適性を修正している。普通はそんなことはできない」
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八時間の合間に即席で構築したバリケードや遮蔽物の隙間から、細い通路を渡りきってやってくる軍勢を抑え込むように射撃する。しかし電動銃のバッテリーは想定以上に摩耗が早く、電動銃自身の熱暴走も懸念材料であった。一方、目を見張る活躍を見せたのは夜勤<ナイトシフト>の面々で、早々に射列を放棄したかと思えば、廊下の角で各々近距離戦を仕掛け、ナイフ一本とごく抑制された電動銃の発砲で次々と手勢を仕留めて回った。
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「要するに?」
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僕自身も、HID6の肉体によって駆動される正確無比の射撃と皮膚感覚にも等しい警戒意識に支えられつつ、徐々に後退を余儀なくされていく戦場で奮闘を重ねた。
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「若いからだ。現在の性能評価が芳しくなくても投資価値がある」
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「なるほど」
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グレイたちはお互いに顔を見合わせた。そして「いいだろう」と言って銃身を下ろした。
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「一体、これはーー」
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今度は巨体の同僚がぐるりと振り向いて僕に迫った。
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「いいか、おれたちのシェルターは終わりだ。開発競争で負けているし、持っている情報量も少ない。おまけに便器はいつも糞まみれ。このままいてもジリ貧だ。だから、転職する」
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ここへきて、転職というフレーズが躍り出た。今回の出来事のきっかけ。つまり、それは。
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分厚い身体を挟んで向こう側から声がした。
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「我が社の標準入力インターフェイスに移行するということだ。代わりに会社の情報を頂いた」
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目の前の同僚は厳密にはもう同僚ではなくなったらしい。
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「背任行為だ。報告されたらお前もお前の情報体も懲戒解雇されるぞ」
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真横からHID45が非難する声も飛ぶ。だが、HID6は気に留めるそぶりを見せない。
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「もしそれができなかったら?」
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「なんだと?」
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再び、グレイの片割れが端的に答える。
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「情報を頂いたと言っただろう。シェルターの位置、防御設備、すべて把握している。近年中に敵対的買収を仕掛ける予定だ」
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そこへHID6が被せるように言う。
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「悪いことは言わない、黙って首を縦に振れ。お前らの仕事の内容は変わらん。土いじりや内勤の仕事もしたけりゃある。着る制服の色が変わるだけだ」
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「でもそうしたら、他のインターフェイスとか情報体の人たちはどうなるの、僕たちの会社の」
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「どうでもいいだろ、そんなこと。やつらもおれたちのことなんか気にかけちゃいない」
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僕はHID6の目をじっと見つめた。濃い茶色の眼差しにはまだ嘘みたいに温かみがあった。
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ここへ来るまでの間、HID6はいつも通りの頼れる同僚そのものだった。ひょっとすると前に見た殺人者としての光景は見間違いか夢だったのではないかと思うほどに。
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「分かった。会社にこだわりはない」
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「そうか、よし」
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転職予定の同僚は大きな手のひらで僕の肩をぽんぽんと叩いた。
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ある意味で、嘘ではなかった。遠い昔に死んだ父親がたまたま株主で、シェルターの契約が株主優待に含まれていたという前提なくして僕がオレンジの作業服を着る理由はない。
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「念のために武器を押収したい」
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グレイの片方の要請に従い、背嚢から電動銃を取って元同僚に差し出した。振り返った彼がそれを引き渡す。
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「ナイフも持っているだろう」
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「そうだね」
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今度はわざと腰を落として前屈みになり、時間をかけて背嚢の中をまさぐりながらナイフを取り出した。また代わりに受け取ったHID6が振り返り、グレイに手渡す。
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今の彼は隙だらけだ。
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後方のHID45と視線を合わせた。彼は今まさに、背嚢から電動銃を取り出してもう片方のグレイに差し出すところだった。横顔に浮かぶ不安な目元が、交錯すると微かに瞬いた。
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刹那、僕は背嚢から鋭い塩の彫刻を抜き取り、広々とした巨体に突き刺した。塩のモース硬度は二.〇以上もある。石膏よりも固い。尖った先端は彼の筋肉の中に吸い込まれるように入っていき、手のひらに生々しい嫌な感触を残した。彼の野太い絶叫が辺りにこだまする。グレイたちの注意がそれた。
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入れ違いに、HID45が銃身を振り払って構えると眼前のグレイに向けて発射した。続けて、もう片方のグレイにもエネルギーの弾丸を浴びせる。後には顔を激情に歪めた同僚が残された。
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「くっ、貴様ら……」
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「この件は帰ったら直ちに報告する。覚悟しろ」
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銃口を果敢に突きつけてHID45が告げる。HID6が膝をついたまま薄暗く笑った。
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「どう報告する。おれの情報体は大株主だぞ。木っ端インターフェイスどもの証言など」
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「いや、実はずっと証拠を記録していた。これがカメラだ」
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胸元のポケットからわずかにはみでたレンズを指先で叩いて示すと、彼はしばし笑いを止めた。そしてごく静かな物腰で「そうか、やるな」とつぶやいた。
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だが、次の瞬間。
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すばやく起き上がった彼は自らの巨体から塩の彫刻を抜き取り、HID45に襲いかかった。片手で容易く銃身を押さえつけた直後、明後日の方向に振れた銃口からエネルギー弾が何発か飛び出して虚空に消える。役目はそれで終わりだった。彼のもう片方の手に握られた突端が勇敢な同僚の首元に深々と突き刺さる。一回、二回、三回。首筋からどばどばと噴き出た鮮血が忠実な同僚の制服をたちまちレッドに染め上げた。事切れた死体をボロ布でも放るようにして片手で投げ出すのを見た途端、僕は電動バイクに向かって一目散に駆け出した。
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9
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グレイたちの電動バイクは僕にはやや大きすぎたが、跨ってハンドルをひねるとまるで自律的に重心を保っているかのようにまっすぐ走り出した。多少の粗道をものともせず進み、流れゆく景色はさほど時間が経たないうちに濁った白の地平線に置き換わった。滑らかな擦過音と響く風のうなりに紛れて、背後からエネルギーの塊が空気を切り裂いてやってくる。
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ハンドルを強く握りしめながら振り向くと、HID6もまた電動バイクを駆って迫ってきていた。大型の電動銃を片手で器用に操りながら銃撃を重ねる。僕は時々、左右に車体を揺らして射線をずらして対応した。しかしこれこそが元同僚の狙いなのはしばらくの後に判明する。直線に移動し続ける物体と多少なりとも蛇行する物体は、走行性能が同等なら次第に距離が縮む定めにある。
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やがて一〇〇メートル以上あった間隔は五〇メートル前後にまで縮み、電動バイクのタイヤが再び土を踏む頃にはさらに接近していた。
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ソーラーパネルのまばらな群れを通り抜け、辛くもシェルターの前に車体を滑り込ませると運良く隆起していた入り口に急いで身体を滑り込ませる。転がるようにして階段を降りて扉の先の細い通路を全力で駆け抜けた。あと数歩で曲がり角に辿り着くというところで、背後からのエネルギー弾が僕の肩口を切り裂いた。痛みと衝撃に思わず身体を壁面に打ちつけるーー真っ赤な血痕が壁にこびりつき、垂れて床をも汚したーー血の汚れをとるのは厄介だ。内勤のインターフェイスに申し訳ない。
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唐突に力が抜けた身体を引きずりながら廊下を辿り、本来のルーティーンをすべて省略してチェンバー室に向かった。この状況では勤務評価など受ける間もなくカメラを取り上げられる。僕の身を守ってくれるもの……それはチェンバー殻しかない。よろよろとした足取りで手前の殻を叩くと、手のひらの血が表面にべったりとくっついた。せり出した殻が開ききる前に身体を捻り込んで殻を閉鎖する。
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殻が閉まるか閉まらないかの瀬戸際、強化ガラスを隔てて汗と血にまみれたHID6が目の前に現れた。強く殻を叩くも、一度誰かが入ったチェンバーが開くことはない。
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じきに今すぐ殺せないことを悟った元同僚は不敵な笑みを浮かべてガラス越しに叫んだ。
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「それで勝ったつもりか? 言っておくがな、おれは仕事を選べる。今から勤務評価に戻って、次の仕事にお前を指名して入れる。解凍される時は一緒だ。せいぜいよく眠っておくがいい」
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刺し傷をものともせず悠然と立ち去っていく難敵を尻目に、僕はチェンバー殻に向かって叫んだ。
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「なあ、聞こえているだろ! 助けてくれ! 見ただろ、あいつは僕を殺すつもりだ!」
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〝分かっています。しかし現状ではHID6に重罰を課すことはできません。シェルター内のカメラに映っている範囲では危害の証拠は確認されていません〟
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彼女の声がチェンバー殻のスピーカーを通して反響する。きっと彼は最後の銃撃を細い通路の出口から放ったのだろう。あそこは上下が吹き抜けの特殊な構造だからどこにもカメラがない。実際、彼はさっき電動銃を手に持っていなかった。
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「くそっ、証拠はここにあるんだ、全部撮ったんだ」
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胸元の映像技材のスイッチを押した。ランプが二回光って消灯する。録画完了だ。後は観る人さえいれば……。
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〝そこから私が回収することはできません。適切に納品されなけば〟
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彼女が悲痛な声を絞り出す。こんなに感情のこもった声色を聞くのは初めてだった。
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「今、ここから出たら死んでしまうよ、ていうか、もう、眠い……動けない」
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かすんだ視界で傷口を見やると、チェンバー殻が血で満たされるのではと錯覚するほど血が吹き出していた。
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「冷凍、冷凍してくれ、頼む」
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その声には彼女ではなくチェンバー殻のシステムが応答した。湾曲したガラスに文字列が二行にわたって並ぶ。
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<警告。着衣状態では正常な冷凍が行われません>
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<警告。バイタルに異常を検知。正常な冷凍が行われません>
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「いいから、冷凍……なにか、考えてくれ、方法……」
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<強制冷凍処理開始。本シークエンスについて弊社は一切の法的責任を負いません。この件における免責事項をよくご確認頂き……>
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彼女の声はもう聞こえてこなかった。文字列の続きも読めない。不思議と、いつもは不気味で仕方がなかった後頭部にドライバが差し込まれる感覚が妙に心地よかった。
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夢は見ない。冷凍されている間の脳は当然ながら細胞単位で活動が停止しているため、電源を落としたコンピュータと同等の状態に至る。電源がないコンピュータが電気羊の夢を勝手に見ないように、我々の意識もまた諸神経の挙動に合わせて連続的に再開される。次に目が覚めた時、湾曲したガラスの表面に示された文字列がにわかに僕の恐怖を細胞単位で呼び覚ました。胸の高鳴りと警告音が並走する。
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〝標準入力インターフェイス11:接続処理中〟
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「待て、待ってくれ、出さないでくれ」
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必死の哀願を無視してシェルター殻が前にせり出していく。ガラスを引き戻そうと突き出した腕が無慈悲にも空を掻く。そこで、僕は並ならぬ違和感に気がついた。
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視界に映る浅黒い隆々とした腕はどう見ても自分のそれではない。顔を傾けると、腕の付け根の肩口にはさらに盛り上がった筋肉が配されていて、あれほど血を流していた傷口はなかった。代わりに背中に鈍い痛みを感じた。
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正面に向き直ると、ガラスの表面に自分自身の姿が反射して映り込む。
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黒々とした逞しい顔つき、鎧のような巨体は、明らかにHID6そのものの姿だった。
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「これは、一体……なにがどうなって……」
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前に踏み出すと丸太のような両脚が即座に応じた。チェンバー室の中央に立つと、ちょうど対面に狼狽した様子の男が佇んでいるのが見えた。僕の姿を見た瞬間、目を見開いて叫んだ。
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「お前、お前か、お前があのガキか」
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少々高い声で訴えるその男の口調にはひどく心当たりがあった。
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「おじさん、まさかHID6?」
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口を衝いて出た音は野太く低く、とても自分のものとは思われなかった。
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どういうわけか肉体が入れ替わったのだ。
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「返せっ、おれの身体、返せっ!」
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HID6が突進してきた。彼の元の体には及ばないとはいえ、中肉中背の成人男性の肉体だ。以前の僕ならひとたまりもなかっただろう。しかし、今の僕にはまるで止まっているように見える。向かってきた全身を片手で受け止めると、彼の動きは易々と封じられた。信じられないようなものを見る目が僕を見つめた。
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太い腕をぬっと突き出して首筋を掴む。さほど力を入れずとも目測で一七〇センチメートルはゆうにありそうな成人男性の裸体が宙に浮いた。足をじたばたと震わせて口から声にならないうめき声をあげる元同僚をよそに、手近なチェンバー殻を叩いて開くとその中に投げ入れた。すでに気絶している彼にシステムが反応して自動で冷凍シークエンスが開始される。
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後の始末は情報体に任せることにしよう。
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注意深く左右を見て回ると一列に並ぶチェンバーから、かつての自分自身が眠る殻を見つけた。青く霜のふいた生気のない顔で横たわっている。流れる血液ごと凝固している様子はいっそ芸術的でもあった。殻の表面に静かに触って開くと、かつての自分の胸元に聖遺物の神々しさで佇む映像機材を回収した。
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姿かたちが変わってもモーニングルーティーン自体に変化はない。着る服が大きくなり、食べる量と出す量が増えただけだった。
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ブリーフィング室でイヤホンを耳につけると、安堵した彼女の声が出迎えてくれた。
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〝急拵えでしたが、うまくいったようですね〟
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「一体どうやってこんなことを……」
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言葉遣いに似つかわしくない低い声に違和感を覚えつつも尋ねる。
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〝あなたの元の肉体は正常に冷凍処理が行われず、体組織が不可逆的に損傷しました。しかし脳は無事です。このような時、シェルターのシステムは自動で適合する他の肉体を検索します〟
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「まさか、HID6の肉体が?」
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柄にもなく含み笑いがイヤホン越しに聞こえてくる。
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〝もちろん、確率的にそううまくはいくわけありません。私が意図的にHID6の肉体が選ばれるように操作しました。通常であればすでにバインドされている肉体が別人に渡ることなどありえないのですが、あのインターフェイスはあなたを次の入力に指名していました。結果、肉体の確保がシステムの最優先事項となり、自らの肉体を失う結末とあいなったのです。首尾は上々のようですね〟
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僕は霜がこびりついた映像機材をスキャナに置いた。すぐさま彼女の手によって中のデータが読み取られ、一部始終が共有されることとなった。
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〝会社のライバルを蹴落とせた……などと喜んでいる場合ではなくなりましたね。競合他社はまもなく攻めてくるでしょう〟
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厳かな口調で彼女が言う。今頃、並列化した自我が高速で働いているのかもしれない。
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「とにかく、シェルターを守らないと。みんなを起こそう」
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その時、ふと、死んだ両親が時々言っていた言葉を思い出した。それを言う時はいつも緊張感に満ちていた。
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「今回は全員、休日出勤だ」
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もたらされた証拠映像を皮切りに直ちに廃止されていた健康診断が再開された。脳のスキャンによって判明した背任者たちは主犯のHID6も含めて社内会議にかけられ、ほどなくして持ち主の情報体ともども懲戒解雇が確定した。肉体を予備資材として保存した後、生体脳は速やかに焼却処分に処された。同時に、情報体はフルフォーマットにかけられて電子的な死を迎えた。
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敵対的買収の危機に際して解凍された標準入力インターフェイスたちは、みんながみんな出張経験者というわけではなかった。むしろ比率的には内勤や地質調査の方が多い。それでも一様に大小の電動銃が配られ、備蓄資材を用いて新たな武器が製造され、シェルター内の至るところには防衛設備が配備された。
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