--- title: "たとえ光が見えなくても短" date: 2024-03-01T20:23:06+09:00 draft: true tags: ['novel'] --- 今でも思い出に残っているのは、指先に残るわら半紙の感触。言われるままにピンと立てた人差し指を滑らせると、横にいるお父さんが耳元に語りかけてくれる。「そうら、そこがゲオルゲン通りだ。そこを右に曲がると――」私は言葉を遮って大声で答えた。 「レオポルト通りね! おしゃれなお店がいっぱいあるの」 「そうだ、いつかお前もそこで立派なドレスを買ってもらえるようになる」  耳の奥底からあまりにも聞き慣れすぎた高周波音が徐々に近づいているが、まだ私は喋っている。 「でも、私が着たってしょうがないわ。どうせ分からないもの」 「そんなことはないよ。上物は着るだけで分かるんだ」  記憶の中の私はいっそう声を張り上げる。 「じゃあ、今、欲しい」 「今は……難しいかな。そういうお店はどこも閉まっている」 「どうして?」 「……みんな、他のことで忙しいんだ。さあ、指がお留守だぞ」  私の指先がぐんぐんと先に進み、ルートヴィヒ通りを過ぎる頃には高周波音は耳を覆い尽くさんばかりにわめいていた。 「ずっとだ、そう、ずっと、さあ、広場に着いたぞ。どこだか分かるかな?」  思わず、私は騒音に負けないように大声で叫んだ。 「マリエン広場! 私と同じ名前の――」 <ねえ、マリエン、どうしたの> 「あっ……ごめんなさい、ちょっと、夢を見ていたみたい」 <こんなひどい状況で居眠りなんて、よほど自信があると見ていいのかしら>  リザちゃんのつっけんどんな声が束の間、私の頭蓋を満たす。 「そういうわけじゃあ――」 <敵、もう、来るわ。また命があったら会いましょう。通信終了>  ブツ、と両耳に覆いかぶさったカチューシャみたいなインカムがノイズを発して、それきり音が途絶えた。途端に、意識の外に追いやられていた高周波音が舞い戻り、左右に散らばった。漆黒の視界の中に仮初の点描がぽつぽつと描かれはじめる。見たところ、一〇〇機以上はいる。  相手はまだ私には気づいていない。気づくはずもない。  空中にぽつんと単機で佇む魔法能力行使者の姿は目視ではもちろんレーダーでも捉えられない。  私はいつもの調子で右腕から手の先に流れる閃光のイメージを思い描いた。すると、見ることができなくても迸る光の奔流が肩口から腕を伝い、手のひらに集まる様子が感じとれた。うわんうわんと唸りをあげて急接近する群体に手のひらを向けて、孤を描くように光線を放出した。  決して掛け声を忘れてはならない。言うか言わないかで威力が倍は違う。 「びーっ!」  きっと、壮大な景色なのだろう。さっきまでの高周波音がたちまち爆発音に取って代わって私の耳元を彩った。味気のない視界の中に、めくるめく幻想世界を想像した。  今ので半分くらいは撃ち落とせたと思う。私は空気を柔らかく蹴飛ばしてふわりと上昇した。気流が身体の上から下に通り過ぎてスースーする間隔が、実はけっこう気に入っている。  十分な距離を得た後、今度は鋭角に蹴り出して勢いよく前へと滑空する。ついでに脚に取り付けた革製のホルスターからステッキを取り出しておく。ステッキは指先よりも太く、手のひらよりは細い。だからより指向性を持って魔法を撃ち出すことができる。  崩壊していく群体の悲痛な音が散乱する一方、まだいくつもの機体が合間をすり抜けていこうとしている音が耳に入った。とりあえず、左に一機、右に二機、まず右に向かってステッキを振る。直後、手からステッキを通って現れた魔法が鞭のようにしなって動き、遠ざかろうとする戦闘機を捉えたのが伝わった。きっと戦闘機は真っ二つに割れただろう。忘れずもう一機も処理していく。  続いて、左側に取り掛かろうとしたところ、バリバリバリと機銃の音とともにビリビリとオーバースカートの生地が破れる音がした。金属の塊が身体を通り抜けて、魔法の源泉がずるずると抜けていく感覚がした。  瞬間、とてつもない怒りに私は突き動かされた。  許せない! 下ろしたてのドレスだったのに!  空を蹴って身体の向きを変えても、戦闘機のプロペラ音が衰える気配はなかった。あてずっぽうの射撃ではない。確実に私を狙っている。ついに敵方は魔法能力行使者を視認したのだ。  だが、それほどまでに近づいてくれるのならかえってやりやすい。プロペラが回る高周波音と、機銃の残響と、機体が身体のすぐそばを横切って空気を切り刻む感触が、一つの像を結んで漆黒の視界の中に淡く戦闘機を描き出した。 「そこにいるのね」  私は像の上めがけて飛んだ。ロングブーツの底が、確かな金属質を捉える。今、自分は戦闘機の上に立っている。  前方で人の声がした。英語なので、私には意味が分からない。拳銃らしき銃声もする。たぶん私を撃っているのだろう。今の私の身体はきっと穴だらけだ。  幸いにも銃撃音の角度から操縦手の正確な位置が把握できたので、私はお返しにステッキを握っていない方の手で拳銃を模った。 「ぱん、ぱん」  がくん、と金属の地面が大きく傾ぎ、前のめりに倒れ込んでいく。  だが、すでに何十もの機体を落としてるのに、高周波音はどんどんうるさくなる一方だった。うわんうわんと唸る機械の鳴き声が第二陣、第三陣の襲来を容赦なく告げる。  私は再び手のひらに光の力を収束させた。あたかも騒音を打ち払うように死を招く円弧を作り出す。  ところが、次の魔法はてんで群体に効果をもたらさなかった。せいぜい五、六程度の不運な機体が魔法の切れ端にぶつかって落ちた程度で、未だ優勢を誇る風切り音が爆発音を切り裂いて私を追い抜いていった。  視界の中で高速に現れては消える軌跡を追って、懸命にステッキを振りかざす。手応えのなさが私をますます焦られる。  このままではまた街が空爆される。もう何度も住む家を変えたか分からないのに。 「お願い、お願い」  一体、誰に祈っているのか――必死に軌跡の後に追いすがってステッキを振り続ける。時々聞こえる少々の爆発音にも、数多のプロペラ音は揺らぐことなく彼方へと消えていく。 「お願いだから、落ちて」  そんな文字通りの神頼みの声を拾ったのは、リザちゃんだった。 <どいて>  私はばたばたとはためくスカートを抑えつけながら、ほぼ垂直に降下した。全身が絞られるような圧力に耐えた数秒後、空のどこかでぴたりと静止する。  直後、頭上で今日一番の大花火が花開いた。形は見えなくても音の大きさがすべてを物語っていた。 「うわあ、リザちゃん、すごい」  惜しみのない賛辞に、リザちゃんは鼻息一つで答えた。 <ふん、まだ油断するには――>  ぶつ、と通信が途絶えた。無愛想に通信を切るのは彼女の癖だが、いくらなんでも会話の途中に切ったりはしない。  漆黒の視界の中で私は急速に答えにたどり着く。  今度は急上昇に圧力に耐えなければならなかった。あまりにも高速に舞い上がったので、両耳を覆うインカムが外れてしまった。背負っている重くて大きな無線機に跳ね返ってガツン、ガツンと暴れた後、線がちぎれてどこかへと吹き飛んでいった。 「リザちゃん!」  虚空に向かって叫ぶ。どこに顔を向けても私の目は決して光を映さない。  しかし、  神に齎された魔法の力だけが、私に見えないはずのものを見せてくれる。  漆黒に沈む奥底に、か細い線が見えた。その線はじぐざぐにうねって揺れ動き、私の方へと向かって伸びている。空を飛びながら目で追うと、それは私の背中の無線機と繋がっていた。  この先に、リザちゃんがいるんだ。  激しく揺れ動くじぐざぐの線を追いかけて、急旋回、急降下。たどり着いた先はほとんど街の真ん中だった。しきりに爆発音と、炎が燃え盛る音、人々の絶叫がこだまする中で、線の根本を捉えた。  爆撃で暖まった空気による上昇気流がスカートの裾を激しくたなびかせる。ぐるぐると旋回する線の根本は、明らかに彼女が何者かに追われている状況を推測させた。どういうわけか彼女は一向に魔法を撃とうとはしていない。  私は接近しながらステッキを振りかざすも――輪郭を捉えきっていない敵にはまず当たらない事実を悟り、やり方を変えることにした。元より、残された魔法能力はもはや心もとない。  限られた力を足元の推進力に替えて、一気に距離を詰めた。蚊のようにうるさい高周波音が視界に像を描く。まだだ、まだ足りない。もっと正確に見なくちゃ。  戦闘機は私にお尻を向けているようだった。ステッキに込められた魔法がその先端に光の刃を灯す。まるでサブマリン・サンドイッチを作る時みたいにして、私はその魔法の剣を戦闘機の胴体に深く突き刺してから真横に両断した。 「リザちゃん!」  崩れ落ちていく戦闘機の輪郭を追うのも程々に、唯一の同僚の名前を繰り返し叫んだ。焼ける街の熱が発する生暖かい風を受けながら、性懲りもなく叫んでいると、下の方でかすかに声が返ってきた。 「ここよ、私は、ここ」  さっそく私は姿勢を変えて降下する。見たところ、どこかの聖堂の屋根に彼女は落ちていたらしい。着地して声のする方に駆け寄って顔に触れると、すぐにリザちゃんだと分かった。 「ああ、良かった、無事で」 「しくじったわ、私たち」  街が燃えていた。人々が叫んでいた。悲鳴と怨嗟の声の中にかつての民族の誇りはついぞ見られず、ただ手負いの獣の嘶きと去勢があるばかりだった。 「とにかく、基地に帰らないと」 「そうね、申し訳ないけど――」  声の調子から薄々分かっていた。触れていた頬から首、首から肩口に撫でていくと、その先がなかった。 「ちなみに、脚もどっかいっちゃった」 「おんぶしていくよ」  私は背中の無線機をぞんざいに捨てると、代わりに彼女を背負った。残っている方の腕のオーク材からはよく燻られたウインナー・ソーセージみたいな匂いがした。無線連絡は、彼女のインカムを使ってせざるをえない。 「帝国航空艦隊、マリエン・クラッセ、リザ・エルマンノ両名。ただいま帰投します」  程なくして、管制官から返事があった。 <帰投を認める。再び我々に勝利をもたらす日を願って。ハイル・ヒトラー> <ハイル・ヒトラー>  **一九四六年**三月七日、愛するお父さんへ。ミュンヘンは相変わらずひどい状態です。私の身体は穴だらけ、同僚の子もまた手足がもげました。けれど、へっちゃらです。だってどうせすぐに直るし、彼女の手足は木でできていますから。 --- ”一九四六年三月一三日、愛するお父さんへ。昨月の今頃はまだ暖かったのに、このところめっきり冷え込んできました。ブリュッセルのお空模様はいかがでしょうか。本当はすぐにでも空を蹴って会いにいきたいのだけれど、あいにく私は上官の許可なくしては男の人の背丈より高く飛ぶことも許されていません。でも、管制官が仰るには戦争で華々しい勝利をもたらせば、私たちはアーリア民族の英雄として認められて、ようやく自由に過ごせるのだそうです。  チーン、とタイプライタが鳴り、ハンマーが紙面の端に到達したことを知らせてくれる。一旦、タイピングを止めて手探りで本体のレバーを引っ張り、改行する。 ”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「管制官」とか言って、口にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも帝国航空艦隊所属の中尉なんだそうです。私よりたっぷり三〇センチも大柄な兵隊さんたちが、前を歩くとさっと右、左に避けてくれるのが分かります。姿が見えなくても、足音でだいたいどんな背格好なのか分かりますから。”  チーン。また、音が鳴った。再びレバーを引いて改行する。 ”いつか暇ができたら私たちの鉤十字がはためくブリュッセルの空を飛んで、お父さんに会いに行こうと思います。もう十年も会っていないのはいくらなんでもさみしいです。これは内緒の話ですが、私たちがこうして本土で堪えている間にも、他の選り優れた魔法能力行使者たちが海と陸とを飛んでいって、敵の親玉を倒してくれるというのです。そうすればイギリスもアメリカもソ連もみんなすぐに降伏して、私たちの言うことを聞いてくれるでしょう。もしそうなったら、私はお祝いに山ほどのチョコレートを買いたいです。約束された勝利の日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー> 「ううむ、もうタイプライタの扱いは私よりうまいな」  急に背後から声がしたものだから、私はひっくり返りそうになった。他ならぬ声の主が管制官ともなればなおさらだ。 「か、管制官、ですか!? あっ、失礼しました、ハイル――」  その場で直立しそうになった私の両肩を、彼はむんずと掴んで椅子に押し戻した。 「落ち着きなさい。いいよ、たまたま様子を見に来ただけだ。今回の家は燃えずに済んだようだね」  管制官の言う通り、今回の空襲では私たちの家は燃えなかった。もう三回も引っ越しを余儀なくされていたので助かった。 「この手紙が私が送り届けてあげよう。いや、しかしそれにしてもうまいな。戦争に勝利したらタイピストになるといい」  管制官は機械の留具から紙面をするりと取り出して、感心したふうにうなった。その声はどんなに柔らかい口調でもどこか硬い感触を与える。 「たいぴすと……?」 「人の代わりに文章を打ち込んであげる仕事だ。これなら家の中で働ける。給料もかなり良いと聞いている」  そうか、戦争に勝ったら戦う相手がいなくなるんだ。あまねく人々がアーリア民族の下に集まって、一人のフューラーの指揮によって正しい調律が作られていく。 「でも、そうしたら、私に授けられた魔法の力も使い道がなくなってしまいますね」  物心がつく前から収容所で暮らしていて、そこで私は国家のために役目を果たすのだと教えられた。毎日、色んな人たちがやってきては、それをまっとうするたびに私の前からいなくなった。みんな、私と同じように目が見えなかったり、耳が聴こえなかったり、身体の一部がなかったりした。  なにもかもが変わった運命の日の後、今までに会った人たちのすべての生命を背負っているのだと教えられた。そして、私は帝国航空艦隊所属の魔法能力行使者になった。 「ははは、ずいぶん先の話ではあるけどね。我々の敵は多い。ブリュッセルに飛んでいく暇なんかないほどに」 「いえ、それは、あの、ほんの冗談ですわ」  あわてて私が訂正すると彼はまた短く笑った。 「とはいえ、君に飛んでいかれたら困ってしまうな。ここは一つ取引といこうじゃないか。さあ、これはなんだろう?」  ぺたり、と頬にくっつけられた包装紙の感触だけでは、もちろんなにも分からなかっただろう。しかし、その包装紙はとても芳しく、高貴で、甘い匂いを放っていた。  これは、チョコレートだ。 「まあ、信じられない!」  途端に、私は軍人としての振る舞いを放り出して嬌声を上げた。両手でそのふっくらした包装紙をむんずと掴み取る。  同時に、ぎゅっ、と踵を床に強く押し付けた。気をつけないと天井まで浮き上がってしまいそうだったから。 「おいおい、紙まで食べないでくれよ」 「あっ、すいません、私ったら」 「いいとも、代わりに私のお願いを聞いてくれるかね」  受け取ったチョコレートの袋を机の脇に置いて、神妙そうに膝元に手を置く。顔を仰いでも管制官の顔は分からない。リザちゃんと違ってべたべた触っていい相手ではない。でも私は暗闇の中に、厳父と慈母と賢人のすべてを兼ね備えた理想像を描き出そうとした。 「他ならぬ私の上官ですから」 「そうか、そうだな……実は、東部戦線の状況が芳しくなくてね、兵力が足りていない。そこで、君とリザ中尉に応援に行ってもらいたいんだ」  東部戦線。今やソビエトの共産主義者たちがポーゼンを越えてベルリンに迫っているという。数万にものぼる鋼鉄の暴力と嵐の前に、我が軍は後退を余儀なくされている。  初期配置から約一年、失敗続きの私たちにもついに名誉挽回の機会が与えられたのだ。 「お力になれるのなら光栄ですわ。しかし、東部戦線には私などより優れた魔法能力行使者が配備されているでしょう」 「もちろんそうだ。だが、度重なる戦いでみんな疲れていてね、他から集めてくるしかないということになったんだ」 「ですが、ミュンヘンは……」  管制官の声が私に覆いかぶさる。 「心配いらないよ。代わりの者が着任する手はずになっている」  どうやらすでに決まっていることのようだ。  収容所で散々習った地図のざらざらした手触りを思い出す。ミュンヘンからポーランドは指でなぞると数秒で辿り着くが、実際にはとても時間がかかる。私たちの魔法能力では飛んでいくよりも、鉄道の方が早く着いてしまう。 「リザちゃ……リザ中尉には、もうお伝えしましたか?」 「ああ。予備の手足の調子も悪くないと言っていたよ」  それを聞いて、ちょっとほっとした。リザちゃんは一つ屋根の下で一緒に住んでいるのに、いつも私の前では見栄を張る。今日の朝も「空襲が来ても全部撃ち落とせる」といばっていた。 「じゃあ、任せたよ。私も一足先にベルリンの基地に向かう。君たちも身の回りの整理をつけたら来たまえ。口頭でしゃべってしまったが、これは一応その命令書だ」  管制官が私の手の甲に紙面を触れさせたので、おずおずと受け取る。とん、とん、と静かな音で遠ざかる足音がして、部屋の扉ががちゃりと開けられた。お帰りらしい。  もし、私に目が見えていたらお茶を淹れて差し上げて、茶菓子もすすめて、他にも色々と気の利くことができたのに、うっかり転ぶのが怖くて椅子からさえ立ち上がれない。  暗闇に包まれた視界の中でひとりでにしょんぼりしていると、遠くから静かな声で管制官が言った。 「いつの日かアーリア民族に勝利をもたらさんことを。ハイル・ヒトラー、マリエン大尉」 「あ、はっ、ハイル・ヒトラー――あれ、えっと、私は大尉では――」  がたがたと慌てて立ち上がり、案の定体勢を崩しかけながら困惑する私に管制官は苦笑いを投げかける。 「いいや、君は大尉だ。その命令書を受け取った時点でね。後でリザ大尉に読んでもらうといい」  なにか言う間もなくばたんとドアが閉じた。お腹の奥底から、じわじわと喜びがせり上がってくるのが分かった。  私たち、昇進したんだ。管制官にもフューラーにも認められたんだ。  とうとう私は我慢できなくなって床を蹴り、ふわりと宙に浮かんだ。手にはチョコレートでいっぱいの紙袋。  オーバースカートの生地がふわりとたなびいた。漆黒の世界でも思い描けば私は部屋に咲く一輪の花だった。  固い木材の天井に、おでこがこつんと当たった。  緩やかに空中で漂いながら、私は紙袋からチョコレートを取り出して包装紙を破った。ころころした形の幸せを口に含むと、舌の上にじわりと甘さが広がった。 --- <マリエン・クラッセおよびリザ・エルマンノ両名の魔法能力行使者に以下の辞令を告げる。本辞令を受領後、直ちに行動を開始されたし。> ■両名は現在の拠点を放棄し、速やかにベルリンの中央軍司令部に出頭すること。 ■以降、両名は国防軍中央集団の下に再編され、東部戦線に配置される。 ■これまでの功績を鑑み、本辞令の受領をもって両名を大尉に任命する。  リザちゃんが読み上げた辞令の中身は、確かに管制官がおっしゃっていた内容とほとんど変わりがなかった。彼女のベッドに並んで座って、お互いの名前を呼び合ってみた。 「リザ大尉」 「マリエン大尉」 「ふふ」  大尉といったら数百人からなる中隊を束ねるほどの役職だ。歩く速度も戦う道具も異なる魔法能力行使者に配下は付かないけれど、偉くなったことに違いはない。  隣に振り向くと、お人形さんのように華奢な輪郭が映った。 「でも、大変だわ。一番おっきい鞄でもこの家のもの全部は入らない」 「大切なものだけ持っていけばいいよ。戦場に花瓶なんて持っていっても役に立たないもの」  とはいうものの、目の見えない私と小物を拾うのが苦手なリザちゃんの引っ越し作業はだいぶ難航した。手に取ったものが分かるまで何秒もかかってしまう。しまいにはリザちゃんが「紅茶を淹れるわ」といって中座して、ラジオまでかけはじめたものだから完全に手が止まった。  四角くてのっぺりとした手触りの国民受信機から、勇ましい軍歌と入れ替わりに宣伝省の録音演説が流れはじめる。かつて神聖ローマ帝国で外敵を払う役目を担っていたとされる魔法の使い手になぞらえて、ここでも魔法能力行使者は魔法戦士と呼称されている。ローマ帝国の後継者である我々にとってそれはとても正当なことに違いなかった。  ただ、男子の魔法能力行使者が魔法戦士として高らかに称揚されるのに対して、少女はただの「魔法少女」と呼ばれているのが内心ではちょっぴり納得がいかなかった。  どうして私たちは「戦士」と呼ばれないのだろう? 魔法能力は性別とは関係ないはずなのに。  そんな考え事をしているうちに厳かな調べに包まれたゲッベルス宣伝大臣の演説(ライヒの空を守る魔法戦士たち)がつつがなく終わり、ラジオ放送の内容はまた軍歌に切り替わった。  とはいえ、大臣の演説はいつ聴いてもすばらしい。どんなお姿をしているのか私には分からないけど、きっとその美声にたがわぬ模範的アーリア民族らしい見た目を備えているのだろう。  お砂糖の入った紅茶をたっぷり二杯も呑んだおかげか、その後の作業はそれなりに進んだ。途中、タイプライタを持っていくかどうかで散々揉めたが――戦場にタイプライターなんて!――だって、お父さんにお手紙を書くんだもん!――最終的には携行を認めてくれた。ずいぶん大荷物になってしまったが、全然へっちゃらだ。  ”たいぴすと”になるのなら時間の許す限り練習しなくちゃいけない。  替えのドレスもたくさん詰めた。私の目には映らなくてもお洋服って着ているだけで楽しい。  収容所では毎日同じ服を着せられていたから、あの運命の日にも「ご褒美をあげよう」と言われた時に「きれいなお洋服を着たい」と即答したのだった。以来、私の戦闘服はフリルの着いたオーバードレスということになった。  そして最後に取り出しやすい位置にチョコレートを入れた。こうして出来上がった大きな旅行鞄と、タイプライターが収まった鞄を持つといかにも旅行気分が高まってくる。 「ねえ、そんなにあるんならチョコレート一個ちょうだい」 「やだ、私がもらったんだもの」 「なによ、ケチ」  歩幅を揃えて部屋に戻った私は、ドアを開けて前に三歩、左に二歩動いて壁にかかっていたポシェットを手に取る。この中に私のお財布と身分証明証が入っている。すぐ下の杖も忘れずに持っていかなくちゃならない。地面は障害物でいっぱいだから。  右に二歩、後ろに三歩後ずさって扉を閉めた。せっかく部屋の間取りを覚えたのに、たぶんここには戻ってこられないだろう。この家も、前の家も、その前の家も、元は別の人の持ち主がいたらしい。その人たちはいまどこに住んでいるのかしら。  大荷物を抱えてリザちゃんと家から出た後、なんとなく私はそれのある方向に一礼した。  まだお日さまの熱を感じる時間なのに、外はずいぶん肌寒かった。じきに雪解けの季節なのに厚手の手袋も外套も相変わらず手放せない。せっかくのドレスが台無しだ。でも、杖の先っぽで石畳をこつ、こつと叩きながら道を歩いているうちに、だんだんと身体が暖まってきた。  この杖の先端はとても硬くできている。なので固い地面を叩くと甲高い音が鳴って、衝撃が指先に伝わる。すると、私の真っ暗な視界の中に白線の波がざざあ、と描かれていく。反響の具合であと何歩歩くと壁があるのか、どの辺りに他の人が立っているのかだいたい分かる。  今しがた、目の前に白線の壁の輪郭ができあがったので、私はそれをひょいとよけて道を曲がった。リザちゃんとおしゃべりをしながらでもこれくらいのことはできるようになった。  管制官は「まるでコウモリみたいだな」と仰っていた。聞いた話では、コウモリさんは目はほとんど見えないのだけれど、代わりに壁とおしゃべりをして居場所を教えてもらうんだそう。一体、どんなふうにお話をしているのかな。  でも、確かに私とそっくりだ。杖でこつこつと叩くと地面が壁やお店の場所を教えてくれる。きっと私はコウモリとして生まれるはずだったのに、間違えて人間に生まれてきてしまったんだ。  だとしたら、なんて運の良いことだろう。だって、人間じゃなかったらチョコレートは食べられない。 「ねえ、口からよだれが垂れているわよ」 「え、うそ」  慌ててハンカチで口元を拭おうとしたが、ポケットに向かう手を押し止められた。 「ごめん、うそ。なんか顔が緩んでたから」  そんなにだらしない顔をしていたのか。チョコレートの話はあまり考えないようにしなくちゃ。  あの後、お腹いっぱいになるまでチョコレートを頬張ったのに袋の中にはまだたくさん残っている。大切に食べないといけない。 「あら、火事じゃない?」  言われてみれば、もくもくとした煙くさい匂いが漂ってきていた。先の空襲から一週間近く経っているのに消火が済んでいないのはおかしい。杖をコツコツ、と強く叩くと、視界の中に雑然とした人々の姿が描かれた。街の人たちも火事が気になっているようだ。  おのずと、私たちの足取りも人波に合わせて炎の気配が強まる方向に進んだ。  どやどやと行き交う野次馬の騒ぐ声をかき分けて、たどり着いた先では音と熱だけでもはっきりと分かるほどの火柱が上がっていた。なにやら肉が焼ける匂いもする。それに、すっかり嗅ぎ慣れた血の匂いも。  熱を帯びる火柱の前で、何者かが声を張り上げていた。 「――もしやつらが我々の街を燃やすのなら! 我々もこいつらの家を燃やすだろう! もしやつらが、我々の身を焼き焦がすのなら! 我々もこいつらの身を焼き焦がすだろう!」  演説調の節をつけてがなりたてる男の人、左右に集まった人だかりが歓声を上げて応じる。 「またユダヤ人が見つかったのね」  淡々とリザちゃんが言った。どうやらユダヤ人の隠れ家が燃やされていたようだった。  管制官が言うには、ここミュンヘンにも、ドイツ国内の至るところにも、まだまだユダヤ人たちがたくさん隠れ潜んでいてイギリスやアメリカに情報を送っているという。劣勢に立たされた私たちの首元に刃をかける隙をうかがっているのだ。  とはいえ少なくとも、これでそのうちの一つの拠点は滅ぼされたと言える。私はほっ、と胸をなでおろした。 「これで空爆が来なくなるといいね」 「……そうね」  吹き上がる火柱の前に際限なく盛り上がる群衆の熱を後して、私たちはミュンヘン中央駅に向かった。  それにしてもユダヤ人ってどんな人たちなんだろう。直接触れたことがないからどういう顔をしているのか分からない。みんな悪魔みたいだって言うから、私も頭の中で一生懸命に「悪魔」の姿を思い描いてみる。  切符を買って、汽車に乗り込むまでひたすら考えてみたけれど、あまりうまくはいかなかった。 --- ”一九四六年三月一七日。親愛なるお父さんへ。辞令でベルリンに移って三日が経ちました。まもなく東部戦線に行って参ります。ついこないだ中尉になったかと思えば、もう大尉になってしまいました。ベルリンに着任した管制官は、大佐だったのに今はもう准将です。相変わらず厳しい情勢ですが、頑張りが報われるのは嬉しいです。お父さんもきっと、ブリュッセルでイギリス軍やアメリカ軍を食い止めてくれているのでしょう。でも、くれぐれも銃弾には当たらないでくださいね。私と違って普通の人は治りが遅いですから。”  チーン。二段ベッドと小さな机と椅子しかない手狭な空間に、タイプライタの改行音が響く。 ”今日は、同僚のリザちゃんのお話を書こうと思います。彼女は私より一つ歳上のお姉さんで、イタリア人です。威張りんぼなところがありますがとてもいい子です。私と同じ、役目を持って生まれた子どもでした。私の目が光を映さないように、彼女は自分の手足が一つもありません。せめて格好だけでも普通にさせようとして家具職人の父が敷地に生えている木で義足をこしらえたそうですが、あいにくどんなに力を込めても動かすことはできません。”  チーン。リザちゃんはまだ寝ている。二段ベッドの上の方ですやすやを寝息を立てている。私はむしろ下の方がよかったのだけれど、居室に着くなり彼女ときたら「私が上ね!」と宣言して梯子を昇っていったのだった。 ”彼女は昔、近所の子たちにピノッキオと呼ばれていました。身体の一部が松の木でできているからです。お父さんに読み聞かせてもらったので、私もお話はよく覚えています。ですが、彼女はこのあだ名がとっても気に入りませんでした。それはピノッキオのことが嫌いだからではありません。ピノッキオは自由に身体を動かしていろんな冒険ができるのに、彼女は車椅子を引いてもらわないと自分の部屋からさえ出られなかったからです”  うーん、とリザちゃんがうなり声をあげて寝返りを打った。改行やタイプの音が耳に障るのかもしれない。でも、今日を逃したらしばらく書けないのだから我慢してもらうしかない。さすがに戦場のまっただ中にタイプライタは持っていけない。 ”そんな彼女に転機が訪れたのは私と同じく、役目を果たすための収容所が外国にもできたおかげです。魔法能力を授かった彼女は、あたかも本物の手足が生えたかのように木でできた義肢を動かすことができます。魔法も、私よりうんと強く放てます。その代わりに、狙いを定めるのはちょっぴり下手です。”  キータイプの手を一旦止めて、神から祝福されたリザちゃんがどんな気持ちだったのか想像しようとした。けれど、湧き出てくるのは自分自身の記憶ばかりだった。  そこは「収容所」と呼ばれていた。ずっとそこに住んでいた私でも、あまり良い場所とは思えなかった。ご飯の量は小さい私にとっても明らかに物足りなく、新しく連れてこられた大人の人たちが大声を出して怒ると看守の人はもっと怒って彼らを散々にぶった。中でもひどくぶたれた人とは二度と会えなかった。その時、収容所で一番偉い人だった管制官は私に「彼はちょっと早めに役目を果たしたんだよ」と教えてくれた。  収容所からほとんど誰もいなくなった頃、ついに私の番が回ってきた。身体じゅうにぺたぺたとなにかを貼り付けられたかと思いきや、すごい痛みが走って、次に目が覚めた時には全身がべとべとしていた。どこもかしこも鉄臭い匂いが立ち込めていたので、私は血を流しているのだと分かった。  そんなに血が出ているのなら、きっと大怪我をしているに違いない。私はすぐに部屋を出て、大人の人に怪我を治してもらおうとした。でも、手探りで見つけたドアは押しても引いても開かなかった。  何回叫んでもどこからも返事はない。私はとうとう怒って、力任せにドアを両手で押した。  すると、ドアはすごい音をたてて壊れた。薄いブリキの板みたいに、ひどく折れ曲がっているようだった。もっと押し続けるとドアはぺしゃんこに潰れて、通り道ができた。 「動くな!」  道の先を歩いていると、突然、男の人たちがそう口々に叫ぶ声が聞こえた。かちゃかちゃと金属が鳴り響く音がとてもうるさかった。 「だあれ?」と聞くとまた「動くな!」と怒られた。不思議なことに、男の人が叫べば叫ぶほど、なにも映さないはずの私の真っ暗な視界の中に、白い線が波打って角ばったお人形のような像を作り出した。どうやら男の人たちはみんなお人形さんで、手にお揃いのなにかを持っているみたいだった。私はそれがなんなのか知りたかった。 「それ、なにを持っているの?」  前に歩いて手を差し出そうとすると、直後に、ぱん、と乾いた音がして、私は後ろに押し倒された。お腹の辺りがじんじんとしたので、手でまさぐると石ころのようなものが見つかった。 「えいっ」  投げつけられた石ころを投げ返すと、鋭い悲鳴が辺りにこだました。男の人がそういうふうに叫ぶのを初めて聞いたので、私はとてもびっくりした。どんどん石ころが投げつけられたので、私も躍起になって投げ返した。白い線でできたお人形さんがいなくなって、最後の一つがくしゃりと小さく丸まったので、遊びはもうおしまいかと思いきや管制官が部屋に入ってきた。 「楽しかったかい」彼に訊かれたので、当時の私は無邪気に「ううん、あんまり」と答えた。 「じゃあ、こうしてみよう」  管制官は私の小さな手を握って、人差し指を伸ばさせ、親指を突き立たせ、残りは丸めるように指南した。そしてされるがままに腕をまっすぐにすると、丸まったお人形さんに人差し指が向いた。お人形さんはすごい悲鳴を叫んで遠ざかっていった――管制官は構わず「さっき聞こえた音を真似してごらん」と言ったので、私は「ぱん」と言ってみた。  もう悲鳴は聞こえなかった。  血の匂いは、久しぶりにお風呂に浸かる許しを得てからもしばらくとれなかった。  私が魔法能力行使者として正式に階級章を授けられたのは、その日から始まった訓練を終えたさらに半年後の話になる。  リザちゃんも同じような訓練をしたのかな。 ”ムッソリーニ首相が王様に叱られて以来、イタリアのほとんどの土地はずっと敵にとられたままになっています。イタリア人の彼女はたまたま難を逃れていましたが、ドイツ軍に「セッシュウ」されたので今はここで戦っています。なんでも「セッシュウ」されると、別の国の人でもその国のきまりに従わなければいけないのだそうです。難しいことは私にはよくわかりません。いつか故郷に帰してもらえるといいと思います。イタリアはドイツの大切な同盟国なので、フューラーも色々考えてくれているでしょう。お父さんも、祖国に勝利をもたらすその日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”  手紙を書き終えると私は杖を握って居室を出た。ベルリンの大きな基地は大きいだけあって基地の中に郵便局がある。壁伝いに身体を預けつつ杖をこつこつと叩いているうちに、窓口に着いてしまう。口数が少ない郵便局員の人に便箋と身分証明書と小銭を手渡すと、いつもの調子で鼻を鳴らした。私の中ではこれが受領完了の合図ということになっている。すぐに判をつく音がして、身分証明書が突き返された。十日に着いてから毎日送っているので愛想の悪さにはもう慣れた。それも、今日までだ。  往路を同じ要領で戻ると、いつの間にかリザちゃんが起きて髪を梳かしていた。一定の感覚で刻まれる音の感じで、彼女の髪の長さが分かる。 「おはよう、リザちゃん」 「ん」  ぶっきらぼうに答えたかと思えば、彼女はなにも言わずに手を引いて私を椅子に座らせた。ぎしぎしした私の髪の毛に櫛が通されて不気味な音をたてる。 「ちょっと傷んでるわね」 「そうなんだ」  私の髪の毛って金色らしい。金色ってどんな色か分からないけれど、光に似ているという人もいれば、価値が高い鉱物と同じ色だという人もいる。いずれにしてもめでたい話には違いない。 「そろそろ出撃の時間じゃないかしら」 「朝ごはんを食べそこねちゃったわね」 「もう、リザちゃんが起きるの遅いから」  ため息をついて苦言を漏らすと、彼女は首の後ろをオーク材の指でなぞりながら告げた。 「そういうけど、あんただってドレスの後ろ前が逆よ」 「えっ!?」  結局、ドレスを着直して、携行物の確認もして管制官のいる執務室に出頭する頃にはほとんど遅刻寸前の時刻になっていた。  最後に外套の奥に丸ごと押し込んだチョコレートはだいぶ量が減っていた。出撃先では大切に食べなければならない。 「ジーク・ハイル!」  二人してピンと声を張って敬礼する。ロングブーツの踵が鈍い音をたてた。 「いよいよ出撃だ。準備はいいかね」 「お休みになられている先輩方の穴を埋められるよう努力します」 「頼もしい言葉だ。期待しているぞ、大尉」  そのまま、私たちは管制官の先導に従って基地の発着場に向かった。ごわごわした分厚い外套が早朝の切り裂くような寒さを一身に受け止めている。空を飛ぶのは気持ちがいいけど、冬はやっぱり寒い。  幸いにも降雪の気配はない。陽光に照らされて雪も溶けている。  発着場では私たちの他に、ドイツ空軍の戦闘機たちが勇ましい唸り声をあげて出撃の時を待っていた。その音を聴いているうちに、淡い白線が視界の左右に戦闘機の輪郭を描きはじめる。フォッケウルフもアラドも、訓練のたびに何度もぺたぺたと丁寧に触ってきたからどんな形をしているのか私にはよく分かる。  滑走路の上に立った管制官が、プロペラ音に負けない大音声を張り上げる。 「私、アルベルト・ウェーバー管制官准将の権限により、マリエン・クラッセ大尉、およびリザ・エルマンノ大尉両名に魔法能力の行使を許可する」  この瞬間、私たちは法的に魔法能力の行使が認められた。  いよいよ付き添いの兵隊さんが私たちの背中に角ばった無線機を背負わせた。頭には耳をすっぽりと覆うインカム。私はいつか着けたカチューシャのようなものだと思うことにしている。ドレスにはそっちの方が似合う。  耳に当たるところから流れる、さざ波に似たハムノイズの音が出撃の開始を強く印象づける。  滑走路の前に立つ。 「マリエン・クラッセ、出撃します」 「リザ・エルマンノ、出撃します」  あたかも戦闘機がそうするように、数メートルほど助走を経てから魔法の力を踵に強く込めた。ふわ、と身体が柔らかく浮かんだのも束の間、私たちの身体はぐんぐん空へと舞い上がって戦闘機の唸りも滑走路の感触も、白い線でできた淡い輪郭も、遠く彼方へと沈んでいった。 ---  静かな空の旅は突然に破られた。ベルリンから国境を越えてまもなく、ソ連の戦闘機が白い点描を模って姿を現した。その数はイギリスやアメリカの空襲とは比べ物にならなかった。 <退避! 退避!>  後方を飛ぶ友軍の戦闘機から漏れた無線の音が、インカムを通して私の耳に入る。直後、爆発音がして鋭く上がった煙が鼻をつく。どこからか放たれた奇襲攻撃がさっそく友軍を撃墜したのだ。 <旋回!><――マリエン、私たちが先行しないと!><退避!>まずは混線した無線をなんとかしなくちゃいけない。事前の取り決め通り、背中のダイヤルに手を回して周波数を変えた。兵士たちの絶叫がノイズの向こうにかき消えて、すぐにリザちゃんの声だけがはっきり聞こえるようになった。 <マリエン!> 「うん、分かってる。行こう」  急加速して点描の群れを十分に視界に収められる上方を陣取った後、私たちは一斉に両方の手のひらから魔法を放った。 「びーっ!」  二人合わせての広範囲魔法はそれなりの成果をもたらした様子だった。熱風と凄まじい轟音から全機撃墜の手応えを得る。  だが、 <まだまだ来るわ>  けたたましいプロペラ音が止む気配は訪れない。遠目に映っていた点描はいつしか、それぞれを見分けられるほどの輪郭を伴って私たちに迫ってきた。  鋭い機銃の銃弾をくるくると回って回避するも、次から次へとやってくる戦闘機の群れが左右上下を陣取って牽制する。まるで頭を抑えつけられたかのようだ。次第に避ける手段は減っていき、その間にも圧倒的物量の前に友軍の戦闘機が落とされていく。 「いたっ」  上から降り注ぐ銃弾の雨が身体を貫いた。ふと、力が抜けて私は地面に急降下を余儀なくされる。ちながら見据えた漆黒の視界の奥から、抜きん出た一機が追撃を試みて追いすがってくる。  すかさず、ドレスをめくって脚のホルスターからステッキを取り出した。魔法の力を手の先と、脚の両方に込める。  降下から一転、急上昇を果たした私と戦闘機が交差する。ステッキから伸びた魔法の刃が追い抜きざまに機体を両断した。 「ふん、甘く見てもらっちゃ困るわ」  精一杯の去勢を崩れ落ちていく戦闘機に張るも、灯る魔法の刃は危なげに揺らいでいる。そうして、四方八方からまた敵機が襲いかかってくる。  もう空中では戦えない。 「リザちゃん――地上に――降りよう――一旦」  煙幕がてらステッキから乱雑に魔法を放ちつつ、私は草木の生い茂る地面に向かって急降下を始めた。戦闘機たちが輪郭が奥にすぼまって点描に戻っていく。  木々が私を包み込むような素振りを見せたのは最初だけだった。加速した身体はすぐに森林を突き抜けて木や枝のあちこちにぶつかり、最後に湿り気のある地面にべしゃりと着地した。  慌てて起き上がり天を仰いでも、視界にはなにも映っていない。さすがに地面までは追いかけてこないらしい。 「リザちゃん!」  墜落で無線機が壊れていないか筐体を触りながら叫ぶと、すぐに応答があった。 <あ、聞こえた。今、どこ?>  予想外にあっけらかんとした返事に私はちょっとむっとして言い返す。 「そっちこそ、どこにいるの」 <木の上にいる。地上は地上でソ連兵がわんさかいるんだもの。あんたも気をつけて>  ざわざわとしたノイズ混じりの声と入れ替わりに、確かにあちこちから聞き慣れない言葉が聞こえてきた。  言われるがままに私も飛び上がり、手頃な枝の上に乗った。  柔らかな泥を数多の軍靴が無作法に押し潰しながらやってきたのは、それから割にすぐのことだった。ぐしゃ、ぐしゃ、とソ連兵たちが土に足跡を残すたび、私の視界に描かれる輪郭の細やかさが増していく。目下の敵は小隊規模と見られた。  大樹を掴む手に力がこもる。五つの指先が木の幹の奥に深くめり込んで、あたかも鉤爪のように機能する。私はコウモリだ。  被弾したとはいえ小隊程度の敵を滅するのは私でもあまり難しくはない。軍靴が泥に沈む音が後方に移ろいで、後続が途絶えたことが判ると私の鉤爪はますます鋭く尖った。  しかし、できない。  目下の敵は小隊規模でも、この一帯には間違いなく複数の大隊が展開されているはずだ。事を荒立てればすぐさま増援がやってくるだろう。どっちに逃避すれば友軍側に近づくのかも、今の私には分からない。空を飛ばなければ――だが、制空権はもはや敵方にある。  結局、小隊の進軍をただ黙って見送った。いずれ彼らがベルリンの街を焼き、銃弾を壁に穿つのかもしれない。  気づいたら、私の鉤爪は木の幹をえぐりとっていた。濡れぼそった木片を投げ捨てると、ややずれた位置の幹を優しく掴んで小隊とは反対方向の木々に乗り移った。 「リザちゃん……」  インカムに向かって小声で呼びかける。相手も小声で応じる。 <敵が多すぎる。多勢に無勢ね> 「でも」  潜んだ声にも低く熱がこもる。 「このままじゃ、ベルリンが――」  今月最初のミュンヘン大空襲が脳裏に蘇った。そこかしこから火柱が上がり、人々が悲鳴を上げて逃げ惑い、建物が崩れ去っていく。それが第三帝国の帝都で再演されるのだ。 <落ち着いて、考えがある> 「どうするの」 <このまま私たち二人でポーゼンまで行くの。もちろん大部隊が駐屯しているでしょうけど――私たちなら派手に撹乱ができる。そうしたら>  ざらざらとしたノイズ混じりの声にほのかな期待が乗る。 「敵の進軍が止まるかもしれない」 <そう。ただ、飛んでいくのはダメね。体力を消耗するし、戦闘機がうじゃうじゃいるから>  これは、私たちにしかできない任務だ。またぞろ、私の手が幹にめりこみはじめた。もし前線の都市を制圧できれば、他の魔法能力行使者の戦線復帰が間に合うかもしれない。  きっとベルリンを守りきっている間に、イギリスやアメリカに潜入しているという仲間たちがチャーチルの首を、トルーマンの首を、必ずや討ち取ってくれる。  なにも映さない私の目前に突如として現れた、戦争の趨勢を覆しかねない契機に身震いが止まらなかった。 ---  私がいた収容所には変な部屋があった。ただの盲目の少女でしかなかった頃、帰り道で迷って階段をいくつも降りていった先に、それは広がっている。中にはほっそりとした、あるいはでっぷりとした壺ようなもの、細い棒切れのようなもの、ざらざらした手触りの、たぶん壁画かなにか――などが所狭しに置かれていた。  中でも気を惹いたのは固くて重い、当時の私の背丈くらいある大きな円盤だった。一体、これはなにに使うものなんだろう。どうしてこんな形をしているんだろう。  金属質のつるつるしたそれの手触りを確かめていると、急にドアが激しく開いて看守の人たちが大騒ぎで入ってきた。  その後、私はたっぷり叱られてただでさえ少ないその日の食事が全部抜きになった。 「食料がないわね」  出し抜けに、リザちゃんが言った。スプーンで缶詰の底をがりがりとこする音もする。私も同じことをしているのでちょっとうるさいくらいだ。  ポーゼンに進みはじめてから早くも三日近くが経過した。外套に収まるだけの携行食糧は早くも底を尽きた。一時間おきに無線機の周波数を切り替えても友軍との連絡は一向につかない。ひょっとすると地上軍はもうベルリンまで撤退してしまったのだろうか。  幾度となく、空を飛んで辺りを見渡したい衝動に駆られた。けど、どうしてもできなかった。バルバロッサ作戦以来、ソ連は五年間にわたり私たち魔法能力行使者と戦ってきている。一度でも発見されたら血眼になって追いかけてくるに違いない。そうなればポーゼンを奇襲するどころではない。  私たちはひたすら平地や開けた場所、近隣の村などを避けて、敵兵との接触を最小限に抑えた。戦車の重苦しいキャタピラが地面を揺らすのが聞こえたら動き、歩兵たちのちょっとした声や足音にさえ敏感に反応した。そのどれもがベルリンを燃やしに向かっているという事実を前にしても、真の目標の前には耐えなければならなかった。  でも、空腹は耐えがたい。 「どこかから糧秣を調達しないと」  こそげ落とした最後の豆を口に含みながら提案した。今や全土がソ連の支配下にあるとはいえ、ポーランドの西半分は私たちの味方のはずだ。こんなドレスを着た子どもが軍人だと言っても信じてもらえないかもしれないけど、外套には顔写真入りの身分証明書が入っている。そう、私たちはなんといっても大尉なのだ。 「でも、この有様じゃどの集落もソ連に占領されているんじゃないのかしら」  白線で縁取られた横顔が空を仰ぐ。こんなにも大量のソ連兵が進軍してきているのなら、少なくとも街や村と呼べるような場所には私たちの鈎十字ではなく鎌と槌の旗が翻っているのだろう。 「集落から離れたところに家を建てて住んでいる人たちもいるでしょ。まさか、そんなところにまでソ連兵は居座っていないはず」  リザちゃんが「どうかしらね」と疑念を孕んだ声を投げかけるも、二人そろってお腹の虫がぎゅーっと鳴った。現地部隊との合流を前提に一日分しか携行していない食糧を三等分しているのだから、いつもお腹はぺこぺこだ。ご飯を食べながら、次のご飯のことを考えている。ちょうど雪解けの季節で川が流れていなければ飲み水にも苦労したかもしれない。  そんな水筒の中身もソ連兵を避けながらの補給では頼りない。  結局、彼女は寄り道に同意してくれた。平地を離れ丘陵に近づくにつれて、心なしか張り詰めた神経が落ち着いてきた。そろそろ屋根のある場所で寝たいと思った。外套を深々と着込んで全部のボタンを留めても、夜の間は寒くて仕方がない。 「前にね、お父さんと一緒に住んでいた家でね、暖炉が壊れてしまったことがあるの」  一転、私は明るい調子で話しはじめた。漆黒の道のりを無言で歩き続けるのは退屈だった。 「あの時もちょうど冬の頃で、家じゅうのお洋服を着込んで、それでも寒かったからお父さんの膝の上に座ってた」  そこで読んでもらった絵本が当時の私の知っている世界のすべてで、そのうちの一冊がピノッキオだった。ピノッキオの冒険。何度もせかんで読んでもらったお気に入りの話だけど、結末だけは今もあまり好きじゃない。様々な困難を乗り越えたピノッキオは最後、妖精に認められて人間に生まれ変わるのだ。  どうして、木のままではいけなかったのだろう。ピノッキオは色んなことができて、苦しい試練があっても楽しく暮らしている。松の木でできているからこそ、あんなにどきどきするような大冒険の日々に恵まれている。人間に生まれ変わってしまったら、特別でもなんでもない普通の子だ。 ”君は特別だ”  魔法能力を授けられてから私は口々にそう言われるようになった。もし私の目を普通の人と同じにできるとしても、代わりに魔法が使えなくなるのなら、私はずっと見えないままでいい。私には役目がある。 「あんたのお父さんってどんな人なの?」  私の数歩先を先導して歩きながらリザちゃんが言った。 「えっとね、優しくて、賢くて、なんでも知ってるの。今はブリュッセルで戦ってる」 「ふうん」 「リザちゃんのお父さんは?」 「同じよ、たぶんね」 「いつか会えるといいね」  彼女の歩行は淀みない。段差や障害物がある時だけ過不足なく歩幅が変わるから、まるで道標のように機能する。  イタリアも大変だと聞いていた。王様に嫌われたムッソリーニ首相が、フューラーに助けられて北の方に新しい国を作ったという。新しい国にはまだ兵士の数が足りないので、代わりにドイツ国防軍が居候している。イタリアとドイツは友達なので助け合わないといけない。  リザちゃんがドイツに「セッシュウ」されてきたのも同じ頃だ。できればイタリアで戦いたかったのだろうけど、偉い人たちはもっと難しい作戦を考えているのだと思う。実際、彼女がいなければドイツもどうなっていたか分からない。 「そうね……」  それきり、会話はぶつ切りに途絶えてぬかるんだ土を踏む音が続いた。たまに、遠く彼方の方角にプロペラの高周波音と、戦車のキャタピラが草木をすり潰す重低音が聞こえる。  私たちは黙々と行軍して、時折、隙を見ては川の水を飲み干し、再び歩いた。相変わらずお腹は鳴っていても、ポーランドが川の多い国だったおかげでなんとか我慢できている。人はなにも食べていないと三日くらいで死んでしまうのに、水を飲んでいれば二週間は生きられるらしい。  夕方、草木に空が覆われている手頃な箇所を見繕って野宿の支度をする。暗くなってからだと薪を集めるにも苦労するので明るいうちにしないといけない。もともと目の前が暗い私には関係なくても、目で見て手頃な木を探せるリザちゃんには大いにある。 「そう、そこよ」  彼女が声で示した位置でぴたり、と人差し指を止めて「ぼっ」とつぶやくと、魔法が指先で爆ぜて集めた薪がぱちぱちと言う。灯りのありがたみが分からない私でも、焚き火の温かみはよく分かる。こんな的外れな位置にはさすがのソ連兵は来ないと願うしかない。 「そういえば、コーヒーがあったわ」 「えー、コーヒー飲むの」 「飲むと温まるし空腹も紛れるから。あんたも飲むのよ」  リザちゃんはなにやらごそごそと音をたてて、焚き火でインスタントコーヒーを作りはじめた。ぶくぶくとお湯が湧く音が聞こえる。私の抗議は再三にわたったが徹頭徹尾、無視され続けた。  空いた手に熱いコップがあてがわれる。顔にあたるゆげを吸い込むと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。 「そう、匂いはいいのに……でも」  試すようにして慎重に口を含むと、たちまち言葉ではとても言い表せない強烈な苦味が舌の上に広がった。 「うええ……コーヒーってとっても美味しそうな匂いがするのに、どうしてこんなにまずいんだろう」  焚き火が爆ぜる音の向こう側でコーヒーをすする音がした。私と違ってずいぶん慣れた感じだった。 「そのうち慣れるわよ。ちゃんと飲みなさい」  ぴしゃりと命令口調で言われて、リザちゃんはやっぱり威張りんぼだと思った。  しかし、ぐいぐいと飲み進める彼女とは対照的に私のコップはいつまでも空かなかった。ちまちまと飲んでいるうちにどんどんコーヒーは冷めていき、ますます苦味が強く際立つ。そうなると、ますます飲み進められない。  私は必死にコーヒーと闘争するための戦意を振り絞り続けた。さもなければ一向に軽くならないコップを両手で握りしめる気力を失いかねなかった。いっそ落としたふりをして地面に飲ませようかな、などと考えたりもした。  とうとう呆れたのかリザちゃんは打開策を提案した。 「コーヒーってチョコレートと一緒に飲むと美味しいんだって」 「えっ、そうなんだ……」  外套の中にひとにぎり押し込んであったチョコレートの存在が思い起こされた。どれだけ食糧を切り詰めようとも、これにはまだ一口も手をつけていない。チョコレートが一番美味しいのはお腹が空いている時でも、空いていない時でもなく、その中間くらいの時なのだ。  とはいえ、とはいえ……リザちゃんから聞いた話はとても魅力的に感じられた。  チョコレートの食べ時を諦めざるをえないくらい、コーヒーは苦い。  意を決していそいそと外套の奥底をまさぐり、できるだけ小さいチョコレートの包みを取り出す。口に含んで訪れた幸福を味わうのもそこそこに、救いがたき苦味をざっと流し込んでやる。  確かに、鋭い苦味が甘さに包まれて幾分和らいだようだった。もう一個、またなるべく小さいのを取り出して入れ違いにコーヒーを含む。後味が不思議にすっきりとして、案外悪くない。 「どう?」 「まあまあかな」 「私も試そうかしら」 「ダメ」  気づけばコップの中身はあっという間に空になっていた。  その日、眠りにつくまでの数時間、私はちょっぴり大人になった気がした。 ---  リザちゃんに急かされて半分寝たまま朝の支度をさせられる。文字通り、させられている。手渡された最後の食糧を食べて、最後の水を飲んで、服を脱がされて、濡らした布で身体を拭かれて、着せられる。  とても時間をかければ自分でもできないことないし、家にいる時はそうしていたけど作戦行動中はそういうわけにもいかない。 「あら、月のものが来ているのね」 「え、そうなんだ」  どうりで股の辺りがむずむずすると思った。いつもだったらあの独特の嫌な匂いで気づくけど、こんなに長くお風呂に入っていないと鼻がほとんど効かなくなる。本当だったら入りたくてたまらないはずなのに意外とそうでもないのは、お腹が空いているとか喉が乾いているとか、他にしたいことが多すぎて身体が忘れてしまっているのだと思う。もし、息ができなかったら息をしたい以外にはきっとなにも考えられない。  しかし、いざ行軍が再開されると股に当てられたやたらごわごわする布切れの感触が気になった。なんとかうまく歩こうとして大股歩きになると、今度は慣れない歩き方をしているせいで動きがぎくしゃくする。ただでさえ女の子は月のものの最中は元気がなくなる。  ただでさえお腹が空いていて、喉も乾いていて、お風呂にも入れていないのに、これからもっと元気じゃなくなるのだ。 「あら、雪が降ってきたわ」  リザちゃんがそう言うか言わないか、頬にひんやりとしたなにかが触れた。途端に寒さが増した気がして、外套のボタンを全部留めて歩く。 「積もれば水には困らなくなるね」  ここにタイプライタはないけれど、もしお手紙を書くならきっとこんな感じになるだろう。 ”一九四六年三月二〇日。親愛なるお父さんへ。このお手紙はお父さんのお手元に届く頃には少し湿っているかもしれません。というのも、今まさに雪が降っているからです。もちろん音もなく降りしきる雪の姿は私の目には映りません。肌をなでる冷たい感触が私に雪を感じさせます。昔、たくさん積もった雪をすくって食べていたらお父さんに叱られましたね。案の定、あの後にお腹を壊してトイレから出られなくなったのを覚えています。行軍中にそうなったら大変ですが、今では私もお姉さんなのでもうそんなことはしません。……”  どこかで、チーン、と改行音が鳴ったような気がした。いやしかし、それにしては音程が変だ。そもそもこれは頭の中で書いているお手紙であって本当にタイプライタを叩いているわけでは……。  私はすぐに他にも聞き慣れた音があったのを思い出した。これは銃弾が空気を切り裂く音だ。 「敵だ」  私がつぶやくと、彼女が息を呑んだ。「え、どこに」「まだ遠い。銃声、二時の方向、私たちに向けてじゃない」 「一体どこに向かって……?」  耳を研ぎ澄ませて銃声の残響を追う。 「少なくとも水平に飛んでいる。地面に向かってでも、空に向かってでもない。誤射や祝砲ではなさそう」 「じゃあ、もしかして」 「友軍が撃たれてるんだ」  瞬間、私たちの歩幅はメートル単位で変化した。繰り返し聞こえる銃声を目指して、短い跳躍を繰り返す。何歩目かで木々に飛び移り、幹から幹へ、足で軽く蹴って立体的に移動する。  しばし位置を離れた彼女が無線機越しにしゃべると、電波を示す白線がぎざぎざに揺れて視界に波を打つ。 <見つけた。敵。小隊規模、車輌はなし。やれるわ>  ごく簡潔な状況報告の後に炸裂音が響いた。私も白線を辿り木から鋭角に飛び出して地面に降り立つ。全身に陽の光を感じる――ここは平地だ――応射がリザちゃんに集中することを避けるために、未だ像を結べていない雑然とした暗闇へ、すばやくステッキを振りかざした。悲鳴。さらなる轟音。敵が叫べば叫ぶほど、だんだんと私にははっきりと見えるようになる。  お人形さんみたいに並ぶ敵たちがいよいよ銃口をこちらに揃えた。  横殴りの銃弾の雨を避けて真横に飛び、さらに接近する。距離にして十メートルもあるかないかに迫った状況では、ステッキの口径だと釣り合わない。ホルスターにしまい込みながら逆の手で咄嗟に拳銃を模る。 「ぱん!」撃つ。「ぱん!」お人形さんの頭が割れた風船のように弾けて地面に崩折れていった。  私たちとの戦力差を認めて撤退を始めた残党に、リザちゃんがとどめの光線を放つ。遠ざかる人影が白い靄に包まれて跡もなく消え去った。たちどころに銃声が止んで、しばしの静寂が訪れる。 「もしやあれは――」 「魔法を操る特別な兵士がいるという……」  後方でざわざわと声がした。ドイツ語だ。振り返るとあやふやな輪郭が三、四、五、続く声に応じて描かれた。  ソ連兵だらけの敵地で出会った友軍に、私は泥と雪で濡れたドレスの裾を伸ばして応じる。 「ええ。私たちは帝国航空艦隊所属の魔法能力行使者です。あなたがたの援護に参りました」 「おお……」  直後、視界に広がるいくつもの輪郭が急にぺしゃんこに潰れたのかと思った。  そうではなかった。  私よりも三十センチも高い大柄な男の人たちが一斉に跪いたのだ。  先頭にいる人が低い声で言った。 「我々は第二二一保安師団、第三一三警察大隊隷下の残存兵どもでございます。ポーゼンに駐屯していましたが、指揮官を失い寄る辺もありません。どうかご指揮を」  奥の木陰からもわらわらと人影が出てくる。リザちゃんが言う。 「あそこにある民家はあなたたちが検分したのかしら」  私の視界にはなにも映っていないが、どうやら民家があるらしい。先頭の男の人が答える。 「さようでございます。あの家々から物資を接収した後に、運悪くソ連兵とかち合って戦闘になりました」 「じゃあ、今は食糧を持っているの?」 「それなりには」  リザちゃんが私の肩を叩いた。表情は分からないけど、声の弾み方からきっと笑っているのだと思う。  空腹である旨を伝えると、大尉の階級章は存分にものを言った。  私たちは木陰の比較的清潔そうな場所に案内されて、そこに敷かれた風呂敷の上に座った。ただ待っている間に白線のお人形さんたちがせわしなく働いて、回収した食材を元に料理が作られていく。やがて、ブラウンソースとよく煮込まれたお肉の良い匂いが漂ってきた。  これはビーフシチューの匂いだ。 「あんた、よだれが出てるわよ」 「嘘でしょ」 「いや、今度は本当」  本当だった。三、四日もろくに食べていないとさすがにはしたなさが勝ってしまう。 「どうぞ、大尉どの」  兵士の誰かが差し出した皿を、リザちゃんが一旦受け取って私に手渡す。続けてスプーンももらい、いよいよ待ち焦がれた食事の時間が訪れた。  一口目を食べてからの事はあまり記憶に残っていない。この時の私は脳みそではなく舌が本体になっていた。皿に残ったソースまで舐め回しかけたところで「ちょっと、お代わりを貰えばいいじゃないの」と制止されて、ようやく我に返った。間を置かずにやってきた二皿目もほとんど飲むかの勢いだった。三皿目、四皿目と食べ尽くしていくにつれて次第に人間らしさを取り戻して、もしかするとこれは部隊全員ぶんの食事だったのでは、と思い至った。 「食べ過ぎちゃったかも」 「今更気づいたの?」  そういうリザちゃんだって二皿は食べている。まさかこんな敵に囲まれた戦場でビーフシチューにありつけるとは思わなかった。 「あのう」  近くを通りかかった兵士の足音に向かって呼びかけて、食べ過ぎを謝罪すると彼はからからと笑った。 「多少は構いませんよ。民家にいた牛を一頭潰したんです」  そんなにたくさん作ったのか、と安心して文字通り腹落ちしたところで、別の疑問も湧いた。 「そこに住んでいた人はよく牛さんをくれたね」  牛さんは牛乳をくれる。牛乳からチーズも作れる。世話をしているだけでずいぶん役に立つから、潰すとしたら本当に最後の最後だ。たまたまそういう牛がいたのだろうか、それとも特別に協力してくれたのだろうか。いずれにしてもありがたいことだ。  しかし、兵士はあくまで笑うばかりだった。 「他にも色々くれましたよ。まあ多少は手こずりましたがね」 「ねえ、あなたたちの中で一番偉かった人を呼んできてくれないかしら。ポーゼン奪還の話をしたいの」  そこへ、唐突にリザちゃんが割って入り兵士に言いつけた。言われてみれば確かにそうだ。食糧探しのためにだいぶそれてしまったけれど、ここまでソ連兵に見つからずにポーゼンから逃げてきたのならきっと良い道を知っているのだろう。  たいへんな戦争を戦っているはずなのに、私はふわふわとした気持ちで満たされていた。相変わらず股の辺りがごわごわしているけれど、美味しいビーフシチューをお腹いっぱい食べて、大勢の部下までできた。なにもかもうまくいきそうな感じがした。 ---  部隊の中で一番偉かった人――ウルリヒ伍長の道案内は慎重さを極めた。私たちと違って普通の人間は一発の流れ弾で死にかねないのだから、接敵を恐れるのは仕方がない。あれほどあったはずの糧秣は三日ほどで尽きて、私たちはまた腹ぺこに舞い戻った。一方で、月のものの痛みは日増しにどんどん強まり、眠いはずなのに眠れない日々が続いた。  それでも部隊はたっぷり時間をかけてシュナイデミュール付近まで回り込み、そこから北側からポーゼンに到達した。少なくとも出発から一週間近くは経過している。股にあてがう布切れにもそろそろ事欠くようになってきた。  辺りに並ぶ兵士たちの声を聴くかぎり、街と呼ぶにはあまりにも悲惨な光景が広がっているらしい。一ヶ月前まではちょうどこの辺りで我が軍の精鋭が物量に勝るソ連軍を抑えていたはずだ。それが今では不気味な静寂に満ちている。音がしないから私の目にはなにも映らない。 「夜を狙う。まず大尉どのに奇襲を仕掛けてもらい、連中が慌てているところで我々が街に」  ウルリヒ伍長の低く落ち着いた号令が寒空に吸い込まれていく。雪はあれから降ったり止んだりを繰り返している。一度よく晴れた日に乾かしたはずのドレスはもう湿りきっている。 「でも、敵はどこにいるのかしら」 「見れば分かります。あそこにはもうまともに建っている建物の方が少ないですから」  数時間後、私たちは部隊から離れて空を飛んだ。久しぶりの飛行に全身の筋肉がぎくしゃくとする。澄んだ空気に満ちた夜空の中では、無線機越しの声も心なしかはっきりと聴こえる。 <あったわ、灯りがついている。私の後に続いて撃って>  まもなく、視界の端から中心に向かって白い塊が横切っていった。爆発音。私も急いで魔法を放つ。爆発音が二重に響く。 <あっ、いけない、高射砲!>  リザちゃんの注意とほぼ同時に、ヒュンッと甲高い音をたてて私の横をなにかが通り過ぎていった。後方で起こった爆発の熱風が私のスカートを激しくたなびかせる。  砲撃音に応じて下の方にぽつぽつと白い点が灯る。左右に蛇行しながら空を切り裂き、私は白い点に向かって降下を開始する。その点がほのかな輪郭を模ったあたりで魔法の砲弾をお見舞いした。  続けて、他の点にもそれぞれお返しを放っていく。見たところ、この街に戦闘機は配備されていないようだった。もう占領しきったと安心してすべての戦力はベルリンに向かっているのだろう。  脇が甘かったね。  あらかた敵の対空能力の殲滅が済むと、私たちは合図を交わして高度を下げた。リザちゃんの放つ魔法に合わせて要領よく建物を破壊する。飛ぶ位置が低くなると、ロシア語の悲鳴がよく聞こえた。  しばらくするとウルリヒ伍長率いる部隊の突入も追いついた。交錯する銃声を頼りに、手のひらを中口径のステッキに代えて歩兵の隊列を崩し続ける。誰かが叫んだ歓声に向かって私はそれとなく敬礼のサインを送った。  やがて敵の抵抗は収まり、わずか二個小隊規模の私たちの前に中隊相当の人の群れが手を頭の後ろに組んで並んだ。ウルリヒ伍長がロシア語を話せる兵士伝いにあれこれとやり取りをして、まとまった内容が私たちにも伝えられた。 「大尉どの。この街で作戦司令所として使われていた建物はすでに崩れてしまったようです。中にいた指揮官ごと」  どうやら戦闘中に破壊した建物の中に含まれていたらしい。うまく再利用できたら強力な無線機も使えて便利だったが、この状況ではやむを得ない。 「しかしまだ生き残っている建物がいくつかございましたので、それらを利用するつもりです」 「そうね」 「それからそこの地下室に未使用の地雷があったので明日にでも施設します。敵車輌の侵入をある程度は食い止められるでしょう」 「ええ」 「それで、ここに並んでるソ連兵の処刑についてですが」 「処刑――殺しちゃうの?」  ここではじめて、リザちゃんの代わりに口を挟んだ。 「はい。捕虜を監視する人手も糧秣も不足していますゆえ」 「でも戦いは終わったよ、降参したんでしょ」  壁際で一列に並ぶソ連兵たちの輪郭が見える。誰も銃は手に持っていない。 「ロシアの人たちは私たちが東方生存圏を確立した後に大切な働き手になるんだから、殺すのはよくないよ」  以前にラジオで聴いた宣伝省の録音演説をほとんどそっくりそのまま言う。  なんでもフューラーの考えでは、ロシアの地から共産主義者を追い出した後に新しい国を作るつもりらしい。そこではアーリア民族ではないものの善良な人々が帝国の恩恵を受けて平和に暮らしていくという。 「しかし――」  珍しく抗うそぶりを見せる伍長に、リザちゃんが遮るようにして命じる。 「残った建物を全部使ってもいいから収容して。見張りは少しでいい。もし逃げ出したら私たちが責任を持つわ」  伍長は渋々とではあるものの受け入れてくれた。それぞれの建物に分かれて収容されていくソ連兵たちの人影を見送った後、私たちも残った建物の一角に専用の寝室を構えた。必要な準備は部下が全部やってくれた。 「これから大変よ」  寝る前に、私の背中を濡れた布で拭きながらリザちゃんが言った。 「たぶんもう、ベルリンに向かったソ連軍にも、奥にいる敵にもここが獲られたことは知られてしまったはず」 「でもきっと、しばらく耐えていれば味方の増援が来てくれるよ」  背中を拭き終えた後は例によって股の布を取り替える。下腹部の鈍痛は顔をしかめたくなるほどに達していた。 「まだ痛むの?」 「うん」 「日が経ったらじきに収まるはずよ」  銃弾で身体の至るところに穴が空いてもそれほど痛くはないのに、こっちの痛みときたらまるで全身が蝕まれるかのように思われた。初めて月のものが訪れた時、管制官は「それが女の役目だ」と仰っしゃられた。男の役目が敵と戦うことなら、女の役目は元気な赤ちゃんを生むことだと教わった。月のものはそのための準備だという話だった。  魔法能力がない普通の女の人でも、この痛みに耐えているんだ。  そう思うと、心なしか鈍痛がほんの少し和らいだ。  服を着直すと、私は備え付けの机の前に座った。目の前にはタイプライタが用意されている。無事だった建物の一つで見つかったものを「セッシュウ」したのだ。使い慣れたものとは異なるメーカーだったが、何度か試し打ちしているうちにすぐ馴染んだ。 「ずいぶん熱心なのね」  半ば呆れた調子で言うリザちゃんに私は自信満々に答えた。 「うん、戦争が終わったら”たいぴすと”になるの。だからいっぱい練習しないと」 「……そう」 ”一九四六年三月二九日。親愛なるお父さんへ。聞いてください。ついに私たちはやりました。見事、ソ連兵を打ち負かしてポーゼンの地を解放したのです。途中で初めての部下もできました。たくさん捕まえた捕虜も今は空いた建物に閉じ込めておとなしくさせています。今頃、ベルリンに向かっている他のソ連兵たちも、モスクワにいる共産主義者たちも大慌てしているに違いありません。私たちがここでひたすら持ちこたえていれば、必ずや他の魔法能力行使者や兵隊さんたちが反転攻勢を成し遂げてくれるでしょう。”  チーン。ほんの少しだけ音程の違う改行音が部屋中に響く。  長かった作戦を無事に終えたご褒美に、私は外套の奥底からチョコレートを取り出して口に含んだ。じわじわと溶けだす甘みが私に束の間の幸福をもたらした。 ---  ガンガンと部屋のドアを激しく打ち鳴らす音で目が覚めた。肌に触れる空気の感覚からして朝にはまだ早いはずだ。ちょっぴり苛立った声でリザちゃんがドアの向こう側に応じる。相手の返事はもはや悲鳴に近かった。 「大尉どの! 大尉どの! どうか、今すぐやつらを――ソ連兵どもを――我々には手が――」  二人して急いで跳ね起きる。半ばリザちゃんに引っ張られるようにして外に向かう。  踏み出した瞬間、ロングブーツの底に奇妙な感触がまとわりついた。同時に頬を頭を首筋を、冷たいなにかが打ち付けてくる。「吹雪だわ」リザちゃんがつぶやく。寝ている間に雪が降っていたらしい。外套を忘れてしまったので、あっという間にドレスに水分が染み込んでいく。 「こちらです! 大尉!」  兵士の声に従って後を追う。雪を踏み鳴らす音は方向性が掴みづらく、私の視界には白い靄としてしか映らない。声がした瞬間だけ靄が淡い輪郭をまとう。そんなに遠くないはずの距離を吹雪と積雪の抵抗を受けながら進むにつれて、分厚い空気の層を切り裂くように兵士たちの悲鳴が漏れ聞こえた。  ロングブーツの底に魔法を込めて雪から足を引き抜くと、一直線に声の方向に滑空した。銃声。また、銃声。靄から伸びる鋭い白線が銃弾の軌跡をかたどっている。その先にいるのがソ連兵なのだろう。  大切な労働力を殺すのはためらわれるが暴れているのなら仕方がない。ホルスターから引き抜いたステッキから魔法の刃を繰り出して、軌跡の末端へと振りかぶる。鉄でできた戦闘機をバターのごとく切り裂くこの刃は、人体をえぐるのに手応えさえ与えてくれない。  はずだった。  これまでに一度として途中で止まったことのない魔法の刃が、私の自重ごと空中で押し留められた。相手が固すぎるのではない。掴まれている。  ステッキではなく、魔法の刀身が。  予想を越える力が刀身ごと私を積もった雪の上に投げ出した。しばし、されるがままに埋もれていった身体はしかし、追撃の兆しを察してすぐさま中空に浮き上がる。直後、ドーン、と重低音が響いて雪が舞い上り、あたかも返り血のようにドレスに降り掛かった。 「ゔゔゔゔゔゔゔゔゔ」  ここへきて、私の視界はようやく敵の輪郭を正確に捉えることができた。獣同然の唸り声を上げ、身を激しくよじり頭を抱えるその様は、およそ人間離れしていた。暴力と絶望が綯い交ぜになった様相に誰もが絶句を余儀なくされた。 「なん、なの、こいつ」  ようやくリザちゃんが一言だけ漏らす。先の兵士が息を切らしながら言う。 「俺が見張りを代わる前までは普通だったんです――でも気づいたら――こいつ、見張りも、仲間の捕虜も殺して――急にこんな有様に――」  不審な挙動を見せつつも雪の上で立ち往生する化け物に対して、兵士が装填したライフルを向ける。 「たぶん意味ないよ。さっき私の魔法を掴まれた。魔法に触れるってことは」 「魔法能力行使者なの?」 「そうだと思う。隠していたのか、もしかすると今日になって発現したのかも」 「ソ連にもいたのね」  突如、なにに反応したのか――化け物は空に向かって鋭く絶叫して――一目散に兵士の方へと駆け出した。  恐怖の声とともに兵士もライフル銃を放つも、私たちがそうであるように化け物が止まることはなかった。真横から私とリザちゃんが魔法を放つと、醜くわめきながら雪の上を転がっていった。  四方八方から増援の兵士たちが駆けつけてきた。雪を踏みしめる音がしばし空気を満たして、闇夜に紛れた白銀の先へと一斉に小銃が構えられる。 「見えたらすぐに撃て!」  後ろの方でウルリヒ伍長の号令が聞こえた。  この時、私の目にはみんなとは違うものが映っていたと思う。  相変わらず真っ暗な視界の奥に、支えもなしに仰向けからゆっくりと起き上がる人影が一つ。その輪郭は今までのどれとも違っていて、輪郭を構成する糸の一本一本が、粒の一つ一つが、あたかも脈打っているように見えた。  それらの絶え間なく動く脈動がみるみるうちに勢いをつけて、あたかも膨れ上がった様子で威圧感を増していく。とめどなく、再現なく、もはや自分自身の存在にすら気を払っていないかのように思われた。 「逃げて!」  化け物の思惑に悟った刹那、とてつもない爆発が起こった。反射的に大口径の魔法をぶつけて相殺を試みる――が、襲いかかる衝撃はは左右に分かれて辺りにことごとく破滅を撒き散らした。束の間、爆風の隙間を縫って耳に届いた悲鳴は殺人の波に包まれてたちまち消し飛んだ。  季節外れの雪の夜に再び静けさが訪れた時、化け物の姿はどこにもなかった。 「ごほっ、自爆――したのか?」  しばらくすると後ろから生き残りの兵士たちが雪をかき分けて起き上がった。ウルリヒ伍長が、もう存在しない部下に向かって声を震わせる。 「おい、どうした――どこへいったんだ、お前ら」 「爆風に巻き込まれて死んだのよ。生き残ったのは私たちの魔法の真後ろにいた人だけ」 「そんな無体な、ついさっきまで――死体さえも――」  がさっ、と雪の上に膝をつく音がした。声や身じろぎの数から、およそ半数の兵力がまたたく間に失われてしまったのだろう。あまりにも強力な魔法は灼熱の業火をも上回る。物や人を破壊した痕跡さえも残さない。すべては虚空の彼方へと消えゆく。 「……あなたのせいですぞ、大尉どの」  普段の落ち着いた口調が嘘みたいに刺々しい声色で伍長が私に食ってかかった。 「前もってソ連兵どもを皆殺しにしていれば!」 「でも、彼らは東方生存圏の――」 「なにが生存圏! あなががたは――総統閣下も――我が軍の実情をご存知なのですか?」  雪をかき分けてずんずんと迫るウルリヒ伍長の手が、私の胸ぐらを掴む。しかしそれは「胸ぐらを掴まれている」というよりはすがりつかれているような感じがした。 「ちょっと、伍長、あんた――」 「いや、待って。伍長さん、我が軍の実情ってなに?」  揺れ動く白線で縁取られた顔の輪郭がしばし俯く。 「我が軍は、ドイツ国は、このままだと確実に」  直後、遠方で爆発音が響いた。一発や二発ではない。何十もの火薬が炸裂した音がとめどなく続く。伍長の手が襟元から離れて、身体ごと音のする方向に傾ぐ。 「撒いておいた地雷が爆発した」  まもなく私たちの認識は一点に集中した。 「ソ連軍が来る」 ---  いつもの要領で上空から奇襲を仕掛ける。きゅらきゅらとキャタピラで固い土を踏み鳴らして進む重戦車と、遠慮なしに金属音を立てる随伴歩兵らしき集団の輪郭が急降下に伴い明瞭に映り込む。魔法の砲弾を放ったと同時にUターンして空へ舞い戻る。地雷原で損耗した戦車の数を念頭に入れると、敵方の車輌はそう多くはないはずだ。 <南側からも来るわ> 「そっちはお願い>  短く無線通信を交わして目の前の戦場と向き合う。ただひたすら、被弾を最小限に、応射を最大限に。一見、際限なく現れるように思われたソ連兵たちにも限りはある。上空からの砲撃に一段落を見出した後、四方に分散したであろう小隊の位置取りに見当をつける。今、私の右斜め後方で音がした。  速やかに建物の縁から飛び立つと、入れ替わるように銃弾が元いた位置を掠めていった。軌跡を辿ったその先にステッキを振り抜く。帯状に展開された魔法の波が、確かに人体を両断した手応えを得る。死に様に放たれた応射の弾が気安く私の肉体をえぐる。  リザちゃんがいる方向からも景気の良い爆発音が聞こえてきた。どうやらなんとかうまくいっているようだ。事態はすでに残存兵力の掃討に切り替わっている。  ふわりと地面に降り立つ。遁走をはじめた背中に人差し指を突き立てて一人ひとり、順番に始末していく。破損した戦車の陰を覗くと、逃げ遅れた若いソ連兵の泣きじゃくる声が耳に入ってきた。  もし口を閉じて黙っていたら気づかなかったかもしれないのに、甲高い泣き声のせいで私の目には敵を仕留めるのに十分な情報量が描き出される。相変わらずロシア語は分からない。 「ぱん」  人影の輪郭が弾けて消えた。 「こっちは終わったよ」  無線に向かって呼びかけると、リザちゃんの弾んだ声がハムノイズに乗って返ってきた。 <こっちも今終わった。どう、怪我してない?>  毎度の確認に少々辟易しながらも私は律儀に答える。 <お腹がちょっと痛い>  ひょっとするとまた月のものが始まったのかもしれない。だとしたら、布を集めなくちゃいけない。食糧も必要だ。どっちもソ連兵から鹵獲できるといいのだけれど。  なんとなしに空を仰ぐと頬を生温かい風が撫でた。  あの日、最初の襲撃を経て私たちの部下は全員が戦死した。結局、ウルリヒ伍長から話は聞けないままだった。  でも私たちは生きている。めでたい春を迎えて久しいこの地で、長く続いた雪の代わりに銃弾を浴びながらライヒのために戦い続けている。 ”**一九四六年四月三〇日** 親愛なるお父さんへ。紙がなくなりそうなのでしばらくお手紙を書けなくなるかもしれません。この地に来てからもう一ヶ月余りが経過しました。身体に空いた穴が二桁を越えてからは数えるのを諦めています。放っておけばそのうち塞がるけど、戦うたび穴が空くので実際のところいくつあるのか分からないのです。こないだ、ようやく戦死した人たちの埋葬を全員分終えました。得体の知れない化け物に殺されてしまった捕虜の皆さんも今では土の下で一緒になっています。”  改行音が鳴らない。また故障したみたいだ。慣れた手つきでアームの位置を無理やり下げて、続きを書き進める。 「食糧、そこそこ手に入ったわ。またしばらくは持つと思う」 「うん」 ”ベルリンの様子が心配でなりません。ブリュッセルだってきっと大変に違いありません。私たちがここで戦うことで、少しでも戦況が良くなることを願っています。あるいはもしかしたら、今日の戦いがソ連の最後の悪あがきなのかもしれません。実はもうソ連軍は東部戦線から撤退を始めていて、モスクワに帰っていく途中なのです。本当にそうだったらいいなと思います。一ヶ月もお休みをとった先輩の魔法能力者たちは今にも出撃の準備を心待ちにしているのでしょう。” 「当て布、いる?」 「うん」 ”じきに私たちにも真の春が訪れるはずです。これだけ頑張ったのだから、フューラーもきっと私たちのことをお褒め下さるはずです。いつか解放されたヨーロッパ大陸全土にたなびく鉤十字の旗の下で、ひと目でも生のお声を聞いてみたいと思います。そういえば、今年に入ってからというものラジオ放送でもとんとフューラーのお声が流れていませんね。ゲッベルス大臣の演説もたいへんすばらしいですが、ここぞという時にはやはり総統閣下の堂々たる鼓舞に耳を震わせたいものです。ここにもし国民受信機があったら……” 「ねえ、ちょっと」 「うん」 「ねえったら」 「うん?」  なにやら急に肩をがしりと掴まれたので、ふと我に返った。どうやらずっと空返事をしてしまっていたらしい。一旦、お手紙を書くのは中断して、彼女に手伝われながら月のものを確認した。ほんの少し、血が出ているようだった。さっそく布切れをあてがう。皮肉にも彼らが携行している医療品のおかげで私はドレスを自分の血でひどく汚さずに済んでいる。  とはいえ、もう他人の血でずいぶん汚れてしまっているけれども。いつ襲撃が来るのかも分からないので洗濯はだいぶ前に諦めた。どうしても私はドレスで戦いたい。 「そういうリザちゃんは身体、大丈夫なの」  一方で、どうにもならないのは彼女の身体だった。布や食糧は死体の横に転がっていても義肢はそうはいかない。手で触れてもはっきりと分かるほど彼女の手足はぼろぼろに傷ついている。魔法の力を与えても肉体ほどには丈夫にならないし、ひとりでに治りもしない。 「だめかも」  そう言う彼女の声は存外に明るい。このところソ連軍の襲撃が減ってきているせいかもしれない。長きにわたる戦いにもいよいよ終わりが近づいているのだ。静かな夜をぶち壊しにする戦闘機の金切り音も聞こえなくなって久しい。間違いなく、敵の資源は払底しつつある。 「ねえ、リザちゃんは戦争が終わったらどうするの」  彼女の義手のぎざぎざとした傷跡を指先でなぞりながら、優しく尋ねた。私はもちろん管制官のお勧めに従って”たいぴすと”になるつもりだけど、彼女の将来の夢はまだ聞いたことがない。  すると、淡い輪郭の人影が小刻みに震えて、途端に低い声を出した。 「絶対に、笑わないでよ」 「え、なんで」 「いいから、約束して。笑わないって」 「笑わないよ。なに?」 「えっとね……お嫁さん」  不自然な沈黙が二人の間に流れた。あんなに強くて、威張りんぼな彼女が、平和な世の中になったら、なんと男の人とお付き合いをしてお嫁さんになるつもりなのだという。 「ちょっと、なにか言って――」  それは……それって……。  とてもすばらしいことだ! 私はすぐさまオーク材でできた両手を握りしめて上下に振った。 「すごい、そんなことまで考えていたんだ! リザちゃん、すごいよ」 「えっ、そう? そんなに?」 「私は生活の身を立てることしか考えていなかったから」 「ううん、でも私も――」 「まさか、戦争が終わっても国家の繁栄に身を尽くすなんて! すごい、本当に」 「えっ?」  管制官が仰っていた「女の役目」を果たすには結婚しなければならない。こうして月のものが訪れる年頃になってしばらく経つ私でも、そんな話はずいぶん先のことに感じられる。男の人とお付き合いをする、というのもどうやればいいのか分からない。殺すだけなら指先一本だけで済むのに。 「赤ちゃんは何人生むつもりなの?」 「……何人?」 「管制官は国家のためにはすべての女性が最低三人産むのが望ましいって言ってた」  でも、リザちゃんは違う。ちゃんと未来の国家に貢献する方法を考えていたんだ。 「リザちゃんならきっとたくさん産めるよね」 「……うん、そうね」  するり、と木でできた両手が私の手から抜ける。「そろそろ寝ようかしら」と言って、ベッドの方に歩き出す。軋む両足をひょこひょこと動かしながら揺れ動く人影を見送った後、私も手探りで机の上に座った。  このところ、タイプライタはおかしな音を出すようになったけれど、だからといって練習を疎かにしてはいけない。  私も頑張らなくちゃ。 --- ”一九四六年五月七日。親愛なるお父さんへ。このところめっきり暖かくなりました。昨月から外套を着ていませんが、今月はドレスでも暑いくらいです。とはいえ、こればかりは脱ぐわけには参りません。なんといっても私の軍服ですから。最近はソ連兵があまり食糧を持っておらず、お腹が空いてきました。でも、月のもののせいで痛むのか、お腹が空きすぎて痛むのかもうよく分かりません。"  音は鳴らない。故障しているのだ。手探りで紙を引き上げて手で改行する。 "毎日のように無線機のダイヤルを回しています。偶然にどこかの電波を掴んで、なにか情報が得られるかもしれないからです。しかし私たちの無線機は出力が弱すぎるのか、ハムノイズ以外にはなに一つ音が聴こえません。一体、街の外はどうなっているのでしょうか。今すぐにでも飛んで見回りたい気持ちです。ですが、いつソ連兵が攻めてくるのか分からないので離れられないのです”  実際、一度だけリザちゃんに哨戒をお願いしたことがある。ずいぶん心配しながら飛び立った彼女は、まもなくとんぼ返りする羽目になる。重戦車と歩兵部隊がこちらにやってくる様子が見えたからだ。その日はいつにも増して身体に穴が空いた。 <ねえ、また来たわ>  ざざ……とノイズ音に紛れて、机の上に置いたインカムからリザちゃんの声がした。最近は散発的に敵が来る。一日に二回来ることも珍しくない。戦力の逐次投入などもっともやってはならない過ちなのに、よほどソ連軍は余裕を失っているのだろう。おちおちお手紙も書いていられない。インカムをかぶり、無線機を背負って外に向かう。椅子から立ち上がって、後ろに二歩、右を向いて三歩。ドアを開けて廊下に出る。一ヶ月も住めばここも家みたいなものだ。  飛翔するとすぐに辿るべき電波の白線が見えた。数キロメートル先の末端に佇む彼女は意外にも空中ではなく地上に立っている。 「どうしたの」  呼びかけるとオーク材の腕の輪郭が前方の森林を指差した。 「いるにはいるんだけど、ずっと森の向こうに引っ込んで出てこない。やる気あるのかしら」 「森ごと吹き飛ばしたら」 「お腹が空くから無駄撃ちしたくない」  耳をすませると、遠くから布が擦れ合う音、金属がかちゃかちゃと重なる音が聞こえた。私にしか聞こえないほどのかすかな音だけれど、確かに敵はそこにいる。 「こっちから森に侵入するのはどう」 「閉所だと余計に被弾するわよ」 「うーん、じゃあ――」  直後、すさまじい風切り音とともに銃弾が隣を横切っていった。ライフル銃――にしては大きい――けど、砲弾にしては速すぎる――めきめき、と木材の軋む音、裂ける音が続く。やたらと鈍重な銃声が最後に響いた。刹那の出来事が終わった後には、目の前の彼女の輪郭がずいぶん小さく崩折れて地面に転がっていた。 「リザちゃん?」 「――やられた、脚――逃げて――!」  反射的に飛び上がりかけた私の脇腹に、鉄の塊が深くめりこんだ。体勢を崩して激しく地面をのたうち回って転がる。急いで起き上がろうとしても、なかなか起き上がれなかった。起き上がるための腹斜筋がえぐれてなくなっていたからだ。  声にならないうめき声を上げる。痛かった。銃で撃たれて痛いと思ったのは初めてだった。だが、それでも、応射、応射をしなければ。  なんとかホルスターから抜き取ったステッキを当てずっぽうに振る。前方に着弾した魔法が木々をなぎ倒して、兵士の絶叫が空にこだまする。  隙を見取り、地面を這いつつ体勢を立て直した。急に重苦しく感じた無線機を引き下ろす。それを支えによろよろと立ち上がると、地面の染みみたいに揺れ動く輪郭の前に立った。 「後ろにいて」  義足を破壊されたリザちゃんはもう立ち上がれない。  私が守らなくちゃいけないんだ。  今にも襲撃をうかがっているであろう兵士たちの輪郭を聴き取ろうと、私は仁王立ちのまま息の調子を整えた。  シュッ、と銃弾が空気を切り裂いて肩口に当たった。わずかに身がのけぞったものの、大丈夫、これは普通の七.六二ミリ弾だ。痛くない。  そして私の目には銃弾の軌跡が克明に刻まれている。 「そこね」  ふ、とつぶやいた私の言葉は、自分でもとちょっとびっくりするほど冷たく凍りついていた。ぴん、とまっすぐ伸ばした腕で軌跡をなぞり、人差し指を末端に突きつける。 「ぱーん」  放った魔法の銃弾が、森の向こうの射手を仕留めた実感を得た。  戦場が静まり返った。  でも、兵士たちの荒い息遣いは少しも減っていない。視界には映らなくても、今、私の百メートル先にはソ連の歩兵部隊が控えている。  バレている。私の目が見えないことが。  沈黙を挟む小競り合いの堰が切られるまでにはさらに数分を要した。うっかり者の歩兵が、たぶん銃を取り落したかなにかしたのだろう。私の耳に届いた金属質の反響音が、研ぎ澄まされた仮初の視野に像を結ぶのは必然だった。 「ぱーん」  また一人、ソ連兵が死んだ。  入れ替わりに空気を切り裂いてやってきた銃弾を、かすかに身をよじってかわす。頬の表皮を鉛の粒が削りとっていった。  突如、森の向こうでラッパの音と、ロシア語の号令が響いた。位置を特定する間もなく、野太い叫びがあちこちから立ちのぼり、次いで地面が荒々しく踏み鳴らされる。  銃剣突撃だ。  仮初の視野に映るのは、もはや人影ではなく一つの群体と化した霧の塊だった。  もうあの銃撃は来ない。  身を軋ませながらも、悠然と手のひらを群体に突きつける。  だが、手のひらから魔法の砲弾は出なかった。  魔法の力が減退している。  ならば、 「ぱん!」  今度は出た。拳銃を模った小口径の魔法が群体の一部をえぐり取る。もちろん、ソ連兵たちの叫び声に衰える気配は見られない。 「ぱん! ぱん!」  さらに撃ち続ける。霧の大きさが減る。しかし、減っているのにだんだん迫ってくるものだから体感としてはむしろどんどん膨れ上がり、今にも私たちを覆い尽くそうとしているかのように思われた。 「ぱん! ぱん!」  ついに私は小口径で戦うのも諦めてステッキの先端に刃を顕現させた。きっとその刃の大きさはソードどころかダガーほどの大きさもないのだろう。  先陣を切って襲いかかってきた兵士の首筋を極小の間合いでちぎり取る。間を置かず、別の兵士たちの銃剣が肩口に、脇腹に、喉元に突き立てられる。  名前も知らないソ連兵たちの顔の輪郭が間近に見えた。表情は分からない。言葉も分からない。ただ、鬼気迫る呼吸と銃剣の先端にこもる圧力が唯一無二の殺意を代表している。  バターナイフ同然の魔法の刃を手近な相手に向かって振るう。煮えた血しぶきが私の顔にかかり、銃剣を通してかかっていた圧迫感がふと、緩む。それを糧に私は前進して、さらに別の兵士に刃を突き刺す。繰り返し、繰り返し、霧が枝分かれして人影に、人影がともども地面の染みと化すまで。  最後に、私は空いている手で兵士の首筋を掴んだ。たっぷり三〇センチは高いであろう人影が縮んで、目の前に跪く。その大きく開けた岩肌のような胸元に刃を突き立てた。  そうしてようやく作り出された静寂に、私はあまり感慨を覚えなかった。失った腹斜筋をなんとか代わりの筋肉に務めさせて歩き、リザちゃんのいる地面に手を伸ばした。 「おんぶしてあげる。行こう」  リザちゃんは壊れた義足の根元をぷらぷらとさせながらも、黙って背負われていた。ただ、帰り道、耳元で静かに尋ねた。 「……どこへ行くの」  私は今まで感じたことがない彼女の重さを背中に受けながら、なんとか答えた。 「お手紙を書かなくちゃ」  だって戦う以外にはそれしかやることがないんだもの。 --- ”一九四六年五月一三日。親愛なるお父さんへ。あれからめっきりソ連兵が来なくなりました。毎日、毎日、こうしてお手紙を書いているけど、正直に言って本当にちゃんと書けているのかあまり自信がありません。ほとんどのキーが沈んだまま戻ってこない有様ですし、手で戻してやってもまたすぐに壊れてしまうからです。まるで私みたいです。"  改行はもうしない。紙を自分で引き上げて続きを書く。 ”一週間も経つのに怪我の治りが悪いです。手で肌をなぞると、身体のどこを触っても銃創で穴ぼこだらけなのが分かります。私のお腹もえぐれたままです。なのに、相変わらず空腹でたまりません。この前のソ連兵たちはあまり食糧を持っていませんでした。なんだかずいぶん近いところから出撃しているみたいです。”  沈みきったキーを押し戻しながら、ちょっと考え込んだ。でも、結局は書いてしまうことにした。 ”私たちはもうこらえきれません。ブリュッセルで懸命に戦っていらっしゃるお父さんにも、総統閣下にも、療養中の先輩方にも申し訳ないですが、目の見えない私にリザちゃんのお世話はできません。明日にでも、彼女を背負ってベルリンに帰投するつもりです。”  ふと、私は立ち上がって左へ三歩、振り返って前へ二歩進む。そこにリザちゃんのベッドがある。 「おトイレ行く?」 「……うん」  脚が壊れてからリザちゃんはすっかり口数が少なくなった。あんなに威張りんぼだったのに、今ではトイレすら遠慮がちだ。一度、日記を書くのに夢中になっていて彼女の世話を忘れていたら、ベッドの上で粗相をしていた。彼女が言うには何度か声をかけたというのだけれど、私には聞こえていなかった。一〇〇メートル先の物音さえ聞き取る私の耳が、ハキハキしたリザちゃんの声を素通りしてしまうなんて考えられない。ともかく、私に細かい清掃作業は難しかったので窓から汚れたシーツをマットレスごと投げ捨てた。他の部屋から新しいものを持ってくる方が楽だった。  人をおぶって運ぶのは無線機を背負うのとはだいぶわけが違う。少しでも重心を誤るとたちまちバランスを崩してしまう。オーク材の手がするりと首筋から抜けて転がり落ちると、なんだか変な音がする。いっそ文句の一つでも言ってくれた方が気楽なのに彼女はそれでもなにも言わない。  今日のトイレは長かったので、彼女も月のものが始まったのだと思う。しかし私はあえてなにも言わず「終わった」とドア越しに言う彼女を便座から引き上げて、部屋までの道を慎重に戻る。 「ねえ」  自分の背後に向かって語りかける。 「なに」 「そろそろベルリンに戻ろっか」 「……うん」  今日は身支度をしないといけない。  部屋に戻ると、長らく隅っこに置かれっぱなしの無線機がザーザーとノイズ音を鳴らしていた。それがなにを意味をするのか悟った瞬間、私は危うくリザちゃんを放り捨てかけた。なるべく急いで彼女をベッドの上に寝かせた後、私は所定の歩数を刻んで机の上のインカムを頭にかぶった。ダイヤルをわずかにずらすと、すぐに鮮明な声が聞こえた。 <こちらアルベルト・ウェーバー管制官准将、配下の魔法能力行使者がいたら応答せよ、繰り返す……> 「管制官!」  私はその脳を揺さぶるほど甘美な声にすがるようにして、インカムに向かって叫んだ。直後、ぴたりと止んだ管制官の声が、ややあって慎重に問いかけてくる。 「その声は……マリエン・クラッセ大尉で間違いないか? 帝国航空艦隊所属のマリエン・クラッセ大尉か?」 「さようでございます! 私はマリエン・クラッセ大尉です!」  お腹の中の空気を全部絞り出す勢いで叫んだ私の頬は、もうすでに涙でひたひたに濡れていた。 <そうか。リザ・エルマンノ大尉も一緒か?> 「はい! 彼女も一緒です!」 <ポーゼンを占領していると聞いているが、間違いないか?> 「はい! もうかれこれ一ヶ月以上になりますが、私たちは懸命に――」 <そうか、そうか。今すでに向かっている。すぐに着く。よく見える場所で待機していてくれ。通信終了>  通信が途絶えてハムノイズだけが耳を満たすようになっても、私はしばらくその場に固まって半分えぐれたお腹の底からせり上がる多幸感を噛み締めていた。  管制官が迎えに来てくれた。もし、ベルリンが攻め落とされていたらそんなことはできない。  戦争は終わったんだ。  私たちは勝ったんだ。  イギリスのチャーチルにも、アメリカのトルーマンにも、ソ連のスターリンにも勝ったんだ!  ばたばたばたと遠くから聞こえる戦闘機のプロペラ音は聞き間違えようがなかった。私たちのフォッケウルフ。それらが二機で先導して、後ろを輸送機が飛んでいる。  慌てて外に出ていこうとしたが、今の私のドレスは間違いなく上官の前に出るには汚れすぎていることに気がついた。ちょっぴり考え込んで、四月から着ていない外套の存在を思い出した。あれはまだそんなには汚れていないはずだ。今の季節に着るには暑苦しいけど前のボタンをしっかり留めればそれなりに格好がつく。  追加の連絡に備えて久しぶりに無線機を背負い込むと、今度はリザちゃんを運べなくなる事態にも思い当たる。本来なら二人揃ってお迎えに上がるべきだが、でもこればかりは、仕方がなかった。 「リザちゃん! 管制官のお迎えに行ってくるね!」  かつてなく弾んだ声でベッドに向かって叫びつつ、返事を待たずに外へと飛び出した。  プロペラ音を頼りに前へ前へ、まるでスキップを踏むようにして駆け出す。  ほとんど真下までたどり着いたところで無線機から声がした。 <あー、人影が一つ見えるが、マリエン・クラッセ大尉か?>  私はもう歓喜と感動の濁流に巻き込まれて泣き叫ぶ寸前だった。 「さようでございます! ただいま、管制官のお膝下まで参りました!」 <なるほど、しかしリザ・エルマンノ大尉の姿が見えないようだが?>  私はちょっと言葉に詰まったが、もう見栄を張る理由はないと思った。  戦争は終わったんだから、彼女も安全な場所で新しい脚をもらえるだろう。 「あの、たいへん恐縮ですが、リザちゃ――リザ大尉は、その、脚を負傷しておりまして、治療を要する状態です」 <……リザ・エルマンノ大尉は自ら動けないのか? 間違いないな?>  再三、問い詰めるような管制官の質問にかすかな違和感を覚えつつも私は努めてはきはきと答えた。 「さようでございます。できれば、然るべき後に、診察をお願いできればと――」 <そうか。それは都合が良かった>  ぶち、と無線機の通信が切れた。一時保留ではない。完全に向こうの電波が出力を止めている。  一体、どうしたのかしら――  ますます深まった違和感は直後、強制的に中断を余儀なくされる。  よく耳に馴染むMG151航空機関砲の二〇ミリ弾が雨のように降り注いで、またたく間に私の全身を貫いたからだ。受け身をとる間もなく後ろに倒れ込む。  ぐるぐると取り留めのない思考が浮かんでは消え、その間に私の愛すべきフォッケウルフと輸送機は鮮やかな着地音を立ててすぐそばの地面に降り立った。たった今起こったことを何度考え直しても、結論は同じだった。  私は味方に攻撃された。  ただでさえ深手を負っている私の肉体は、もうまともに動く余地がなかった。一定の感覚で歩み寄る軍靴の足音に向かって、なんとか声を絞り出す。 「あの、一体、これは、どういう――あ、すいません、ハイル――」 「敬礼はもういいよ。リザ大尉はあそこに立っている建物のどこかにいるのかね」 「あ、はい、そうですが――」  私の話の続きを絶えず遮るようにして、管制官は連れ立っている他の兵士たちに告げた。 「だ、そうだ。行って連れてこい」 「はっ」  兵士たちの輪郭が仰向けに倒れ込む私に一瞥もくれず走り去っていく様子が映った。曖昧な縁取りで虚ろに描かれた管制官の人影が話しはじめる。 「すまないね。これも私の仕事なんだ。今から君たちを連れて行かなきゃならない」 「ベルリンに、ですか?」  かすかな期待を込めて問うも、人影はふらふらと揺れ動いた。「いや」声の調子はいつもと変わりがなかった。 「とりあえずはニュルンベルグに連行することになっているが、その先はどこだか分からんよ」 「ニュルンベルグ――? あの、失礼ながら、私、ミュンヘンにしか住んだことがなくて――どうしてニュルベルグなのですか?」 「君は裁判にかけられるんだ。判決はもう決まっている。死刑だ」  いつもは耳から脳に淀みなく伝わる管制官のお言葉が、今回に限ってはいまいち呑み込めなかった。機銃に撃たれて朦朧としているせいもあったが、一つ一つの単語が私の認識を脅かしているように感じられたからだ。  まずもって、明らかにしておかないといけないことがある。私は慎重に口を開いた。 「あの、管制官……私たち、勝ったんですよね? イギリスに、アメリカに、ソ連に」 「いいや、負けたよ」  管制官のお返事はまるで雑談の途中みたいに軽やかだった。  ドイツが――神聖ローマ帝国の正当な後継者たるライヒが――負けた? 「負け――そんな――私たちの先輩は、選りすぐりの魔法戦士たちは、どうなってしまったのですか」  彼は深く息を吐いた。まるで物分りの悪い子どもに呆れ返っているような感じだった。 「まあ、あえて言わなかった私も悪いからな。仕方がない」 「えっと、あの――」 「いいか、魔法戦士などゲッベルスが誇張した存在に過ぎない。君たちを含めても片手で収まるほどしかいない。むろん、全員とっくに戦死した。とんだ出来損ないどもだった」  管制官の落ち着いた声色がうってかわって熱を帯びはじめた。 「我々の国、そう、ライヒ、ライヒとかいうやつはな、もうとっくに負けるはずだった。それをこの私が、俺が、変えてやったんだ。画期的な電気実験によって、古の魔法戦士を復活させることに成功した。ところが、理想と現実は違う。あたかも、そう、まさにローマ美術に登場するような、筋骨隆々のアーリア的男子こそが魔法戦士に相応しいと思っていたが――神はえてして気まぐれだ。我が国においてたった数例の成功例はどれもアーリア的資質に欠けていた」  もはや管制官の演説には口を挟む隙がなかった。とめどなく、あふれるように次々と言葉が躍り出てくる。 「だが、俺は運命を受け入れることにした。さもなければ、神秘や呪いの類を研究している学者風情の俺などに、収容所の長、ましてや准将などという役職は決して与えられなかっただろうからさ。実際、君たちは出来損ないながらとてもよく戦った。負けて当然の戦争をいくらか引き延ばすくらいにはね。特に君たちはそうだ。こうして最後まで生き残ったんだからな。どこで拾ってきたのやら分かりもしない混血児のくせに」  ほとんど要領の掴めない管制官のお言葉でも、最後の方だけはさすがに異議を唱えたかった。 「いえ、それはちょっと、誤解があるようですわ。私、私の父はれっきとした正当なアーリア民族です」  それに対して管制官は鼻息を一つ鳴らして応じた。 「君に父などおらんよ。あの収容所は非アーリア的な形質を兼ね備えた個体――混血の捨て子、障害者、男が好きな男、あるいはその逆、女のふりをする男、あるいはその逆――まあそういった奇人変人、厄介者、国家のお荷物を集めて処分する施設だからな。T4作戦、というれっきとした名前も付いていた。一旦は中止されたんだが、この俺がフューラーに願い出て、そこを魔法戦士の生成実験所にする許しを得たんだ」  管制官の説明にはまるで屈託がなかった。嘘偽りなく、飄々と胸中を曝け出しているような雰囲気が感じられた。  私が、捨て子? 親がいない?  でも、それは、おかしい。だって私は、毎日のようにお手紙を書いている。ブリュッセルで果敢に戦っているお父さんに向けて。なにより、思い出がたくさんある。そうだ、あの日のあのことだって。  私は上官への非礼を極力避けて訂正を願い出た。 「それは……謹んで申し上げますと、どなたかとお間違いになられていますわ。私のお父さんは、ヘルゲ・クラッセは、小さい私の――」 「――手を取って、地図の上をなぞり、ミュンヘンの街並みを教えてくれた。そうだろ?」 「え?」 「最後はマリエン広場にたどり着くと終わる。なぜなら君の名前の由来だからだ。知らないわけがない。俺が考えたエピソードの一つだからな。”管理番号七、クラッセ家の物語”だ。番号の通り、他にもバリエーションがある。ところどころ設定が被っているがね。君たちはどこかの裏路地から当局に「セッシュウ」されてきた。当時、君も何度かこの言葉を聞いていたはずだ。だから再洗脳が必要だった」  言い表しようのない脱力感が全身を襲った。機銃で打ちのめされるよりもよっぽど身体が痛かった。管制官の掃射はなおも容赦なく続いた。 「いいか、君は捨て子だ。親はいない。混血児で、障害者で、国家のお荷物だった。それをこの俺が使い物になるようにしてやったんだ。いずれ連中も思い知るだろう。そういう出来損ないどもが大手を振って蔓延る世の中になったらどうなるか。確かに戦争には負けたが、我々の思想は永久不滅だ。十年後でも、たとえ百年後でも蘇ってみせる」 「私、私は……アーリア民族では、なかったのですか」  管制官は最後まで呆れた口調を崩さなかった。一足す一は二である、とでも言いたげにごく淡々と告げる。 「君のような薄汚い肌のアーリア民族がいてたまるか。鏡を見たまえ――と言いたいところだが、そう、君は目がろくに見えなかったな。不幸というべきか、逆に、幸福というべきか。せっかく髪だけはアーリア人っぽく染めてやったのにな」  兵士たちの足音が遠くから迫ってくる。二つ並んだ人影の間には別の輪郭が抱え込まれている。 「リザ大尉かね」  管制官が尋ねるも、答えたのは兵士の方だった。 「申し訳ありません、抵抗されたので措置を施しました」 「おいおい、殺しちゃいないだろうな、頼むよ。俺の亡命がかかってるんだ」  彼女が視界の端に消えると、しばらくして戻ってきた兵士たちが今度は私を担ぎ上げる。 「リザ大尉はどうなるのですか」  これにも、管制官の回答は淀みない。 「君と同じだよ。死刑だ。だが気にするな。色々と罪状は並べ立てても、結局は政治闘争なのさ。連中――イギリス、アメリカ、フランスはもうとっくに、ソ連と対決する未来を思い描いている。君だって一度か二度は見たんじゃないのかね、ソ連が作った魔法戦士を」  あの季節外れの吹雪が吹いた日、気が狂ったように暴走した捕虜の一人。彼の人間離れたした仕業の数々は明らかに魔法能力の一端を示していた。 「共産主義は唯物論だからな。あまり神秘だとか呪いだとかが根底にあるものは重用したくないんだろう。とはいえ、そうも言っていられないだろうよ。じきにどの大国も必ず魔法能力行使者を戦力として保持するようになる。それと同時に、敵の魔法能力者を殺す兵器も開発しなくちゃならん。俺の今の仕事は、ソ連に奪われる前にその研究材料を連中にくれてやることだ。君たちごとね」  イギリス、アメリカ、フランス、ソ連、管制官、亡命。  ニュルンベルグ、裁判、死刑。  捨て子、障害者、混血児。  短い間に矢継ぎ早にもたらされた言葉の数々がぐるぐると渦巻いて、私の朦朧とした意識をやすりのように荒く無惨に削り取っていく。  私にはもうなにも口を開く必要がなかった。  管制官は私の質問にきちんと答えてくれた。  ただ、そのどれもが、私の信じていた理想、大義、現実からかけ離れていただけに過ぎなかった。 ---  一九四六年……何月何日かは分からない。なるべくなにも考えないようにしているけれど、目が覚めているのに考えないのは難しい。  管制官の仰る通り、裁判はいつの間にか行われていつの間にか終わっていた。死刑判決は独居房越しに言い渡された。  私の独居房はちょっと変わっている。人間一人がぎりぎり収まる箱のような作りで、全身を貫くいくつものワイヤーで全身が固定されている。  そのワイヤーは注入管の役割も持っていて、時折、不定期に濃硫酸が流れ込んでくる。すると、せっかく治りかけている肉体が熱傷に侵されてたちどころに力が抜けていく。最初は泣き叫んで暴れたものだけど、しばらくするとなにも感じなくなった。連行されてから着の身着のままで、着替えもなければお風呂も入っていない。食事は点滴で与えられている。もう空腹感も忘れてしまった。  道中で総統閣下、フューラーの自殺を知った。ゲッベルス大臣も亡くなられたそうだ。後継者にはデーニッツという人が就いたが、その政権も連行当日に解体されたという。つまり、今のドイツには国家が存在していないということになる。  しかし、今の私にはどうでもよかった。ライヒも、ドイツも、お父さんも、私の居場所ではなかったのだから。  だとしたら、私の本当の居場所はどこにあったのだろう?  がたがたと独居房が揺れた。今日はずっと揺れ続けている。どうやら私は輸送されている途中らしい。行き先は分からない。  イギリスもアメリカもソ連も私を受け入れてはくれない。どこかの裏路地にいた、目の見えない混血児など誰も欲しがらない。管制官が魔法戦士の研究を行っていなければそのまま飢え死にしていたに違いない。魔法能力を得て初めて、私は生きる価値を与えられたのだ。だからいっぱい敵を殺してきた。  だとしたら、私は一体なんの罪によって殺されるのかしら? 平和を乱したと言われても、そもそも私は平穏無事な世の中では生きることが許されない。誰もが健康で、満ち足りていて、繁栄している社会に私のような出来損ないはお荷物でしかないからだ。  それともあるいは、いつかはそういう社会ができるのだろうか。  目が見えなくても、身体が欠けていても、みんなと同じように暮らせる社会が、この果てしない殺し合いの先に。  ふ、と私の口が冷たい声を漏らした。いくら絵本が好きでもさすがに現実とおとぎ話の区別はつく。  そんな社会は来ない。繁殖、生産、選別なくして強靭な国家は成り立たない。それは別に、私たちばかりが言っていることじゃない。イギリスも、アメリカも、フランスも、ソ連も、結局は同じことを言っている。  突然、独居房の隙間から強風が流れ込んできた。ごうごうと吹きすさぶ冷たい空気の正体を見極めようとしているうちに、身体から重力が消失したのを感じた。今となっては懐かしい、魔法で急降下した時とよく似た感覚だ。私は今、独居房ごと空中に投げ出されている。  数秒ほどの自由落下を経て地面に衝突すると、独居房は激しくひしゃげて壊れた。おのずと中のワイヤーも圧力に耐えきれずべきべきと折れ曲がり、私は全身の至るところに金属片を残したまま外に放り出された。  久しぶりに嗅ぐ草木と土の匂いが私の鼻をくすぐる。私の気持ちをこれっぽっちも考慮しない暖かなお日様がさんさんと降り注いでいる。ほど近いところからは、波が海岸に寄せて返す音やカモメの鳴き声も聞こえてきた。どうやらここは孤島に相当する場所のようだった。 「誰か、誰かいるの?」  後方で甲高い声がした。これもまた、ひどく懐かしい。一緒に戦った戦友であり、戦争犯罪の共犯者でもある。 「リザちゃん?」 「……マリエン?」  すぐさま私の視界に人影が浮かび上がった。他の誰よりもはっきりと描き出される輪郭。もう大尉ではないリザ・エルマンノがそこにいた。 「無事だったのね」  リザちゃんは脚を失ったままらしく、お互いの手と手が触れ合い、抱きしめ合うまでにはかなりの時間がかかった。 「無事じゃないよ、だってこれから処刑されるんだもの」  オーク材の腕にこびりついた血なまぐさい匂いを嗅ぎながら耳元に囁くと、彼女は場違いに微笑んだ。 「お揃いね、私も死刑なの」  私も笑った。  しかしそれにしても、私たちをどうやって殺すのだろう。その気になれば濃硫酸の水槽に沈めるだけでも、砲弾をひたすら撃ち込むでも、肉体の修復が損傷に追いつかないほどに痛めつければ、いつかは死ぬんじゃないかと思う。わざわざこんな場所に運ぶ必要はない。  なにか手がかりを探そうとして身じろぎをしていたら、外套のポケットになにかが入っていることに気がついた。はっ、として手を奥底まで探ると包みにくるまれたチョコレートが出てきた。他にはもう出てこなかった。最後の一個だ。 「チョコレートだ」  そう言うと、リザちゃんが少し呆れた声を出した。 「あんたらしいわね、最後の晩餐がチョコレートなんて」  包み紙を指先でほどきながら言い返す。 「いいよ。チョコレート好きだもん」  それだけは嘘偽りのない真実だった。アーリア民族の神話も嘘、国家社会主義も嘘、第三帝国も嘘、私の出自も、お父さんも、大義も理念もなにもかも嘘だった。  でも、チョコレートだけは本当に好きだ。 「ねえ、お願いがあるんだけど」  遠慮がちにリザちゃんが言った。 「なあに」 「私にも一個ちょうだい」  手のひらに残る、ころんとした幸せをしばし眺めた。  最後の一個……。 「じゃあ、半分こしよっか」  遠い空の彼方でかすか戦闘機の音が聞こえる。私の知らない機体だ。  小指の先に力を込めると、爪の先に数ミリほど、魔法の刃がせり出てきた。笑ってしまうようなか細い能力だけど、今の私たちにはこれ以上のものは必要なかった。それを慎重にチョコレートに近づけるときれいに半分になった。片方をリザちゃんに手渡す。 「……おいしい」  私もさっそく食べる。  少しごわごわとした食感になっていたけれど、たちまち口の中が豊かな甘味で満たされた。血の味以外のなにかを感じるのは本当に久しぶりだった。 「おいしいね」  私の耳が戦闘機から落ちてくるなにか捉えた。砲弾よりも、地雷よりも、ミサイルよりも、ずっとずっと大きくて重いなにかが、私たちに向かって降り注ごうとしている。リザちゃんが気づくほど大きい音ではない。けれど、私には分かる。  口の中の幸福を二で味わいながら、私はようやく自分の役目をまっとうしたことを悟った。  幸せは、分けっこできるんだ。  たとえ光が見えなくても。 ---