--- title: "たとえ光が見えなくても短" date: 2024-03-01T20:23:06+09:00 draft: true tags: ['novel'] --- 今でも思い出に残っているのは、指先に残るわら半紙の感触。言われるままにピンと立てた人差し指を滑らせると、横にいるお父さんが耳元に語りかけてくれる。「そうら、そこがゲオルゲン通りだ。そこを右に曲がると――」私は言葉を遮って大声で答えた。 「レオポルト通りね! おしゃれなお店がいっぱいあるの」 「そうだ、いつかお前もそこで立派なドレスを買ってもらえるようになる」  耳の奥底からあまりにも聞き慣れすぎた高周波音が徐々に近づいているが、まだ私は喋っている。 「でも、私が着たってしょうがないわ。どうせ分からないもの」 「そんなことはないよ。上物は着るだけで分かるんだ」  記憶の中の私はいっそう声を張り上げる。 「じゃあ、今、欲しい」 「今は……難しいかな。そういうお店はどこも閉まっている」 「どうして?」 「……みんな、他のことで忙しいんだ。さあ、指がお留守だぞ」  私の指先がぐんぐんと先に進み、ルートヴィヒ通りを過ぎる頃には高周波音は耳を覆い尽くさんばかりにわめいていた。 「ずっとだ、そう、ずっと、さあ、広場に着いたぞ。どこだか分かるかな?」  思わず、私は騒音に負けないように大声で叫んだ。 「マリエン広場! 私と同じ名前の――」 <ねえ、マリエン、どうしたの> 「あっ……ごめんなさい、ちょっと、夢を見ていたみたい」 <こんなひどい状況で居眠りなんて、よほど自信があると見ていいのかしら>  リザちゃんのつっけんどんな声が束の間、私の頭蓋を満たす。 「そういうわけじゃあ――」 <敵、もう、来るわ。また命があったら会いましょう。通信終了>  ブツ、と両耳に覆いかぶさったカチューシャみたいなインカムがノイズを発して、それきり音が途絶えた。途端に、意識の外に追いやられていた高周波音が舞い戻り、左右に散らばった。漆黒の視界の中に仮初の点描がぽつぽつと描かれはじめる。見たところ、一〇〇機以上はいる。  相手はまだ私には気づいていない。気づくはずもない。  空中にぽつんと単機で佇む魔法能力行使者の姿は目視ではもちろんレーダーでも捉えられない。  私はいつもの調子で右腕から手の先に流れる閃光のイメージを思い描いた。すると、見ることができなくても迸る光の奔流が肩口から腕を伝い、手のひらに集まる様子が感じとれた。うわんうわんと唸りをあげて急接近する群体に手のひらを向けて、孤を描くように光線を放出した。  決して掛け声を忘れてはならない。言うか言わないかで威力が倍は違う。 「びーっ!」  きっと、壮大な景色なのだろう。さっきまでの高周波音がたちまち爆発音に取って代わって私の耳元を彩った。味気のない視界の中に、めくるめく幻想世界を想像した。  今ので半分くらいは撃ち落とせたと思う。私は空気を柔らかく蹴飛ばしてふわりと上昇した。気流が身体の上から下に通り過ぎてスースーする間隔が、実はけっこう気に入っている。  十分な距離を得た後、今度は鋭角に蹴り出して勢いよく前へと滑空する。ついでに脚に取り付けた革製のホルスターからステッキを取り出しておく。ステッキは指先よりも太く、手のひらよりは細い。だからより指向性を持って魔法を撃ち出すことができる。  崩壊していく群体の悲痛な音が散乱する一方、まだいくつもの機体が合間をすり抜けていこうとしている音が耳に入った。とりあえず、左に一機、右に二機、まず右に向かってステッキを振る。直後、手からステッキを通って現れた魔法が鞭のようにしなって動き、遠ざかろうとする戦闘機を捉えたのが伝わった。きっと戦闘機は真っ二つに割れただろう。忘れずもう一機も処理していく。  続いて、左側に取り掛かろうとしたところ、バリバリバリと機銃の音とともにビリビリとオーバースカートの生地が破れる音がした。金属の塊が身体を通り抜けて、魔法の源泉がずるずると抜けていく感覚がした。  瞬間、とてつもない怒りに私は突き動かされた。  許せない! 下ろしたてのドレスだったのに!  空を蹴って身体の向きを変えても、戦闘機のプロペラ音が衰える気配はなかった。あてずっぽうの射撃ではない。確実に私を狙っている。ついに敵方は魔法能力行使者を視認したのだ。  だが、それほどまでに近づいてくれるのならかえってやりやすい。プロペラが回る高周波音と、機銃の残響と、機体が身体のすぐそばを横切って空気を切り刻む感触が、一つの像を結んで漆黒の視界の中に淡く戦闘機を描き出した。 「そこにいるのね」  私は像の上めがけて飛んだ。ロングブーツの底が、確かな金属質を捉える。今、自分は戦闘機の上に立っている。  前方で人の声がした。英語なので、私には意味が分からない。拳銃らしき銃声もする。たぶん私を撃っているのだろう。今の私の身体はきっと穴だらけだ。  幸いにも銃撃音の角度から操縦手の正確な位置が把握できたので、私はお返しにステッキを握っていない方の手で拳銃を模った。 「ぱん、ぱん」  がくん、と金属の地面が大きく傾ぎ、前のめりに倒れ込んでいく。  だが、すでに何十もの機体を落としてるのに、高周波音はどんどんうるさくなる一方だった。うわんうわんと唸る機械の鳴き声が第二陣、第三陣の襲来を容赦なく告げる。  私は再び手のひらに光の力を収束させた。あたかも騒音を打ち払うように死を招く円弧を作り出す。  ところが、次の魔法はてんで群体に効果をもたらさなかった。せいぜい五、六程度の不運な機体が魔法の切れ端にぶつかって落ちた程度で、未だ優勢を誇る風切り音が爆発音を切り裂いて私を追い抜いていった。  視界の中で高速に現れては消える軌跡を追って、懸命にステッキを振りかざす。手応えのなさが私をますます焦られる。  このままではまた街が空爆される。もう何度も住む家を変えたか分からないのに。 「お願い、お願い」  一体、誰に祈っているのか――必死に軌跡の後に追いすがってステッキを振り続ける。時々聞こえる少々の爆発音にも、数多のプロペラ音は揺らぐことなく彼方へと消えていく。 「お願いだから、落ちて」  そんな文字通りの神頼みの声を拾ったのは、リザちゃんだった。 <どいて>  私はばたばたとはためくスカートを抑えつけながら、ほぼ垂直に降下した。全身が絞られるような圧力に耐えた数秒後、空のどこかでぴたりと静止する。  直後、頭上で今日一番の大花火が花開いた。形は見えなくても音の大きさがすべてを物語っていた。 「うわあ、リザちゃん、すごい」  惜しみのない賛辞に、リザちゃんは鼻息一つで答えた。 <ふん、まだ油断するには――>  ぶつ、と通信が途絶えた。無愛想に通信を切るのは彼女の癖だが、いくらなんでも会話の途中に切ったりはしない。  漆黒の視界の中で私は急速に答えにたどり着く。  今度は急上昇に圧力に耐えなければならなかった。あまりにも高速に舞い上がったので、両耳を覆うインカムが外れてしまった。背負っている重くて大きな無線機に跳ね返ってガツン、ガツンと暴れた後、線がちぎれてどこかへと吹き飛んでいった。 「リザちゃん!」  虚空に向かって叫ぶ。どこに顔を向けても私の目は決して光を映さない。  しかし、  神に齎された魔法の力だけが、私に見えないはずのものを見せてくれる。  漆黒に沈む奥底に、か細い線が見えた。その線はじぐざぐにうねって揺れ動き、私の方へと向かって伸びている。空を飛びながら目で追うと、それは私の背中の無線機と繋がっていた。  この先に、リザちゃんがいるんだ。  激しく揺れ動くじぐざぐの線を追いかけて、急旋回、急降下。たどり着いた先はほとんど街の真ん中だった。しきりに爆発音と、炎が燃え盛る音、人々の絶叫がこだまする中で、線の根本を捉えた。  爆撃で暖まった空気による上昇気流がスカートの裾を激しくたなびかせる。ぐるぐると旋回する線の根本は、明らかに彼女が何者かに追われている状況を推測させた。どういうわけか彼女は一向に魔法を撃とうとはしていない。  私は接近しながらステッキを振りかざすも――輪郭を捉えきっていない敵にはまず当たらない事実を悟り、やり方を変えることにした。元より、残された魔法能力はもはや心もとない。  限られた力を足元の推進力に替えて、一気に距離を詰めた。蚊のようにうるさい高周波音が視界に像を描く。まだだ、まだ足りない。もっと正確に見なくちゃ。  戦闘機は私にお尻を向けているようだった。ステッキに込められた魔法がその先端に光の刃を灯す。まるでサブマリン・サンドイッチを作る時みたいにして、私はその魔法の剣を戦闘機の胴体に深く突き刺してから真横に両断した。 「リザちゃん!」  崩れ落ちていく戦闘機の輪郭を追うのも程々に、唯一の同僚の名前を繰り返し叫んだ。焼ける街の熱が発する生暖かい風を受けながら、性懲りもなく叫んでいると、下の方でかすかに声が返ってきた。 「ここよ、私は、ここ」  さっそく私は姿勢を変えて降下する。見たところ、どこかの聖堂の屋根に彼女は落ちていたらしい。着地して声のする方に駆け寄って顔に触れると、すぐにリザちゃんだと分かった。 「ああ、良かった、無事で」 「しくじったわ、私たち」  街が燃えていた。人々が叫んでいた。悲鳴と怨嗟の声の中にかつての民族の誇りはついぞ見られず、ただ手負いの獣の嘶きと去勢があるばかりだった。 「とにかく、基地に帰らないと」 「そうね、申し訳ないけど――」  声の調子から薄々分かっていた。触れていた頬から首、首から肩口に撫でていくと、その先がなかった。 「ちなみに、脚もどっかいっちゃった」 「おんぶしていくよ」  私は背中の無線機をぞんざいに捨てると、代わりに彼女を背負った。残っている方の腕のオーク材からはよく燻られたウインナー・ソーセージみたいな匂いがした。無線連絡は、彼女のインカムを使ってせざるをえない。 「帝国航空艦隊、マリエン・クラッセ、リザ・エルマンノ両名。ただいま帰投します」  程なくして、管制官から返事があった。 <帰投を認める。再び我々に勝利をもたらす日を願って。ハイル・ヒトラー> <ハイル・ヒトラー>  **一九五四年**十一月二〇日、愛するお父さんへ。ミュンヘンは相変わらずひどい状態です。私の身体は穴だらけ、同僚の子もまた手足がもげました。けれど、へっちゃらです。だってどうせすぐに直るし、彼女の手足は木でできていますから。 --- ”一九五四年十一月二四日、愛するお父さんへ。昨月の今頃はまだ暖かったのに、このところめっきり冷え込んできました。ブリュッセルのお空模様はいかがでしょうか。本当はすぐにでも空を蹴って会いにいきたいのだけれど、あいにく私は上官の許可なくしては男の人の背丈より高く飛ぶことも許されていません。でも、管制官が仰るには戦争で華々しい勝利をもたらせば、私たちはアーリア民族の英雄として認められて、ようやく自由に過ごせるのだそうです。  チーン、とタイプライタが鳴り、ハンマーが紙面の端に到達したことを知らせてくれる。一旦、タイピングを止めて手探りで本体のレバーを引っ張り、改行する。 ”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「管制官」とか言って、口にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも帝国航空艦隊所属の中尉なんだそうです。私よりたっぷり一フース半も大柄な兵隊さんたちが、前を歩くとさっと右、左に避けてくれるのが分かります。姿が見えなくても、足音でだいたいどんな背格好なのか分かりますから。”  チーン。また、音が鳴った。再びレバーを引いて改行する。 ”いつか戦争が終わったら、私たちの鉤十字がはためくブリュッセルの空を飛んで、お父さんに会いに行こうと思います。これは内緒の話ですが、私たちがこうして本土で堪えている間にも、他の選り優れた魔法能力行使者たちが海と陸とを飛んでいって、敵の親玉を倒してくれるというのです。そうすればイギリスもアメリカもソ連もみんなすぐに降伏して、私たちの言うことを聞いてくれるでしょう。もしそうなったら、私はお祝いに山ほどのチョコレートを買いたいです。約束された勝利の日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー> 「ううむ、もうタイプライタの扱いは私よりうまいな」  急に背後から声がしたものだから、私はひっくり返りそうになった。他ならぬ声の主が管制官ともなればなおさらだ。 「か、管制官、ですか!? あっ、失礼しました、ハイル――」  その場で直立しそうになった私の両肩を、彼はむんずと掴んで椅子に押し戻した。 「落ち着きなさい。いいよ、たまたま様子を見に来ただけだ。今回の家は燃えずに済んだようだね」  管制官の言う通り、今回の空襲では私たちの家は燃えなかった。もう三回も引っ越しを余儀なくされていたので助かった。 「この手紙が私が送り届けてあげよう。いや、しかしそれにしてもうまいな。戦争に勝利したらタイピストになるといい」  管制官の声はいつも半フィート高いところから聞こえる。機械の留具から紙面をするりと取り出して、感心したふうにうなった。その声はどんなに柔らかい口調でもどこか硬い感触を与える。 「たいぴすと……?」 「人の代わりに文章を打ち込んであげる仕事だ。これなら家の中で働ける。給料もかなり良いと聞いている」 「そうしたら、私に授けられたこの力も使い道がなくなってしまいますね……」  小さい頃に収容所に連れていかれて、そこで私は国家のために役目を果たすのだと教えられた。毎日、色々な人たちがやってきては、それをまっとうするたびに私の前からいなくなった。みんな、私と同じように目が見えなかったり、耳が聴こえなかったり、体の一部がなかったりした。  なにもかもが変わった日の後、今までに会った人たちのすべての生命を背負っているのだと教えられたのだった。そして、管制官が上官になった。 「ずいぶん気の長い話ではあるけどな。それまでは休む暇もないよ。ブリュッセルに飛んでいく余裕なんかないほどに」 「いえ、それはほんの冗談ですわ」  あわてて私が訂正すると管制官は短く笑った。 「まあ、君に飛んでいかれたら実際困るが、ベルギーチョコレートくらいならそのうち用意させるよ」 「本当!? あっ……、失礼しました、どうもありがとうございます」  ひょい、と浮き上がった踵を瞬時に床にくっつけた。管制官はまた笑った。 「でも、君のお父様に会うのはしばらくお預けかな。勝利は目前とはいえベルギーは未だ前線だからね。ここだってまだ危ない」 「そう……ついこないだ、あんなにやっつけたばかりなのに、どんどん来るんですね」 「敵は多勢だ。ヨーロッパ中が我々を目の敵にしている。思い知らせてやらなければならない」  落ち着いた管制官の声ににわかに怒気がこもった。私も、お父さんといつまでも会えない辛さを思うと彼と同じくらい敵への怒りがこみあげてきた。 「私が、全部撃ち落とせたらいいのだけれど」  ぽつり、と前のめりな発言を漏らした私に管制官が告げる。 「早まらなくてもいい。君が下手に力を使いすぎれば、いざという時に失敗してしまうかもしれない」  ひょっとすると、さっきの男の子に私がしようとしたことも見透かしているのかもしれない。 「ごめんなさい、少し言い過ぎました」 「気にするな。君はよくやっている。敵を殲滅しなければならないのも完全に正しい。だから、ほら、さっそく新しいドレスを仕立てさせた。実はあの後、すぐに発注したんだ」  はた、として私は前に手を伸ばした。以前も着るたびにうっとりするほどだった生地が、まるでわら半紙に感じられるほどのなめらかな触感が指先から全身に広がった。 「まあ、信じられないわ!」  ついに私は軍人としての建前を放り出して嬌声をあげ、両手でドレスをむんずと掴んだ。しかし管制官は嗜めることなく「本当は見た目も最高なんだ。我々の軍服と同じ職人に服飾をやらせているからね」と補足した。すかさずぶんぶんと頭を振って応える。 「ううん、いいの。触るだけでこんなにも感激しているのに、繕いまで知ってしまったらこのまま死んでしまうかもしれない」 「おいおい、滅多なこと言わないでくれよ。君は間違いなく我が国でもっとも高価な兵器なんだから」  すかさず、その場で管制官の助けを借りてドレスを着込んでみた。革の分厚い手袋をはめた手に引かれて鏡の前に立たされた私の視界には、やっぱり漆黒の暗闇しか映っていなかったけれど、世界でもっとも美しいとされる「お姫様」の姿を懸命に描き出そうとした。 「どうかしら、ほら、私には――」  一回、二回、わざとらしく咳払いをしてから管制官が言う。 「君のお父様にはお見せしない方がいいかもしれないな」  想定外の感想に私は見えもしないのに、声のする方向へ振り返って口元を曲げた。 「あら、どうして?」 「あまりにも美しすぎるから亡くなってしまうかもしれない」 「そんな――お上手ですね」 「嘘じゃないよ。君だってドレスをじかに目にしただけで死んでしまいそう、と言ったじゃないか。扱うべき者が扱えば効力は倍増される。兵器と一緒だ」  管制官はひとしきりの賛辞を私に送ると「そろそろ時間だ」と告げ、今日一日はドレスを着たまま楽しんでいていいと許可を与えてくれた。彼が手紙を持って部屋から去った後、私はたまらず床を蹴って宙に浮かんだ。手にはまだチョコレートでいっぱいの紙袋。  あまりにも軽く薄いオーバースカートの生地がふわりとたなびいた。漆黒の世界でも思い描けば私は部屋に咲く一輪の花だった。  固い木材の天井に、おでこがこつんと当たった。  緩やかに空中で漂いながら、私は紙袋からチョコレートを取り出して包装紙を破った。ころころした形の幸せを口に含むと、舌の上にじわりと甘さが広がった。  リザちゃんが遅い昼食の時間を告げに部屋に来るまで、私はそのままでいた。