--- title: "たとえ光が見えなくても" date: 2024-01-04T20:57:41+09:00 draft: true tags: ['novel'] ---  今でも思い出に残っているのは、指先に残るわら半紙の感触。言われるままにピンと立てた人差し指を滑らせていると、横にいるお父さんが耳元に語りかけてくれる。「そうら、そこがゲオルゲン通りだ。そこを右に曲がると――」私は彼より先に大声で答えた。「レオポルト通りね。お店がいっぱいある」「そうだ。いつかお前もそこで立派なドレスを買うようになる」  耳の奥底からあまりにも聞き慣れすぎた高周波音と低周波音が徐々に近づいてきているが、まだ私は喋っている。 「私が着たってしょうがないわ。どうせ分からないもの」「そんなことないよ。上物は着るだけで分かる」 「じゃあ、今、欲しい」 「今は……難しいかな。そういうお店はどこも閉まっている」 「どうして?」 「……みんな、他のことで忙しいんだ。さあ、指がお留守だぞ」  私の指先がぐんぐんと先に進み、ルートヴィヒ通りを過ぎる頃には高周波音が耳を覆いつくさんばかりにわなないていた。 「ずっとだ、そう、ずっと。さあ、広場に着いたぞ。どこだか分かるかな?」  思わず、私は騒音に負けないような甲高い声で叫んでいた。 「マリエン広場! 私と同じ名前の――」 <……どうしたんだ、マーリア> 「あっ……ごめんなさい、ちょっと、夢を見ていたみたい」 <こんな状況でも夢見心地とは、よほど自信があると見ていいのかな>  口調は落ち着いていてもお父さんとは似ても似つかない硬質な声色が束の間、私の頭蓋を満たす。 「どうかしら、あっ、もう来ます」  高周波音が左右に広がった。漆黒の視界の中に仮初の点描がぽつぽつと描かれはじめる。見たところ、十か二十か。だいたいそのくらい。まず間違いなく偵察でも斥候でもない。前触れなくびゅうっと吹いた突風にドレスのオーバースカートがひらひらと揺れる。  相手はまだ私に気づいていない。気づくはずもない。  北海のまっただ中――上空数百メートルの位置に直立しているたった一人の人間の姿を視認する術などない。  私はいつもの調子で右腕から手の先に流れる閃光のイメージを思い描いた。すると、見ることができなくても迸る光の層が肩口から腕を伝い、手のひらに集まっている様子が感じ取れた。最初は大雑把でもいい。的はたくさんある。うわんうわんと唸りをあげて接近する群体に手のひらを向けてから、弧を描いて光の渦を放出した。  きっと壮大な景色なのだろう。耳をつんざく高周波音に代わり、いつか聞いたファイヤーワークスの音を何十倍にも派手にしたような爆発音が彼方から連続して聞こえてきた。今ので半分くらいは落とせたと思う。私は空気を柔らかく蹴ってふわりと上昇した。気流が身体の上から下に通り過ぎてスースーする感覚が、実はけっこう気に入っている。  十分な距離を得た後、今度は鋭角に蹴り出して勢いよく前へと滑空する。ついでに脚に取り付けたホルスターから取り出したステッキは指先よりも太く、手のひらよりは細く、より指向性を持って閃光を撃ち出すことができる。崩壊する群体の悲痛な音が顔面を打つ。左に一機、右に二機。まず右に向かってステッキを振った。直後、手からステッキを通った閃光が鞭のようにしなって動き、遠ざかろうとする二つの戦闘機を鮮やかに両断した。  続いて、左側に取り掛かろうとしたところ、バリバリバリと機銃の音と共にビリビリとオーバースカートの生地が破れる音がした。金属の塊が表皮に達した感触を得るも、閃光に守られた肉体の奥には届かない。あてずっぽうの射撃ではない。確実に私を狙って撃った。顔を傾けると、プロペラが回る高周波音と、射撃音の残響と、機体が空気を切る音が、像を結んで漆黒の視界の中に空想上の戦闘機を描いた。 「そこにいるのね」  私は像の上めがけて飛んだ。ロングブーツの底が、確かな金属質を捉えた。今、自分は戦闘機の上に立っている。  前方で人の声がした。英語なので、私にはよく分からない。甲高い拳銃の銃声もする。たぶん私を撃っているのだろう。  幸いにも銃撃音の角度から操縦手の正確な位置が把握できたので、私はおかえしにステッキを持っていない方の手で拳銃を象り「ぱん、ぱん」と言った。刹那、がくんと金属の地面が大きく傾ぎ、前のめりに倒れ込みそうになったので慌てて空中に逃げた。まもなく最後の機体が海に沈む音がすると、辺りは静かな低周波音を残すのみとなった。 <たった今、レーダーで確認した。目標は殲滅された。ご苦労さま。帰ってきておいで> 「いいえ、まだいるわ」  空中に佇んだまま、身体を前に傾けてはるか下で凪いでいるであろう北海の水面を見た。当初より周期的に繰り返されていた低周波の音像がその奥深くにおぼろけな像を作り出す。そこへ向かって、手のひらで集めた閃光を解き放った。波打つ水の動きを視界に描きながら三分、五分、十分と待っていると、低周波音も消えた。 「海の底でかくれんぼしようとしていたみたいね」  管制官でさえ見落としていた目標を見つけた嬉しさで、つい気取った言い方をすると彼は短く笑った。 <……さすが、我が軍が誇る究極兵器だ> <でも、せっかく仕立てて頂いたドレスを汚してしまいました>  管制官はまた笑った。 <また作ってもらえばいい。次はもっと立派な生地で注文しよう> 「嬉しいわ。早くお父さんにも見せたい」  私はまた、漆黒の視界の中にお父さんの輪郭を描いた。 <祖国に勝利をもたらした後、毎日だって見せられるさ。では、改めて帰投を命じる。通信終了。ハイル・ヒトラー> 「ハイル・ヒトラー」  ところで、私はお手紙を送る時に必ず年も書くようにしているの。そうじゃないと何年も文通することになった時、どれがどの八月だったかそのうちに判らなくなってしまうかもしれないでしょう?  一九四七年十月一二日。この日も私たちは勝利を収めました。  たとえ光が見えなくても。 --- 1:マーリア ”一九四七年十月二〇日。昨月の今頃はあんなに暑かったのに、このところめっきり冷え込んできました。お父さんがいるシェラン島はきっともっと寒いのでしょうね。本当はすぐにでも空を蹴って会いにいきたいのだけれど、あいにく今の私は上官の許可なくしては男の人の背丈より高く飛ぶことは許されていません。でも、管制官が仰るには戦争でもっと功績を立てれば、どんどん偉くなって、したいことがなんでもできるようになるそうです。”  チーン、とタイプライタが鳴り、ハンマーが紙面の端に到達したことを知らせてくれる。一旦、タイピングを止めて手探りで本体のレバーを引っ張り、改行する。 ”それにしても、まだ子どもの私が「上官」とか「管制官」とか言って、言葉にしてみたらずいぶんおかしい話に聞こえるでしょうね。今の私はなんでも中尉なんだそうです。私よりたっぷり何フィートも大柄な男の人たちが、前を歩くとさっと左右に避けてくれるのが分かります。姿は見えなくても足音でだいたいどんな人なのか分かりますから。”  チーン。また、音が鳴った。再びレバーを引いて改行する。 ”いつか少佐になったら、私たちの鉤十字が輝くコペンハーゲンの空を飛んで、お父さんに会いに行く許可をもらおうと思います。少佐だったら、ついでに山ほどのチョコレートを買うことも許されそうな気がします。その日まで、どうかお元気で。ハイル・ヒトラー”  チョコレート……そう、チョコレートだ、と私は唐突に思い至った。今週、給金を頂いたから、コペンハーゲンのチョコレートは無理でも近所のチョコレートは買える。 「すっかり上達したようだね」  不意に背後から話しかけられてぎくりとしたものの、声の主が他ならぬ管制官と分かった途端に私はその場で直立して右手を高く掲げていた。 「ハイル――」 「おっと。いいよ、そう畏まらなくても。そうしょっちゅう敬礼していたら疲れるだろう」 「すいません。お目見えでしたか、管制官どの」 「うん、ちょっとね、どうせ手紙でも書いている頃なんじゃないかと思ったんだ」  管制官の声はいつも2フィート半高いところから聞こえる。その低く、硬い声は、どんなに柔らかい言葉遣いでも鋼鉄の感触を私に与えた。 「ちょうど書き終わった頃です」 「ふむ、どれ」  タイプライタから紙を取り出す音がした。彼はすぐにその手紙を読み終わって、くすりと笑った。 「チョコレートなら私が用意させよう」 「本当!? あっ……、失礼しました、どうもありがとうございます」  ひょい、と浮き上がった踵を瞬時に床にへばりつけて私は言葉を改めた。管制官はまた笑った。 「でも、君のお父様に会うのはしばらくお預けだよ。形勢が覆ったからといって、空襲が完全になくなったわけじゃない。ここはまだ危険だ」 「そう……ついこないだ、あんなにやっつけたばかりなのに、どんどん来るんですね」 「敵は多勢だ。ヨーロッパ中が我々を目の敵にしている。思い知らせてやらなければならない」  落ち着いた管制官の声ににわかに怒気がこもった。私も、お父さんといつまでも会えない辛さを思うと彼と同じくらい敵への怒りがこみあげてきた。 「私が全部撃ち落とせたらいいのだけれど」  ぽつり、と過ぎた発言を漏らした私へ管制官が言う。 「そんなに逸らなくてもいい。戦況は確実に良くなっている。君が下手に力を使いすぎれば、いざという時に失敗してしまうかもしれない」 「ごめんなさい、少し奢りが過ぎた発言でしたね」  しかし一転、管制官の声が急に明るくなった。目の前で布切れがこすれあう音がして、私は奇妙さからまったく機能しない目を見開いた。 「気にするな。君はよくやっている。だから、ほら、さっそく新しいドレスを仕立てさせた。実はあの後、すぐに発注したんだ」  はた、として私は前に手を伸ばした。以前も着るたびにうっとりするほどだった生地が、まるでわら半紙に感じられるほどのなめらかな触感が指先から全身に広がった。 「まあ、信じられないわ!」  今度こそ、私は軍人としての建前を放り出して大声をあげ、両手でドレスをむんずと掴んだ。それでも管制官は嗜めることなく「本当は見た目も最高なんだ。我々の軍服と同じ職人に服飾をやらせているからね」と補足した。すかさずぶんぶんと頭を振って応える。 「ううん、いいの。触るだけでこんなにも感激しているのに、繕いまで知ってしまったらこのまま死んでしまうかもしれない」 「おいおい、滅多なこと言わないでくれよ。君は間違いなく我が国でもっとも高い兵器なんだから」  すかさず、その場で管制官の助けを借りてドレスを着込んでみた。革の分厚い手袋をはめた手に引かれて鏡の前に立たされた私の視界には、やっぱり漆黒の暗闇しか映っていなかったけれど、世界でもっとも美しいお姫様の像をその奥底に描き出そうとした。 「どうかしら、ほら、私には――」  一回、二回、わざとらしく咳払いをしてから管制官が言う。 「君のお父様にはお見せしない方がいいかもしれないな」  想定外の感想に私は見えもしないのに、声のする方向へ振り返って口を曲げた。 「あら、どうしてですの?」 「あまりにも美しすぎるから亡くなってしまうかもしれない」 「そんな――お上手ですね」 「嘘じゃないよ。君だってドレスを目にしただけで死んでしまいそう、と言ったじゃないか。着るべき者が着れば効果は倍増される」  管制官はひとしきりの賛辞を私に送ると「そろそろ時間だ」と告げ、今日一日はドレスを着たまま楽しんでいていいと許可を与えてくれた。彼が部屋から去った後、すっかり調子に乗った私は部屋の天井に頭をぶつけないように注意しながら、床を静かに蹴って宙に浮かんだ。  あまりにも軽く薄いオーバードレスの生地がふわりとたなびいた。漆黒の世界でも思い描けば私は部屋に咲く一輪の花だった。