--- title: "夏の公死園" date: 2023-08-28T14:52:18+09:00 draft: true tags: ['novel'] ---  全国高等学校硬式戦争選手権大会の準決勝、帝國実業と韋駄天学園の試合は佳境を迎えている。十名いる選手のうち六名がすでに仮想体力を喪い退場を余儀なくされ、残る四名が市街地を模した公死園戦場の各所で互いに隙をうかがっていた。帝國実業三年の主将、葛飾勇はこの時、昭和八九式硬式小銃に装着された弾倉が最後の一つだった。地道な基礎練習を怠らない生真面目な性分が功を奏して彼は残りの弾数を正確に把握していたが、同時にそれは自身の劣勢を否が応にでも自覚させられる重い錨となってのしかかる。最悪の場合、たった九発の銃弾で残る四人の敵を倒さなければならないのである。  相対する韋駄天学園の戦いぶりは賢明であった。むやみに弾を浪費して一か八かに賭けるくらいなら潔く負けを認めて予備弾倉をその場に残していく。準決勝でもやり方は変わらない。つまり、四人の敵の弾薬は未だ豊富であって正面での撃ち合いではまず勝てる見込みがない。圧縮ゴムでできた硬式弾をしこたま食らって血まみれになっても、本人が直立している限りにおいて戦場に立ち続けられた昔とは違う。現行の仮想体力制度では胴体に四発ももらえば確実に退場だ。  勇は壁伝いに歩いて近場の建物の中に忍び足で入った。戦場をまばゆく照らす照明から逃れて部屋の陰に座り込んで身を落ち着ける。通信機で仲間との交信をしたいところだが、仲間の状況が判らない以上はうかつに音を鳴らすわけにはいかない。同様に、彼自身もまた不用意に声を発すれば位置を補足される危険性を伴う。  だだだだ、と硬式小銃特有の低い銃声が聞こえた。さらに遠くでは、わああっ、と観客の歓声が波のようにこだまする。敵か味方か、どっちかがやられたらしい。観客席から見える大型の液晶画面からも、試合を中継しているテレビでも、勇たち選手の仮想体力は常に表示されていて、残り何発持ちこたえられるのか、何発撃てるのかなどが把握できる仕組みになっている。さらには複数の望遠カメラが刻一刻と変化する戦場の様子を捉えて、選手たちのここ一番の勇姿を映し出す。帝国中の臣民が関心を寄せる公死園の準決勝ともなれば、その視聴率は相当なものに違いない。  勇はあまりの緊張に息が詰まりかけた。監督の助言を思い出す。音を立てず、目を見開いて、腹の底で深呼吸を繰り返す。見開いた目の先に、標準戦闘服の胸元に刺繍された帝國実業の校名が見えた。彼はだんだんと気持ちが静まっていくのを感じた。一転、目をすぼめて腰を落とした状態で建物の上階へと上がった。  ここに入った理由は戦場を俯瞰するためだった。通常、背の高い建物は取り合いになるが序中盤の戦いで各方に敵味方が散った現状では、かえって忍び込みやすい状況に変化している。弾数で優勢を誇る敵方は鉢合わせになる危険を懸念して、平地で安全に集合して制圧を仕掛ける腹積もりなのだろう。  一方、ろくに連絡も取れず銃弾も心許ない勇たちは一発逆転を目指すしかない。狙うは応射の難しい遠方から頭部への一撃だ。例外なく一発で仮想体力を奪い去ることができる。上階にたどり着き身を伏せた姿勢から窓をゆっくり除き込む。狭い視野でも戦場の概観が眼前に広がった。やや遠くに戦場を左右に貫く二車線道路が見える。手前には商店街を模した背の低い建物が並んでおり、こちら側に近づくにつれて建造物は住宅地の気配を帯びて密度が高まる。道路の向こう側には朽ちて荒廃した街並みが再現されている。当然、斜線が通りやすいそこに味方がいるとは思えない。だが……。  硬式小銃の倍率照準で覗いたその先に、敵が崩れた建物の壁で小休止をとっている敵がいた。生き残りの四人がまとまって周囲を警戒している。予想通り、弾薬を温存した彼らは面制圧で押す方針に固めたようだった。勇はドーランを塗った額から目元に垂れる汗を拭って、そっと小銃を窓枠に立てかけた。  理想は一人一発で四人、現実的な見立てでも二人は仕留めたい。照準の向こうに映る四人のうちでもっとも動きの少ない一人に狙いを定めた。赤い点が敵の足元から腰、腰から胸、そして頭へと這うように移動して、勇の息が落ち着くにつれ左右のぶれが収束する。引き金の指をかける。敵はまだ動かない。  彼は息を深く吸った後に、引き金を絞った。  直後、拡大された視界の向こうで一人が側頭部に硬式弾を食らって昏倒した。判定するまでもない完全な退場。残る三人が振り返る――銃声と照準の逆光からこちらの位置を把握するまでにわずか二秒――二人目の頭部に合わせて放った銃弾はそれて肩口に命中した。相手は顔をしかめて体を壁に打ち付けたが、まだ退場ではない。  ひゅん、と風邪を切る音が聞こえた。続けて窓の外壁に衝撃音が走る。相手はすでに応射を始めている。あと数秒も余計に撃ち合えば今度はこちらが頭部を抜かれるに違いない。結果には不満だが撤退を考慮して窓枠から引き下がろうとしたその時、勇の拡大された視界に信じられない光景が映った。  崩れた建物の壁、彼らが拠り所としていた遮蔽物の裏から一人の味方が飛び出してきたのだ。ひと目で判る巨体――あれはユンのやつだ。手にはほとんどの選手が装備品に選ばない模擬軍刀の丸まった刃が光っている。ゆうに二〇〇メートルは離れたここまでも彼の絶叫が耳に入った。一発で敵を退場させられる方法はもう一つある。模擬軍刀による急所命中判定だ。 「あの馬鹿!」  勇は肉体に刻んだ基本動作を放棄して窓枠にかじりついた。覗き直した照準の先では、盛んに軍刀を振り回すユンと敵が入り乱れている。これでは援護のしようがない。しかし、わずかに遅れて彼の耳に届いた絶叫が意味のある言語として認知された。 「……てーっ! うてーっ!」  彼方の味方は自分に構わず敵を撃てと伝えていたのだ。  一人を斬り伏せ、もう一人に斬りかかったユンはまもなく、後退して距離をとった二人の硬式弾をしこたま浴びて倒れ込んだ。入れ違いに、勇の速射がまばらに二人の胴体に命中した。弾切れを知らせる撃鉄音が響く。  試合終了の笛が鳴った。どうやら今ので相手の仮想体力をなんとか削りきったらしい。  こうして、全国高等学校硬式戦争選手権大会の準決勝は帝國実業の辛勝に終わった。 ---  応援に駆り出された同級生や待機していた地元の後援会に足止めを食らいつつも、急ぎ医務室に向かった勇はベッドに腰掛けるユンの姿を認めるやいなや声を張り上げた。 「ふざけんなよお前、なにやってんだ」  ユンは腕や胸に巻かれた包帯を勲章のように見せびらかしたが、一番目立っていたのは根元から失われた前歯だった。ここ数十分のうちに止血は済んだようだが痛ましい姿に変わりはない。 「ふざけてねえよ、ちゃんと勝っただろう」  岩のような巨躯のユン・ウヌから見た目通りの野太い声が弾き出される。 「あんなの運が良かっただけだ。鏡見ろよ。もしやつらが慌ててお前に全弾ぶっ放してたらどうするんだ。もし、一発の硬式弾でも目に入ったら――」  ユンはくっくっと不敵に笑った。このいかつい男に堂々と俺お前で物申せる同級生は勇くらいしかいない。 「そうしたら、めでたく”公死”って話になるだろうな。公死園ってそういうことだろうが。戦場で華々しく散れるのなら本望だ……なんてな」 「死ぬなら決勝が終わってからにしろ」  ぬうっとユンの丸太のごとく太い腕が勇の肩に添えられた。たっぷりの痛罵を浴びせても彼はちっとも懲りていない様子だった。 「真面目な話、お前だったら絶対に高台を獲りにいくと思ったんだ。おれは弾倉がほとんど空だったし、あの状況で装備を活かそうと思ったらあれしかなかったんだ」  勇は肩の手を払いのけた。 「だが危険すぎる。お前のその歯はどうするんだよ。差し歯どころか歯医者に行く金もないくせに」 「公死園決勝と引き換えに前歯一本なら安い代償だな」  悪びれもせずにユンはごつごつした顔をニイッと歪ませて歯抜けの笑顔を晒した。  その後、負傷兵のユンを除く選手たちは監督に招集を命じられて手狭な控室に集合した。決勝進出への労い、もし優勝すれば我が校に記念杯が再び帰ってくる栄光、勝って兜の緒を締めよの故事成語の意味と由来、かつて主将として三〇年前に帝國実業を優勝に導いた監督の昔話……などが滔々と語られ、最後に「勇だけ残れ」と告げられた。  閑散とした部屋で監督と二人、年嵩でもユンに負けず劣らずの恵体を持つ彼が険しい目線を勇に向けること一分弱、目上の者に向かって先に口を開くのは憚られるゆえ頑なに沈黙を守っていたが、秒を追うごとに吉報ではない確信がどんどん増していった。ようやく重苦しい声音で監督が放った言葉は彼を動揺させた。 「勝ったには勝った。それはめでたい。だが勝ち方がよくなかったな」  ユンのことだ、と直感した。 「はい。自分も彼にはよく言って聞かせました。あれは危険すぎると――」  だが、監督は厳しい顔をごくわずかに振って制した。 「そうじゃない。逆だ。なぜ、主将たるお前があのような勇姿を公死園で見せられなかったのだ」 「は――いえ、しかし――」  予想外の詰問に勇は言い淀んだ。軍刀なんて装備するくらいなら予備弾倉を一個多く持つ方がいいに決まっている。あれは相当近づかないと使えない上に急所判定でなければ一撃必殺にならない。そうでなくても、あの時は弾薬が限られていたから正面きっての対決は到底無理だ。言い訳は山のようにわいたがどれも監督の期待する答えとは違っているような気がした。 「すいません。自分も軍刀を装備すべきでしょうか」  代わりに、質問の形式で回答を保留した。 「いや、そうは言っていない。別に軍刀でなくてもいい。だが、誉れ高き公死園の戦場で華々しい成果を上げるのは、ユンではなくお前であるべきなのだ」 「というと……?」  勇には監督の言っている含意が解らなかった。あれこれ言ってもユンは立派な戦績を持つ副主将だ。先の行動の通りやや独断専行気味のきらいはあるが、とにかく文句なしに強い。強くなければ強豪の帝國実業の前衛は務まらない。主将の勇も近距離戦では一度も勝った試しはない。 「やつは外地人だ」 「え、いや違いますよ、両親はいませんが祖母と鶴橋に住んでいます」  監督があまりにも見当違いなことを言ったので、うっかり言葉が口を衝いて出た。どんな状況であれ目上の者の意見を否定するのはとんでもない無礼に値する。はっ、と息を呑んで監督の顔を見ると、案の定、その表情は厳しさを増していた。それでも監督は若干の間を置いて、今度ははっきりと言い直した。 「そういう意味ではない。大和の血統ではないということだ。あいつは朝鮮人だろう」  勇は虚を突かれて言葉を失った。それをどう受け取ったのか定かではないが、勢いを取り戻した監督はさらに話を続けた。 「別に朝鮮人や支那人が選手にいようと構わん。強ければ入れるし弱ければ捨てる。勝利こそがすべてだ。だが、この晴れ舞台、公死園の大詰め、ここ一番という時に栄光に浴するのは、われわれ日本人でなければならん。それがお前の責務だ」 「しかし、自分としては――分隊としての役割、分隊としての勝利――そういうものも、あるかと愚考いたしますが――ユンの剣戟もそれはそれで戦略の価値ありかと――」  理に反する都合を突きつけられて必死に弁明を繰り出す勇であったがそれが火に油を注ぐ行為でしかないのは目に見えていた。ついさっきまでは他ならぬ本人を罵倒していたのに、どういうわけか今ではすっかり擁護したくて仕方がなかった。 「では、あのユンに錦を飾る名誉を差し出すというのか。寛大なことだ。そんなぬるい気持ちで決勝に臨んでいてはとても勝ち抜けないぞ。所詮は別の民族なのだ。まあ、それはそれとして、だ」  唐突に監督の拳がすさまじい速度で勇の頬に叩き込まれた。いつもと違って意表を突かれたために彼は姿勢を崩して地面に尻をついた。遅れてやってくる鋭い痛みを上塗りするように、仁王立ちの監督が見下ろす眼差しで告げる。 「上官への言葉遣いには気をつけろ。お前は二回も口ごたえをした。決勝進出に免じて精神注入棒は勘弁してやる。だが、その頬の痛みはやつを擁護する割に合うかよく考えておくんだな」  ほぼ反射的な動作で直立不動の姿勢に戻り、勇は大声を張った。 「ご指導ありがとうございました!」  監督が部屋の扉を開け放って場を後にすると、入れ替わりに二人の部員が顔を覗かせた。主将が説教されていると見取って入れずにいたのだろう。勇は彼らが試合に出場していた分隊員と判ると頬の痛みに構わず詰め寄った。二人は気配に勘づいて先ほどの勇とまったく同じ直立不動の体勢をとった。 「貴様ら、あの試合でなにをしていたッ」  主将として、帝国軍人さながらの低い声音を腹から絞り出すと左側の方が先に大声で釈明をした。 「自分は弾薬を切らしておりまして、移動途中の際の接敵で退場と相成りました!」  建物に潜んでいる最中にやられたのはこいつだったか、と彼は納得を得る。しかし声はあくまで厳しさを保った。 「隠密を怠るから敵に発見されるのだ! この土壇場では不運も自己責任と捉えろ!」 「申し訳ありません! 基礎練徹底いたします!」 「それで――」  次に勇の鋭い目線は右側に向いた。 「貴様はまだ生きていたな」 「自分も弾薬が心許なく、遠方より機会をうかがっており……」 「何発残ってたんだ」 「はっ、十三発を残すのみとなっておりました」  かっ、と身体中の血が沸騰するのを感じた。さらに大きく声を跳ね上げたので低い音程を維持するのにたいそう苦労した。 「一人胴体四発と見ても三人は仕留められるではないか! 準決勝の舞台で退場するのが惜しくなったのか?」  ぐいっと「帝國実業高等学校」の刺繍が施された戦闘服の胸ぐらを掴むと、下級生らは今にも泣き出しそうな表情で謝罪した。だが、彼は容赦しなかった。 「貴様らが身を賭していれば副主将は歯を失わなかった。そこに直れ!」  二人が姿勢を正すか正さないかのうちに、勇は今しがた自分が食らったのと同じ要領で二人の頬に拳を振り抜いた。後ろに倒れ込む下級生に向けて一転、落ち着いた声色で言う。 「貴様らは二年生がてら優秀な成績を収めて分隊員に選ばれた。決勝では誉れ高く戦え。来年もあるなどと思うな」 「ご指導ありがとうございました!」  二人揃って自分とそっくりの絶叫を張り上げた後輩を後に、ようやく勇は公死園戦場を後にした。 ---  敷地の正面口では約束の時間を大幅に過ぎたにも拘らず和子が待っていた。第一試合が終わってだいぶ経ち、人混みがまばらになった周辺で互いの姿を見つけるのは容易だった。先に目ざとく勇の姿を認めると、彼女は白く細い腕にはめられた腕時計の文字盤をつつく仕草をした。「三〇分遅刻。もう帰ろうかと思っちゃったわ」 「悪い、勝ったら勝ったで色々あるんだ」  適当にごまかそうとした言い草に、和子は持ち前のよく通る声で指摘した。 「その頬の腫れとなにか関係があるの?」 「これは――その――」  またしても言い淀む勇。華々しく決勝進出を決めた分隊の主将なのに、なんだって今日はこんなに釈然としないんだろうと彼は自分でも疑問を感じた。 「隠し事はなしよ」  結局、勇は洗いざらいをすべて話した。聞かれなくても帰り道のどこかでどうせ話していた。ありていに言えば、彼は今もやもやしていた。それを晴らしたくて仕方がなかった。健全に交際している間柄で、硬式戦争とも運動部とも無縁の才女は中立の相談相手にはうってつけだと思った。 「ずいぶんgroteskな話ねえ」  一通りの話を聞いて、彼女は聞き慣れない単語を流暢に発話して感想を述べた。語感からしてドイツ語だろうと思われた。もし帝國実業で横文字など口走ったらすぐさま「英米思考」のレッテルを貼られて張り手が飛んでくるだろう。女子高の教育はその辺りの区別が進んでいるのかもしれない。 「たぶん勇さんは言われていることと現実の行為にkluftを感じているんじゃないかしら」 「日本語で頼むよ。ドイツ語の成績は補習付きの可しか取ったことないんだ」 「だからその――たとえば、公死っていうの、晴れ舞台で死ぬのは尊く崇高だっていうんでしょう」 「そうだ。だから公死園で死ぬと本物の殉死と同じように靖国神社に祀られるんだ。ものすごい名誉なことだ」 「でも、それなら勇さんはなんでユンさんが怪我したのをそんなに怒ったの? そんなに誉れ高いならそこはよくやった、次もそうしろと褒めるべきじゃない?」 「それは――」  本人には「決勝の後に死ね」と言ったが、むろん本心ではない。尊い公死に臨んで戦えと言われれば、胸がわく思いがして感動が押し寄せてくる。けれども実際には、たった一発の銃弾ももらわないように戦う。敵が退場判定を受けてから放たれた硬式弾でも当たりどころが悪ければ試合出場が危ぶまれる。和子のはきはきとした指摘は公死園駅に着いて、阪神本線大阪梅田行の電車に乗り込んだ後も止まらなかった。 「そもそも私には男の人たちが言う硬戦の浪漫ってよく解らないわ。そんなに危険なら兜を着けるとか、そもそも絶対に怪我をしないような弾を使うとかすればいいじゃないの」  これにはさすがの勇も反論したくなった。 「そんなの軟派だ。中学生までの軟戦と同じじゃないか。遊びと変わらない。真剣になれない」 「そんなことないでしょう。私の弟は軟式戦争部だけど真面目にやっているわ」 「それは中学生だからだ。高校生になって硬式に触れて始めて本物がどう違うか分かる」  脳裏に帝國実業に入学して間もない頃の記憶が鮮明に蘇った。硬式戦争部の新入生は横一列に並べられて最初の「洗礼」を受けさせられる。先輩が放つ硬式弾の的にされて、身体でその痛みに慣れさせられるのだ。全国各地から集められた軟式戦争部の優秀な兵士たちが、苦痛に顔を歪めて次々と地面をのたうち回る。泣きわめく者も、口から泡を吹いて気絶する者さえいた。一ヶ月の間に仮想体力の二倍に匹敵する硬式弾を直立不動で受けきれなかった者は退部を余儀なくされる。実際、毎年そこでおよそ半数の新入部性が脱落して工業科や商業科に転部していく。  初日で「おれは三倍でもやれる」と言い切り、挑発に乗った先輩方に四倍以上の硬式弾を浴びせられても痣だらけのまま立っていたのがユンで、次の日に同じ宣言をしてやはり集中砲火を乗り切ったのが勇だった。この時点で二人の実力は周囲に知らしめられていた。唐辛子のように辛く、苦瓜のように苦いのに、白砂糖の甘さを持つ思い出だ。 「じゃあ仮想体力制ってなんなのよ。昔みたいに倒れるまで撃ち合っていたらいいじゃない」 「それは危険だから――あっ」 「ほら、やっぱり死ぬのは怖いんじゃない。私だって勇さんに死んでほしくないわ」  気まずくなって視線をそらすと、電車内の液晶画面に投影された広告が目に入った。(男女で一つ、性別は二つ、子供は三人 帝国家庭庁)ちょうどそれが入れ替わって、新しい広告が表示される。 **『三菱重工の最新無人航空機……二四時間無給で働く警備員の代わりに! 町内會の見回り要員に! 果ては外地不穏分子の監視、鎮圧にも! 一部法人に限り武装改造も承り〼』**  生え際の後退した男性の姿が目立つ車内をつと見回して、勇はなんとか有効な反論を思いついた。 「今は徴兵に行ける人手が少ないみたいなんだ。帝國を支えてくれた年長者を守るには、強くたくましく、五体満足の若者が必要なんだ」 「でもそれって、なんだかいいように使われているみたいだわ」  和子も車内を見て言った。 「おれには社會のことは解らないよ。だけど、和子だって弱い男なんて厭だろう」 「まあ、それはそうだけど……」  ちょうど電車が野田駅で停車したので、和子は口をつぐみ持ち前の大和撫子然とした黒髪をなびかせて勇の脇を通り過ぎた。家まで送るよ、と申し出かけたがぴしゃりと先手を打たれた。 「今日は送ってもらわなくていいわ。勇さんの家族が英雄の凱旋を待ちわびているでしょうから」  そう言い残すと、華奢で可憐な身体が扉の向こうに吸い込まれていくように消えていった。躍起になって反論したので怒らせたか、と彼は不安を抱いたがしかし、またぞろ入れ替わった広告を見て気持ちを奮い立たせた。(権利と義務は表裏一体! 徴兵にはなるべく早く応じませう! 大阪市男子道徳課)  所詮、女の子には解らないことだ。死線のぎりぎりを見極める攻防、盤面を見通して敵を征服し尽くした時のえもしれぬ高揚感。銃撃を加えた相手が地に伏した際の確かな手応え。こんな実感の伴う競技は他にありえない。そうして先んじて軍人精神の端に触れた者のみが、徴兵されてもただのいち歩兵ではなく幹部候補生相当の扱いで外地の各方面に配属されていくのだ。本職として軍人にならなくてもその精神は社會の至るところで実力を発揮する。それは、汗水を垂らして命を危険に晒しているからこそ得られる能力だからだ。戦争部に入部できない婦女子方とはそもそも相容れない。  電車が大阪梅田駅に着くと一気に人がどやどやと降りはじめた。背広を着た初老の會社員たちが早くも疲れきった顔を並べて駅にあふれかえる。勇も乗り換えのために人の波に倣って後へと続く。  地下通路を登って地上に出ると、外はまだ昼過ぎだった。ひやりとした地下とはうって変わり、厳しい真夏の日差しが皮膚を焼きつける。友邦国たるドイツやイタリア式の建築が随所に見られる大阪駅周辺の街並みを一息で横断して、大阪駅の中に入ると外地の物品を扱う露店が駅中を賑わせていた。「フィリピン直輸入指定農園高級品」と題された派手な電燈の下には、照明ではなく自らが発光しているのかと思うほど黄色く輝いたバナナが鎮座している。素人目に見ても判るほど造形が整っているが、値段も庶民にはなかなか手が出ない。まずもって高校生の勇には縁のない特産品だ。かぐわしい果実の香りを振り払って商店街を後にする。  大阪駅から環状線の電車に乗り込んで二駅、こじんまりとした桜ノ宮駅に降り立つと、学生無料の駐輪場に停めておいた自転車に乗り換えて帰路を急ぐ。そこから野江駅の向こう側まで一五分ほど自転車を走らせると、築二〇年のやや色褪せた一戸建てがある。父と母と、弟とが共に住まう葛飾家の住宅だ。 ---  普段は勇たちが起きるよりも早く出勤して、寝た後に帰ってくる父親が畳に座っていたので彼は驚いた。「ただいま帰りました」と告げると、父は首だけ振り返り「おお」と短く言った。それで応答が済んだのかと早合点して二階の自室に上がろうとすると、父がまたしゃべったので足を止めた。 「見ていたぞ、試合」 「次は決勝です」  心なしか誇らしげに伝えると父は深くうなずいた。今度こそ、会話は終わったようだった。入れ替わりに台所の母が言う。 「今日、奮発してお寿司の出前をとったから、部屋に行くついでに功にも教えてやって」  わずかにきしむ階段を一段ずつ上がり、手前の自分の部屋に荷物を放り投げてからすぐに弟の部屋の扉を開け放った。こちらに背を向けて電子計算機をいじっていた功はびくりと肩を震わせ急に慌ただしくキーボードを連打した。先ほどまで映っていた液晶画面がいかにも無害そうな風景がに切り替わる。だが、ゆっくり振り返った彼の警戒の眼差しが兄を認識した時、細身の身体を縛っていた緊張の糸が一気に解けたようだった。「……なんだ、兄さんか。ノックするって約束したじゃんか」 「いや長話じゃない。母さんが今日は寿司をとるって」 「ははあ、じゃあ勝ったのか。相乗効果かな」  弟の口元が皮肉めいた笑いをかたどってつり上がった。 「次が決勝だ」  今回は間違いなく、確実に自慢の口調で言い切った。 「こっちも良い話がある」  弟は机の横に積まれていた本の山の中から一枚の紙切れを取り出して半ば投げてよこした。「全国共通一次模試検査結果」と赤色で塗られた文字と数字だらけの文言の意味は勇にはいまいち解りかねたが、横枠に添えられた部分だけは明瞭に理解できた。 『受験者の総数及び順位 二四八〇〇人中一四位』 「全国で一四位……お前、そんなに勉強ができたのか」 「そうだよ。高二に上がる頃には一位になっているだろうね」  日焼けして赤く焼けた顔に丸刈りの兄と違い、細身で脆弱で色白の弟にもそれを補って余りある才能が備わっている。葛飾家の兄弟は二人揃って文武両道なのだ。 「だから寿司か……。最後に食べたのなんて七五三の時ぐらいだ」 「柄にもなくちょっとは頑張った甲斐があったよ」  飄々と言ってのけた功はまた計算機に向き直って、キーボードを叩いた。すると、風景画が消えて画面いっぱいに英語が記された頁が現れた。一転、次に緊張を露わにしたのは勇の方だった。 「おいっ、なんで英語の頁なんか」 「シッ、大声を出さないでよ」  功は人差し指を立てて口をいーっと開いた。年齢的には硬式弾を食らってもいい歳なのに、仕草や顔つきは未だ中学生みたいに見える。 「先取り学習だよ。国内の情報は内容が古すぎる。最先端のcodeはinternetにしかないんだ」 「よせ、親父に見つかったらぶっ飛ばされるぞ」 「だからあんなに慌ててたんじゃないか」  危ない火遊びだ、と勇は思った。戦争部の人間もたまにはめを外して乱闘騒ぎを起こしたり、飲酒や賭博で補導されたりする者が現れるが、若気の至りとして温情に放免されるこっちと違って、これは本当に親兄弟に塁の及ぶ罰を与えられかねない。 「叔父さんのことを忘れたのか。あれで父さんは降格させられたんだぞ」 「あの人はちょっと本気になりすぎたんだ。僕程度のことは計算機好きなら大抵やっているよ。憲兵だってこんなのいちいち捕まえている暇ないだろ」  父の兄は変わった経歴の持ち主だった。帝国大学にしかない計算機科学科を経なければ就職できないはずの電子計算機技師に叩き上げで成り上がって、生まれも育ちもがらりと違う人と肩を並べて熱心に働いていた。弟の父さんは「やつは骨の髄まで英米思考だ」と事あるごとにこき下ろしていたが、口ぶりほど嫌っていないことはよく見て取れた。実際、物腰が軽妙で知識が豊富な叔父を嫌う者はいなかった。親戚の集まりでも常に話題の中心にいた。  その叔父さんが、治安維持法違反で逮捕されたのが五年前だ。なんでも電子計算機を用いて扇動を企てていたという。それがどんな内容だったのかはもはや誰にも判らない。殺人で捕まった者にさえ面会や文通が許されるのに、政治犯には一切認められないからだ。懲役三〇年の刑期は、まだ六分の五も残っている。  身内の罪を贖うべく父はかつての同僚が上司になり、かつての部下が同僚になる苦境でもめげずに二倍も三倍も働いて、町内會の会合にも針のむしろを承知で顔を出した。それから数年が経ち、長男の勇が二年で公死園に初出場を決めたことが契機となって、ようやく禊が済んだらしい。勇は母が「今は昇進の話も出ているの」と嬉しそうに話しているのを聞いていた。 「とんでもない弟だ」  端的に感想を述べると功は得意げににやりと笑った。 「捕まりはしないよ。わざわざ日本橋の裏路地くんだりまで行って海外のVPNを契約したんだ。僕は帝大の計算機科学科に入って大日本帝国の技術力にいっそうの飛躍をもたらしたく存じます……っていう感じでやっていくさ」 「少なくとも英語を使うのは勘弁してくれ」  英語規制は法律ではないが空気として確かに存在する。codeは算譜と言うべきだし、internetは電網と言わなければならない。ただ、どのみち勇には意味が解らなかった。 「ふん、でもみんなテレビだとかラヂオだとかは言うじゃないか」 「あれは昔からあるからいいんだ」 「インターネットだって本当は三〇年以上も前からある。じゃあそろそろ解禁だ」 「こいつ、理屈だな」  勇は手を伸ばして功の首ねっこを腕にかけると、体ごと引き寄せてもう片方の手で髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。「わーっ」と大げさな悲鳴をあげる弟。面倒くさくなったらこの手に限る。  ひとしきり制裁を受けた弟は自分の髪の毛をなでつけながら、ぽつりと言った。 「まあ兄さんは年上の中では一番好きかな。怒鳴りも殴りもしてこないから」  急に勇は自分の手――鞣し革のように固く仕上がった手――に後ろめたさを覚えた。たった一時間前に勇と一つしか歳の違わない下級生を殴りつけたばかりだった。 「俺が殴ったらお前なんてばらばらになっちまうよ」  そう、おどけてみせて顔色が変わらないうちに勇は踵を返した。 ---  数時間後、畳の居間に家族一同が集結した。机の上には大の男が三人いても余りそうなほど大量の寿司が並べられている。口数は少なくとも、いま葛飾家は祝賀の雰囲気に寄っていた。部屋の隅に置かれたテレビは、あと少しで準決勝の第二試合目が行われようとしている。前番組のごく短い漫才のかけあいをよこ目で見つつ、勇は父の切子に麦酒を注いだ。この日はやはり奮発に奮発を重ねたのか、見慣れない舶来品が二本も机もある。本式のドイツ産だろうと思われた。 「……それでな、うちのカミさんがな、男は頼りない言いまんねや」 「カカア天下でんな、ほいで?」 「もう国も男には任せられん、選挙権ほしい言うんや」 「そら無理でっせー! 男かて徴兵いかなもらえへんのに!」 「そやんなあ、うちらかて苦労したもんなあ」 「いや、わしは行ってへんねん、心は女やさかい」  伝統芸能にのみ許された方言を巧みに操る漫才師が内股で自分の胸を掴む仕草をとる。ははは、と客席からまばらな笑い声。 「せやかて言い出したらきりがありまへんねん。職が欲しいと言って職をやったから、今度は選挙権が欲しいと言うんや。次は政治家になりたい言いますで」 「カカア天下が国家天下を語るんかあ〜」  勇は父親の切子に二杯目の麦酒を注いだ。 「まあうちのカミさんは家では万年政権与党でっけどな」 「そんな、父ちゃんにもたまには政権交代させたって〜」 「無理やで、うちの家庭は庭やのうて帝やからな」  どっ、と笑い声が巻き起こる。早川工業社製の伝統的なマイクの前で二人の漫才師がお辞儀をして、演目はつつがなく終了した。ふん、と父が鼻を鳴らす。「そりゃ女に政治なんか無理に決まってる」ずずず、と半透明の切子の中身が喉の蠕動に合わせてみるみるうちに減っていく。コン、と音を立てて置かれた途端に今度は母が次を注ぐ。 「帝国議会は第二の戦場だ。乱闘騒ぎなどしょっちゅうなのに女にどう務まるんだ。その時だけ男に守ってもらうのか」  なし崩し的に晩酌の責務を解かれた勇はふと、なぜか和子が議会の壇上で大演説を振るっている様子を思い浮かべた。議題はもちろん硬式戦争における防具着用の義務化である。獣のように猛り狂った男たちの罵声を浴びながら、彼女は毅然とした面持ちで語る。「そんなに命を賭けるのがお好きなら、いっそ敗けた方が切腹でもすればよろしいじゃありませんか。運動くらい粋がるのはやめにして兜を着けて安全に楽しみましょう」――あからさまな挑発に激昂した議員が雪崩をうって壇上に押し寄せる。どういうわけか、想像の中の勇はたった一人でそれを堰き止めようとしていた。  いや、やはり女一人では無理だ。たとえ守ってくれる男がいたとしても、その場の流れ次第では議会の外でも取っ組み合いは起きる。以前、路上の喧嘩で敗北を喫したベテラン議員があっけなく選挙で落選したのを見た。ましてや自分の拳で戦えないのでは体裁が悪すぎる。  勇は姿勢を正して下手な妄想から立ち直った。  麦酒を一瓶空けて、父がまぐろに手を着けたので内心今か今かと待機していた兄弟はようやく寿司にありつくことができた。揃って寿司を頬張る様子を見た父は「うまいか」と短く訊ねた。「とても美味しいです」と勇は言い、功も慇懃な物言いで応じた。最後に、母がいそいそと手前の玉子を取って食べた。  いつの間にかテレビは漫才番組が終わり帝国の地図を映し出していた。荘厳な音楽とともにじわじわと上から下に流れる字幕と、それに合わせて語りかける神妙な口調の声が注意を惹きつける。 『北は樺太……西は満州、……南はパプアニューギニアに至るまでを縦横する海底の情報網……重要なのは速度はありません、安心と信頼です。帝国電信電話公社が誇りを持って我が国の情報通信技術を主導いたします』  勇は功の目が細くすぼまるのを見逃さなかった。冷笑の視線だ。英米の最新情報に通じる彼にとってこの広報はきっと誇大なのだろう、と勇は当て推量した。  ほどなくして準決勝の第二試合目が中継される頃には、机の上の寿司は半分ほど消えてなくなっていた。父の手にある切子の中身も麦酒ではなく清酒に切り替わっている。  選手が戦場に入場して一列に並ぶ。観客も静まりかえるなか国歌が演奏され、続いて皇居の方角に向かって全員が一礼する。観客も一斉に立ち上がって深々と一礼した。現人神で知られる天皇陛下は幾多の戦争を勝利に導いた軍神とも称され、その際立った神通力を継承すべく世襲制が採られている。昭和九八年の現在は三代目の昭和天皇が襲名して五年が経った。 『全国高等学校硬式戦争選手権大会、夏の公死園、準決勝第二試合がまもなく始まります』  司会の声に合わせて映像が鮮やかに動き、画面上の左右に両者の仮想体力が大きく描画される。区別のために左側が青く、右側が赤い。それぞれの体力の下には草書体で各々の選手の名前が記されていた。そこで、勇は選手たちの名前が一風変わっていることに気がついた。画面上の校名に視線を寄せると「沖縄 臣民第七高等学校 対 臣民第一八高等学校 台北』と記されてあった。 「驚くべきことに準決勝まで勝ち進んだこの二校はともに外地の学校です。帝国臣民の真髄により迫ることができるのは果たして、どちらなのでありましょうか」  熱のこもった司会の案内の後で、カメラが戦場を映し出す。すでに両軍は初期配置について試合の開始を待っている。トロの甘みに舌鼓を打ちつつも、勇はつい数時間前の戦いを思い出して他人事ながら緊張を覚えた。  試合開始の笛が画面越しに響いた。複数のカメラが小刻みに切り替わって一斉に動き出す選手を追う。五分と経たないうちに外地同士といえど採る戦略はまるで異なる様子がうかがえた。第七高は野伏のごとく隠密に広がっていくのに対して、台北の第一八高はひと固まりの猪突猛進で戦場を横断する。 「あれはどうなんだ、勇」  酔いで顔をうっすらと赤らめた父が訊ねる。素人ながらも準決勝の局面らしくない彼らの動きに疑問を持ったようだ。 「普通は……やりません。互いの射撃が一定の水準以上だとちょっとした隙にやられてしまいますから、あまり姿を晒さない方が賢明です」 「そうか、じゃあ沖縄のが筋が良いのか」  浅く頷いたものの、しかし必ずしもそう断言はできなかった。いけいけどんどんの一手で準決勝まで上がってこられるほど公死園は甘くない。なにか策があっての行動に違いない。  しかし数分後、左右の遮蔽物から第七高の選手による堅実な掃射が行われると先頭に立っていた前衛がまともに弾を受けて退場を通告された。右側の赤い仮想体力が一瞬で黒ずみ、残る九人も被弾の度合いに応じて体力を減らした。父が「なんだ、全然だめじゃないか」と言って、切子を置いた。母が次を注ぐ。  一方、司会の声はあくまで冷静だった。どころか、期待感のこもった熱っぽい声で彼らの次の行動を予想した。 「さあ、これで第一八高は一人退場ですが……ここまでに彼らの戦いぶりをご覧になっていた方々はお解りでしょう。やはり準決勝においても、同じ戦略――戦略と言っていいのかさえ定かではない――をとるものと思われます。あ、今まさに!」  カメラの視点が急速に拡大して第一八高の一群を中央に収めた。なにかを叫んでいる。すぐに戦場の集音マイクが声を拾った。 『総員、抜剣ーっ!!』  主将と思しき選手が高らかに宣言すると第一八高の全員が一斉に模擬軍刀を抜いた。勇は寿司を食べるのも忘れて画面に見入った。  信じられない。全員が予備弾倉ではなく軍刀で装備を固めるなんて一体いつの時代だ。 「まるで仮想体力制以前――いや、戦中の英霊が蘇ったかのようであります。第一八高は並外れた近接戦闘の力量を頼りに準決勝まで破竹の勢いで駒を進めています。さあ、この舞台ではそれがどう出るか!」  あたかも司会の声に呼応するかのごとく、ひと固まりだった選手たちが二人ずつ四方八方にすさまじいすばやさで散っていった。元より小銃を構えていない彼らの移動速度は相当に速い。敵が背を向けて逃げていたら追いつくのは容易だろう。とはいえ、応射してこない相手に逃げの一手など打つはずがない。  案の定、カメラが追った二人の前に立つ朽ちた壁の上から速射が放たれた。これはひとたまりもない、敗着を確信して勇は机上の軍艦巻きを手に取ったが、直後にテレビの向こうの観客がわっとわいたので視線を戻さざるをえなくなった。 「やはり――ご覧になられているでしょうか! 弾を――よけています! なるほど硬式弾は実弾と違い大きく低速な弾ですから、決してよけられないことはないでしょう! しかし、よけられる前提で戦う分隊はそうはいません!」  熱狂している司会をよそに第一八高の選手と壁との距離はぐんぐん詰まり、ついに二人は軽業師のごとく跳躍して一メートル弱の壁を飛び越えた。すぐさまカメラが反対側に切り替わる。慌てて弾倉を交換しようとする第八高の一人とは、もう軍刀の間合いだ。鮮やかな一太刀。左側の青い仮想体力は瞬時に黒く染まった。もう一人の方は模擬軍刀を銃身で受け止めてなんとか堪えているようだった。  ところが膠着する間もなく第一八高の選手は相手の腰に差さった硬式拳銃を片方の手で抜いて、そのまま腹に何発も発砲した。模擬軍刀を抑えるために両手で銃身を支えている当人になすすべはない。一発ごとに削られていく仮想体力はぴったり四発で奪われ尽くされた。  戦場の至る地点で、同様の戦いが繰り広げられていた。十数分かそこらのうちに左側で体力が青い者は一人しか残らなくなった。対する右側はまだ六人の選手が半死半生の体力で生き残っている。画面上に映し出された最後の一人の残弾数を見るに、理論上は六人すべてを撃ち倒せる可能性は零ではない。  だが、軍刀を握って迫りくる六人の威容に恐れをなしてか、選手はあからさまに戦意を喪失している様相で後退する一方だった。それでも六人に取り囲まれると次第に逃げ道がなくなっていく。姿を現した相手にでたらめに弾を放つも、ただでさえ回避術を心得た相手に腰の落ち着かない射撃が当たるわけもなく、終盤には行き止まりの壁に追い詰められる展開となった。  残弾の乏しい硬式小銃を捨てた彼は腰の拳銃に武器を切り替えて、前方に狙いを定めた。第七高は選手の何名かに予備弾倉ではなく拳銃を持たせる様式のようだ。しかしこうなってしまっては、そんな考察にはなんの意味もない。当人には知る由もないが、カメラには壁をよじ登って後方より襲撃せんとする第一八高の選手の姿がはっきりと捉えられていた。  音に気づいて上方を仰ぎ見た時にはもう遅い。飛び降りざまに振られた軍刀が速やかに急所判定をもたらして、結局、彼はただの一発も拳銃を撃つことなく試合終了の笛が戦場に響き渡った。  はっ、と我に返った勇の手には、まだ食べていない軍艦巻きが手に握られたままだった。 『これにて準決勝第二試合は臣民第一八高等学校の勇猛な勝利にて幕を下ろしました。休養日を挟んで明後日には、強豪、大阪の帝國実業高等学校と記念杯を巡って最後の一戦を交えることとなります――おや、なにか選手が言っていますね、見てみましょう」  カメラが第一八高の主将に視点を合わせた。たとどころに集音マイクが音を拾う。 「臣民第一八高等学校三年、主将、陳開一! 畏れ多くもこの場を借りて一言申し上げたい! 公死園は直ちに仮想体力制度を取りやめ、己の命の限り死力を尽くす伝統に立ち返られよ!」  駆け寄ってきた控えの選手から手渡された布をばっ、と広げる。華々しい日の丸の波状が際立つ大日本帝国の国旗を両手で前に持ち上げ、掲げる。息を呑んだ司会が、しかし相変わらずの熱量で感心したふうに言う。 「外地の若者の訴えです。もし彼らの戦い方で仮想体力制度を用いないとなると、昔ながらの木刀で気絶するまで殴り合う従前の形式に戻ることとなりましょう。彼らは――それでもいいと、むしろ本望であると訴えているのです。たかが支那人と侮ってはいけません。大和魂は外地の者にも確かに伝わっております。我々としても見習うべきところがあるのやもしれません……」 「ずいぶんすごい連中だな。次はこいつらと戦うのか」  酒も飲まずに同じく試合に集中していた父が言った。 「今すぐにでも分隊を集めて作戦会議をしたい気分です」  殊勝な物言いだが偽りではなかった。まるで身のこなしが軽くなったユンが十人に増えたような戦いぶりだ。他の常連校や強豪の戦略は予習していたが、台北の第一八高は完全に想定外の相手だった。教本通りの戦い方では今しがたの第七高のようにあっという間に呑まれてしまう。彼らとして決して弱くはない。見たところ、帝國実業をもってしても三回戦って勝ち越せるかどうかの堅実さを持っていた。番狂わせに弱い一面をまんまと突かれたのだろう。 「まあそう急ぐな。お前にはまず褒美をくれてやらなきゃならん」  出し抜けに父はポケットから少し丸まった白い封筒を取り出して、勇に投げてよこした。封筒には地元の銀行の社章が刻まれていた。 「十萬円入ってる。好きに使え。お前はこれまでろくになにも欲しがらなかったからな……金を手にしたら思いつくかもしれん」 「ありがとうございます。大切に使います」  恭しく両手で持ち上げた封筒を勇は自分のポケットにしまい込んだ。突然の労いに深い感動を覚えかけた矢先、横の功が父の酩酊に漬け込んで軽口を叩いた。 「僕にはないんですか。全国模試十四位だったんですよ」  弟の狙いは的中して、いつもなら怒声の飛びそうな催促に父は苦笑いで応じた。 「お前は北野高校に入った時に計算機と通信回線をねだったから当分はだめだ。それさえも、あいつの件があってから計算機は絶対に許さんつもりだったが、北野に受かれば買ってやると言ってしまったからな……次はそうだな、模試で十位以内に入ったらなにか買ってやる」 「本当ですか? 約束しましたよ」 「今度は計算機以外だぞ」 「構いません」  父がまんざらでもなさそうな表情で清酒をすすっている間に、功は勇にだけ判るように片目を瞑った。有名な英米式の仕草というのはさすがの彼にも理解できた。やはりとんでもない弟だ。  大量の寿司が大の男三人の腹にすっかり収まり、就寝の頃合いに差し掛かったあたりで勇は分隊員に携帯電話で電文を送っておいた。便宜上は休養日と定められているが本当に休養する選手はありえない。明日は分隊総出で対軍刀戦を仕上げなければならない。 ---  翌日、朝早くから自転車を駆って大阪城近くに敷地を構える帝國実業高校へと登校した。中空を漂う無人航空機と勝手に競争した気になって意識的に並走を試みる。臣民の暮らしを守る安心と信頼の三菱重工製だ。  正門の前には不機嫌そうな顔のユンがすでに立っていた。待ち合わせの約束など一度もした覚えはないが、いつからか正門前で肩を並べて登校するのが二人の習慣と化していた。自転車を降りて転がしながら歩く。 「なんだそのツラは」 「うるせえな」  ユンがずんずんと巨体を揺らして先に進んでしまったので、勇も後を追う。機嫌がコロコロ変わるのは彼の性分とはいえ、今日は特に悪い方に振れている気配がする。敷地の奥ではもう硬質小銃の低く鈍い銃声と怒声が聞こえてきている。 「お前、昨日の試合観たか」 「観てねえ」  相変わらずのそっけない返事にも構わず勇は話を続ける。 「台北の高校が勝った。やつらは全員軍刀を装備しているぞ」 「ほう」  一瞬、ユンが立ち止まったので岩の壁に進路を阻まれたような格好になった。ぐるりと巨体が振り返り、にわかに感心したふうな表情を見せてくる。 「おれみたいなやつが他にもいたとはな」 「お前でも初手では使わんだろう。だが、あいつらはほとんど軍刀一つで戦っている。戦略を見直さなきゃならんぞ」 「なるほど、それで昨日の電文か」  そういえばあの電文は試合を観ている前提の内容だったな、と勇は思い直した。そうこうしている間に二人は硬式戦争部が専有する野戦場にたどり着いた。真横の駐輪場に自転車を停める。あどけなさの残る一年生たちは必死の形相で「洗礼」の第二段階に取り組んでいた。硬質弾をまともに受けた状態でひたすら走らされるのだ。仮想体力が零に尽きないうちに身動きが取れなくなるようでは選手にはなれない。足取りが緩む候補生に監督の檄が飛ぶ。 「硬質弾ごときでへばっていてどうする! いま、海の向こうでは栄えある帝国軍人が自らの漏れた腸を引きずりながらでも支那の反乱分子どもと戦っておられるのだぞ!」  二人の姿を認めると、候補生たちは険しい顔のまま一斉に直立不動の体勢に直ってお辞儀をした。 「いいから続けていろ!」  怒号とともに彼らは無限とも思える持久走に戻っていく。振り返った監督は声を落として二人に告げた。 「試合、観たな? やつらは軍刀を使う。お前らにも二年時までは仕込んできたが一朝一夕であの技量には追いつけまい」 「おれはやれますよ。今でも毎日自主練してます」  自信満々にユンが答えると、監督は厳しい目で睨みを効かせた。 「お前のは体格に頼りすぎている。あっという間に隙を突かれるのがオチだ」 「では、一体どうすれば」 「あいつらが弾をよけるのなら、お前らは軍刀をよけろ。今日中に仕込めるのはそれぐらいだ」  さっそく、監督の指示の下に集められた分隊員は軍刀の回避術を学んだ。昨日までは軍刀なんて趣味でやっている者が遊びで持つ装備と軽んじられていたのに、今では全員が真剣な眼差しでその切っ先を捉えようと構えていた。当然、勇に刀を振るのはユンの役目だ。先の丸まった模擬軍刀とはいえ判定のために電子部品を内蔵している刀身は意外に重く、表面は金属で保護されている。それをユンの膂力で振るというのだから、まともに当たればやはり痛い。早晩、勇の全身は鈍痛に包まれた。 「痛ッッ、おい、もう少し加減しろ」 「無理だ。加減して振ったら簡単によけられる。それじゃ練習になんねえ」  とは言うものの、そこはさすがの帝國実業主将。回数を経るごとに回避の成功率はぐんぐん上がった。次は交代して勇が振ってみるも、存外に身のこなしの巧みなユンにはあっけなくかわされてしまう。 「くそっ、おれじゃだめだ。軍刀なんて握るのは一年ぶりだ」 「どけ、俺が代わる」  見かねた監督が攻撃役を買って出る。現役だったのは三〇年前とはいえ、軍刀を握った瞬間に彼の威圧感は普段の数倍にも膨れ上がった。さしものユンもまだ打たれていないのに一歩後ずさる。 「俺の時代では軍刀は人気の装備だった。敵をズタズタにする手応えが段違いだからな」  端的にそうつぶやいた直後、空気を蹴散らす鋭さで振られた一閃がユンの肩口に直撃した。びいいいんと金属製の模擬軍刀がしなって振動する。呻き声をあげたユンが肩を抑えてうずくまる。 「立て。あの支那人どもはもっと速かったぞ」 「押忍ッ」  二回目の攻撃は横薙ぎに脇を狙ってきた。今度はユンが機敏に反応を示して身をよじって剣筋から遠ざかる――が、監督が一歩踏み出して立て続けに繰り出した追撃が胸部に直撃した。予想だにしないすばやさにユンは驚きの表情を見せる。 「なんだ、ひと振りで済むとでも思ったのか。軍刀に弾切れはないぞ。お前が回避のために過剰に姿勢を崩せば敵は必ず押し切ろうとする。確実によけろ。ただし最小限でなければならん」  それから、ユンは勇に負けず劣らずの痣を全身に作ってなんとか監督の年季の入った剣筋を最大三往復ほどよけることに成功した。続いて、勇も一回に限って回避に成功する。他の分隊員たちも半日かけて各々の力量に合った見極め方を掴みつつあった。  まさか公死園決勝を明日に控えた最後の練習が軍刀の回避に費やされるとは思ってもみなかった。本来であれば強豪らしい強豪が勝ち上がってきて、以前の録画などを観ながら癖や作戦を探るのが常道だ。しかし、あんな奇天烈な戦い方をされたのでは座学などなんの意味もない。身体で覚えるしかなかった。  夕暮れ時、分隊員は骨の髄まで軍刀の痛みを身に刻まれて解放された。みんなやるだけのことはやったという面持ちだった。  帰り道が正反対なのに下校時も勇はユンと連れ立って歩く。これも一種の腐れ縁、というやつだろうかと彼は決勝を控えた今になって思ったが、それはそれとしてまだしかめっ面をしているのは少々気に入らなかった。 「だからお前のそのツラはなんなんだよ」  業を煮やして正面切って問いただすと、巨体が傾いで視線が合う。 「歯が痛えんだよ」  ぼそっと言うとユンはすぐに顔をそらした。あれほど軍刀で叩かれても次第に慣れたふうだったのに歯痛には堪えられないのか。あの硬式弾はよほど当たりが悪かったらしい。 「決勝が終わったら金貯めて歯医者に行けよ。歯は勝手には治らんぞ」 「お前はおれの嫁かよ」  二人の会話はほとんどそれで終わって、正門前で解散した。勇は自転車にまたがって、まだ明るい夕暮れの太陽と大阪城を横目に帰路に着く。  行く時は一基しか見なかった無人航空機が帰り道ではばかに多い、と彼はすぐ異変に気がついた。しかもその数は家に近づくにつれてだんだんと増しているように思われた。空中を飛んで追い越していった無人航空機が四台目を数える頃には、気のせいではないと確信を持つに至った。  住宅街に差し掛かると警察車輌がまばらに停車しているのが見えた。まっすぐには通れそうもないので自転車を降りて歩くと、さらに一台、二台、そして上空には無人航空機。ただごとではない。奇妙な焦燥感に急き立てれて躍起に自転車を押す。  角を曲がって家の前の道路に来た時、彼の目には異常な光景が広がっていた。  築二〇年の平凡な家の前を複数の警察車輌が取り囲んでいる。その手前には巨大なカメラやマイクを担ぎ持った報道機関と思しき人間が何人も集る。自分の家なのにそうではないような強烈な違和感に晒されて、彼はしばしそこに棒立ちになった。  ところが、報道機関の一人が勇の姿を認めると状況は一変した。「あっ! あれは兄じゃないかっ」と誰かが指を差して叫んだ。他の者も「そうだ、公死園の……」と言うやいなや、大量のカメラとマイクと人が彼の前に殺到した。パシャパシャパシャとカメラのシャッターを切る音と、太陽の下でもなおまばゆいフラッシュの光に気圧されて呆然としていると、人波の奥から父が無理矢理に記者たちを押しのけて現れた。手には勇の旅行鞄が握られている。 「おいっ、勇っ、今日は家に帰ってくるなっ」  父の声に正気を取り戻した彼は「え、なんでですか」と未だ状況の掴めない返答をしたが、父は旅行鞄を押し付けて再度叫んだ。 「功が憲兵に捕まった。だがお前は試合に専念しろ。あいつのことは俺がなんとかする」 「そう言われても……どこに行けば」 「友達の家でもどこでもいい」  すぐに報道機関が父子を取り囲んで質問責めの体勢に入った。ほとんど防衛反応的な動作で完全に退路を塞がれる直前、勇は旅行鞄を盾代わりに脇の緩い記者を押し倒して包囲網を抜け出した。倒されても即座に起き上がり「あ、ちょっと、君! 弟君の件についてなにか一言!」と商魂たくましく尋ねる声が背後から追いかけてくるが、一旦抜けた窮地に舞い戻る勇ではなかった。そのまま、振り返らずに倒れていた自転車を引き起こして今来た道を戻った。  友達の家、などと言われて思い浮かぶ場所は一つしかなかった。  勇は帝國実業の校舎を通り過ぎてさらに向こう側、ユン・ウヌの家がある鶴橋へと自転車を走らせた。 ---  鶴橋に向かう途中、無人偵察機の数は増える一方だった。さっきのと違って明確な指向性を持って飛んでいるわけではないと判っているのに、勇にはなぜか自分がつけ回されているような気がしてならなかった。大阪城を通り過ぎて目的に近づくにつれ、高層のマンションや建築物は鳴りを潜め、年季の入った風合いの木造住宅が目立ってきた。そのぶん空の境界が低くなり無人航空機のちかちか光るカメラがいっそう悪目立ちした。だが、ぶんぶんと飛び回るそれらは鶴橋駅にたどり着いた途端に姿が見えなくなった。  駅の出口には待ち合わせ場所によく使われる石像が置かれてある。雛壇を模した段差の下に、様々な出で立ちの民族衣装に身を包んだ複数の男女が笑顔で座り、一段高いところに和服を着た男が座っている。石像の側面には『八紘一宇の精神 〜みなさん仲良くしませう〜』と刻まれていた。  ユンの家は鶴橋商店街の中にある。引きめき合う店の合間に佇む二階建て木造住宅は、一階が露店と居間と兼ねている。店の前で投げ出すように自転車を置いた勇を、露店で漬物を売っているユンの祖母が見るといつもの調子で二階の階段に向かって叫んだ。 「ウヌ、あんたのチョルチンが来たよ!」  チョルチンとは”親友”を意味する朝鮮語である。来るたびにそう言われるので意味を調べたら気恥ずかしくなってしまい、勇はむしろ知らないふりをしている。  外からでも聞こえる階段をぎしぎし軋ませる音が響いて、まもなくユンの太い脚が垣間見えた。顔は相変わらず険しかったが、不機嫌を示すそれではないと彼は感じた。 「なあ、ユン……その、言いにくいんだが、今晩……」  旅行鞄を手にぶら下げながら言い淀んでいると、ユンははっきりと応じた。 「テレビを観た。事情は判っている。早く家に入れ」  ほっ、と安堵して勇は祖母に深くお辞儀をして、軒先で靴を脱いで居間をまたぎ、今にも崩れそうな階段をユンの後に続いて上った。  二階にある四畳半の部屋がユンの根城だ。薄汚れた畳の上に万年床の布団、まるで使った形跡のない古びた勉強机には埃が積もり、さらにその上には読みかけの雑誌や紙切れや学校から支給された用紙などが堆積している。畳の上にさえ紙がいくつも落ちている。部屋の片隅に置かれた小さな本棚には絵本らしき書籍が雑然と並んでいて、内容が幼稚園以来一度も更新されていない様子がうかがえた。  一方、壁際の旧式のテレビにはそれなりの手入れが施されているようだった。テレビの画面では、今まさに勇の家が映し出されていた。彼は急速に、とんでもない異常事態が起きつつあることを悟った。  テレビの右上には『北野高の首席入学生 治安維持法違反で逮捕さる!』と題する字幕が目立つ。さらにその下には『兄は帝國実業硬式戦争部の主将』と丁寧な補足情報まで記されてあった。 「治安維持法違反だと? 功のやつ、捕まらんと言ってたじゃないか!」  勇は思わず大声をあげた。ユンは万年床にあぐらをかいて座って、腕組みをした。 「身に覚えはあるようだな。お前の弟は計算機に詳しかった」 「あいつはただ技術の勉強をしていただけだ! それを……こんな……」 「だけかどうかは国が判断することさ。お前の弟は運が悪かったな」  彼のそっけない態度に、一晩泊めてもらう恩義も忘れて勇はいらだちを露わにした。 「なんだその言い草は。喧嘩売っているのか」 「いいから座れ。この狭い部屋でそう突っ立っていられるとねずみ小屋にいる気分になる」  やむをえず勇は座ったが、まだ怒りは収まっていない。それを知ってか、ユンは冷静に言った。 「おれらなんてしょっちゅうしょっぴかれている。斜向いんとこの悪ガキもこの前やられた。どうでもいいようなことでも実刑は当たり前だ」  朝鮮人とおれの弟は違う、と喉元まで出かかった言葉を勇は呑み込んだ。単に日本人ではないというだけでユンの命を賭した戦いぶりを退けた監督の顔がちらついたのだ。テレビでは自宅の映像に代わり、中学生の頃の功の作文や成績表、同級生の人物評が仔細に語られている。しばらく観ていると、公死園の録画とともに勇の経歴も槍玉に上げられた。  それから父、母、さらには親族、町内會にまで曝け出されるのに十五分とかからなかった。今この瞬間、帝国中の臣民に葛飾家の素性が覗き見られている。勇は全身に悪寒が走った。 「くそっ、どいつもこいつも好き勝手に言いやがって」  これまで幾度となく報道番組で観てきた光景なのに、自分のこととなると全然感覚が違う。これまでは悪人の本性が暴かれているのだろうとしか考えていなかった。でも今は、帝国中に向かって葛飾家の潔白を訴えたい気持ちでいっぱいだった。電子計算機を悪用したであろう弟さえ、どこかで擁護できるならいくらでもしてみせたかった。 「勝つしかねえよ」  報道番組に出演している有識者が少年犯罪の凶悪化を憂いている傍ら、ユンはぼそりと言った。身体ごと向きを変えて、繰り返す。 「おれたちは公死園で勝つしかねえんだ。結果を出せば世間は黙る。これはそういう戦いだ」 「そもそも出られるのか、おれが」  口に出すと急速に心配が現実味を帯びはじめた。身内に犯罪者を作ってしまった自分が公死園の決勝などという最高の晴れ舞台への出場を許されるのだろうか。だが、ユンはニタリと笑った。紫に変色したすきっ歯の歯茎が見えた。 「出られるさ。監督は強い選手なら出す」 「なぜ分かる」 「やつがおれを嫌っているのは知っている。だが強いから出している。朝鮮人のおれをな。今は……まあそれでいい。おれには目標がある」  監督がユンに徹底的な指導を施して何倍も模擬軍刀を打ち据えたのは、果たして個人的な嫌悪心からくるものなのか、それとも純粋に強い選手をさらに強くしたかったからなのか、勇には判らなかった。なにも言えず黙っているとユンは場の空気を入れ替えるように調子の良さそうな声を張った。 「まあ、とりあえずメシを食え。いま下でハルモニが作っているはずだ」  予想通り、ほとんど間を置かずに彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きい米びつに入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、牛肉の和え物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におかわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。  そんな光景を見てユンは「金はねえがとにかくメシはあるからデカくなれた」と、普段は家の文句ばかりなのにここぞとばかり自慢するのだった。  ところが今日の彼は様子がおかしかった。「もっと食え」と勇におかわりを勧める割には、自分の丼ぶりの中身は一向に減っていない。いつもは大きい米びつが空になるほど食べるのにまだ半分も残っている。隣で甲斐甲斐しく米をよそってくれるユンの祖母もすぐに気がついて「あんた、全然食べないねえ」と訝しんだ。対する彼はただ「うるせえな、食い飽きたんだよ」と買い言葉を口にして、とうとう一杯分の丼ぶりをなんとか空にしただけで夕食を終えてしまった。  旧式のバランス釜で沸かされた風呂から順番に勇が出てくると、まだ九時にもならないうちに「おれは寝る」と言って灯りをつけたまま万年床の布団に仰向けになって寝転がった。客人の立場で無駄に電気を消耗するのも気が咎めた勇は、父に様子を尋ねる電文を打ってから灯りを消した。入浴の間にユンの祖母が隣に敷いてくれたのであろう布団に横たわると、窓から入り込む夜の商店街の電燈が赤青緑にちかちかと薄く光って部屋の至るところを照らすのが見えた。  規則的に繰り返される点滅を見ながら、勇は公死園のことを考えた。  即興で身につけられた回避術一つで軍刀の手練とまともに戦えるだろうか?  硬式弾を全身に浴びるのは痛いけれども、仮想体力制を失ってあっけなく退場させられる際の無力感はやるせない。たとえ身体が万全でも、痣一つ付かなくても、電子的に衝突判定が認識されれば試合の中の自分は死んだことになる。その瞬間、固く緊張を保っていた全身の力が砂を抜いた土嚢袋のように萎びて、敗北の味が広がっていく。  硬式弾に何十発も耐えられる恵まれた身体には、精神の敗北がよりいっそうの苦々しさをもらたしめるのだ。  早く眠ろうと意志を固めて寝返りを打つと、ユンが寝言を言っているのが聞こえた。最初は判別が付かなかったが、じきに人名の羅列だと判った。  それは一定の周期性を伴っていた。最初に、監督の名前。その後に、勇には知らない名前が延々と続く。たまに、もう卒業した帝國実業の先輩や、あまり接点はない同級生の名前もいくつか読み上げられる。勇の名前はなかった。  一体これはなんの一覧表なのだろうか、と疑問に思っているうちに、だんだんと寝言は薄れていって寝息に置き換わった。  乱雑な部屋に似つかわしくない光と人名の規則性が、皮肉にも不安を抱える勇を緩慢な眠気へと導いた。 ---  己の事情とは関係なく身体は半ば機械的に眠り、然るべき時間に覚醒した。時計を見なくても今が午前五時前だと判る。夏の気が早い太陽の光が差し込んで、褪せた焦げ茶色の天井にここが自室でないことを知らされる。功は今頃どうしているだろうか。逮捕されたからには、拘置所かどこかで同じように褪せた天井を眺めているのだろうか。男のくせに女みたいにきれい好きで日に二度も風呂に入りたがる弟が、拘置所の暮らしに耐えられるとは兄の勇には思えなかった。  父と母の動向も気がかりだった。今頃、職場は父にどんな処罰を課すか検討している頃合いだろう。母も実家から連絡があったに違いない。高校生の勇にはいまいち想像しがたい社會の動きだが、いずれにしてもこれ以上はないというくらい最悪の事態が浮かんでは消えた。  勇は寝言だか呻き声だかよく判らない声をあげて横たわるユンを尻目に、勝手知ったる他人の洗面所を使うために階下へと下りた。例の小さいちゃぶ台には、やはりもう大量の朝食が用意されている。階段の軋む音を聞いたユンの祖母に挨拶されたので礼儀よく返す。 「ウヌはまだ起きてこないのかい」 「なんか寝言言ってますよ」 「ご飯が冷めるから後で起こしてやってね」  洗面所で洗顔を済ませた後、言われた通りに再び階段を上って部屋に戻った。横たわるユンに呼びかけるも、ろくな反応がない。今日は公死園の決勝だというのにだらしのないやつだ、と思って肩に掴みかかると、そこで勇は初めて異変に気づいた。  まるで大雨に打たれたみたいに全身がびしょ濡れになっている。それに、信じられないほど熱い。あわてて身体を引き起こすと、ユンの顔はかつてないほどの苦痛に歪んで生気のない土気色に染まっていた。 「おい、ユン、どうした」  慌てて身体をさすると、紫色の唇がわずかに動いてやがてぼそぼそと言葉を発した。 「歯が……歯が痛くてしょうがねえ」 「歯だと? もしかしてお前――」  本人が動けないのをいいことに唇を指でぐいと押し開けてみると、どす黒く変色した歯茎が見えた。失った前歯を中心に左右に穢れが広がっているように思われる。  勇はその瞬間になにもかも悟った。昨日の朝の時点でユンはなんらかの治療が必要な状態だったのだ。無理矢理に我慢していたせいで症状が悪化したのかもしれない。 「病院に行くぞ。こんな調子では試合などとても無理だ」  病院、という言葉に反応したのか彼の目が薄く開いて睨んだ。 「病院だと……そんな金が家にあるかよ」 「行って頼み込んだらなんとかしてくれるかもしれない。さあ、立て」  肩を貸してなんとか立ち上がらせたユンを階下に連れ出すのは相当に苦労した。下で待っていた彼の祖母に事情を説明すると、とてもうろたえた様子で「病気なんて三つの頃にしたきりだったのに」と言い、部屋の隅の箪笥から数枚の紙幣を手渡された。「これでなんとかなるといいけど」  畳にユンを一旦横たえてから、勇は部屋に戻って手早く着替えを済ませた。戦闘服を着込むのには時間がかかるので父に手渡された旅行鞄の中から適当に選ぶ。受け取った紙幣を財布に入れてもはや階段の具合に構わずどたどたと下りて、ユンを起き上がらせる。「自転車の後ろに乗れそうか」と尋ねると彼は呻きながら頷いた。  岩の間から産まれたような頑強な男がこれほど弱っているさまはにわかには信じがたかった。祖母の助けも借りてなんとか彼を自転車にまたがらせると、勇も乗って彼の両手を自分の腰に掴ませる。二両をゆうに越える重みが自転車の駆動を妨げたが、それでもなんとか走り出して二人は近場の病院に急いだ。  見通しのよい二車線道路沿いに出て歯科を探すと、鶴橋駅から歩いて十数分のところにこじんまりとした医院が見つかった。普通なら自転車で五分とかからないが後ろにユンを抱えた身ではそうもいかない。二倍近い時間をかけて自転車を押すように漕いで自動扉の前にたどり着いた。意識が覚醒しつつあるユンに肩を貸して、どんどんと扉を叩いて声を張り上げる。 「急患です! 誰か、誰か!」  まもなく透明な扉の奥から当直の看護婦が現れて解錠した。 「一体なんなんです、救急窓口はこの敷地の後方ですよ」 「こいつの歯がひどいんです。色が黒く変わっていて、熱も出てて」 「ここは歯科じゃありませんよ」  呆れかけた看護婦の眼差しは、勇がぐいとユンの唇を押し広げた途端に色をなして変わった。「外科の先生を呼んできます。ここで待っていてください」と告げると、廊下に向かって駆けていき、ややあってよれた白衣を着た白髪の医者を連れて戻ってきた。 「これはひどいな。化膿の切除……抗生物質もいるな……だが」  白髪の目立つ初老の男性はちらりとユンと見やる。 「君ら、鶴橋の方から来たのか。申し訳ないが、臣民保険証は持っているか」 「おれはあります。けど、ユンは……」  横で抱えられながら話を聞いていたユンが皮肉めいた笑いを漏らした。 「んなもん持ってるわけねえだろ……」 「となると、実費で払ってもらうことになるな」  途端に、医者の眼差しが険しくなる。勇は勝手も解らず尻のポケットから片手で取り出した財布を手渡して言った。 「こいつの祖母からもらったお金が入っています。これでどうにか」  医者は受け取った財布の中身を改めて、さらに険しい顔をした。 「君、こんなんでは薬代も出ないよ。申し訳ないが他を当たってくれ」  白髪頭を手でがりがりと掻いて、踵を返す医者を勇は目で追うしかなかった。看護婦の方は名残惜しい表情でこちらをちらちらと見ていたが、じきに医者の後に続いた。  金……金がいる……今すぐに!  ほとんど反射的な動作でズボンのポケットをまさぐると、手の先が紙片に触れた。ぐい、と引っ張り出すと、地方銀行の社章が刻印されたくしゃくしゃの封筒が出てきた。  これは、父からもらったご褒美だ。あの時のズボンがたまたま旅行鞄に入れられていたのだ。 「待ってください!」  勇は躊躇なく叫んだ。歩を止めて振り返る医者に印籠のごとく封筒を突き出す。 「金なら、ここに十萬円あります。いくら使ってもらても構いません。だから、こいつを――今すぐに――」  金があると判ると医者は機敏に動いた。すぐさまユンの空いている肩に手を回して力強く手術室に先導した。看護婦になんらかの指示を飛ばして、速やかに歯茎の手術が行われる。先ほど言っていた「切除と抗生物質」の治療が済むまでには三十分とかからなかった。手術室から出てきた医者に目を合わせると、彼は苦々しげに言った。 「一応、手当ては受けていたようだがひどいものだね。よほど手を抜かれたのだろう。幸いにも余計に歯は抜かずに済んだ。抗生物質を打ったから数日で良くなる」  ほっ、と胸をなでおろしたのも束の間、数日という単語が勇を現実に引き戻した。 「助かりましたが、数日ではなく今日、なんとかなりませんか。おれもあいつも公死園に出るんです。今日が結晶です」  医者は驚いた顔をして、しかし納得したふうに顎をさすった。 「公死園――なるほど、君ら硬戦の選手か。だからあんな怪我を……。だが、無理を言われても困るな。治療は済んでも彼はいま相当にしんどいはずだ」 「そこをなんとか、なんとかなりませんか。今日、勝たなければだめなんです。あいつが分隊にいなければおれは――」  もはや自分の都合を隠し立てもせず押し通して、勇は医者に頼み込んだ。固いゴム弾で何度撃たれても萎えなかった己の肉体が、今にも崩れ落ちそうに震えて嗚咽さえ漏れ出ていた。  医者はしばらく押し黙っていたが、ややあって口を開いた。 「決勝、ということは今日が最後の試合だね?」  質問の意図が掴めないままうなずいた。医者は続きを答えず手術室の扉を押し開き、ついてくるように指示した。  手狭な手術室の寝台に横たわるユンは、勇の姿を認めた途端にもごもごと口を動かした。まだしゃべりづらそうだ。 「勇、おえは……」  医者は備え付けられた棚から薬品を取り出して、真上から注射針を突き刺した。指の動きに合わせて透明な液体がずるずると注射器に吸い取られていく。 「それは一体なんなんです」  なんとなく不審さを覚えた勇が尋ねると、彼は神妙に答えた。 「Methamphetamin……巷ではヒロポンと言う。本来は前線の兵士に配られる代物だが……明日からはきっちり休むというのならこいつを処方してやろう」  ヒロポン。聞いたことがある、と勇は記憶を掘り起こした。昔は合法だったが、中毒症状のあまりの強さに現在では帝国軍人でなければ買えない薬だ。不良学生が帰国した負傷兵と結託してヒロポンを入手しているとの噂をよく耳にする。数時間持続する痛みや不安からの解放の後、使用者はさらに厳しい苦しみを背負う。耐えきれず、その苦痛をさらにヒロポンの快楽で補おうとした一部の者には地獄が待っているという。  勇が言い淀んでいると、横からユンが弛緩した口元を懸命に動かして叫んだ。 「うってくえ、早く」  遅れて、勇も言う。 「頼みます、打ってください。おれたちは勝たなければならないんです」  ヒロポンを吸った注射針がユンの肩口にめり込んだ。液体が身体の中に入っていくたびに胸が苦しくなっていくかのようにシャツを鷲掴みにしていたユンだったが、しばらくするとだんだんと顔が赤く頼もしく紅潮しはじめた。紫に染まっていた唇がみるみるうちに元の色に戻っていく。  彼は寝台から基礎練の動作の要領で跳ね起きて床に着地した。 「行くぞ、早く敵を撃ちたくて仕方がねえ」  その目は瞳孔が他を圧倒して広がり、まるで猛獣のように爛々とぎらついていた。 ---  会計を代理した看護婦から手渡された領収書によると、まるでヒロポン代で帳尻を合わせたかのようにぴったり十萬円が徴収されていた。下には赤文字で『緊急ヲ要スル事態ニ附キ除倦覺醒劑ヲ処方ス』と記されてあった。自動扉の前で深々とお辞儀をしてから帰り道もユンを後ろに乗せて行こうとすると、彼は目の前で屈伸を始めて徒競走の構えをとった。 「おれは走って家に帰る。準備運動の代わりだ」  勇が自転車に乗りきらないうちにユンはついさっきまで病人だったとは思えない加速で大通りを駆け抜けていった。呆気にとられた勇も遅れて後を追おうとしたが、かなり真面目に漕いでも初速で距離を開けられたユンに追いつくのにはかなり時間がかかった。人通りがほとんどない歩道を独占して、二人並んで並走しながら勇が隣の彼に向かって叫ぶ。 「えらく調子がよさそうだな!」  ユンも叫んだ。 「調子がいいどころじゃねえ! 痛みも疲れもなにも感じられねえ! 今のおれが一番強い!」  数分後、家に戻った彼はあまりにも早変わりした姿に驚く祖母に朝食の仕切り直しを要求して、今度こそ米びつを平らげる勢いで食事を済ませた。部屋で各々戦闘服に着替えて出陣の準備を済ませる。試合当日は公死園戦場に現地集合という手はずになっていた。居間の時計を見やると、まだ多少の余裕があった。それに気づいたのか、ユンが言う。 「お前、とりあえず家に帰れよ。テレビの連中も落ち着いた頃合いだろ。おれは先に現地に行ってるからよ。それにしても――」  彼は急に顔を祖母に向けた。 「いつも金がないないって言ってたくせに、あったじゃねえか。まさか手術まで受けられるとは思ってなかったぜ」 「あんたに渡したってろくなことに使わないよ。でも、なんとか足りてよかったわねえ。勇さんもこんなのを病院に連れていって大変だったでしょう」  顔じゅうに皺が刻まれた彼の祖母の顔がさらにくしゃっと丸まって勇に笑顔を向けた。 「……ええ、自転車が折れるかと思いましたよ。頂いたお金が間に合ってよかったです。二度と往復したくありませんからね」  二人は壺に入った朝鮮漬けなどが陳列する店先の前で一旦別れた。大阪城を通り過ぎて帝國実業の校舎を脇目に、一日ぶりに帰路へと着く。昨日送った電文の返事は結局来なかった。朝方には無人航空機の往来もまばらで勇は以前ほどの恐怖を感じずに自宅まで辿り着くことができた。鍵を差して家の扉を開けて「ただいま帰りました」と報告する。返事がない。家の中は静まり返っている。疲れて寝ているのだろうか。  いないものと思って油断して居間を通り過ぎかけたので、そこに父が座っているのを見つけて勇は驚いた。その背中はいつもよりだいぶ小さく衰えて映った。  改めて父の背中に呼びかけると、当の本人は力なく振り返った。目に隈ができていて表情に生気がない。いつもならとっくに出勤している時間なのに父は寝間着のままで、ちゃぶ台の上には日本酒と切子が並んでいた。 「おお……帰ったか」  父の声には威厳のかけらもなかった。半分死んでいるような声色だった。 「職場からな、電話があった。当分休めと。まあ、クビだろうな。今度こそ」  そう言うと、父は背中を向けて切子の中の日本酒を呷った。たん、と強く置いて、自ら次を注ぐ。 「あいつは――お前の母さんは実家に帰ったよ。身内から二人も不穏分子を出した家に娘を置いておけないと言われたそうだ。まあ、その通りだな」  また日本酒を呷る。習慣的に勇が酌をしようと前に進み出たが、それよりも早く父が次を注いだ。手持ち無沙汰になったがなにも言うことは思いつかなかった。 「俺は一体どこで間違えたんだ……。十分にやってきたはずだ。過ぎた出来の息子を二人も授かったと思っていたのに」 「父さんは立派です」  出し抜けに、なんとかそれだけ言えた。だが、父は力なく笑うだけだった。 「テレビ、観たか。誰もそう思っちゃいない。これからどうやって暮せばいいのかも分からない……」  ふと、思いついたように父はまた振り返った。 「そういえばお前、あの十萬円、どうした。一度やった褒美を返せと言うのは苦しいが、今はとにかく金がいるんだ」 「あれは……もう使ってしまいました」  瞬間、生気の薄い父の顔に怒気が宿った。釣り上がった目が勇を睨む。 「なんだと? 一昨日にやったばかりじゃないか。なにに十萬円も使ったんだ。ろくでもないことじゃないだろうな!」 「違います」  酩酊した父は急に立ち上がるとふらつきながら勇に押し迫った。酒臭い息が鼻腔を強く刺激した。 「お前までつまらんことで捕まったら俺はもうどうしようもないんだ。なんだ、一体なにに使った。言ってみろ! 子供が一晩二晩で十萬円も使えるか!」  父のあまりの変わりように勇は拒絶感が勝り、迫る父の手を強く振り払った。そして、開き直った態度で彼は叫んだ。 「ああ、そうだよ! 朝鮮人の歯を治してやるのに十萬円を全部使ったんだ! あいつの家は貧乏だから……それが悪いとでも言うのかよ!」  虚を突かれたように父はおとなしく静まった。ややあって、口を開く。 「あの試合で軍刀を振っていた子のことか」 「そうだ、あいつはあれで歯を折ったんだ。危険だったけれど、ああしなければ勝てなかったかもしれない」  気まずく沈黙する縮んだ父に向かって、勇はさらに言う。 「あいつも、今となってはおれも、公死園の決勝がすべてなんだ。これに勝てばどいつもこいつも黙らせられる。朝鮮人だろうが、不穏分子の兄だろうが――」  言い切ろうとして、一瞬、言葉を切った。父はまだ黙ったままだった。 「――だから十萬円を使った。今のおれに、他にほしいものなんて一つもなかったから」  勇はなにも言えないでいる父を置いて家を出た。  銀色の刺繍が胸元に光る帝國実業の戦闘服を着た彼は、自転車を駆って桜ノ宮駅へ行った。桜ノ宮駅から電車に乗って大阪駅に乗り換え、大阪梅田駅から公死園駅へと進路をとる。車内の液晶に映る代わり映えしない電子公告が数巡すると、目的地にたどり着いた。確かな歩みで駅から戦場の施設まで進んで、帝國実業の控室に入る。そこでは分隊員と、ユン、と監督がすでに待っていた。彼が入るやいなや全員の視線が集中した。  勇は軍靴の底を互いに弾き鳴らし直立不動の敬礼姿勢をとって、叫んだ。 「帝國実業三年、主将、葛飾勇、ただいま帰りました!」 ---  公死園の運営関係者が控室に顔を出してまもなく出場だと告げてきたので、一同は同時に支給された電子判定用の肌着を戦闘服の下に着込んだ。この厚さ三寸ほどの灰色の服が対応する衝撃を検知する。選手の片耳には一度押し込むと鉗子でなければ取れない癒着性のイヤホンも装着される。耳の表面が半球面で埋まったように見えるが、外音は精密に取り込まれていて聴力や空間把握能力が低下する懸念はない。  この器具が検知した全身の衝撃判定を選手自身に伝えるほか、試合を管制する電子計算機にも情報を送信している。二〇年前に移行が決まった仮想体力制度は名だたる財閥企業の強力な後押しによって、西洋先進国にも引けをとらない科学技術力の結晶で作られている。 「入念に起動を確認しろ。試合開始までに判定が有効でなければ失格だ」  大会の駒を進めるたびに言ってきたことを勇が今日も言う。分隊員は頷いて判定服の裏地に備わった通信確認用のボタンを押す。勇も押したので、耳元で人工的な音声が「起動確認。本日は昭和九八年八月二三日」と言うのが聞こえた。  最後に装備品の確認を行う。ユンは当然、予備弾倉ではなく軍刀を手に取ったが、他の隊員にも思うところがあったらしい。同じく軍刀を仕込む者もいれば、拳銃に持ち替える者もいた。本来なら浮ついた装備の変更はご法度だったが、相手が相手なので定石に縛られるべきではない。  勇も迷った末に予備弾倉を脇に寄せて硬式拳銃を手に取った。  この選択が吉と出るか凶と出るか。  控室の私物入れに携帯電話を置こうとした時、ぶるぶるとそれが震えた。手に取って開くと和子から電文が届いていた。内容はごく短く「死なないでね」とだけ記されている。雄弁な彼女のことだから、きっと本当はもっと言いたいことがあったに違いない。良家の娘である彼女は言うまでもなく付き合いを絶つよう両親に命じられているのだろう。この電文は長い交渉の末に勝ち取った一言なのかもしれない。  勇は返信せずに携帯電話を私物入れに突っ込んだ。  総員は各々の装備品を手に、肩にかけて控室から入場口手前の休憩室まで赴いた。そこには長いベンチや壁に備え付けられたテレビや、便所が備わっている。時計を見たところ、まだ入場までには一〇分ほどの猶予が残されていた。試合前にユンとなにかすり合わせをしておくつもり後を追ったが、彼はベンチには座らず休憩室の奥に行ってしまった。 「おい、どこいくんだ」 「うるせえな、便所だよ。すぐ戻る」  やむをえず手近なベンチに座って、手持ち無沙汰のままテレビを観ると、ほとんど無音まで音量が絞られた状態でも試合開始前の司会がなにを説明しているのか判った。功のアルバム写真が映し出され、続いて勇の試合の録画が流されている。思わず、視線をそらすと、真横に監督がどかっと座った。不可抗力的に視線が合う。なにか言おうとしたが、先に監督が口を開いた。 「やつらな、学校にも来たぞ。不穏分子の兄を公死園に出していいのか、と……。我が校は強ければ出すのが伝統だと言ってやった」 「おれはそんなに強いですかね」  勇は自嘲気味に笑った。すると、監督が真顔で答える。 「いや、弱い。貴様など吹けば飛ぶような存在だ」 「じゃあ、なぜ試合に?」  監督は質問には答えずにテレビ画面をあごでしゃくった。 「世の中にはいくらでも悪人はいる。立派そうな連中の中にも。銀座で飲み歩く御大尽にも、帝国議会でふんぞりかえっている代議士にもな。だが、やつらがこうして報道機関の槍玉に挙がることはない。なぜだ?」 「……政治のことはおれにはよく解りません」 「よく解らないのは、単に知らなくても損をしなかったからだ。貴様のようなやつはな……。今日からは違う」  鬼のような険しい顔の監督が睨みを効かせる。ただし怒りではなくそこには神妙さが宿っていた。 「解らないなら教えてやろう。そいつらは強いからだ。お前が少々、硬式戦争で腕を鳴らして――あるいは本当の帝国軍人に成り上がったとしても、そいつらの曲げた指先一つにも敵わない。だからみんな畏れ、敬う」 「正しさ――正義はそこにはないんですか」  勇は口を滑らせた。これは口ごたえにあたるかもしれない。だが、英語で計算機の情報を調べていただけの弟を、こんなにまで晒し者にして、家族まで犠牲にする有様がふさわしい処罰とは到底思えなかった。監督は怒らず、ただ小馬鹿にしたふうに笑った。 「正義は人の数だけある。貴様の方が正しいと信じるなら証明してみせろ。今日がその最初の日だ」  ユンが便所から帰ってくると監督はベンチから立ち上がって全員に向かって声を張った。一瞬の間に彼は元の獰猛な顔つきに戻っていた。 「さあ、決勝だ。支那人どもを蹴散らしてこい」 「押忍!」  休憩室を出て、電燈の眩い光が差し込む入場口に向かって分隊員は一列に並んで行進した。戦場から流れ込んでくる威勢のよいラッパの音色と同期して、一糸に乱れぬ連携と調和を演出する。戦場に入ると目のくらむ光が融けて、配置の変わった朽ちた市街地が眼前に飛び込んできた。円形の観客席から盛大な拍手、とそれに負けず劣らずの罵声が飛び交う。真後ろのユンが声を漏らした。 「ああ、おれが一町もある巨大な怪物だったら全員踏み潰したのにな」 「今に思い知らせるさ」  図らずも監督の言葉に勇気を得た勇は振り返らず、あたかも独り言のように答えた。  慣習に倣って横一列に広がった分隊は、厳かに演奏がはじまった国歌の調べに身を委ねた。次に、皇居に向かって一斉に深々とお辞儀をする。あれほど騒ぎ立てていた観客たちもこの瞬間だけは静まり返る。  直線で五町離れた戦場の向こう側では、臣民第一八高等学校の選手たちが同じように並んでいるのだろう。 「選手は初期配置についてください」  耳元のイヤホンが指示を出す。各々の分隊員は互いに目配せをして芝生から市街地を模したコンクリートの境目を乗り越えて、戦場に入っていく。戦闘服の小袋から主弾倉を取り出すと、勇は八九式硬式小銃に取りつけた。カチッと小気味のよい音が彼に闘志を与える。  二車線道路の端に早くも第一八高の選手たちが姿を現した。通信機能を使って他の分隊員が言う。 「あいつら小銃を装備すらしていない」 「なめやがって、本当に軍刀だけで戦うつもりか」  そこへ、勇が割って入る。 「油断するな。小銃を持たなければやつらはさらに速くなる」 「上等じゃねえか、全員ぶっ殺してやる」  たぎったユンの声が耳の奥底まで響く。  視界の先では隠れもせずに十名の選手が軍刀に手をかけて試合開始の笛を待っている。微動だにせず、その眼差しはこちらを射抜かんばかりだった。  そっちがその気ならこちらも容赦はしない。三秒で試合を終わらせてやる。  勇は小銃を腰だめで構えた。  やけに静かだった。  あれほど勇を突き刺してきた罵声も、囃し立てる歓声も、戦場の空気がすべて飲み干してしまったかのようだ。司会の解説音声は選手たちには聞こえない。  筋肉が硬直を覚えはじめた矢先、唐突に笛が鳴り響いた。同時に、耳元の声が言う。 「試合、開始」  全国高等学校硬式戦争選手権大会の決勝、大阪、帝國実業高等学校、対、台北、臣民第一八高等学校の戦いが幕を開けた。 ---  勇は小銃を腰だめから精密射撃に切り替えて撃ち放った。何万回と繰り返してきた動作が公死園の決勝で滑らかに実践される。帝國実業ではたとえ”洗礼”をくぐり抜けても基本動作が身につくまで一発も弾を撃たせてもらえない。その基準は強豪の名にふさわしく高い。一寸のズレや揺れも許さない絶え間ない反復運動が、軟式戦争で芽生えた自信を木っ端微塵に打ち砕く。まるで鉄を折り曲げるよう――それでも撓まず折れずまっすぐに戻る人間のみが、帝國実業の分隊員として選ばれる。  笛が鳴った直後に放たれた六発の鋭い銃弾は二人の敵に向かって狙い通り飛んだ。並大抵の相手なら、なすすべもなく全弾を胸部に食らって即刻退場を余儀なくされていただろう。だが、第一八高の手練たちは目を張る機敏さで全身を横転させて軽やかに弾をかわした。耳元の人工音声がなにも通知しないということは、一発も当たっていない事実を意味する。  やや遅れて他の分隊員も銃撃を重ねるも敵はもう左右に散って市街地の各方面に紛れていった。通路から攻めて距離を縮める作戦と思われた。  こちらも分散して広く陣を張るべきか……あるいは固まって迎撃すべきか……。  勇は考えた。敵のいる範囲を掴まれると行動を予想される。とりわけ相手は銃弾をかわす手合いだ。迎撃に専念して一人、二人仕留めたとしても、後は消耗する一方の銃弾とともに追い詰められていく恐れが否めない。一度固まって移動範囲を絞られると待ち伏せも追い打ちも相手はなんでも仕掛けられる。  散開するしかない。各個撃破される危険は承知の上だ。 「二人ずつ固まって展開しろ! ユン、お前は林と行け、おれは田中と行く」  各々、手近な味方と別れて狭い街の隙間に消えていった。上空から見た時、この戦場の盤面は将棋の駒のように上下を二分しているだろう。今、互いに歩が前に出て角行の通り道ができた。ただし敵の歩はこちらが一歩進むたびに三つは進む。勝手の変わった街並みを警戒して進み、道中に現れた二階以上の建物の配置を頭に刻み込んだ。 「田中、ここからは手信号だ。会話で気づかれたくない」  横の田中は頷いて帝國実業独自の手信号で「了解」の合図を送った。  市街地の戦場にいるとまるで家の近所で戦闘しているような錯覚を覚える。石垣に囲われた一戸建てが整然と並ぶ家々を模したこの通りは、実際の住宅街となんら大差がない。そのぶん、崩れた風景の区間と違って隠れやすく遮蔽物も多い。近接戦闘を行うにはうってつけの場所だが、同時に逃げやすい空間でもある。  遠くから散発的に銃声が聞こえた。戦いが始まったようだ。  横の田中に新たな手信号を送ろうとして顔を向けた時、反対側の石垣からかすかに足音が聞こえたのを勇は逃さなかった。手信号を中断して勇は小銃を構えながら振り返り、ほとんど相手を見る間もなく反射的な挙動で石垣の上を射撃した。  果たしてそれは功を奏し、ちょうど石垣に飛び上がった一人は胴体にまともに銃撃を食らって向こう側に倒れ込んだ。耳元で人工音声が通知する。 <選手八番、仮想体力喪失。退場>  気を休める暇はなかった。隣から銃声が聞こえたので勇は向き直った。石垣から飛び出してきた敵は一人ではなかった。しかし、田中の反応は勇よりわずかに遅れたばかりに機を逸して、彼の放った銃弾はいずれも外れ敵に二度目の跳躍の余地を与えた。鋭角にまっすぐ飛びかかってきた敵は居合の要領で腰から軍刀を抜くと、すれ違いざまに田中の胴体を一閃した。あっ、と声をあげたのは人工音声がさらなる退場を通告した後だった。 <選手四番、仮想体力喪失。退場>  呆然と立ち尽くす田中をよそに敵は軍刀を勇に振りかぶった。この刹那、勇は以前には見えなかった剣筋の軌跡がなんとか視認できるようになったことに気がついた。身体を横にかたむけて最小限の動きで軌跡から遠ざかる。おそらくかわされるとは思っていなかったのだろう――わずか二、三秒にも満たない攻防――勢い余って前傾に姿勢を崩した相手の頭部に銃床を叩きつけた。 <選手十二番、仮想体力一割減少、残り九割>  電子部品が内蔵されていない銃床による打撃は衝撃判定が緩い。だが、仮想体力がどうでも頭を殴られてはまともに動けない。勇は昏倒した相手にすかさず硬式弾を当てて退場を確定させた。  ほどなくして退場を宣告された三名の敵味方は両手を頭の後ろに回して互い違いに戦場を離脱していった。  一人と引き換えに二人を仕留めたのなら幸先の良い出だしと言わなくてはならない。勇は小銃を構え直して片耳のイヤホンを指で押した。通信機が起動する。 「田中がやられたが二人倒した」  手短に伝える。小刻みに戦闘が起きる硬戦では双方向の通信はあまり成り立たない。しかし今回はがさがさとした雑音とともに分隊員の息切れした声が返ってきた。 「入場場所を背に西側に逃げている! 至急応援求む!」  西側、といえば勇たちが来た場所の方角だった。「葛飾だ。今すぐ向かう」と返答して彼は近辺を石垣伝いに移動しはじめた。曲がり角を二つ折れて、二車線道路寄りに近づいたあたりで人の足音が聞こえてきた。位置取りを調整して迎撃の構えをとる。塀の脇に隠れて姿を現すのを待ったが、すぐにそれでは不足だと気づいた。追う側が迎撃を警戒していないはずがない。  近づいてくる足音に急き立てられつつも、勇は目の前の塀をよじ登った。そこから隣接した一戸建ての二階部分の縁に飛び移り、さらに屋根へと自身を持ち上げる。緩く傾斜した屋根に腹ばいに寝て小銃を底面に立てかけた。所詮は模型ゆえ実際の二階建て住宅より小さく作られているとはいえ、それでも数十メートル先の道路を走る二人の姿を垣間見るには十分な高さが得られた。改めて通信機を起動する。 「押山、その角を曲がれ」  まもなく押山と呼ばれた分隊員は指示通りに角を曲がって勇の視点の直線上に現れた。数秒後、敵が軍刀を片手に追いすがってきた時にはすでに勇の引き金は絞られていた。  たった一発の硬式弾が敵の頭を正確に撃ち抜いた。予測射撃に加えて高台からの狙撃。反射的に頭を抑えてよろけた敵は、直後に退場を悟って軍刀を手放した。走っていた押山も振り返って敵を見て、それから屋根の上の勇を見上げて手信号を送る。  勇は屋根から滑り降りて地面に着地した。今度は押山を背後に回して二人で敵方への前進を試みる。機動力に長ける敵の頭を抑えられたら状況は俄然有利だ。いかに軍刀の手練でも射程が一町に伸びたりはしない。本来、追い込まれるのは飛び道具を持たない方でなければならない。  閑散とした住宅街の区画を抜けると朽ちた街並みが見えてきた。石垣は崩れ、家々は倒壊しており、高台はほとんど見当たらない。全身を隠せる場所が少ないので奇襲には不向きの区間だが、同様に逃避や狙撃もできないので一概にどちらが有利とは言い切れない。近接武器しか持たない相手に接近しなければならないのは、公死園が長時間の待ち伏せを禁じる規則を定めているためだ。裁量はかつては審判、現在は電子計算機の動的な計測に委ねられているため、時間を測って計画的に居座ることもできない。この判定に引っかかり「不健全試合」の烙印が押されると、即座に全選手が退場を宣告される。  大日本帝国の軍人に膠着は許されない。その精神は公死園にも息づいている。  崩れた瓦礫が密集して視野が狭まる区間を通り過ぎる時、押山が横について腰の軍刀を抜いた。先の軍刀戦術に感銘を受けた一人らしい。勇が手信号で懸念を表明すると彼は”問題なし”の返事をよこしてきた。再び視界が開けるまで勇はすり足気味の足取りで、小銃と肩口が癒着するかと思うほどに神経を張り巡らせていたが、意外にも敵は一人も現れなかった。二人は瓦礫の山を通り過ぎて、朽ちた街並みの終端にたどり着いた。すれ違っていなければ二車線道路の西側の、三分の二を探索したことになる。  ここに敵がいないとすると東側の状況が気がかりだった。勇は数少ないマシな形をしている石垣に背をつけて、押山を隣へ誘導した。慎重に声を落として会話をはじめる。 「お前、東側から来たな。直前の状況を把握しているか」 「ユン先輩が二人やるのを見ました。林が切られた後です」  勇は頷いた。これで敵方の五人退場が確定した。試合はすでに中盤戦だ。 「分かった。他には?」 「その時に俺も同伴の中島も敵に襲われて、一人はやりましたがそこで主弾倉が尽きて逃避を選びました」 「それでこっちまで来たんだな」 「はい。俺が見たのはそれで全部です」  敵は五人ではなくもう六人が退場していた。残り四人。こちらは中島、田中、林を失って残り七人。ここから状況が動いていなければ状況は圧倒的に有利と言える。定石通りなら集合して制圧戦に移行する段階に近い。  勇は耳のイヤホンを押して通信機を起動した。 「総員に告ぐ。現在、敵の最大人数は四人と判明した。各自、移動して入場側の二車線道路に集合せよ。可能な者は点呼を」 「押山、了解」  まず、横の押山が通信機越しに言った。他の点呼も期待したが、数秒待っても一人も名乗りは上がらない。じわりと胸の奥に広がりはじめた懸念を、寸前のところでユンの声が押し留めた。 「ユン、了解」 「生きていたか」 「当たり前だろ」  他の分隊員の反応はしばらく待機しても最後までなかった。やむをえず二人は壁を抜け出て二車線道路沿いに向かった。敵の数が限られているとなれば多少は速く移動できる。五分ほどかけて二車線道路沿いに顔を出すと、まだ通りは閑散としていた。遠距離戦の間合いをとれる者に圧倒的な安心感を与える視界の広さからか、思わず押山が軽口を叩く。 「そもそも二車線道路を前後に移動していれば楽に勝てたんじゃないすかね」 「あいつらが十人まとめて襲いかかってきたらすぐ混戦になるぞ。条件に限らずまともに弾が当たる相手と思うな」  事実、勇はなにかどこかに底知れぬ怯えを感じていた。  どうにも妙に試合運びが良すぎる。こんな手堅く勝てる相手ではないはずだ。  寒気がした。急速にその可能性に思い当たったからだ。  やつらが距離を詰めるのに必ずしも地面を走る必要はない。  はっ、と振り返ると今まさに、高層建築物が立ち並ぶ区画を模した二車線道路沿いの屋根、実物の三階建て、いや四階建てはあろうかと思われる高台から敵がすさまじい助走とともに飛び込んでくるところだった。  残る敵はずっと高台から高台に移動していたのだ。 「押山、撃てえ!」  仰角を上にあげて敵を狙うも、公死園戦場を煌々を照らす電燈の逆光が彼らの実像を黒く覆い隠す。あてどなく放たれた弾は物量を尽くせどついに一発の判定ももたらすことなく空を切り、軽業師の技で軽妙に着地を果たした敵は、すでに刀身の間合いにまで近づいていた。 「くそっ!」  捨て台詞の代償は大きい。その一息で敵は軍刀を振って勇に迫った。やむをえず小銃を盾に用いる愚策をなんとか割って入り防いだのは、押山の軍刀。金属と金属がぶつかり高音を奏でて弾く。追撃は横薙ぎだったがこれも押山は未然に防いで鍔迫り合いの状態に持ち込んだ。軍刀装備を選んだのも伊達ではなかったらしい。  改めて間近で見ると敵の背丈は勇より頭一個分低かった。頑強な者が選ばれやすい硬戦の常道に反して、第一八高は体術に長けた者を選んでいると見える。すかさず勇も横に回って小銃にて援護を試みたが、相手の方が速かった。  ここで勇が見たものは二つ目の判断の誤りである。  勇の並外れた射撃速度よりもさらに上回るすばやさで敵は片手で腰――というより臀部――の拳銃嚢から引き抜いた硬式拳銃を押山の下顎に当て、引き金を絞った。  第一八高は意味もなく小銃装備を捨てたのではなかった。機動性を重視して拳銃と置き換えていたのだ。  硬式弾の直撃を食らい、痛みに苦しむ押山を敵は体格に似合わぬ膂力で引き倒して、放たれた銃弾の盾に用いる。勇の硬式小銃はそこで撃鉄が起き上がり、あえなく弾切れが宣告される。  ここで初めて戦況は対等と相成った。小銃を捨てて腰の拳銃を抜く勇――押山の身体を押しのけて拳銃を構える敵――二重に銃声が響く。  勇が一発撃つ間に相手は二発の硬式弾を放った。  初めてはっきりと見た名も知れぬ支那人は瞳孔が開いた獣の目をしていた。 <選手七番、仮想体力喪失、退場> <選手一番、仮想体力半減、残り五割>  勇は間近で放たれた硬式弾の痛みに顔を歪めたが、同時にそれは不敵な笑みでもあった。  頭部じゃない。  対する敵は尻もちをついて倒れ込んだ。鼻先に当たっては起き上がる気力もないだろう。  敵は残り三人。勇は痛みにうずくまる二人の装備を見て、小銃を投げ捨てた。押山も勇も主弾倉に残弾がほとんど残っていないのは明らかだった。代わりに電燈を受けて鈍く光る地面の模擬軍刀を拾いあげると、勇は通信の途絶えた味方を追うべく市街地の東側に潜っていった。 ---  爆撃を受けたかのような荒廃ぶりが目立つ東側の区画は、西側と比べて身を隠せる場所が少ない。高台はより少なく、二車線道路沿いの建築物を除いては狙撃が有効な箇所はほとんどない。その建築物も意図して配置されたのであろう瓦礫の山によって射線が通らず、結果としてこの一帯は近中距離戦を強いられる構造を成している。  人数差が有利などという発想はすでに捨てた。条件が揃えば敵は一斉に形成を逆転させる。終盤戦に入りつつある今、それは着実に満たされつつある。  主弾倉の弾切れだ。予備弾倉があっても交戦中なら交換の機会は連中へ決して与えない。予備弾倉がなければいっとう不慣れな拳銃や軍刀での戦いに持ち込まれ、立場がひっくり返る。市街地戦という今年度の演目を最大に活かした彼らの戦略は、表向きの勇ましさとは裏腹に冷徹な計算に裏付けられている。  そういう心積もりでいたから、勇は次第に高まる怒号や銃声の聞こえる方向へ急接近している最中も、最悪の事態を想定する準備をすることができた。  瓦礫の山を制して円形状にくり抜かれた空き地に辿り着くと、そこではすでに大方の決着がついていた。  地面に横たわる退場者はいずれも帝國実業の戦闘服を着た者ばかり。敵は一人。軍刀を片手にくるくると振って新たな獲物の到来に薄く笑みを浮かべている。  退場者との会話は規則違反ゆえ相手のやり口を知る余地はない。顔を見合わせてから三秒、四秒目にして、勇は意を決して拳銃を腰から引き放った。  曲芸の身のこなしで相手は二発の速射を難なくかわす。これ以上、撃っても浪費にしかならないと引き金を緩めた途端に敵はいきおい距離を詰める。  軍刀を振る。鍔迫り合いにはならず互いに薄い金属を弾き合って膠着を作らない。しかし激しい応酬の最中でも、勇は一度見た敵の共通の仕草を決して忘れてはいなかった。旺盛に刀身を薙ぐ傍ら、相手の左手が臀部の隠された拳銃嚢に回るのをしかと捉えた。この戦いでの勝敗を分けた要因は、実のところわずかな癖の差でしかなかったと言える。  どんなに剣術に慣れた実力者でも空いた手で他のなにかを掴もうとする最中に膂力が弱まらない人間はいない。勇は敵が拳銃を掴むか掴まないかの瀬戸際に前に踏み出て無理やり鍔迫り合いに持ち込んだ。突然の定石外しに眼前の相手はしたたかに姿勢を後傾させて、本来ならば絶対にとるはずのない敗着の足取りに自ら後退を余儀なくされた。  這わせた刀剣を強く弾くと、敵は防御を崩して胸元をがら空きにさせた。すかさずそこに切っ先を向けて突きを叩き込む。急所判定。人工音声が退場を報せる。敗北感と剣先に押し倒された相手は地面に尻をついた。  いま一度戦場に転がる味方を検めると、数は三人。やはり有利は覆されている。味方は残り三人で、敵は残り二人。勇の動揺を察知してか、敵の口元が嘲笑に歪む。 「副主将が逃げたやつを追いかけている。じきに戻ってくるだろうよ……次に倒れるのは貴様の番だ」 「”死人”が口を開くな」  不安を読まれた苛立ちからか、勇は冷徹に相手を一喝した。敵は立ち上がり勇を睨みつつも、両手を頭の後ろに回す退場用の姿勢をとって場を後にしようとした。  ところが、すぐそこから迫りくる剣戟の金属音に呼応して勇も敵もしばし動きが止まった。音は急速に大きくなり、聞き馴染みのある怒号さえ聞こえる。じきに姿を現したのは第一八高の戦闘服の背中。それをとてつもない猛攻で押すのは他でもないユンだった。 「おらぁ! どうした! お得意の回避術はよ!」  圧倒的な膂力に物を言わせたとめどない攻撃に、敵方の副主将と思われる相手は明らかに余裕を失っていた。後退する一方の剣戟は相手の実体力をみるみるうちに奪い去り、剣筋は衰え、勇が援護のために踏み出す頃には趨勢が決していた。ユンの得意とする大上段が防御の遅れた剣をすり抜け肩口に叩き込まれ、敵の副主将は尊厳の喪失からか、はたまた実際の苦痛からか膝を地面についた。すぐ後から、二年の椹木がかけつけてくる。 「遅えぞ。もうやっちまったよ」  ぎらついた目を辺りを見回すユンはまだ気力十分の顔つきで次の獲物を探っていた。副主将の敗北を目の当たりにして、退場姿勢を解きかけていた先ほどの敵に猛獣の眼差しが向けられる。敵は短く悲鳴を上げて頭部を後ろ手に回した。そこで、ユンは初めて勇の姿に気づいたようだった。彼は不満げに舌打ちをした。 「ちっ、もうお前がやったのか」  敵と副主将はともども、ユンの放つ威圧感に気圧されて後ずさりながら退場していった。まだ身体が痛むであろう味方も、ぞろぞろと立ち上がって残された三人に目線で応援の合図を送って場を後にする。 「なんだ、あとは俺だけか」  突然の声に三人が振り返ると、そこには臣民第一八高等学校硬式戦争部の主将――陳開一と名乗っていた――が堂々と立っていた。声を発するまで気配にさえ気づけなかった。  反射的に勇が拳銃を向けて撃とうとするが、陳は片手を出して制止を呼びかけた。 「無駄な真似はやめろ。弾は大切にとっておけ」  勇は引き金を引く気になれなかった。その発言がはったりでもなんでもない真実だと理解したからだ。 「自分、いきます!」  椹木が軍刀を両手に握って陳に迫った。対する陳は気だるそうな表情のまま身動きもせず、椹木の二年にしては十分に熟達した剣筋が自身を触れる寸前に、ごく最小限の動きでそれをかわした。ひゅんっ、と鮮やかに振られたすばやい刀身がつんのめった椹木の喉元を捉えた。実際の急所を打たれた椹木は地面にもんどり打って倒れた。喉を抑えて小刻みに震える椹木は退場よりもさらに過酷な苦痛を味わっているように見えた。 「次は二人でかかってきても構わんぞ」  軍刀をひと振りして気勢を整え、相変わらずの直立姿勢で二人を威圧する陳に勇は微笑む。 「そうしない理由などないからな」  勇とユンは一瞬の目配せの後に左右に別れて陳に向かった。  切り合ってすぐに、勇は陳が二本の刀を持っているのではないかと目を疑った。さながら千手観音のごとく――勇とユンの刀を片手の動きだけで捌いている。二人がかりで戦っている方がむしろ力んでいるせいで、たちどころに疲労感が募っていく。わずかに遅れた剣筋の隙を見抜けない陳ではなかった。  横薙ぎの一閃――勝負はそれでついたと確信した陳だったが、勇は寸前のところでそれをかわした。本能的な察知に近い。ユンもまた、続けて振られた追撃をかわす。不利を悟って後ずさった二人へ、陳は淡々と告げた。 「意外と骨があるな」  次に陳の口から放たれた言葉は勇をうろたえさせた。 「今日ほど仮想体力制を恨めしく思ったことはない……貴様だよ、葛飾勇。貴様のようなやつを思う存分打ちのめせないからな」 「ついにご贔屓までできたのか」  横のユンが息を荒らげながら囃し立てるも、陳は笑わない。 「おれがどうしたというんだ」 「報道を観た。不穏分子を身内から出しておきながらおめおめとこの晴れ舞台に姿を現すなど許しがたい」 「なんッ――!」  抗弁する余裕は与えられなかった。自ら一歩踏み出した陳の前進は地面に立っていながらにして空気を切り裂く機敏さを持ち合わせ、勇に向かって秒に三回の剣撃を浴びせた。すばやく、軽く、それでいて重い。  辛くも勇が受けきれている間に背後からユンが襲撃を試みるも、風のようにさらりと横に身を逃してやはりかわされる。再び正面に相対して刀を前に突き出す陳が、ひときわ大きい声を張る。 「貴様は一八だ。すでに成人している。なぜ弟の罪を贖って腹を切らない」  陳の滾った表情から、腹を切るというのがまさしく言葉通りの意味であることが察せられた。勇は始めはおずおずと、徐々にはっきりと答えた。 「おれは……判らない。なにが正しいのか間違っているのか。弟は本当に罪を犯したのか」 「この期に及んで見苦しい言い逃れを重ねるか。死を以て償えないのならせめて敗北の汚辱に塗れるがいい」  三度、陳の刀身が迫る。だが、それを切り返したのは勇ではなくユンの力任せの横薙ぎだった。陳も衝撃にたじろいで正面からは受けずに流して距離を取る。ユンは息も絶え絶えに言った。 「てめえ、さっきから聞いてりゃあ……他所の家の事情にいちいち口出すんじゃねえよ」 「他所の家の事情ではない。一人の不穏分子が一家を蝕み、やがて國體をも脅かすのだから」  勇は二人の応酬の最中、ユンの呼吸の調子が明らかに異常をきたしていることに気づいた。それを知ってか知らずか、ユンが言う。 「てめえはそんなことを考えて刀を振っているのかよ。いい加減に口を閉じろ。決着をつけようぜ」  勇が体勢を整える前にユンは陳に突進した。盛り上がる背筋から繰り出される怒涛の猛攻は頭一つどころか二つも低い陳を確実に追い詰めているはずだった。しかし、勇にはどうにもその剣筋は鈍く、剣撃を交わすたびに徐々に遅滞しているようにしか思われなかった。 「下がれ、ユン・ウヌ!」  駆け出して援護にかけつける勇のすぐ目の前で、ユンは我も忘れて決死の攻撃に専念していたが、ついに最後の時は訪れた。気力が衰えつつも決して敗着とは言い難いごくわずかな刃の嵐をくぐりぬけて、陳の滑らかな剣筋がユンの脇腹をかすめた。急所でもなんでもない一撃の直後に、ユンの身体が硬直する。彼は息を荒らげたまま、持ち上げた剣を下ろして腕を垂らした。 「くそっ、終わりか」  退場の間際、岩でできたかのようなごつごつの表情は「後は任せた」と無言で勇に告げていた。 「さあ、一騎打ちだ」  とうとう戦場には誰も味方がいなくなった。それは敵も同じ。たった二人の生き残りが敵を目前にしながら軍刀を構えて対峙する姿は、まこと仮想体力制度導入以来の公死園ではかつてない狂態として映っているに相違ない。  勇は言った。 「貴様は尻の拳銃を使わないのか」  一瞬、虚を突かれた陳の顔に笑みが浮かぶ。 「知っていたか」 「貴様と違って俺は主将に恥じぬ働きをした」 「そうか。ならば――」  軍刀を片手に両者は同時に拳銃を引き抜いた。最後の戦いの火蓋が切って落とされる。 ---  二人は互いに並行して歩きながら拳銃を撃ち放った。ダンッ、ダンッ、と重苦しい硬式拳銃の銃声の直後に風切り音が耳先をかすめる。共に一撃必殺のみを狙った射撃は張り詰めた神経の加速によってごくわずかに逸れ続け、八発の応酬を経ても髪の毛より内側に弾が当たることはなかった。ほぼ同時に、二人の拳銃の遊底が引き下がる。弾切れだ。拳銃を投げ捨てて軍刀で先に打って出たのは陳だった。  勇の刃がそれを受け止める。ぎりぎりと金属がひしめき合い、ここに初めての鍔迫り合いが実現する。当初の冷静な態度からは考えられない歯をむき出しにした陳の表情が間近に見えた。擦り切れた臣民第一八高等学校の刺繍に、よく見ればずいぶん着古して丈の余った戦闘服が視界に映る。  その目はやはり、瞳孔が開ききった獰猛なぎらめきを帯びている。  こいつら、まさか全員――  勇は力任せに押しのけて膠着を解いた。三尺の間合いで再び距離が空く。 「あいつは”はじめて”だったようだな。反動に慣れていない」 「そういう貴様らは常習者か。将来が惜しくないのか」  陳の顔に一筋の汗が垂れた。かすかにだが呼吸が荒くなっているのが間合いを取っていても判る。 「俺たちに将来などない。ここで勝たなければどうせ先は見えている」  いつぞやの、ユンの言葉が脳裏に蘇った。勇は軍刀をしかと握り直して構えた。 「それはおれとて同じだ。勝つことで正しさを証明する」 「抜かせ! 腹も切れぬ不穏分子の兄に正しさなどあるものか!」  振られた軍刀をここで初めて勇は受けずに身体を反ってかわした。がら空きの脇腹をめがけて剣撃を見舞う。が、さしもの軍刀集団の主将はそう簡単には切らせてくれない。すんでのところでかわされる。 「ハァッ……なるほど、意外に使うようだな……」  さらに一筋の汗を垂らす陳の姿を見て、勇は次の剣撃もかわせると確信を得た。事実、間をおかずに振りかぶられた剣筋の軌跡が克明に見えた。二撃目は余裕をもって切り返す。陳の表情に狼狽が宿った。シュッと刀の切っ先が戦闘服の余った布をちぎり取る。  自分が速くなっているのではない。  相手が遅くなってきている。もし陳が万全なら勇の剣術では三回受ける前に急所を貫かれていただろう。  怒声とともに繰り返される激しい剣戟も勝てるとまでは言わずとも負ける気配を感じさせない。ひたすら受け続けて、刻一刻と近づく陳の実質的な時間切れを待つことに勇は並ならぬ苛立ちを覚えつつあった。かといって、敵を一閃して試合を鮮やかに終わらせられるような剣術は勇にはない。  勇の手が半ば学習的に陳の揺らぎを捉えた。後退の遅れた太ももに下段の切っ先が命中した。再び、両者は磁石のように弾き合って距離をとる。 <選手二番、仮想体力二割減少、残り八割> 「もし、貴様が正しいと言うのなら――」  今や顔中に汗の粒をまとった陳が、息を切らせながら言う。 「――なぜ、俺の弟と父は死ななければならなかったんだ」  要領を得ない突然の質問に勇は戸惑う。 「なんの話だ」 「俺の弟は盗みで憲兵に斬り殺された。父はその咎を受けて自ら腹を切って死んだ!」  身体ごと迫って再度の膠着にぎりぎりと互いの刀身が震える。詰まった間合いで尚も陳が吠える。 「俺だって立派に切腹して死にたかったが、母に止められた。”お前はまだ幼い”と……後悔しなかった日はない。なのに、とうに成人の貴様が!」  疲弊した身ではありえない鋭さで剣が弾かれる。うろたえた勇の胴が空き、まともに身をよじる暇もなくすかさず剣先が脇腹を撫でた。その結果を冷徹に人工音声が伝える。 <選手一番、仮想体力三割減少、残り二割>  当然、相手にも同じ内容が伝わっている。陳は薄く笑った。 「どうだ。どこを打ってもあと一撃で貴様は終わりだ」  なんら痛みのないはずの脇腹を抑えて、勇は言う。 「同情はせんぞ。おれにはおれの理合いがあり、勝って守るべき尊厳と家族がいる。だが……」  同情はしない、と口に出して言ったことでかえって本音が漏れている理屈など、今の勇には理解する余裕がなかった。理解しているのは、次の剣戟が互いに最後だという確信。時間切れによる決着は両者ともに望んでいない。 「貴様とはいつか万全な時に相まみえたいものだ」  陳は鼻を鳴らして答えた。 「世迷い言を。おとなしく沈んで一族と命運を共にしろ」 「おれは太陽よりも高く飛翔するつもりだ」  最後は勇から仕掛けた。幾度も斬り結んで得た相手の挙動を彼は掴みつつあった。むろん、剣筋の理解には及ばない。長きに渡り剣術に身を費やした相手に俄仕込みの刀が通用する道理はない。ただ、どう押すとどう引いて、どう引くとどう押されるのかは判った。  押した後に押し返される、その間際に勇は身体を傾がせた。そこへつけこんで陳が旺盛に斬りかかる。二度、三度、四度、斬り合い、勇が横に刀を薙ぐと相手の位置がずれる。またぞろ押し合い、前進、後退。そうして、勇は狙った場所に辿り着いた途端、陳の猛攻によってついに気力を使い果たして、身体を地面に押し倒された。  機を得たと見た陳が仰向けに倒れた勇にのしかかる。首元まで迫る二振りの軍刀が鈍く光って金属音を嘶かせた。 「勝負あったな」  全身で息をしながら苦悶の表情を湛え、それでも勝利を確信した口元に向かって勇は言ってやる。 「またいずれ戦おう」  伸ばした右手に握られたのは、敵か味方か、どちらが落としたのかも判らない拳銃。一つ明らかなのは、遊底が引き下がっていない自動拳銃には最低一発以上の弾丸が込められているという事実だった。  拳銃の獲得に力を割いた代償に、めりめりと首元の表皮にめりこんでいく刃のない自らの模擬軍刀を御し、勇は引き金を陳の側頭部に向かって放った。よけようがない、ほとんど密着した状態での射撃によって眼前の敵は弾き飛ばされたかのように横に倒れた。 <選手二番、仮想体力喪失、退場>  副作用による過度の疲弊も相まってか、気絶した陳を勇は見て、それから電燈の反射に照らされる硬式拳銃を見た。遊底が引き下がっている。最後の一発だった。  もし「判定」などない本当の戦闘だったなら、勇もまた自らの刃によって喉元がえぐられて絶命していただろう。仮想体力制度が衝突を基準に採用しているおかげで、彼の仮想的な生命は徐々に押し当てられる刃に虚無の判定を返したのである。  試合終了の笛が鳴り響く。  同時に、消音されていた戦場内のスピーカーから司会の音声が流れてきた。決着の刻を見守っていた観客もここぞとばかりに声をあげる。だが、それらの声は歓声でも罵声でもなく、しとしととしたすすり泣きの連なりをなしていた。やがて荘厳な声で司会が言う。 「……みなさん、しかとご覧になられたでしょうか。選手自らの口によって語られる勝利への渇望、期待、一族の咎を背負って戦う勇姿――共に犯罪者の弟を持った長兄同士が、刀と刀で己の正義を証明せんとする気迫――そのどれもが、かつてない感動を我々にもたらしたと言って過言ではないでしょう……。しかし今、命運は決定づけられました! 巧みな戦術で相手を破り、辛くも栄光を手にしたのは――葛飾勇選手であります! 大和民族の誇り高き血統が、それでもまだ外地人に優れることを見事に証明してくれました!」  わああああああ、と一斉に円形の観客席から歓声と感涙の入り混じった大音声を鳴らした。今をもって人間、葛飾勇を不穏分子の兄と誹る者は一人もいそうには思われなかった。誰もが彼の戦いぶりに魅入られ、酔い、勝利の栄光を手にする大和民族の代表の地位を与えかねない勢いをまとっていた。 「昭和九八年度全国高等学校硬式戦争選手権大会の優勝校は、大阪、帝國実業高等学校です!」  さながら台風の目――司会も観客も、おそらくは地元の後援会も、ひょっとすると帝国じゅうの人々が壮大な感動物語に酔いしれている最中、その中心にただ一人いる勇の気持ちは、どこまでも冷たく醒めきっていた。  この戦いは、初めからおれのものじゃなかった。  喰まれている、と勇は思った。自分自身の人生、弟、家族、してきたこと、されてきたことが一つの演目を形成して、この瞬間、あらゆる人々に消費されている。そこでは勇自身ですら、舞台の上で滑稽に踊る役者でしかない。  間を置かず入場口の手前で開かれた授与式では、あれほど欲してやまなかった記念杯が毒々しく輝く忌まわしい足枷にしか見えなくなっていた。 「groteskだ」  ぽつり、と勇はつぶやいた。依然として意味は理解していなかったが、現状を現す単語としてこれ以上にふさわしいものはないと彼は直感した。 「お前、横文字なんて使えたのか」  隣のユンが反応を示す。 「ドイツ語だ、たぶん」 「なるほどな」  なにがなるほどなのか、と勇が問うと、ユンは遠くから観客の注目を浴びながら運ばれてくる記念杯を指差して言った。 「お前にどう見えているのか知らないが、おれにはあれは記念杯ではなく踏み台に見える」 「踏み台だと?」  驚いて横を向くと、ユンの衰えてもなお滾った表情が見えた。 「昔、死んだお袋がおれによく絵本を読ませた。なんとかして学を身に着けさせようとしたんだろうな……そいつは無駄骨だったわけだが、その中に、手に入れた翼で太陽に近づきすぎて死んだやつの話がある」  全身で荒く息を弾ませながら彼は話し続ける。 「おれはずっと考えていたんだ。この国とそっくりじゃねえか……と。おとなしく地に伏しているうちは暖かさを感じる時もあるが、近づくと焼き払おうとする」  観客席の至るところで大小の日の丸が振られ、辺り一面に白と赤の乱雑な模様が波打っている。記念杯が近づいてくる。 「だが所詮、国は人でできてるもんだ。壊せないということはない。だから、おれが燃やされるか、おれが燃え尽きる前に太陽を手に入れられるか、そういう戦いをしているんだ」  滔々と語るユンを見て、こいつはまだヒロポンに酔っているんじゃないか、と勇は思った。けれども今の勇にはユンがただの妄想を言っているようには思われなかった。帝国じゅうに啄まれた自身の物語の中で、それはいっそう魅力を帯びて聞こえた。 「おれは、おれを侮辱した連中を絶対に許さない。たとえ何年かかっても……」  ユンと目が合った。瞳孔の開ききった目が、恒星をも飲み込むとされる宇宙の黒く虚ろな天体を思わせた。その瞬間、勇はあの夜に彼が並べていた人名の一覧が、どのような意味を持っているのか悟った。 「なるほどな」  勇もユンと同じ反応を示した。 「それが、お前の目標だったのか」 「これでおれたちはめでたく幹部候補生待遇で徴兵だ。その後、おれは軍人になる。あれはそのためになんとしても欲しかった踏み台だ」  記念杯が目前に迫ってきた。観客の注目が記念杯から横一列に並ぶ帝國実業の選手たちへ向けられる。勇の目には、記念杯が高速で入れ替わって見えた。自身の家族の尊厳を回復させる希望か、演目上の自身の役割を定める忌まわしき足枷か、それとも、踏み台か。踏み台で飛んだ先には太陽がある。  手にする記念杯は変わらないが、どの態度で受け入れるべきか勇は吟味した。その瞬間に、自分の将来が決定すると思った。  名も知らぬ初老の男性が公死園の関係者から恭しく記念杯を受け取り、わずか十数歩に満たない道のりをのろのろと歩いて勇の方へと向かう。一歩歩むごとに大きな記念杯の輝きが戦場の電燈を乱反射して、目に光が入るたびに三つの解釈が交互に入れ替わる。 「なあ、ユン」  勇は主将として、記念杯を受け取るにふさわしい直立の姿勢を保ち、目は名も知らぬ初老の男性に合わせたまま、横のユンに言った。 「おれにも踏み台が見えた」  ついに目前に初老の男性が辿り着いた。観客という観客、カメラというカメラが勇を観ている。帝国じゅうが観ている。差し出された記念杯を、勇は今にもむせび泣きそうな顔をして慇懃に受け取った。近場でも遠くでもカメラのシャッターが切られる音がぱちぱちと鳴って、自分自身が光に包まれたように感じた。  昭和九八年八月、帝国臣民を比類なき感動にもたらした歴史的な夏の公死園決勝戦の裏で、ひそかに革命の火が灯された。老いさばらえた帝国の乾いた皮膚に塗られた一縷の脂へ灯された火は、ゆっくりと、しかし着実に炎として広がり、やがてその臓腑と骨をもことごとく燃やし尽くすであろう。 了