diff --git a/content/post/論評「ヒトラーのための虐殺会議」:流血なき血生臭さ.md b/content/post/論評「ヒトラーのための虐殺会議」:流血なき血生臭さ.md index c1d965a..7e63cbd 100644 --- a/content/post/論評「ヒトラーのための虐殺会議」:流血なき血生臭さ.md +++ b/content/post/論評「ヒトラーのための虐殺会議」:流血なき血生臭さ.md @@ -74,7 +74,7 @@ tags: ['movie'] ## おわりに 本作を通じてつくづく思い知らされたのは「理解できる恐怖」だ。「理解できないからこそ怖い」との意見もあるが、僕の見解は違う。心の底からみじんも共感を抱かない存在は簡単に他者化、切断処理化できるため、もはや意識の内側に入ってくることはない。自己の認識が侵犯される恐れ自体が生じないのである。 -他方、本作の彼らは違う。直情的で理屈を軽んじる連中に道理を説く苦労も、むやみに規則を振りかざす石頭を懐柔する苦労も、そこそこ長く生きていれば一度か二度は経験する。自分が正しかろうと正しくなかろうと責務ならば対応しなければならない。利害関係者の了解を得なければいつまでも前に進めないのだから。 +他方、本作における彼らの営みは我々とそう離れてはいない。直情的で理屈を軽んじる連中に道理を説く苦労も、むやみに規則を振りかざす石頭を懐柔する苦労も、そこそこ長く生きていれば一度か二度は経験する。自分が正しかろうと正しくなかろうと責務ならば対応しなければならない。利害関係者の了解を得なければいつまでも前に進めないのだから。 そうして一つ一つ障害をやっつけるたびに、清濁併せ呑んでいるつもりの自分が一番危ういのではないかとも感じる。本来ならもっと時間をかけて検討すべき課題をおざなりにしてしまっているのではないか。本質的な事柄から目をそらしているのではないか。そもそも解決したと思い込んでいるだけではないか……。なにもこれは仕事にかぎった話ではない。