diff --git a/content/post/test.md b/content/post/星新一をくれたお巡りさん.md similarity index 90% rename from content/post/test.md rename to content/post/星新一をくれたお巡りさん.md index 9ff430d..63d93f0 100644 --- a/content/post/test.md +++ b/content/post/星新一をくれたお巡りさん.md @@ -1,19 +1,19 @@ --- title: "星新一をくれたお巡りさん" -date: 2024-07-09T10:28:26+09:00 -draft: true +date: 2024-07-10T19:51:26+09:00 +draft: false tags: ["diary"] --- -2003年のある夏の日。僕はいつものようにハードカバーの本を読みながら下校していた。人も建物もまばらな田舎町の通学路は足が覚えている通りに歩き続けるだけで家に着く。時折、足の裏に意識の一欠片を分け与えると、じきにその足が土くれを踏んでいる感触を伝えてだいたいどの辺りを歩いているかが分かる。道中に道路が未舗装の区間があるため、そこまで来れば半分は歩いたことになる。 +2003年のある夏の日。僕はいつものようにハードカバーの本を読みながら下校していた。人も建物もまばらな田舎町の通学路は足が覚えている通りに歩き続けるだけで家に着く。時折、足の裏に意識の一欠片を分け与えると、じきに靴底が土くれを踏んでいる感触を伝えてだいたいどの辺りを歩いているかが分かる。道中に道路が未舗装の区間があるため、そこまで来れば半分は歩いたことになる。 -たとえ東北の寒村であっても夏は蒸し暑い。6時間授業を終えた後でも、未だ空高く昇りつめた太陽がじりじりと首筋を焼き焦がして汗腺を刺激する。してみると、これはずいぶん不公平な話に思える。どこもかしこも暑いのだから東京の子たちと同じく夏休みが8月31日まで続いてもいいではないか。だが、事前に配られた冊子は今年も例年通り僕たちの夏休みが遅く始まり、より早く終わる過酷な事実を容赦なく告げてきた。 +たとえ東北の寒村であっても夏は蒸し暑い。6時間授業を終えた後でも、未だ空高く昇りつめた太陽がじりじりと首筋を焼き焦がして汗腺を刺激する。してみると、これはずいぶん不公平な話に思える。日本中どこもかしこも暑いのだから東京の子たちと同じく夏休みも8月31日まで続いてもいいではないか。だが、事前に配られた冊子は今年も例年通り僕たちの夏休みが遅く始まり、より早く終わる過酷な事実を容赦なく告げてきた。 -かといってそのぶん冬休みが東京の夏休み並に長くなるわけでもない。冬は冬で窓という窓が積雪に覆われていようとも、屋根の雪かきに駆り出されようとも断じて長い休みにはならない。良いところがあるとしたら自転車で行ける距離に小学生無料の市営スケートリンクがあること、そして僕は自分のスケート靴を持っているのでレンタル料金もかからないことぐらいだ。 +かといってそのぶん冬休みが東京の夏休み並に長くなるわけでもない。冬は冬で窓という窓が積雪に覆われていようとも、屋根の雪かきに駆り出されようとも断じて長い休みにはならない。良いところがあるとしたら自転車で行ける距離に小学生無料の市営スケートリンクがあること、そして僕は自分のスケート靴を持っているのでレンタル料金がかからないことぐらいだ。 -その時、額から垂れた汗がぽつり、と紙面に落ちた。自分の顔で影が差している薄暗い紙の上に、さらに階調の濃い灰色の点描がぽつ、ぽつと穿たれる。いけない、これは図書館で借りた本だ。汚したら怒られる。半袖のほとんどない袖を無理に引っ張って額の汗を拭く。まだ遠い冬の氷上を想像しても夏の暑さはごまかせない。 +その時、額から垂れた汗がぽつり、と紙面に落ちた。自分の顔で影ができた薄暗い紙の上に、さらに階調の濃い灰色の点描がぽつ、ぽつと穿たれる。いけない、これは図書館で借りた本だ。汚したら怒られる。半袖のほとんどない袖を無理に引っ張って額の汗を拭く。まだ遠い冬の氷上を想像しても夏の暑さはごまかせない。 -こんな田舎の通学路にもいくつか自販機があるとはいえ、一円もお金を持たない身分の僕には読めない文字で書かれた石板よりも価値がない。制服を着た中学生か高校生の子たちが得意げに小銭をじゃらじゃら言わせながら、いかにも甘くて美味しそうな冷えたジュースで喉を潤している様子を素直に羨ましいと思っていたのも昔の話だ。今や自販機も、中高生の子たちも、自分にとっては無用な申しわけばかりの田舎の建物も、すべてが平坦な一枚板の背景に溶け込んでいった。 +こんな田舎の通学路にもいくつか自販機があるとはいえ、一円もお金を持たない身分の僕には読めない文字で書かれた石板よりも価値がない。制服を着た中学生か高校生の子たちが得意げに小銭をじゃらじゃら言わせながら、いかにも甘くて美味しそうな冷えたジュースで喉を潤している様子を素直に羨ましいと思っていたのも昔の話だ。今や自販機も、中高生の子たちも、申しわけばかりの建物も、すべてが平坦な一枚板の背景に溶け込んでいった。 だから僕は、歩きながら本を読んでいる。どうせ手に入らないのなら作り話の方がよほど面白い。僕にとっては百円玉も、まだ見ぬ異国のポンド硬貨も、現実には存在しないシックル銀貨も、面白いか面白くないかの差しかない。シックル銀貨はポンド硬貨より面白く、ポンド硬貨は百円玉よりはたぶん面白い。