diff --git a/content/post/夏の公死園.md b/content/post/夏の公死園.md index 9867eac..d12b8d1 100644 --- a/content/post/夏の公死園.md +++ b/content/post/夏の公死園.md @@ -397,7 +397,7 @@ tags: ['novel'] 「なんか寝言を言ってますよ」 「ご飯が冷めるから後で起こしてやってね」  洗面所で洗顔を済ませた後、言われた通りに階段を上って部屋に戻った。横たわるユンに呼びかけるも、ろくな反応がない。今日は公死園の決勝だというのにだらしのないやつだ、と思って肩を掴み、そこで勇は初めて異変に気づいた。 - まるで大雨に打たれたみたいに全身がびしょ濡れになっている。それに、信じられないほど熱い。あわてて身体を引き起こすとユンの顔はかつてないほどの苦痛に歪んでいた。 + まるで大雨に打たれたみたいに全身がびしょ濡れになっている。それに、信じられないほど熱い。あわてて身体を引き起こすとユンの顔はかつてないほど憔悴しきっていた。 「おい、ユン、どうした」  紫色の唇がわずかに動いてやがてぼそぼそと言葉を発した。 「歯が……歯が痛くてしょうがねえ」 @@ -408,65 +408,65 @@ tags: ['novel']  病院、という言葉に反応したのか彼の目が薄く開いて睨んだ。 「病院だと……そんな金が家にあるかよ」 「行って頼み込んだらなんとかしてくれるかもしれない。さあ、立て」 - 肩を貸してなんとか立ち上がらせたユンを階下に連れ出すのは相当に苦労した。下で待っていた彼の祖母に事情を説明すると、とてもうろたえた様子で「病気なんて三つの頃にしたきりだったのに」と言い、部屋の隅の箪笥から数枚の紙幣を手渡された。「これでなんとかなるといいけど」 - 畳にユンを一旦横たえてから、勇は部屋に戻って手早く着替えを済ませた。戦闘服を着込むのには時間がかかるので父に手渡された旅行鞄の中から適当に選ぶ。受け取った紙幣を財布に入れてもはや階段の具合に構わずどたどたと下りて、ユンを起き上がらせる。「自転車の後ろに乗れそうか」と尋ねると彼は呻きながら頷いた。 - 岩の間から産まれたような頑強な男がこれほど弱っているさまはにわかには信じがたかった。祖母の助けも借りてなんとか彼を自転車にまたがらせると、勇も乗って彼の両手を自分の腰に掴ませる。二両をゆうに越える重みが自転車の駆動を妨げたが、それでもなんとか走り出して二人は近場の病院に急いだ。 - 見通しのよい二車線道路沿いに出て歯科を探すと、鶴橋駅から歩いて十数分のところにこじんまりとした医院が見つかった。普通なら自転車で五分とかからないが後ろにユンを抱えた身ではそうもいかない。二倍近い時間をかけて自転車を押すように漕いで自動扉の前にたどり着いた。意識が覚醒しつつあるユンに肩を貸して、どんどんと扉を叩いて声を張り上げる。 + 肩を貸してなんとか立ち上がらせた巨大なユンを階下に連れ出すのには相当な苦労を要した。下で待っていた彼の祖母に事情を説明すると、とてもうろたえた様子で「病気なんて三つの頃にしたきりだったのに」と言い、部屋の隅の箪笥から引き出した数枚の紙幣を手渡された。 +「これでなんとかなるといいけど」 + 畳にユンを一旦横たえて勇は部屋で手早く着替えを済ませた。戦闘服を着込むのには手間がかかるので父に手渡された旅行鞄の中から適当に普段着を選んだ。受け取った紙幣を財布に入れ、もはや階段の具合になど構わずどたどたと下りてユンを起き上がらせる。「自転車の後ろに乗れそうか」と訊くと彼は呻きながら頷いた。 + 岩の間から産まれたような頑強な男がこれほど弱っているさまはにわかには信じがたかった。祖母の助けも借りてなんとか彼を自転車の荷台にまたがらせると、勇も乗って両手を自分の腰に掴ませる。二両をゆうに越える重みが自転車の駆動を妨げるも、力任せに走り出して二人は近場の病院に急いだ。 + 見通しのよい幹線道路沿いに出て歯科を探す。普通なら一〇分とかからずに病院の一軒や二軒は見つかるはずだが、後ろにユンを抱えた身ではそうもいかない。二倍近い時間をかけて自転車を押すように漕ぎ、なんとか小さな医院の前にたどり着いた。意識が混濁しているユンに肩を貸して、激しく扉を叩いて声を張り上げる。 「急患です! 誰か、誰か!」 - まもなく透明な扉の奥から当直の看護婦が現れて解錠した。 -「一体なんなんです、救急窓口はこの敷地の後方ですよ」 + まもなく透明な硝子の奥から当直の看護婦が現れて自動扉の鍵を解錠した。 +「いきなりなんなんです、救急窓口は敷地の後ろですよ」 「こいつの歯がひどいんです。色が黒く変わっていて、熱も出てて」 「ここは歯科じゃありませんよ」 - 呆れかけた看護婦の眼差しは、勇がぐいとユンの唇を押し広げた途端に色をなして変わった。「外科の先生を呼んできます。ここで待っていてください」と告げると、廊下に向かって駆けていき、ややあってよれた白衣を着た白髪の医者を連れて戻ってきた。 -「これはひどいな。化膿の切除……抗生物質もいるな……だが」 + 呆れかけた看護婦の目は、勇がぐいとユンの唇を押し広げた途端に色をなして変わった。「外科の先生を呼んできます。ここで待っていてください」と言うと、廊下に向かって駆けていき、ややあってよれた白衣を着た医者を連れて戻ってきた。 +「これはひどいな。だいぶ膿んでいる……抗生物質もいるな……だが」  白髪の目立つ初老の男性はちらりとユンと見やる。 「君ら、鶴橋の方から来たのか。申し訳ないが、臣民保険証は持っているか」 -「おれはあります。けど、ユンは……」 +「俺はあります。けど、ユンは……」  横で抱えられながら話を聞いていたユンが皮肉めいた笑いを漏らした。 -「んなもん持ってるわけねえだろ……」 +「アホか。んなもん持ってるわけねえだろ……」 「となると、実費で払ってもらうことになるな」 - 途端に、医者の眼差しが険しくなる。勇は勝手も解らず尻のポケットから片手で取り出した財布を手渡して言った。 + 医者の眼差しが険しくなる。勇は尻の衣嚢から片手で取り出した財布を手渡して言った。 「こいつの祖母からもらったお金が入っています。これでどうにか」  医者は受け取った財布の中身を改めて、さらに険しい顔をした。 -「君、こんなんでは薬代も出ないよ。申し訳ないが他を当たってくれ」 - 白髪頭を手でがりがりと掻いて、踵を返す医者を勇は目で追うしかなかった。看護婦の方は名残惜しい表情でこちらをちらちらと見ていたが、じきに医者の後に続いた。 +「はあ、君、こんなんでは薬代も出ないよ。申し訳ないが他を当たってくれ」 + 白髪頭を手でがりがりと掻いて踵を返す医者を、勇はただ目で追うしかなかった。看護婦の方は後ろ髪を引かれた様子でこちらをちらちらと見ていたが、じきに医者の後に続いた。  金……金がいる……今すぐに! - ほとんど反射的な動作でズボンのポケットをまさぐると、手の先が紙片に触れた。ぐい、と引っ張り出すと、地方銀行の社章が刻印されたくしゃくしゃの封筒が出てきた。 - これは、父からもらったご褒美だ。あの時のズボンがたまたま旅行鞄に入れられていたのだ。 + ほとんど反射的な動作で下服の手前の衣嚢をまさぐった。すると、指の先が紙片に触れた。ぐいと引っ張り出すと地方銀行の社章が刻印されたくしゃくしゃの封筒が出てきた。 + これは、父からもらったご褒美だ。あの日に着ていた下服がたまたま旅行鞄に入れられていたのだ。 「待ってください!」  勇は躊躇なく叫んだ。歩を止めて振り返る医者に印籠のごとく封筒を突き出す。 -「金なら、ここに十萬円あります。いくら使ってもらても構いません。だから、こいつを――今すぐに――」 - 金があると判ると医者は機敏に動いた。すぐさまユンの空いている肩に手を回して力強く手術室に先導した。看護婦になんらかの指示を飛ばして、速やかに歯茎の手術が行われる。先ほど言っていた「切除と抗生物質」の治療が済むまでには三十分とかからなかった。手術室から出てきた医者に目を合わせると、彼は苦々しげに言った。 -「一応、手当ては受けていたようだがひどいものだね。よほど手を抜かれたのだろう。幸いにも余計に歯は抜かずに済んだ。抗生物質を打ったから数日で良くなる」 - ほっ、と胸をなでおろしたのも束の間、数日という単語が勇を現実に引き戻した。 -「助かりましたが、数日ではなく今日、なんとかなりませんか。おれもあいつも公死園に出るんです。今日が結晶です」 - 医者は驚いた顔をして、しかし納得したふうに顎をさすった。 -「公死園――なるほど、君ら硬戦の選手か。だからあんな怪我を……。だが、無理を言われても困るな。治療は済んでも彼はいま相当にしんどいはずだ」 -「そこをなんとか、なんとかなりませんか。今日、勝たなければだめなんです。あいつが分隊にいなければおれは――」 - もはや自分の都合を隠し立てもせず押し通して、勇は医者に頼み込んだ。固いゴム弾で何度撃たれても萎えなかった己の肉体が、今にも崩れ落ちそうに震えて嗚咽さえ漏れ出ていた。 - 医者はしばらく押し黙っていたが、ややあって口を開いた。 +「金なら、ここに十萬円あります。いくら使ってもらっても構いません。だから、こいつを――今すぐに――」 + 封筒を確かめた医者の働きは目覚ましかった。すぐさまユンの空いている肩に手が回され、力強く手術室に運び入れられる。看護婦になんらかの指示を飛ばして、歯茎の化膿を切り取る治療がすみやかに実施された。小一時間後、手術室から出てきた医者に目を合わせると、彼は苦々しげに言った。 +「一応、手当ては受けていたようだがひどいものだね。よほど手を抜かれたのだろう。幸いにも余計に歯は抜かずに済んだ。抗生物質を打ったから一、二週間で良くなる」 + ほっ、と胸をなでおろしたのも束の間、一、二週間という単語が勇を現実に引き戻した。 +「本当に助かりました。ありがとうございます。……ですが、今日、なんとかなりませんか。俺もあいつも公死園に出るんです。今日が決勝です」 + 医者は驚いた顔をして、しかし納得したふうに顎髭をさすった。 +「公死園――なるほど、君ら硬戦の選手か。だからあんな怪我を……。だが、無茶を言われても困るな。治療は済んでも彼は相当に辛いはずだ」 +「そこをなんとか、なんとかなりませんか。今日、勝たなければだめなんです。あいつが分隊にいなければ俺は――」 + もはや自分の都合を隠し立てもせず勇は医者に頼み込んだ。硬式弾で何度撃たれても萎えなかった己の身体が、今にも崩れ落ちそうに震えて嗚咽さえ漏れ出ていた。 + 医者はしばらく押し黙っていたが、やがて口を開いた。 「決勝、ということは今日が最後の試合だね?」 - 質問の意図が掴めないままうなずいた。医者は続きを答えず手術室の扉を押し開き、ついてくるように指示した。 - 手狭な手術室の寝台に横たわるユンは、勇の姿を認めた途端にもごもごと口を動かした。まだしゃべりづらそうだ。 -「勇、おえは……」 - 医者は備え付けられた棚から薬品を取り出して、真上から注射針を突き刺した。指の動きに合わせて透明な液体がずるずると注射器に吸い取られていく。 + 質問の意図が掴めないままうなずいた。医者は続きを答えず手術室の扉を押し開き、ついてくるように手で示した。 + 手狭な手術室の寝台に横たわっていたユンは、勇の姿を認めた途端にもごもごと口を動かした。 +「勇、おれは――」 + 医者は壁に備え付けられた棚から薬品の小瓶を取り出して、真上から注射針を突き刺した。指の動きに合わせて透明な液体がずるずると注射器に吸い取られていく。 「それは一体なんなんです」 - なんとなく不審さを覚えた勇が尋ねると、彼は神妙に答えた。 + なんとなく不審さを覚えた勇が尋ねると、彼は静謐に答えた。 「Methamphetamin……巷ではヒロポンと言う。本来は前線の兵士に配られる代物だが……明日からはきっちり休むというのならこいつを処方してやろう」 - ヒロポン。聞いたことがある、と勇は記憶を掘り起こした。昔は合法だったが、中毒症状のあまりの強さに現在では帝國軍人でなければ買えない薬だ。不良学生が帰国した負傷兵と結託してヒロポンを入手しているとの噂をよく耳にする。数時間持続する痛みや不安からの解放の後、使用者はさらに厳しい苦しみを背負う。耐えきれず、その苦痛をさらにヒロポンの快楽で補おうとした一部の者には地獄が待っているという。 - 勇が言い淀んでいると、横からユンが弛緩した口元を懸命に動かして叫んだ。 -「うってくえ、早く」 - 遅れて、勇も言う。 -「頼みます、打ってください。おれたちは勝たなければならないんです」 - ヒロポンを吸った注射針がユンの肩口にめり込んだ。液体が身体の中に入っていくたびに胸が苦しくなっていくかのようにシャツを鷲掴みにしていたユンだったが、しばらくするとだんだんと顔が赤く頼もしく紅潮しはじめた。紫に染まっていた唇がみるみるうちに元の色に戻っていく。 + ヒロポン。名前はよく知っている。勇はうろたえた。昔は合法だったが、中毒症状のあまりの強さに現在では帝國軍人でなければ買えない薬だ。不良学生が帰国した負傷兵と結託してヒロポンを売りさばいているとの噂を耳にしたことがある。数時間持続する痛みや不安からの解放の後、使用者はさらに厳しい苦しみを背負う。耐えきれず、その苦痛をさらにヒロポンの快楽で補おうとした一部の者には際限のない地獄が待っているという。 + 勇が尻込みをしていると、横からユンが口元を懸命に動かして叫んだ。 +「構わねえ。打ってくれ、早く」 + 遅れて、勇も追認する。 +「頼みます、打ってください。俺たちは今日、勝たなければならないんです」 + うなずいた医者が注射針をユンの肩口に刺し込んだ。液体が身体の中に入っていくたびに胸が苦しいのか肌着を鷲掴みにしていたユンだったが、注入が終わると顔が血色良く紅潮しはじめた。紫に染まっていた唇がみるみるうちに元の色に戻っていく。  彼は寝台から基礎練の動作の要領で跳ね起きて床に着地した。 -「行くぞ、早く敵を撃ちたくて仕方がねえ」 - その目は瞳孔が他を圧倒して広がり、まるで猛獣のように爛々とぎらついていた。 - +「ははは、やべえ」 + ユンは一言だけ、そう言って勇に笑顔を振りまいた。 + その目は瞳孔が他を圧倒して拡がり、まるで猛獣のように爛々とぎらついていた。 --- -  会計を代理した看護婦から手渡された領収書によると、まるでヒロポン代で帳尻を合わせたかのようにぴったり十萬円が徴収されていた。下には赤文字で『緊急ヲ要スル事態ニ附キ除倦覺醒劑ヲ処方ス』と記されてあった。自動扉の前で深々とお辞儀をしてから帰り道もユンを後ろに乗せて行こうとすると、彼は目の前で屈伸を始めて徒競走の構えをとった。 「おれは走って家に帰る。準備運動の代わりだ」  勇が自転車に乗りきらないうちにユンはついさっきまで病人だったとは思えない加速で大通りを駆け抜けていった。呆気にとられた勇も遅れて後を追おうとしたが、かなり真面目に漕いでも初速で距離を開けられたユンに追いつくのにはかなり時間がかかった。人通りがほとんどない歩道を独占して、二人並んで並走しながら勇が隣の彼に向かって叫ぶ。