From 194bad4f65c7a665d4c2ede32a35c559533777bd Mon Sep 17 00:00:00 2001 From: Rikuoh Date: Tue, 5 Sep 2023 15:59:01 +0900 Subject: [PATCH] =?UTF-8?q?=E6=AE=BA=E3=81=99=E3=83=AA=E3=82=B9=E3=83=88?= =?UTF-8?q?=E3=81=AB=E3=81=A4=E3=81=84=E3=81=A6?= MIME-Version: 1.0 Content-Type: text/plain; charset=UTF-8 Content-Transfer-Encoding: 8bit --- content/post/夏の公死園.md | 14 +++++++++++--- 1 file changed, 11 insertions(+), 3 deletions(-) diff --git a/content/post/夏の公死園.md b/content/post/夏の公死園.md index 3034f78..8a63757 100644 --- a/content/post/夏の公死園.md +++ b/content/post/夏の公死園.md @@ -369,13 +369,21 @@ tags: ['novel']  予想通り、ほとんど間を置かずに彼の祖母が階下から二人を呼んだ。階段を危なげに下りて居間に行くと、畳の上のちゃぶ台にすでに夕飯が用意されていた。やたら大きい米びつに入った大量の雑穀米と、鍋いっぱいのわかめの汁物、朝鮮漬け、牛肉の和え物などが台の上を埋め尽くしている。日本人には不慣れな朝鮮人の家庭料理だが、家に来るたびに振る舞われるので勇にとってはすっかり馴染み深い味になっていた。なにしろ量が多く執拗におかわりを勧められるので、昼飯時に行くと育ち盛りの勇でさえ夕飯がいらなくなるほどだ。  そんな光景を見てユンは「金はねえがとにかくメシはあるからデカくなれた」と、普段は家の文句ばかりなのにここぞとばかり自慢するのだった。  ところが今日の彼は様子がおかしかった。「もっと食え」と勇におかわりを勧める割には、自分の丼ぶりの中身は一向に減っていない。いつもは大きい米びつが空になるほど食べるのにまだ半分も残っている。隣で甲斐甲斐しく米をよそってくれるユンの祖母もすぐに気がついて「あんた、全然食べないねえ」と訝しんだ。対する彼はただ「うるせえな、食い飽きたんだよ」と買い言葉を口にして、とうとう一杯分の丼ぶりをなんとか空にしただけで夕食を終えてしまった。 - 旧式のバランス釜で沸かされた風呂から順番に勇が出てくると、まだ九時にもならないうちに「おれは寝る」と言って灯りをつけたまま万年床の布団に仰向けになって寝転がった。客人の立場で無駄に電気を消耗するのも気が咎めた勇は、父に様子を尋ねる電文を打ってから灯りを消した。入浴の間にユンの祖母が隣に敷いてくれたのであろう布団に横たわると、窓から入り込む夜の商店街の電燈が赤青緑にちかちかと薄く光って部屋の至るところを照らすのが見えた。 + 旧式のバランス釜で沸かされた風呂から順番に勇が出てくると、まだ九時にもならないうちに「おれは寝る」と言って灯りをつけたまま万年床の布団に仰向けになって寝転がった。客人の立場で無駄に電気を消耗するのも気が咎めた勇は、父に様子を尋ねる電文を打ってから灯りを消した。入浴の間にユンの祖母が隣に敷いてくれたのであろう布団に横たわると、窓から入り込む夜の商店街の電燈が赤青緑にちかちかと薄く光って部屋の至るところを照らすのが見えた。 + 規則的に繰り返される点滅を見ながら、勇は公死園のことを考えた。 + 即興で身につけられた回避術一つで軍刀の手練とまともに戦えるだろうか? + 硬式弾を全身に浴びるのは痛いけれども、仮想体力制を失ってあっけなく退場させられる際の無力感はやるせない。たとえ身体が万全でも、痣一つ付かなくても、電子的に衝突判定が認識されれば試合の中の自分は死んだことになる。その瞬間、固く緊張を保っていた全身の力が砂を抜いた土嚢袋のように萎びて、敗北の味が広がっていく。 + 硬式弾に何十発も耐えられる恵まれた身体には、精神の敗北がよりいっそうの苦々しさをもらたしめるのだ。 + 早く眠ろうと意志を固めて寝返りを打つと、ユンが寝言を言っているのが聞こえた。最初は判別が付かなかったが、じきに人名の羅列だと判った。 + それは一定の周期性を伴っていた。最初に、監督の名前。その後に、勇には知らない名前が延々と続く。たまに、もう卒業した帝國実業の先輩や、あまり接点はない同級生の名前もいくつか読み上げられる。勇の名前はなかった。 + 一体これはなんの一覧表なのだろうか、と疑問に思っているうちに、だんだんと寝言は薄れていって寝息に置き換わった。 + 乱雑な部屋に似つかわしくない光と人名の規則性が、皮肉にも不安を抱える勇を緩慢な眠気へと導いた。 --- - あれほど不安を抱えていたのに身体は半ば機械的に眠り、然るべき時間に覚醒した。時計を見なくても今が午前五時前だと判る。夏の気が早い太陽の光が差し込んで、褪せた焦げ茶色の天井にここが自室でないことを知らされる。功は今頃どうしているだろうか。逮捕されたからには、拘置所かどこかで同じように褪せた天井を眺めているのだろうか。男のくせに女みたいにきれい好きで日に二度も風呂に入りたがる弟が、拘置所の暮らしに耐えられるとは兄の勇には思えなかった。 + 己の事情とは関係なく身体は半ば機械的に眠り、然るべき時間に覚醒した。時計を見なくても今が午前五時前だと判る。夏の気が早い太陽の光が差し込んで、褪せた焦げ茶色の天井にここが自室でないことを知らされる。功は今頃どうしているだろうか。逮捕されたからには、拘置所かどこかで同じように褪せた天井を眺めているのだろうか。男のくせに女みたいにきれい好きで日に二度も風呂に入りたがる弟が、拘置所の暮らしに耐えられるとは兄の勇には思えなかった。  父と母の動向も気がかりだった。今頃、職場は父にどんな処罰を課すか検討している頃合いだろう。母も実家から連絡があったに違いない。高校生の勇にはいまいち想像しがたい社會の動きだが、いずれにしてもこれ以上はないというくらい最悪の事態が浮かんでは消えた。  勇は寝言だか呻き声だかよく判らない声をあげて横たわるユンを尻目に、勝手知ったる他人の洗面所を使うために階下へと下りた。例の小さいちゃぶ台には、やはりもう大量の朝食が用意されている。階段の軋む音を聞いたユンの祖母に挨拶されたので礼儀よく返す。 「ウヌはまだ起きてこないのかい」 @@ -437,7 +445,7 @@ tags: ['novel']  医者は備え付けられた棚から薬品を取り出して、真上から注射針を突き刺した。指の動きに合わせて透明な液体がずるずると注射器に吸い取られていく。 「それは一体なんなんです」  なんとなく不審さを覚えた勇が尋ねると、彼は神妙に答えた。 -「methamphetamin……またの名を、ヒロポンと言う。本来は前線の兵士に配られる代物だが……明日からはきっちり休むというのならこいつを処方してやろう」 +「Methamphetamin……巷ではヒロポンと言う。本来は前線の兵士に配られる代物だが……明日からはきっちり休むというのならこいつを処方してやろう」  ヒロポン。聞いたことがある、と勇は記憶を掘り起こした。昔は合法だったが、中毒症状のあまりの強さに現在では帝国軍人でなければ買えない薬だ。不良学生が帰国した負傷兵と結託してヒロポンを入手しているとの噂をよく耳にする。たとえ五体満足の健康体でもすさまじい幸福感が得られるという。  勇が言い淀んでいると、横からユンが弛緩した口元を懸命に動かして叫んだ。 「うってくえ、早く」